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世界でいちばん、美しい蝶
カラーコード:FFF8dc
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一番鮮明に覚えているのは、自分に拳骨を落とした少年の、燃えるような、赤みがかった瞳だ。もともと、赤茶色の瞳が、差し込んだ斜陽で余計に赤く染まっている。日を受けた睫毛がきらりと光った。
「聞いてんのか、こんの、馬鹿!」
小さな拳を血管が浮き出るほど握りしめて、少年は純太を睨みつけた。頭のてっぺんがじんじんと痛い。床に座り込んだ純太はぱちくり、と瞬きを繰り返した。その反応が気に食わなかったのか、少年の顎先で握りしめられた拳がわなわなと震える。
「おい!」
(この子、なんでこんなに怒ってるんだろう)
ぱち、ぱち、ぱち。純太は何も答えずに瞬きを繰り返す。
「なんで怒ってんだろ? って顔してんじゃねえ……!」
純太の心を代弁した可愛らしく高い声が、噛み締めるような怒声に変わる。器用な子だね、君。
「いいか、よく聞け。耳をかっぽじれ。そして二度と忘れんな」
「忘れたらどうする?」
「忘れんなって言ってんだよ! この馬鹿!」
「君、なんでそんな怒ってるの?」
疑問をそのまま声に乗せると、赤みがかった瞳の少年はぶわっと肩を怒らせて一瞬固まった。その、直後、純太の鼓膜を大音量の怒声が揺らした。
「お前がっ! 廊下の壁に! でかでかと落書きしたせい! だろうが!!!」
叫びすぎて、少年は「はー、はーっ」と肩で息をしている。純太はと言えば、これまでの人生で聞いたことのない大声に驚いて、知らず、口を半分開けていた。言葉の意味は、ほとんど理解できていない。
「なんで怒るの?」
「はぁ? 当たり前だろ。廊下だぞ? 学校の、廊下!」
少年は勢いよく、ビシッ、と廊下の壁を指さした。陽山学園本校舎の廊下は、だいたい半分から上が白い壁紙で、下が木目調になっている。その、白い壁紙の上で、大きな鯨が泳いでいた。純太がアクリル絵の具で描いたものだ。広大な海を自由に泳ぐべき生き物が、海から遠く離れた山中の校舎で乾いた壁紙に貼り付けにされているなんて、かわいそうだね。描いたの僕だけど。
純太はちらりと自分の描いた絵に視線を向けて、それから怒れる少年に戻した。
「前の学校では褒められたよ?」
「なっんでだよ!」
うん。なんでだろうね?
地団駄を踏む少年を前にして、純太は困り果てて眉を下げた。だってそんなの、純太の方が聞きたい。落書きをするのはいけないことで、いけないことをしたら怒られるのが世の道理だ。いや、大人の世界では違うのかもしれないけれど、少なくとも、純太の周りの世界はそういう風にできていた。
クラスで一番足の速い子でも、廊下を走れば怒られるし、学校で一番勉強のできる二つ上のお姉さんも体育の時間に算数の問題を解いていたら、注意されていた。それが、ルールに反する、いけないことだから。だから純太は、小学校の廊下に絵を描いた。その時は月の絵だった。誰かを照らすことで初めて意味を得る月光が、誰も照らすことができないまま、日に焼けていく。かわいそうだね。哀れみを込めて描いた。
