8分間のパピリオ

横田コネクタ

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8.“チャプター・ナナカ”

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◇・◇・◇・◇・◇・◇・◇

 祭りのあとは寂しい。学園祭は意外と楽しかった。石立くんもマドカも野見山くんも、一緒にいると不思議と心が暖かく感じる。ああいう事件が起こったのには、戸惑ったけれど。そんな残念な出来事より楽しかった出来事の方が脳内メモリーを逼迫していて、それは精神的にはよいことなんだけど、人間的にはどうなんだろうと思う。

 私がやっていることは正義だという慢心があった。自分のためではなく、誰かのために戦う。それはとても尊いもので、誰からも否定されることはないと思っていた。でも、百人いれば百通りの考え方があるという当然のことに気づかされた。絶対的な正義なんてない。

 今夜もあてもなくバイクを走らせて、名も知らない山の展望台にたどり着いた。そろそろバイクを買い換えようかなんて思ってる。事故後買った中古のバイクは相性があまりよくなかった。石立くんはバイクの免許取らないのかな。彼は今にも死んでしまいそうな中古の原付で頑張っている。もし乗ってくれるのなら、このバイクあげるのだけれど。

 フルフェイスのヘルメットをとって街を眺める。生ぬるい風が髪を撫でて山の向こうに去っていく。蒲生里は都会ではないけれど、夜景として楽しむに十分なほどの光量がある。私はバイクで通ってきたと思われる黄色い街灯の連なりを目で追った。今の世の中、迷子になりたくてもなれない。いろんなところに標識があって、たとえ間違った道を進んでいても、反対方向に進んでいることに、いつかは気づかせてくれる。それがありがたくもあり、窮屈だった。

 支部を訪問したあの日。姉に再会した。何年ぶりだろう。私が中学へ上がる頃、姉は家を出ていった。それ以来会っていなかったから8年ぶりか。テレビでは何度か観た。観るのが怖かった。それには2つの理由があって、姉の顔を見るのが怖い、というのはもちろんあった。もう1つはやっぱり姉が死んでしまうのが怖かったから。家族だから。

 家族は大事。それは“血の繋がり”とかいう息苦しいだけの価値観からそう思っているわけではない。幼年期という、自分を形成する大切な期間を一緒に過ごしてくれた人たちだから。だから、怖いと思いながらも、テレビのチャンネルを無意識に合わせていた。

 私と姉は仲が良かったと思う。姉は、ほんとはそう思ってなかったのだろうけれど。小さな頃、姉は私を守ってくれた。母親がわりとなって。そんな背負わなくていいはずの責任感を姉に持たせていたことに、私がようやく気づいた頃には、姉と私の関係性を元に戻すには手遅れだった。

 私が生まれたとき、母は死んだ。出産というのは命がけだ。医療技術が進んだ、今日であってもそれは変わらない。母は私をこの世に産み落とし、命尽きた。私は母親を知らないから、友達を羨ましくは思うことはあっても、寂しく感じたことはない。姉がいたし。物心ついた頃には、いつも隣に優しい姉がいた。優しくて、強くて。私は姉に甘え過ぎていたのかもしれない。

 私は子供の頃、ロボットが好きだった。それは姉も同じで、家にはおままごとセットや可愛らしいお人形の代わりに、金属でメッキされたプラスチック製の玩具のロボットが転がっていた。

 そんな私を友達は“おとこ女”なんて言う。男らしさや女らしさなんてものは古臭い考え方で、今ではそんなこと言う人は私の周りにいないけれど、子供というのはまだ“ものを知らない”から仕方ない。まず子供たちはステレオタイプな型を知り、それを疑うことで大人になる。はじめから正しい型を教えてもらえば、幾分、成長にはプラスに働くだろうが。正しいなんてこと誰が決める?

 悪意のない言葉だったかもしれないが、とはいえ言葉というのは受け手の解釈がやっぱり大事で。私は少なからず傷ついた。姉はそんな私の味方をしてくれた。ときには友達を殴ったり蹴ったり。姉は身体が大きかったから、無敵だった。

 姉が誇らしかった。姉のありがたさを当たり前のように感じ始めていた。自分で自分のことを守るということを、考えもしなかった。

 私たち家族は自然に囲まれた蒲生里の中でも、もっと自然に囲まれた地区の一軒家に住んでいた。春には庭の梅の香りを嗅いで、夏にはグリーンカーテンとしてゴーヤを植え、秋には裏山の紅葉を眺め、冬は餌に困った野鳥にちょっとだけみかんをあげた。

