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14.Papilio
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友人が死んだ。空から怪物が落っこちてきた。生まれ育った街が崩れていく。憧れのヒーローが死んだ。これだけのことが起こってしまうと、人間の脳は思考を止めるのだと、身をもって知る。離人感ってやつだろうか。目に入ってくる風景全てがゲシュタルト崩壊したみたいだ。
大体、勇み立って車に乗り込みここまで来たのだって、冷静に考えれば狂ってる。マドカが死んだのはいつだ。一昨日。幼い頃からの憧れであるJ・ウォリアを生で観て、興奮してる場合か? 友達が死んだんだぞ。目の前で。
忘却ってやつは脳みその重要な機能のひとつだ。今、目の前で起こっている非現実的な出来事への対処にリソースを割くために、マドカの死をどこかに追いやった? いや違う。マドカの死を忘れたわけじゃない。でも薄まってはいる。自己嫌悪。自分の命を守るため? 生物としては正しかろう。でも“人間”としては終わってる。“人間”のまま死ぬべきか。
僕は変に冷静だった。死を悟っての諦観だろうか。華山先輩が闇雲に両腕を振り回す。駄々をこねる子供のようだ。もうやめてくれと思った。もう友達が死ぬのは見たくないとか、そういうエモーショナルな理由ではない。もう考えたくなかった。正体不明の怪物とか、ソレウス構造体とか、友達の死とか、自分の命とか。隣にいるはずのヨウジロウのことも、思考の枠外にある。存在を感じない。
考えることが人間の本質。ならば僕はその本質を放棄したことになるな。中身のチョコレートがない包み紙はただのゴミだ。僕はゴミか。そうか。このまま人間をやめるべきか。そうかもしれない。先輩が乗った黒い試験機は空回りを続ける。怪物はそれを嘲笑うように攻撃さえせず、ただ周囲をうろつくだけ。気色の悪い細い脚が規則正しくリズムを刻む。敵が2体いた頃の必死さはなくなっていた。
薄い靄がかかったような視界に映るオブジェクトに大きな影が2つ追加された。障子を破くように苦もなく建物を破壊しながら、怪物が2体やってきた。揃った怪物3体に立ち向かうのは、もはや正気を保ってはいない黒いロボット1体。もう勝ち目はない。先輩は死ぬのか。僕らも死ぬのか。
ジャイアント・アーマーは短期決戦型のロボットである。こんな使い方は設計者の予定範囲外だ。当然、華山先輩の乗った試験機もオーバーワークによる影響が生じ始める。関節が軋む。多脚がもつれ出した。さっきまで機敏に動いていた腕が下がりだす。活動限界を知らせるビープ音が鳴り響く。
怪物は目の前のおもちゃが壊れかけていることを察した。1体の怪物が長い腕の関節を縮める。筋肉が盛り上がる。溜め込んだ力をいっぺんに発散する。腕が一直線に伸びる。その到達点には試験機のコアがあった。
華山先輩が乗った機体を、怪物の腕が貫いた。見事に急所を射抜き、音もしない。
僕は自分の頬に伝う涙に気づいた。皮肉にも思考が回復する。感情が戻る。想像が加速する。ああ。先輩が死ぬ。あの得体の知れない怪物に防御層を砕かれ、頭を引きちぎられ、腹を裂かれ、奴らの胃の腑へと飲み込まれるのか。胸が苦しい。何もできなかった。
脳の回転数が上がる。考えなくていいことを思い出す。別に自分が死ぬわけではないのに、いやそろそろ死ぬのかもしれないが、走馬灯がよぎる。頭は動いているのに身体は動かない。
