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世界でいちばん、美しい蝶
あるいは女神のキスみたいに
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鉛筆と紙がこすれる音は好き。何かをやっている気になるから。
朝焼けは嫌い。時間の進みを、嫌でも意識されせられるから。
終一は一人きりの教室に差し込む朝日に、きゅっと眉を寄せた。窓の外に視線を向けると、山間から眩しい太陽が少し、顔をのぞかせている。寮で着替えだけ済ませて普通科の教室に戻ってから、ずっと動かし続けている手を止めて、しばし、その光景に見入る。差し込んだ光によって、夜闇に溶け込んでいた街並みがはっきりとした輪郭と自我を取り戻していく。
「……まぶし……」
思わず呟いて、けれど、目を逸らすことはできない。うつくしいものは、人の視線を縫い付ける。暴力的に。あるいは、女神のキスみたいに。
『終のこと、甘やかしに』
耳の奥を、柔らかな声がよぎる。暗い教室の中で、表情はよく見えなかった。でも、声だけで、十分すぎるくらい甘やかだった。終一は思わず、教室を明るく照らす太陽に手を伸ばす。伸ばしたら、触れられるような気がした。太陽にも。あまくて、にがくて、愛おしくて、うとましい、彼にも。
「っ」
指先が、冷たいガラスに触れる。我に返って、ぎゅっと指先を握りこんだ。薄闇のなかでなぞった唯希の、手首の骨の硬さを思い出す。終一よりも一回り小さな手だ。けれど、絵筆と鉛筆しか持たない終一とは違って、普段から剣を振り回している唯希の手は硬い。何度も豆をつぶして、痛みを乗り越えて、それでも手放さずに剣を握ってきた頑張りやさんの手。
「いつき」
祈るように名前を呼ぶ。彼に触れた指先に、そっと唇を寄せる。香水をつける性質でもないから、残り香すら感じない。太陽みたいな、少し高い体温の気配も、もう指先から消えてしまっている。教室の、硬い椅子の上で膝を抱えて、終一はスケッチブックに額をつけた。
目を閉じれば、瞼の裏に映るのは、眉をさげて笑う唯希の顔だ。
こちらを覗き込むように、少し顔を傾けて、わずかに口角をあげた、終一のいちばん好きな笑い方。
『ん? どうした?』
じわりと、勝手に視界が滲む。唯希はいつも、震えた子猫を毛布で包むみたいに終一に接する。優しく、まるで大切なものでも扱うみたいに。だからいつも、どうしたって、自分が壊れかけの人間であることを、終一は忘れられない。それでいいと、本気で思う。壊れかけるくらいのことで、あの、朝焼けみたいな優しさを受けることができるなら。いくらだって、追い詰められてやる。睡眠も、生活も、なんだって捨てられる。
(あと、何を捨てたら、唯希は俺を選んでくれるんだろう)
これだけは、と握りしめてきたスケッチブックに視線を落とす。ぎゅっと、手が勝手に鉛筆を握りしめた。涙でゆがんだ瞳で、白い紙を埋め尽くスケッチの群れを睨む。震えた息が唇の間から落ちた。
「……くそ」
なんでも、なんて言いながら、結局、大事なものは何も捨てられない。抱えきるだけの腕力も、器の大きさも持たないくせに、欲ばかり増えていく自分が、醜くて嫌だった。嗚咽がこぼれそうになるから、唇をぎゅっと噛んだ。血の味が、舌に残っていた卵がゆをかき消していく。あの優しさを受け取れるなら、なんだって捨てられる。本気でそう思う。
でも、その奥に、もっと深い場所に、あの優しさだけじゃ満足できないと、吠える獣が居る。
「いつき」
祈るように、名前を呼んだ。