 姉と私の関係が変わったのは、小6の初春だった。学校から帰ってきた私は、家の壁に1匹のサナギを見つけた。その頃、姉はもう大人になりつつあって、私は私で少しずつ強くなっていた。報告を受けた姉は図鑑を持ってきてくれて、そのサナギの正体を一緒に考えてくれた。30分くらい考えて、姉と出した結論はクロアゲハ。きっとしばらくするとサナギの中から、黒い羽根が美しい成虫が出てくる。学校から帰ってサナギの様子を眺めるというのが日課になった。

 庭のミカンの木にナミアゲハが訪れるようになった。まだ家の壁のサナギに変化はない。日の光が厳しさを増してきた。セルリアンブルーが美しいアオスジアゲハを見かけた。まだサナギは羽化しない。お風呂場に迷い込んだホタルガを逃がしてあげた。まだサナギは無傷なまま。

 毎日サナギを眺める私を、姉はどういう気持ちで眺めていたのだろうか。いつ羽化するのだろうか、と尋ねる私に、姉は微笑む。その笑みにはどこか寂しさがあったと、今ならわかる。

 蒸し暑い雨の日だった。黄色い傘をさして帰ってきた私は、サナギに大きなハチが止まっているのに気づいた。慌ててそのハチを追い払う。“きっと明日には羽化するんだ”と頑張るクロアゲハをいじめるのは絶対に許せなかった。ハチは寝ぼけたようにふらふらとサナギから離れると、雨に打たれながら灰色の空に飛んでいった。

 私はサナギを見た。サナギの横っ腹に大きな穴が開いていた。穴から覗く向こうには何もない。

空。空虚の空。空っぽの空。


 寄生バチ。彼らは動物に寄生することでこの世に生まれてくる。交尾を終え、腹に卵を抱えたメスはチョウの幼虫を見つけると卵を植え付ける。孵化したハチの子は、チョウの幼虫の柔らかなその体内を食いながら成長する。チョウの幼虫は生きるために必死に食べる。その栄養が体内のハチの子のものになっているとは知らずに。やがてチョウの子はサナギになる。きっと明日には大空を優雅に舞うのだと思いながら、しばしの眠りにつく。

 しかしその夢は叶わない。サナギの中の全てを吸収しながら、ハチの子は成長を続ける。サナギの中のサナギ。かつて宿主が存在したという痕跡を残らず消し去った寄生生物は、「蝶のサナギ」という唯一残った痕跡を食い破り、外へと飛び立つ。蝶のサナギから出ずる蜂。

 文字通り抜け殻となったサナギと、そこから出てきたハチを見て、私は心底悲しくなった。残酷なのは「殺し」という行為そのものではなく、その行為の結果、残された人たちに悲しみを与えることなのだ、と私は思った。

 庭で泣いている私の後ろに、いつの間にか傘もささず姉が立っていた。姉の目は私を見ていた。姉が慰めてくれるものと思い、立ち上がり歩み寄る。けれど姉は私などそこにいないかのように、立ち尽くす。姉は、サナギを食い破りこの世に堕ちた寄生バチに、私を重ねていた。




蝶のサナギの中で肥大するハチの子。

母のお腹の中で肥大する私。



宿主を殺して生まれたハチ。

母を殺して生まれた私。



 それから姉が私に心なしか冷たくなった。今まで微塵も考えたことのなかった姉の気持ちというものに気付き始めた。別に暴力を振るわれたとか、罵声を浴びせられたとかそういうのじゃない。ただ私に対する態度に、これまで感じなかった冷徹さを感じるようになった。

 いや、姉は変わっていなかったのかもしれない。私が姉の苦しみや寂しさに気づいただけ。姉も大人になっていたけれど、私も大人になりつつあった。お互いそれを察して、姉妹という関係性を共に息苦しく感じ始めたのだろう。

 しばらくして姉が家を出た。突然のことだった。姉は父とも衝突するようになっていたので、父も止めなかった。父はなんだかんだ寂しそうではあったけれど、いつか訪れることと覚悟はしていたようだった。私はなんとも思わなかった。

 いや、嘘だ。寂しかったし、安堵していたし、心配だったし、一言では言い表せない。この複雑な感情に名前をつけられなかったので、「なんとも思わない」ということにした。ある日、テレビをつけると姉が巨大なロボットに乗って、ロボットを叩きのめしていた。ああ、姉さんはやりたいことやってんな、と少し羨ましく思う。

 姉がジャイアント・アーマーズを終わらせたあの日もテレビで観ていた。あれは事故だった。相手の機体に不備があった。それは事後調査でも明らかになっているのだけれど、世間はセンセーショナルな部分にばかり興味があって、その事実はあまり知られていない。

 激しい試合だった。J・ウォリアの前脚が地面に杭を打ち立てる。巨大な機体を支え、右ストレートを繰り出すためだ。だから、アスファルトで舗装されたバトルリングは、試合が終わるといつもボコボコになる。