怪物の腕が黒いパピリオを貫いたまま、空へと伸びる。まるで勝利を誇示するかのように。わずかに近くなった太陽の光に照らされたコックピットの中で、先輩はまだ喚いていた。頭を抱えたかと思うと、操縦桿を乱暴に動かす。しかし、コアを貫かれた試験機は動かない。ただのでかいだけの埋め立てゴミ。
「死んでも守る」なんて口説き文句は陳腐だ。僕は先輩が死ぬのをただ見ていることしかできない。僕は先輩が好きだ。ああ、恋愛感情だ。そうとも。でも、何も伝えられなかった。ヨウジロウと同じ。こいつのことをアホだと言ったのことは撤回しない。そのまま自分に返す。
他の2体の怪物も試験機に向かって腕を伸ばす。下半身を掴み、そのまま引きちぎった。オイルやら、冷却水やら、砕けた装甲やらが地面に降り注ぐ。怪物は楽しんでいる。上がった口角が笑っているようにしか見えない。操縦席の中の華山先輩の動きが止まった。目を瞑る。いよいよお別れか。くそ。
僕は最後に自分の思いを伝えようと思った。多分届かないけれど。言っておかないと、後悔する。なるだけ大きな声で。口を開けて、空気を思い切り吸い込んだ。
だけど、僕の思いは口から出てくることはなかった。宙にぶら下がっていた黒い試験機がゆっくりと降下を始める。機体が小刻みに震えているのは、怪物の腕が痙攣しているからだ。華山先輩が目を開けた。何が起きているのかわかっていない。それは僕も同様だった。
華山先輩を乗せた試験機が地面に落ちた。重いもの同士がぶつかったことで起きる破裂音。砂埃が舞う。そう高くない場所からだったから、先輩は生きているかもしれない、と自分の都合の良い考え方をした。怪物は貫いていた腕を引き抜くと、悶え苦しみだした。腕を振り回す。しかしその動きに先程までの力強さは感じない。
怪物の腹部が痙攣とともに蠕動を始めた。口から吐瀉物を撒き散らしながら、ひっくり返った。奴らに感情があるのか定かではないが、苦しむ仲間を不安そうに見つめていたもう2体も、同じような経過を辿り、仰向け(と言ってよいのだろうか)に倒れる。
地面が揺れた。怪物の腹の中で混ざった色んな匂いが辺りを漂う。吐き気がする。人間の死体からなるタンパク質が腐った匂い。車のガソリンなどのケミカルな匂い。病院の患者を多く食べたせいか消毒液のような匂いもする。
一体どういうことだ。怪物達はのたうちまわっていた。何もしていないのに、勝手に。人間の肉に食あたりを起こしたのか。まさかな。怪物たちの動きは段々と小さくなっていき、とうとう活動を停止した。危険が去ったためだろうか。僕の脳みそは完全に普段の回転数へと落ち着いている。僕は怪物に注意を配りながらも、華山先輩の元へ駆け出した。ヨウジロウが遅れて続く。
機体の重みでアスファルトは砕けていた。試験機はひしゃげてはいたが、操縦席は無事のようだった。アクリルの表面を覆っていた砂埃を手で拭う。中を覗く。華山先輩が頭から血を流していた。動かない。僕は強化アクリルを叩いた。何度も。拳が痛い。でも止めるものか。この分厚いアクリルを叩いたところで、中に音が伝わるはずがなかった。骨が砕けても叩き続けるつもりだった。
涙で前が見えなかった。それでも叩き続けた。ヨウジロウが僕を止めた。それを無視して叩こうとする僕にヨウジロウが掴みかかった。
「もう叩かなくていい。ちゃんと見ろ」
涙を拭く。華山先輩が目を開けていた。先輩は生きていた。
僕らが機体から降りると先輩がコックピットを開け、ゆっくりと外へ出た。何も声がかけられなかった。地に足をつけた先輩は、怪物のことも僕らのことも見ることもなく、その場にしゃがみこむと、そのままの勢いで瓦礫の中で大の字になった。