スケッチブックをめくる。まだ空白の、生成りの紙に向かい合う。中等部に入学してすぐ、森純太の絵に網膜を焼かれてから、もう六年目。遠くで輝く天才の背中に、いったい、どのくらい近づけたのだろう。空白を意味もなく埋めてきた、このスケッチブックは、いったい、どのくらい、自分の糧になったのだろう。学園での最後の一年はもう、二か月近くが過ぎている。最後の学内コンテストは、もう一月後だ。
そこでもし、あの天才に勝つことができたら。
(……俺はちゃんと、唯希の隣に立てるのかな)
庇護対象の、震えた子猫ではなくて。
せめて、対等な、クラスメイトとして。
できるなら、特別な、ただ一人の男として。
(唯希が欲しい、なんて。俺にはおこがましいけど)
それでも、欲しい。
あの小柄な体に収まった、いっとう美しい心の、すべてが欲しい。分不相応だ。分かっている。だって、小石が太陽を欲するようなものだ。息を吐き出しながら、白紙の紙に向かい合う。自分の中には、あと何が残っているだろう。彼の隣に立つために、捧げられるものを数える。
(……なんだって、ぜんぶあげるよ。唯希が欲しいもの、ぜんぶ)
だから、俺のこと、ちゃんと男として好きになって。
仄暗い、熱を孕んだ欲望がもうずっと、胸の奥でくすぶっている。神様みたいに綺麗で、太陽みたいに無垢な彼は、きっと、気づいてもいない。
(あんな、ちょっと触っただけで真っ赤になっちゃうくらい、初心だし)
そのくせ、簡単に傍に寄ってきて、甘やかすように終一の名前を呼ぶ。香りも、温度も、何も残してくれないのに、声だけが、鼓膜から染み込んで、心臓に焼き付くから。
だから、いつも、終一の内側にだけ、消えない痕が残る。
「……鈍感馬鹿のおこちゃまめ……」
悪態をついて、鉛筆を握りなおす。欲をそぎ落とすように、画用紙を埋めていく。教本を睨みつけ、少しでもマシな絵になるように、癖を修正する。朝日の差す教室は、夜よりもずっと、色濃く影が落ちていた。
朝焼けは嫌い。時間の進みを、嫌でも意識されせられるから。
終一は一人きりの教室に差し込む朝日に、きゅっと眉を寄せた。窓の外に視線を向けると、山間から眩しい太陽が少し、顔をのぞかせている。寮で着替えだけ済ませて普通科の教室に戻ってから、ずっと動かし続けている手を止めて、しばし、その光景に見入る。差し込んだ光によって、夜闇に溶け込んでいた街並みがはっきりとした輪郭と自我を取り戻していく。
「……まぶし……」
思わず呟いて、けれど、目を逸らすことはできない。うつくしいものは、人の視線を縫い付ける。暴力的に。あるいは、女神のキスみたいに。
『終のこと、甘やかしに』
耳の奥を、柔らかな声がよぎる。暗い教室の中で、表情はよく見えなかった。でも、声だけで、十分すぎるくらい甘やかだった。終一は思わず、教室を明るく照らす太陽に手を伸ばす。伸ばしたら、触れられるような気がした。太陽にも。あまくて、にがくて、愛おしくて、うとましい、彼にも。
「っ」
指先が、冷たいガラスに触れる。我に返って、ぎゅっと指先を握りこんだ。薄闇のなかでなぞった唯希の、手首の骨の硬さを思い出す。終一よりも一回り小さな手だ。けれど、絵筆と鉛筆しか持たない終一とは違って、普段から剣を振り回している唯希の手は硬い。何度も豆をつぶして、痛みを乗り越えて、それでも手放さずに剣を握ってきた頑張りやさんの手。
「いつき」
祈るように名前を呼ぶ。彼に触れた指先に、そっと唇を寄せる。香水をつける性質でもないから、残り香すら感じない。太陽みたいな、少し高い体温の気配も、もう指先から消えてしまっている。教室の、硬い椅子の上で膝を抱えて、終一はスケッチブックに額をつけた。