そうしたら自分も、ほかの子と同じように怒られるだろうと思っていた。
でも、違った。
先生は純太を怒るどころか、絵の出来栄えを褒めたたえ、誰も傷つけることのないようにと、厳重に全校集会で言い含めた。その時から純太には、世界の仕組みが分からない。分からないから、母や先生が何度も繰り返す言葉を、そのまま少年に伝えた。
ハローにはハローと、ハーワーユーにはアイムファインと答えるように。
ただ、教えられた言葉をなぞった。
「僕が、神様に愛された子供だからじゃない?」
少年は、純太の言葉を受けて固まった。あれれ。おかしいな。世界の真理を伝えたはずなのに、どうして彼は、こんなにも「意味わかんねえ」って顔で瞬きを繰り返すのだろう。不思議な子だね、君。
「はぁ?」
少年は怪訝に眉を寄せて首を傾げた。その反応でようやく、純太は彼が自分を知らない可能性に思い当たる。絵の神様に愛された神童としてテレビにも出たことがある純太を知らないなんて、いったい、どんな田舎から出てきたのだろう? 純太は小さくため息を吐いた。
「君は知らないみたいだけど、僕は神童で「いや、知ってるよ。お前、天才なんだろ? 絵が超うまいってテレビ出てたじゃん」
知ってるんだ。馬鹿っぽいのに。
「今、失礼なこと考えたろ」
「考えてないよ」
少年はじとっと半目で純太を睨んだ。直情的な馬鹿っぽいのに、意外と鋭い。
「はぁ……まあ、別にお前が俺をどう評価しようと、何を思ってようとどうでもいいけど」
ぱち、ぱち、と純太は瞬きを繰り返す。
「どうでもいいんだ?」
「どうでもいい。お前にどう思われても、俺の出来ることも、できないことも変わんねえし。すんげー失礼な評価されたところで、俺の価値が落ちるわけじゃない」
「すんげー、まではいかないよ」
「ちょっとは失礼なこと考えてたんじゃねえか」
おっと、失言。
純太は唇の前に指先を伸ばした右手を当てた。少年はふっとほほ笑む。息がまるく、床を転がるような笑い方だった。色で言うなら、カラーコード:FFF8dcとか、そういう色。髪の毛をからかう、春の風みたい。思わず見惚れた純太を置き去りに、少年は真面目な顔に戻った。
「いいか? お前がどんなに天才でも、絵の下手な思い上がりでも関係ねえの。公共のものに勝手に絵描いたらダメ。分かったか?」
「神様に愛された僕でも?」
覗き込んでくる赤みがかった瞳を見つめ返す。
「関係ねえって言ってんだろ」
少年は眉を寄せてその言葉を繰り返した。顔にはデカデカと『何度も同じこと言わせんな。物分かり悪いな』と書いてある。純太はずいっと身を乗り出して、少年との距離を詰めた。
「学校の廊下に落書きをするのはだめなこと?」
「当たり前だろ」
「それが、神童のやることでも、だめなこと?」
「だから、当たり前だって!」
叫んだ少年は、何かに驚いたように目を見開いた。縦に大きなつり目が、まんまるになって、そうするとまるで子犬みたいだった。
「おまえ、なんで怒られてんのに笑ってんだよ……」
少年が呆然と呟く。
「僕、笑ってる?」
驚いて、ぺたぺたと頬を触ってみる。確かに、口角が上がっている。
(うれしい? どうして?)
怒られるのは嫌なこと。
(そうかな?)