「ああー……」
ただそれだけ言うと、腕で顔を隠し、沈黙した。少し整理をつける時間が必要だろう。整理をつけるべき事柄が多すぎて、いつまでかかるかはわからない。自衛隊の戦闘機が僕らの頭、その遥か上を飛んで行った。やっとか。遅すぎる。日本の自衛隊は優秀だと思う。こんな予測不可能な事態に直面すれば仕方ないことだとは思う。怒りとかはなかった。なんとも思わない。
怪物は完全に沈黙している。身体が幾分萎んでいた。張りがなくなった皮膚には細かな皺が生じていた。これは生命活動が止まった証拠だろう。どこから来たのか知らないが、死んだやつは帰ってこない、それは揺るぎないことだと思う。いくら怪物であろうと。
だが、僕の考えは甘かった。突如、怪物の腹が再び蠕動を始めた。湯が沸くように激しく波打つ。僕は咄嗟に華山先輩を抱き上げた。先輩は震えていた。怯えている。今度こそ死ぬかもしれない。
華山先輩の顔を見た。こんなに近くで見たのは初めてだった。黒い瞳に僕の顔が映る。僕も怯えていた。情けない顔だなあと思う。華山先輩も僕も最期に見るのが、これだと思うと酷いとしか言いようがない。死を覚悟した。
ーー結果から言うと、僕らは死ななかった。
怪物の腹が動きを止める。僅かな間をおいて、その皮膜が裂けた。中から弾けだしたのは内臓でも、人の死骸でもなかった。
“蝶”。小さな身体に4枚の大きな翅が付いている生き物をそう呼ぶのであるなら。ヒトほどもある大きな蝶が次々と怪物の腹を食い破り、飛び立つ。見たことのない色の翅をしていた。3原色をどんな配合で混ぜ合わせても再現できない、形容しがたい色彩。
蒲生里大操縦研のソレウス構造体の仮想ヴィジュアルである“アゲハ蝶”に似ている。翅の元にある身体はまさにソレウス構造体そのものだった。死ぬ前の夢だろうか。しかし、夢にしては鮮やかすぎた。飛び立つ蝶が空を埋め尽くす。特殊なその色で染まった空は不気味だけれどどこか美しい。この世の深淵を覗いた気分だった。
僕の頭は回転を再開した。欠けていたはずのピースが嵌まった。雑司ヶ谷からのメール。『ネズミとエキノコックス』。エキノコックスは人獣共通の感染症だが、主な寄生宿主はキツネなどの肉食動物である。ではなぜ、雑司ヶ谷は『キツネとエキノコックス』ではなく、あえて『ネズミ』と書き記したのか。僕の中で全てが繋がる。
エキノコックスの生活環を考えればわかる。エキノコックスの成虫はキツネに寄生する。あくまで“成虫”が寄生する。では幼虫は? 幼虫はキツネが食らうネズミに寄生するのだ。ネズミからキツネへ。エキノコックスなどの寄生虫は幼生期の発育を行う宿主と、成虫が有性生殖を行う宿主が別なのだ。前者(エキノコックスではネズミ)を中間宿主、後者(エキノコックスではキツネ)を終宿主と呼ぶ。ーー終宿主。これが欠けていたピースだった。
ソレウス構造体も寄生生物である。“生物”とはいえない有機構造体ではあるが、その行動原理は寄生生物のそれと同じだ。彼らにも寄生する理由がある。遺伝子を残すため。しかし、ソレウス構造体には有性生殖を行った様子はなかった。
そこに騙された。単に生活環が完成していないだけだった。中間宿主が必要な寄生生物の多くは、中間宿主をスルーして終宿主に侵入したとしても生活環は完成しない。そして中間宿主への寄生は中間地点に過ぎず、ゴールではない。
ソレウス構造体にとって人間は“中間宿主”だった。人間は捕食されることがない。そう思い込んでいた。人類の慢心。わかるわけがない。人間を主食とする捕食生物。その登場がなければ、この結論にたどり着けるわけがない。雑司ヶ谷はこの真実に行き着いていたようだが、彼が言う“予言”とやらを見なければ、正確なところはわからない。