目を閉じれば、瞼の裏に映るのは、眉をさげて笑う唯希の顔だ。
こちらを覗き込むように、少し顔を傾けて、わずかに口角をあげた、終一のいちばん好きな笑い方。
『ん? どうした?』
じわりと、勝手に視界が滲む。唯希はいつも、震えた子猫を毛布で包むみたいに終一に接する。優しく、まるで大切なものでも扱うみたいに。だからいつも、どうしたって、自分が壊れかけの人間であることを、終一は忘れられない。それでいいと、本気で思う。壊れかけるくらいのことで、あの、朝焼けみたいな優しさを受けることができるなら。いくらだって、追い詰められてやる。睡眠も、生活も、なんだって捨てられる。
(あと、何を捨てたら、唯希は俺を選んでくれるんだろう)
これだけは、と握りしめてきたスケッチブックに視線を落とす。ぎゅっと、手が勝手に鉛筆を握りしめた。涙でゆがんだ瞳で、白い紙を埋め尽くスケッチの群れを睨む。震えた息が唇の間から落ちた。
「……くそ」
なんでも、なんて言いながら、結局、大事なものは何も捨てられない。抱えきるだけの腕力も、器の大きさも持たないくせに、欲ばかり増えていく自分が、醜くて嫌だった。嗚咽がこぼれそうになるから、唇をぎゅっと噛んだ。血の味が、舌に残っていた卵がゆをかき消していく。あの優しさを受け取れるなら、なんだって捨てられる。本気でそう思う。
でも、その奥に、もっと深い場所に、あの優しさだけじゃ満足できないと、吠える獣が居る。
「いつき」
祈るように、名前を呼んだ。
スケッチブックをめくる。まだ空白の、生成りの紙に向かい合う。中等部に入学してすぐ、森純太の絵に網膜を焼かれてから、もう六年目。遠くで輝く天才の背中に、いったい、どのくらい近づけたのだろう。空白を意味もなく埋めてきた、このスケッチブックは、いったい、どのくらい、自分の糧になったのだろう。学園での最後の一年はもう、二か月近くが過ぎている。最後の学内コンテストは、もう一月後だ。
そこでもし、あの天才に勝つことができたら。
(……俺はちゃんと、唯希の隣に立てるのかな)
庇護対象の、震えた子猫ではなくて。
せめて、対等な、クラスメイトとして。
できるなら、特別な、ただ一人の男として。
(唯希が欲しい、なんて。俺にはおこがましいけど)
それでも、欲しい。
あの小柄な体に収まった、いっとう美しい心の、すべてが欲しい。分不相応だ。分かっている。だって、小石が太陽を欲するようなものだ。息を吐き出しながら、白紙の紙に向かい合う。自分の中には、あと何が残っているだろう。彼の隣に立つために、捧げられるものを数える。
(……なんだって、ぜんぶあげるよ。唯希が欲しいもの、ぜんぶ)
だから、俺のこと、ちゃんと男として好きになって。
仄暗い、熱を孕んだ欲望がもうずっと、胸の奥でくすぶっている。神様みたいに綺麗で、太陽みたいに無垢な彼は、きっと、気づいてもいない。
(あんな、ちょっと触っただけで真っ赤になっちゃうくらい、初心だし)
そのくせ、簡単に傍に寄ってきて、甘やかすように終一の名前を呼ぶ。香りも、温度も、何も残してくれないのに、声だけが、鼓膜から染み込んで、心臓に焼き付くから。
だから、いつも、終一の内側にだけ、消えない痕が残る。
「……鈍感馬鹿のおこちゃまめ……」
悪態をついて、鉛筆を握りなおす。欲をそぎ落とすように、画用紙を埋めていく。教本を睨みつけ、少しでもマシな絵になるように、癖を修正する。朝日の差す教室は、夜よりもずっと、色濃く影が落ちていた。
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