そうでも、ないのかも。
(……――あぁ、そうか。僕はずっと、ほかの子と同じようになりたかったんだ)
それはつまり、人間に。
神様に愛された子供ではなくて、壁に落書きをしたら怒られて、廊下を走ったら注意されて、勉強ばかりでもダメだと言われる、不自由で、面倒で、厄介な、そういうものとして。きっとずっと、誰かに扱ってほしかったんだ。
「あ! 唯希! やっと見つけた! こんなとこで何やってんの?」
少年とは別の明るさを持った声がした。まだ幼い声だ。たぶん、赤茶色のブレザーより、ランドセルのが似合う。視線を向けると、純太や少年と同じ学年バッチをつけた男子生徒が立っていた。前髪がずいぶんと短くて、丸い額がさらさられている。赤ちゃんみたいだね。
「あ? なんだよ、お前まだ寮行ってねえの? 先行ってろって言ったじゃん。聡」
「行ったし」
「じゃあ、なんで校舎戻ってきてんの」
「唯希探しに縁木行ったら、先生がまだ来てない新入生を探しに行ったって言うから。俺も手伝おうと思って」
「そりゃどーも」
少年は赤ちゃんの頭を雑に撫でる。「へへ」赤ちゃんは、赤ちゃんらしく、黄みがかった瞳を細めて笑った。同級生にそういう扱いをされたら、大抵は不快に感じるものだと思うけれど、そんなこともないらしい。やっぱり、赤ちゃんだ。
「んで? 唯希、何やってんだよ。同じ寮の子、迎えに行ってたんじゃねえの?」
「迎えに来たら壁に絵描いてたんだよ」
少年は親指で純太の絵をさした。不敬だね。
「絵?」
赤ちゃんは首をかしげながら、少年の指先を視線で追った。途端、その丸い瞳が見開かれる。赤ちゃんは何も言わずに三歩下がって、二歩、左にズレた。ちょうど、純太の絵が正面から見える場所だ。
「きれー」
純粋な賛辞だった。きっと、ここに絵を描いたのが神童じゃなくても、彼は同じように真正面から絵だけを見つめて、同じように息を吐いたのだろう。そうと分かるから、嬉しかった。
「唯希、これ消しちゃうん? もったねーよ」
む、と赤ちゃんは頬を膨らませる。うんうん、赤ちゃんは赤ちゃんで大変いいね。あとでお菓子をあげよう。一度溶けた飴しかポケットに入ってないけど。
「どんなに綺麗な絵でも、きたねえ落書きでも関係ねえの。壁に描いてあんのがダメなんだから」
「ちぇー。そっかー。そうだなー」
赤ちゃんは、少年の言葉で簡単に引き下がった。そんなにこの絵が気に入ったなら、もう少し引き下がってくれてもいいのに。
「あら。あなたたち、何をしているのですか? 新入生は、寮のオリエンテーションの時間ですよ」
こつこつこつ、と硬い足音がする。三人でそろって、赤ちゃんが来たのとは反対の方向を向いた。長い紺色のスカートを揺らして、教科書を抱えた女性が立っている。ここは中高一貫の男子校だから、女性はみんな先生だ。
「すみません。俺とこいつ、縁木寮なんですけど、オリエンテーション遅れて参加でもいいですか? このちっちゃいのはすぐ戻らせるので」
「ちっちゃさは唯希も変わんないじゃん」
赤ちゃんが不服そうに唇を尖らせる。少年は片手で頭を撫でることでそれをいなす。随分手慣れた黙らせ方で、二人の付き合いの長さがうかがえた。仲良しってやつだね。
「遅れて? なぜですか?」
「壁に落書きをしてしまって」
「落書き?」
少年の言葉で、先生はようやく、白い壁紙の上に大きな鯨が縫い付けられていることに気が付いたらしい。眼鏡の奥の瞳が大きく開かれる。「落書き、というレベルでは……」先生の目が、不意に純太をとらえた。
(あぁ。また、この目だ)
目の前の先生の中で、純太が『生徒』ではなく『神童』に繰り上がったのを、肌で感じる。
「あなたは……。この絵を消すかどうかは、職員会議で検討します。あなたたちは、とりあえずオリエンテーションに向かいなさい」
「これを描いたのは俺です」
「え」
先生の声と、純太の声が綺麗にそろった。何を言ってるんだ、この子は。罪をかぶろうとしているなら、そんなのは必要ない、と純太が声をあげるよりも、先生の言葉の方が少し早かった。
「あなたが? 何を考えているんですか! 学校の廊下に、こんなに大きな落書きをするなんて!」
「それが、正しい反応ですよね」
「はい?」
「すみません、嘘を吐きました。俺は絵心ないし、こんな巨大な鯨描けないです」
「どういうことですか?」