発生の謎は解けていないが、なんらかの形でソレウス構造体の幼虫が人間に寄生する。幼虫は自らの遺伝子情報を人間の細胞に埋め込み、捕食生物がやってくるのを待つ。おまけに人間の身体を動かなくすることで、ご丁寧にも捕食生物が食べやすいようお膳立てをする。
蒲生里周辺に発生が収束していったのも、捕食生物が到着する場所を見越してのことだろう。始め、世界中で発生していたのは、まだ怪物が現れる場所が絞れていなかったからに違いない。
ソレウス構造体の思惑通り、捕食生物が感染した患者を食らう。捕食生物の体内に侵入したソレウス構造体の幼虫は、遺伝情報を埋め込んだ細胞に働きかけ、遺伝情報の複製、さらには生殖まで行う。自らも成虫になるべく、蛹と化す。全ての準備が整った。身体を乗っ取られた怪物が倒れる。怪物の生命活動が停止する。ソレウス構造体の成虫が羽化する。奴らは空へと飛び立った。
どこへ向かうのだろう。次の星だろうか。どこかの星の知的生命体に寄生し、また巨大な捕食生物が現れるのを待つのか。
マクロ的な視点で見れば、めでたし、めでたし、だろう。怪物は死んだ。ソレウス構造体は去った。もしこれが自然の摂理とか神の意思とか言うやつなら、ありがたがるべきなのかもしれない。しかし、卑近な視点で見れば、どうしようもない惨劇。沢山の人が死んだ。僕らの心は壊れた。
怪物の分厚い皮膚に苦戦していた最後の蝶が、ようやく翅を伸ばした。他の個体より弱々しく、風も吹いていないのに煽られるように飛び立つ。僕がそれに目を奪われていると、事切れたように動かなかった先輩が僕の腕から離れた。
先輩は震える手で、足元に転がっていた小さな瓦礫を1つ拾い上げた。血の気のない顔。先輩はその拳ほどのコンクリートの塊を蝶へ投げつけた。
「……さっさと失せろ、虫ケラ」
飛んでいったコンクリート片は目標には当たらず、虚しく地面を跳ねた。蝶は真っ直ぐ空へと向かっていく。
翅のない僕らはただ空を見上げることしかできなかった。
大体、勇み立って車に乗り込みここまで来たのだって、冷静に考えれば狂ってる。マドカが死んだのはいつだ。一昨日。幼い頃からの憧れであるJ・ウォリアを生で観て、興奮してる場合か? 友達が死んだんだぞ。目の前で。
忘却ってやつは脳みその重要な機能のひとつだ。今、目の前で起こっている非現実的な出来事への対処にリソースを割くために、マドカの死をどこかに追いやった? いや違う。マドカの死を忘れたわけじゃない。でも薄まってはいる。自己嫌悪。自分の命を守るため? 生物としては正しかろう。でも“人間”としては終わってる。“人間”のまま死ぬべきか。
僕は変に冷静だった。死を悟っての諦観だろうか。華山先輩が闇雲に両腕を振り回す。駄々をこねる子供のようだ。もうやめてくれと思った。もう友達が死ぬのは見たくないとか、そういうエモーショナルな理由ではない。もう考えたくなかった。正体不明の怪物とか、ソレウス構造体とか、友達の死とか、自分の命とか。隣にいるはずのヨウジロウのことも、思考の枠外にある。存在を感じない。
考えることが人間の本質。ならば僕はその本質を放棄したことになるな。中身のチョコレートがない包み紙はただのゴミだ。僕はゴミか。そうか。このまま人間をやめるべきか。そうかもしれない。先輩が乗った黒い試験機は空回りを続ける。怪物はそれを嘲笑うように攻撃さえせず、ただ周囲をうろつくだけ。気色の悪い細い脚が規則正しくリズムを刻む。敵が2体いた頃の必死さはなくなっていた。