 左のジャブが相手の機体を叩いた時、操縦席が傾いた。厳正なルールのもと設計されているはずの操縦席が傾くなんてあり得ない話で、それは相手の整備が不十分だったという証拠なのだが、そんなことには誰も気づかない。みな目の前の対戦に興奮していた。私もそうだった。きっとJ・ウォリアに乗る姉もそうだったのだろう。J・ウォリアの右腕が宙を裂く。その拳が機体を叩こうとした時、相手機体の上部に固定されていたはずの操縦席が崩れ落ちた。

 タイミングが悪かった。J・ウォリアが相手のコアを叩く瞬間、不運にも落下する操縦席が、右拳の軌道に重なった。

 人に頼りすぎてはならない。私は姉が出ていった後、それを心に刻んだ。人との繋がりができると、それに頼ってしまいたくなる。だから私はなるべく1人で生きて死んでいこうと思う。だけど。ソ対機のみんなが好きだ。

 マドカも野見山くんも石立くんも。そして甘えてしまう自分にも気づいている。いけないな、と思いつつも、それでいいじゃないか、とも思う。考えるのが面倒だった。

 ソ対機の屋上で石立くんに言ってしまった。姉のこと。母のこと。言うつもりなんてなかったのに、無意識に自分語りなんて寒いことをしていた。別に姉に会ってもなんとも思わないと考えていたが、やっぱり動揺した。1人でも、どんなことがあっても、強くいられる自信があったが、だめだった。あんなこと言われて、石立くんは困っただろうな。

 返ってきた言葉でその動揺がわかる。「ディズニーシー行きませんか」だって。彼は色々と先回りして考えすぎる癖がある。よく言えば気が利くということ。だから部長を任せられるわけで。多分、彼なりに色々と考えた挙句、出てきた言葉が“ディズニーシー”だったのだろう。思わず笑ってしまった。

 人に頼るのもたまにはいいかと思う。頼りすぎかな。今日の掃討実験の前にも、石立くんにバカなことを言ってしまった。失敗するかもしれない、なんて意気地のないことを。予感なんてものは口にしちゃならない。予感なんてものは“後出しじゃんけん”だ。人間は常に先のことを予測しながら生きている。たまたまその予想が当たったときに、「実は前々から思ってたんだ」なんて言うのが予感。バカバカしい。

 でも、もしその出来事が起きる前に予感を口に出すと、それは予言になる。予感と予言は違う。予感は自分の中だけで完結するが、予言は人を巻き込む。予言には責任を持たなくちゃならない。言わなきゃよかったかな。しかも当たってしまった。

 遠くから地響きが聞こえる。地震だろうか。夜の山は怖い。昼間の山は日光に照らされて、四季によって変わる多彩な表情を見せてくれる。しかし、夜の山はただ闇でしかない。夜空にぽっかりと空いた三角形の闇。ただ稜線が夜空と闇の境界を示すだけ。遠くから見ていると闇でしかない夜の山であるが、近づくと確かにそこに存在する物質であることがわかる。

 木が生えている。土が香る。獣がいる。虫が蠢く。杉林をバイクで駆け上っていくと、山頂に向かえば向かうほどその幹が太く、長くなってゆく。相対的に自分が小さくなっていく感覚に襲われる。

 知恵という“矛”を手に入れ、食物連鎖のヒエラルキーから解放された人類だが、その小脳には太古の時代に抱いた恐怖というものが未だ消えることなく刻まれているのだ。

 矮小な哺乳類だったころの記憶。自分より遥かに大きな捕食者から逃げるように地べたを這い、物陰に潜んでいたころの記憶。だから、私は夜の山を怖いと思うのだろう。そんな食われるのを待つだけの小動物だった私たちの祖先は、考えもしなかったはずだ。数万年後、己より遥かに小さい、生命でさえない奇妙な構造物にその尊厳を脅かされることになるなど。

 山と山の間で何かが蠢いた気がした。ダイダラボッチという妖怪がいたっけな。どこの国にも巨人の伝説はある。やっぱり、巨大物を恐れるのは生物の普遍的な性質なんだろう。そんな妄想をしてしまうほどには、ここに居すぎたみたいだ。今日は疲れたけれど、頭が冴えて眠れる気がしない。でもここに居るのは怖いから、山を降りよう。ひとりで居るのは嫌いじゃないけど、こんな時に誰か隣に居てくれたらな、なんて思う。

 まあ誰かに連絡しようにもスマホは家だけど。人に頼りすぎたくないから、通信手段はなるべく持たない。でもなんだかんだ解約しないのは、やっぱり私が弱いからなのかな。

 ヘルメットを被り、バイクのエンジンをかける。その音に驚いたのか、巨人の幻想はどっかへ行ってしまった。バックミラーには星が映る。私が走り出すと、その星々もミラーの外へ流れ出した。



◇・◇・◇・◇・◇・◇・◇
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