「いや、先生が、落とすかどうか検討するって言うばっかりで、廊下の壁に落書きしたことについて、一言も怒らないので。もしかして、この学校は綺麗な絵なら、どこに描いても許されるのかなと」
「そんなはずがないでしょう! どんなに綺麗な絵でも、学校の壁に描いてはいけません!」
「じゃ。森が描いたこの絵も、当然、許されちゃいけないものですよね」
す、と少年の瞳から温度が引いた。言葉は先ほど、純太に向けられていたものよりも、丁寧で柔らかいのに、今の方が、ずっと、冷たい。先生が怯んだように、半歩下がった。怖くなったのは、少年の言葉か。あるいは、無意識に純太を『特別』扱いした、己の狡さに対してか。
「雑巾で拭くなり、壁紙を張り替えるのを手伝うなり、張替の費用を負担するなり、叱責と罰があるべきですよね」
「ええ。そうですね」
純太の後ろから聞こえた声に、少年とそろってビクリ、と体をこわばらせる。ゆっくりとぎこちなく振り返ると、初老の女性が立っていた。見たことのある人物だ。確か……。
「学園長……!」
純太が答えにたどり着く前に、先生が怯えたように声を震わせた。そうだ、学園長だ。寮を決める面談で、三十分ほど話をしたことがある、気がする。話が面白かったのは覚えているけれど、あんまり、顔は覚えていないから自信はない。
「三枝先生。あなたには後でお話があります。今は授業へ。どんな事情があれ、生徒の学びを奪ってはいけない」
「……はい」
先生は俯いて返事をすると、近くの階段を上っていく。純太はその、細い背中をじっと見つめる。なんだか、悪いことをしてしまった。もし今日、純太がここに絵を描かなかったら、きっと、あんな風に背を丸めて階段を上る必要はなかっただろうに。
「さて。純太さんと唯希さんは、私と一緒に来れますね? 聡さんは、寮のオリエンテーションに戻るように。まだ始まってはいないでしょうから」
「はーい」
赤ちゃんは少し不服そうな顔をしていたけれど、おとなしく頷いた。一瞬だけ、少年に視線を向けて、少年がそれに笑みを浮かべて答えると、赤ちゃんも笑って寮の方へと走っていく。学園長はその背に「廊下を走ってはいけませんよ」とそこそこの声量で叫んだ。たぶん、廊下で叫ぶのも、あんまり良くないと思う。その声の余韻が空気に溶けたあとで、学園長は純太と少年を順に見つめた。
「さて。それでは行きましょうか」
「どこへ、ですか?」
少年の問いかけに、学園長は柔らかく笑みを浮かべる。
「もちろん、懺悔室へ」
「聞いてんのか、こんの、馬鹿!」
小さな拳を血管が浮き出るほど握りしめて、少年は純太を睨みつけた。頭のてっぺんがじんじんと痛い。床に座り込んだ純太はぱちくり、と瞬きを繰り返した。その反応が気に食わなかったのか、少年の顎先で握りしめられた拳がわなわなと震える。
「おい!」
(この子、なんでこんなに怒ってるんだろう)
ぱち、ぱち、ぱち。純太は何も答えずに瞬きを繰り返す。
「なんで怒ってんだろ? って顔してんじゃねえ……!」
純太の心を代弁した可愛らしく高い声が、噛み締めるような怒声に変わる。器用な子だね、君。
「いいか、よく聞け。耳をかっぽじれ。そして二度と忘れんな」
「忘れたらどうする?」
「忘れんなって言ってんだよ! この馬鹿!」
「君、なんでそんな怒ってるの?」
疑問をそのまま声に乗せると、赤みがかった瞳の少年はぶわっと肩を怒らせて一瞬固まった。その、直後、純太の鼓膜を大音量の怒声が揺らした。
「お前がっ! 廊下の壁に! でかでかと落書きしたせい! だろうが!!!」
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「なんで怒るの?」
「はぁ? 当たり前だろ。廊下だぞ? 学校の、廊下!」
少年は勢いよく、ビシッ、と廊下の壁を指さした。陽山学園本校舎の廊下は、だいたい半分から上が白い壁紙で、下が木目調になっている。その、白い壁紙の上で、大きな鯨が泳いでいた。純太がアクリル絵の具で描いたものだ。広大な海を自由に泳ぐべき生き物が、海から遠く離れた山中の校舎で乾いた壁紙に貼り付けにされているなんて、かわいそうだね。描いたの僕だけど。
純太はちらりと自分の描いた絵に視線を向けて、それから怒れる少年に戻した。
「前の学校では褒められたよ?」
「なっんでだよ!」
うん。なんでだろうね?