薄い靄がかかったような視界に映るオブジェクトに大きな影が2つ追加された。障子を破くように苦もなく建物を破壊しながら、怪物が2体やってきた。揃った怪物3体に立ち向かうのは、もはや正気を保ってはいない黒いロボット1体。もう勝ち目はない。先輩は死ぬのか。僕らも死ぬのか。
ジャイアント・アーマーは短期決戦型のロボットである。こんな使い方は設計者の予定範囲外だ。当然、華山先輩の乗った試験機もオーバーワークによる影響が生じ始める。関節が軋む。多脚がもつれ出した。さっきまで機敏に動いていた腕が下がりだす。活動限界を知らせるビープ音が鳴り響く。
怪物は目の前のおもちゃが壊れかけていることを察した。1体の怪物が長い腕の関節を縮める。筋肉が盛り上がる。溜め込んだ力をいっぺんに発散する。腕が一直線に伸びる。その到達点には試験機のコアがあった。
華山先輩が乗った機体を、怪物の腕が貫いた。見事に急所を射抜き、音もしない。
僕は自分の頬に伝う涙に気づいた。皮肉にも思考が回復する。感情が戻る。想像が加速する。ああ。先輩が死ぬ。あの得体の知れない怪物に防御層を砕かれ、頭を引きちぎられ、腹を裂かれ、奴らの胃の腑へと飲み込まれるのか。胸が苦しい。何もできなかった。
脳の回転数が上がる。考えなくていいことを思い出す。別に自分が死ぬわけではないのに、いやそろそろ死ぬのかもしれないが、走馬灯がよぎる。頭は動いているのに身体は動かない。
怪物の腕が黒いパピリオを貫いたまま、空へと伸びる。まるで勝利を誇示するかのように。わずかに近くなった太陽の光に照らされたコックピットの中で、先輩はまだ喚いていた。頭を抱えたかと思うと、操縦桿を乱暴に動かす。しかし、コアを貫かれた試験機は動かない。ただのでかいだけの埋め立てゴミ。
「死んでも守る」なんて口説き文句は陳腐だ。僕は先輩が死ぬのをただ見ていることしかできない。僕は先輩が好きだ。ああ、恋愛感情だ。そうとも。でも、何も伝えられなかった。ヨウジロウと同じ。こいつのことをアホだと言ったのことは撤回しない。そのまま自分に返す。
他の2体の怪物も試験機に向かって腕を伸ばす。下半身を掴み、そのまま引きちぎった。オイルやら、冷却水やら、砕けた装甲やらが地面に降り注ぐ。怪物は楽しんでいる。上がった口角が笑っているようにしか見えない。操縦席の中の華山先輩の動きが止まった。目を瞑る。いよいよお別れか。くそ。
僕は最後に自分の思いを伝えようと思った。多分届かないけれど。言っておかないと、後悔する。なるだけ大きな声で。口を開けて、空気を思い切り吸い込んだ。
だけど、僕の思いは口から出てくることはなかった。宙にぶら下がっていた黒い試験機がゆっくりと降下を始める。機体が小刻みに震えているのは、怪物の腕が痙攣しているからだ。華山先輩が目を開けた。何が起きているのかわかっていない。それは僕も同様だった。
華山先輩を乗せた試験機が地面に落ちた。重いもの同士がぶつかったことで起きる破裂音。砂埃が舞う。そう高くない場所からだったから、先輩は生きているかもしれない、と自分の都合の良い考え方をした。怪物は貫いていた腕を引き抜くと、悶え苦しみだした。腕を振り回す。しかしその動きに先程までの力強さは感じない。
怪物の腹部が痙攣とともに蠕動を始めた。口から吐瀉物を撒き散らしながら、ひっくり返った。奴らに感情があるのか定かではないが、苦しむ仲間を不安そうに見つめていたもう2体も、同じような経過を辿り、仰向け(と言ってよいのだろうか)に倒れる。