地団駄を踏む少年を前にして、純太は困り果てて眉を下げた。だってそんなの、純太の方が聞きたい。落書きをするのはいけないことで、いけないことをしたら怒られるのが世の道理だ。いや、大人の世界では違うのかもしれないけれど、少なくとも、純太の周りの世界はそういう風にできていた。
クラスで一番足の速い子でも、廊下を走れば怒られるし、学校で一番勉強のできる二つ上のお姉さんも体育の時間に算数の問題を解いていたら、注意されていた。それが、ルールに反する、いけないことだから。だから純太は、小学校の廊下に絵を描いた。その時は月の絵だった。誰かを照らすことで初めて意味を得る月光が、誰も照らすことができないまま、日に焼けていく。かわいそうだね。哀れみを込めて描いた。
そうしたら自分も、ほかの子と同じように怒られるだろうと思っていた。
でも、違った。
先生は純太を怒るどころか、絵の出来栄えを褒めたたえ、誰も傷つけることのないようにと、厳重に全校集会で言い含めた。その時から純太には、世界の仕組みが分からない。分からないから、母や先生が何度も繰り返す言葉を、そのまま少年に伝えた。
ハローにはハローと、ハーワーユーにはアイムファインと答えるように。
ただ、教えられた言葉をなぞった。
「僕が、神様に愛された子供だからじゃない?」
少年は、純太の言葉を受けて固まった。あれれ。おかしいな。世界の真理を伝えたはずなのに、どうして彼は、こんなにも「意味わかんねえ」って顔で瞬きを繰り返すのだろう。不思議な子だね、君。
「はぁ?」
少年は怪訝に眉を寄せて首を傾げた。その反応でようやく、純太は彼が自分を知らない可能性に思い当たる。絵の神様に愛された神童としてテレビにも出たことがある純太を知らないなんて、いったい、どんな田舎から出てきたのだろう? 純太は小さくため息を吐いた。
「君は知らないみたいだけど、僕は神童で「いや、知ってるよ。お前、天才なんだろ? 絵が超うまいってテレビ出てたじゃん」
知ってるんだ。馬鹿っぽいのに。
「今、失礼なこと考えたろ」
「考えてないよ」
少年はじとっと半目で純太を睨んだ。直情的な馬鹿っぽいのに、意外と鋭い。
「はぁ……まあ、別にお前が俺をどう評価しようと、何を思ってようとどうでもいいけど」
ぱち、ぱち、と純太は瞬きを繰り返す。
「どうでもいいんだ?」
「どうでもいい。お前にどう思われても、俺の出来ることも、できないことも変わんねえし。すんげー失礼な評価されたところで、俺の価値が落ちるわけじゃない」
「すんげー、まではいかないよ」
「ちょっとは失礼なこと考えてたんじゃねえか」
おっと、失言。
純太は唇の前に指先を伸ばした右手を当てた。少年はふっとほほ笑む。息がまるく、床を転がるような笑い方だった。色で言うなら、カラーコード:FFF8dcとか、そういう色。髪の毛をからかう、春の風みたい。思わず見惚れた純太を置き去りに、少年は真面目な顔に戻った。
「いいか? お前がどんなに天才でも、絵の下手な思い上がりでも関係ねえの。公共のものに勝手に絵描いたらダメ。分かったか?」
「神様に愛された僕でも?」
覗き込んでくる赤みがかった瞳を見つめ返す。
「関係ねえって言ってんだろ」
少年は眉を寄せてその言葉を繰り返した。顔にはデカデカと『何度も同じこと言わせんな。物分かり悪いな』と書いてある。純太はずいっと身を乗り出して、少年との距離を詰めた。
「学校の廊下に落書きをするのはだめなこと?」
「当たり前だろ」
「それが、神童のやることでも、だめなこと?」
「だから、当たり前だって!」
叫んだ少年は、何かに驚いたように目を見開いた。縦に大きなつり目が、まんまるになって、そうするとまるで子犬みたいだった。
「おまえ、なんで怒られてんのに笑ってんだよ……」
少年が呆然と呟く。
「僕、笑ってる?」
驚いて、ぺたぺたと頬を触ってみる。確かに、口角が上がっている。
(うれしい? どうして?)