地面が揺れた。怪物の腹の中で混ざった色んな匂いが辺りを漂う。吐き気がする。人間の死体からなるタンパク質が腐った匂い。車のガソリンなどのケミカルな匂い。病院の患者を多く食べたせいか消毒液のような匂いもする。
一体どういうことだ。怪物達はのたうちまわっていた。何もしていないのに、勝手に。人間の肉に食あたりを起こしたのか。まさかな。怪物たちの動きは段々と小さくなっていき、とうとう活動を停止した。危険が去ったためだろうか。僕の脳みそは完全に普段の回転数へと落ち着いている。僕は怪物に注意を配りながらも、華山先輩の元へ駆け出した。ヨウジロウが遅れて続く。
機体の重みでアスファルトは砕けていた。試験機はひしゃげてはいたが、操縦席は無事のようだった。アクリルの表面を覆っていた砂埃を手で拭う。中を覗く。華山先輩が頭から血を流していた。動かない。僕は強化アクリルを叩いた。何度も。拳が痛い。でも止めるものか。この分厚いアクリルを叩いたところで、中に音が伝わるはずがなかった。骨が砕けても叩き続けるつもりだった。
涙で前が見えなかった。それでも叩き続けた。ヨウジロウが僕を止めた。それを無視して叩こうとする僕にヨウジロウが掴みかかった。
「もう叩かなくていい。ちゃんと見ろ」
涙を拭く。華山先輩が目を開けていた。先輩は生きていた。
僕らが機体から降りると先輩がコックピットを開け、ゆっくりと外へ出た。何も声がかけられなかった。地に足をつけた先輩は、怪物のことも僕らのことも見ることもなく、その場にしゃがみこむと、そのままの勢いで瓦礫の中で大の字になった。
「ああー……」
ただそれだけ言うと、腕で顔を隠し、沈黙した。少し整理をつける時間が必要だろう。整理をつけるべき事柄が多すぎて、いつまでかかるかはわからない。自衛隊の戦闘機が僕らの頭、その遥か上を飛んで行った。やっとか。遅すぎる。日本の自衛隊は優秀だと思う。こんな予測不可能な事態に直面すれば仕方ないことだとは思う。怒りとかはなかった。なんとも思わない。
怪物は完全に沈黙している。身体が幾分萎んでいた。張りがなくなった皮膚には細かな皺が生じていた。これは生命活動が止まった証拠だろう。どこから来たのか知らないが、死んだやつは帰ってこない、それは揺るぎないことだと思う。いくら怪物であろうと。
だが、僕の考えは甘かった。突如、怪物の腹が再び蠕動を始めた。湯が沸くように激しく波打つ。僕は咄嗟に華山先輩を抱き上げた。先輩は震えていた。怯えている。今度こそ死ぬかもしれない。
華山先輩の顔を見た。こんなに近くで見たのは初めてだった。黒い瞳に僕の顔が映る。僕も怯えていた。情けない顔だなあと思う。華山先輩も僕も最期に見るのが、これだと思うと酷いとしか言いようがない。死を覚悟した。
ーー結果から言うと、僕らは死ななかった。
怪物の腹が動きを止める。僅かな間をおいて、その皮膜が裂けた。中から弾けだしたのは内臓でも、人の死骸でもなかった。
“蝶”。小さな身体に4枚の大きな翅が付いている生き物をそう呼ぶのであるなら。ヒトほどもある大きな蝶が次々と怪物の腹を食い破り、飛び立つ。見たことのない色の翅をしていた。3原色をどんな配合で混ぜ合わせても再現できない、形容しがたい色彩。
蒲生里大操縦研のソレウス構造体の仮想ヴィジュアルである“アゲハ蝶”に似ている。翅の元にある身体はまさにソレウス構造体そのものだった。死ぬ前の夢だろうか。しかし、夢にしては鮮やかすぎた。飛び立つ蝶が空を埋め尽くす。特殊なその色で染まった空は不気味だけれどどこか美しい。この世の深淵を覗いた気分だった。