怒られるのは嫌なこと。
(そうかな?)
そうでも、ないのかも。
(……――あぁ、そうか。僕はずっと、ほかの子と同じようになりたかったんだ)
それはつまり、人間に。
神様に愛された子供ではなくて、壁に落書きをしたら怒られて、廊下を走ったら注意されて、勉強ばかりでもダメだと言われる、不自由で、面倒で、厄介な、そういうものとして。きっとずっと、誰かに扱ってほしかったんだ。
「あ! 唯希! やっと見つけた! こんなとこで何やってんの?」
少年とは別の明るさを持った声がした。まだ幼い声だ。たぶん、赤茶色のブレザーより、ランドセルのが似合う。視線を向けると、純太や少年と同じ学年バッチをつけた男子生徒が立っていた。前髪がずいぶんと短くて、丸い額がさらさられている。赤ちゃんみたいだね。
「あ? なんだよ、お前まだ寮行ってねえの? 先行ってろって言ったじゃん。聡」
「行ったし」
「じゃあ、なんで校舎戻ってきてんの」
「唯希探しに縁木行ったら、先生がまだ来てない新入生を探しに行ったって言うから。俺も手伝おうと思って」
「そりゃどーも」
少年は赤ちゃんの頭を雑に撫でる。「へへ」赤ちゃんは、赤ちゃんらしく、黄みがかった瞳を細めて笑った。同級生にそういう扱いをされたら、大抵は不快に感じるものだと思うけれど、そんなこともないらしい。やっぱり、赤ちゃんだ。
「んで? 唯希、何やってんだよ。同じ寮の子、迎えに行ってたんじゃねえの?」
「迎えに来たら壁に絵描いてたんだよ」
少年は親指で純太の絵をさした。不敬だね。
「絵?」
赤ちゃんは首をかしげながら、少年の指先を視線で追った。途端、その丸い瞳が見開かれる。赤ちゃんは何も言わずに三歩下がって、二歩、左にズレた。ちょうど、純太の絵が正面から見える場所だ。
「きれー」
純粋な賛辞だった。きっと、ここに絵を描いたのが神童じゃなくても、彼は同じように真正面から絵だけを見つめて、同じように息を吐いたのだろう。そうと分かるから、嬉しかった。
「唯希、これ消しちゃうん? もったねーよ」
む、と赤ちゃんは頬を膨らませる。うんうん、赤ちゃんは赤ちゃんで大変いいね。あとでお菓子をあげよう。一度溶けた飴しかポケットに入ってないけど。
「どんなに綺麗な絵でも、きたねえ落書きでも関係ねえの。壁に描いてあんのがダメなんだから」
「ちぇー。そっかー。そうだなー」
赤ちゃんは、少年の言葉で簡単に引き下がった。そんなにこの絵が気に入ったなら、もう少し引き下がってくれてもいいのに。
「あら。あなたたち、何をしているのですか? 新入生は、寮のオリエンテーションの時間ですよ」
こつこつこつ、と硬い足音がする。三人でそろって、赤ちゃんが来たのとは反対の方向を向いた。長い紺色のスカートを揺らして、教科書を抱えた女性が立っている。ここは中高一貫の男子校だから、女性はみんな先生だ。
「すみません。俺とこいつ、縁木寮なんですけど、オリエンテーション遅れて参加でもいいですか? このちっちゃいのはすぐ戻らせるので」
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赤ちゃんが不服そうに唇を尖らせる。少年は片手で頭を撫でることでそれをいなす。随分手慣れた黙らせ方で、二人の付き合いの長さがうかがえた。仲良しってやつだね。
「遅れて? なぜですか?」
「壁に落書きをしてしまって」
「落書き?」
少年の言葉で、先生はようやく、白い壁紙の上に大きな鯨が縫い付けられていることに気が付いたらしい。眼鏡の奥の瞳が大きく開かれる。「落書き、というレベルでは……」先生の目が、不意に純太をとらえた。
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「え」