僕の頭は回転を再開した。欠けていたはずのピースが嵌まった。雑司ヶ谷からのメール。『ネズミとエキノコックス』。エキノコックスは人獣共通の感染症だが、主な寄生宿主はキツネなどの肉食動物である。ではなぜ、雑司ヶ谷は『キツネとエキノコックス』ではなく、あえて『ネズミ』と書き記したのか。僕の中で全てが繋がる。
エキノコックスの生活環を考えればわかる。エキノコックスの成虫はキツネに寄生する。あくまで“成虫”が寄生する。では幼虫は? 幼虫はキツネが食らうネズミに寄生するのだ。ネズミからキツネへ。エキノコックスなどの寄生虫は幼生期の発育を行う宿主と、成虫が有性生殖を行う宿主が別なのだ。前者(エキノコックスではネズミ)を中間宿主、後者(エキノコックスではキツネ)を終宿主と呼ぶ。ーー終宿主。これが欠けていたピースだった。
ソレウス構造体も寄生生物である。“生物”とはいえない有機構造体ではあるが、その行動原理は寄生生物のそれと同じだ。彼らにも寄生する理由がある。遺伝子を残すため。しかし、ソレウス構造体には有性生殖を行った様子はなかった。
そこに騙された。単に生活環が完成していないだけだった。中間宿主が必要な寄生生物の多くは、中間宿主をスルーして終宿主に侵入したとしても生活環は完成しない。そして中間宿主への寄生は中間地点に過ぎず、ゴールではない。
ソレウス構造体にとって人間は“中間宿主”だった。人間は捕食されることがない。そう思い込んでいた。人類の慢心。わかるわけがない。人間を主食とする捕食生物。その登場がなければ、この結論にたどり着けるわけがない。雑司ヶ谷はこの真実に行き着いていたようだが、彼が言う“予言”とやらを見なければ、正確なところはわからない。
発生の謎は解けていないが、なんらかの形でソレウス構造体の幼虫が人間に寄生する。幼虫は自らの遺伝子情報を人間の細胞に埋め込み、捕食生物がやってくるのを待つ。おまけに人間の身体を動かなくすることで、ご丁寧にも捕食生物が食べやすいようお膳立てをする。
蒲生里周辺に発生が収束していったのも、捕食生物が到着する場所を見越してのことだろう。始め、世界中で発生していたのは、まだ怪物が現れる場所が絞れていなかったからに違いない。
ソレウス構造体の思惑通り、捕食生物が感染した患者を食らう。捕食生物の体内に侵入したソレウス構造体の幼虫は、遺伝情報を埋め込んだ細胞に働きかけ、遺伝情報の複製、さらには生殖まで行う。自らも成虫になるべく、蛹と化す。全ての準備が整った。身体を乗っ取られた怪物が倒れる。怪物の生命活動が停止する。ソレウス構造体の成虫が羽化する。奴らは空へと飛び立った。
どこへ向かうのだろう。次の星だろうか。どこかの星の知的生命体に寄生し、また巨大な捕食生物が現れるのを待つのか。
マクロ的な視点で見れば、めでたし、めでたし、だろう。怪物は死んだ。ソレウス構造体は去った。もしこれが自然の摂理とか神の意思とか言うやつなら、ありがたがるべきなのかもしれない。しかし、卑近な視点で見れば、どうしようもない惨劇。沢山の人が死んだ。僕らの心は壊れた。
怪物の分厚い皮膚に苦戦していた最後の蝶が、ようやく翅を伸ばした。他の個体より弱々しく、風も吹いていないのに煽られるように飛び立つ。僕がそれに目を奪われていると、事切れたように動かなかった先輩が僕の腕から離れた。
先輩は震える手で、足元に転がっていた小さな瓦礫を1つ拾い上げた。血の気のない顔。先輩はその拳ほどのコンクリートの塊を蝶へ投げつけた。
「……さっさと失せろ、虫ケラ」
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