先生の声と、純太の声が綺麗にそろった。何を言ってるんだ、この子は。罪をかぶろうとしているなら、そんなのは必要ない、と純太が声をあげるよりも、先生の言葉の方が少し早かった。
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「それが、正しい反応ですよね」
「はい?」
「すみません、嘘を吐きました。俺は絵心ないし、こんな巨大な鯨描けないです」
「どういうことですか?」
「いや、先生が、落とすかどうか検討するって言うばっかりで、廊下の壁に落書きしたことについて、一言も怒らないので。もしかして、この学校は綺麗な絵なら、どこに描いても許されるのかなと」
「そんなはずがないでしょう! どんなに綺麗な絵でも、学校の壁に描いてはいけません!」
「じゃ。森が描いたこの絵も、当然、許されちゃいけないものですよね」
す、と少年の瞳から温度が引いた。言葉は先ほど、純太に向けられていたものよりも、丁寧で柔らかいのに、今の方が、ずっと、冷たい。先生が怯んだように、半歩下がった。怖くなったのは、少年の言葉か。あるいは、無意識に純太を『特別』扱いした、己の狡さに対してか。
「雑巾で拭くなり、壁紙を張り替えるのを手伝うなり、張替の費用を負担するなり、叱責と罰があるべきですよね」
「ええ。そうですね」
純太の後ろから聞こえた声に、少年とそろってビクリ、と体をこわばらせる。ゆっくりとぎこちなく振り返ると、初老の女性が立っていた。見たことのある人物だ。確か……。
「学園長……!」
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「三枝先生。あなたには後でお話があります。今は授業へ。どんな事情があれ、生徒の学びを奪ってはいけない」
「……はい」
先生は俯いて返事をすると、近くの階段を上っていく。純太はその、細い背中をじっと見つめる。なんだか、悪いことをしてしまった。もし今日、純太がここに絵を描かなかったら、きっと、あんな風に背を丸めて階段を上る必要はなかっただろうに。
「さて。純太さんと唯希さんは、私と一緒に来れますね? 聡さんは、寮のオリエンテーションに戻るように。まだ始まってはいないでしょうから」
「はーい」
赤ちゃんは少し不服そうな顔をしていたけれど、おとなしく頷いた。一瞬だけ、少年に視線を向けて、少年がそれに笑みを浮かべて答えると、赤ちゃんも笑って寮の方へと走っていく。学園長はその背に「廊下を走ってはいけませんよ」とそこそこの声量で叫んだ。たぶん、廊下で叫ぶのも、あんまり良くないと思う。その声の余韻が空気に溶けたあとで、学園長は純太と少年を順に見つめた。
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「俺を好きになれ」
拗れた結人の想いの行方は……体格も性格も正反対の2人の恋は一筋縄ではいかない模様です!!
不器用な2人が周りを巻き込みながら、少しずつ距離を縮めていく、苦くて甘い高校生BLです。
アルファポリスさんでは初のBL作品となりますので、完結までがんばります。
第13回BL大賞にエントリーしている作品です。応援していただけると泣いて喜びます!!
※完結したので感想欄開いてます~~^^
●高校生時代はピュアloveです。キスはあります。
●物語は全て一人称で進んでいきます。
●基本的に攻めの愛が重いです。
●最初はサクサク更新します。両想いになるまではだいたい10万字程度になります。
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