メイコとアンコ

笹木柑那

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第二章 家族とか

4.足枷の人

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 母をデイサービスに送り出した後、私はそれほど空いてもいない電車で出勤する。
 ピーク時を過ぎているとは言え、都心に向かうこの電車は多少時間をずらしたところで空席などない。

「おはようございます」

 カチャカチャとキーを叩く音ばかりが響くフロアに入り、邪魔にならぬよう小声で挨拶をし自分のデスクに荷物を置く。
 そしてすぐさまパソコンの電源を入れ、今日やることを整理したのち作業に取り掛かる。

 始業時間に来られないから、時折不定期に開催される朝礼にも出られない。
 朝会は派遣で新しく来た人の挨拶や連絡事項などがあるときに開催される。
 それを知らない私は、誰がいつから来ていたのかもわからない。

 夕礼も同じく定時よりも早く帰る私は出られない。
 夕礼では派遣期間が終了した人や退職者の挨拶などがあるときなどに開催される。
 いつの間にか来ていた派遣さんが、いつの間にかいなくなっている。

 朝と夕方の「通常勤務の人は当たり前にいる時間帯」にいないということは、そういうことだ。
 会社で今何が起きているか、掴めない。
 
 部会も大抵が朝イチで始まる。
 ここでも同じ。情報が遅れる。漏れる。
 周囲はわざわざいない人間のための配慮なんてしない。
 だから私は議事録が作られればそれを共有フォルダまで取りに行って内容を確認するしかない。
 議事録を作ったのが適当な人間だと情報が洩れていることも多々ある。

「今日の部会で何か話ありました?」

 そう聞いても、自分に関係のないことは聞き流す人がほとんどだから、私に必要な情報が必ず得られるわけじゃない。

 部会や朝礼に出られないからといって、業務そのものが滞るということはない。
 でも会社にいてやらねばならないことは業務だけではない。仕事以外の作業というものもある。
 事務処理やら申請やら、働くからには必要な雑務というのがある。
 困るのはそこだ。

 朝は既にみんな働いている中に「おはようございます」と身を縮こめてやってきて、夕方はみんながまだ働いているのに「お疲れ様です」とペコペコしながら帰っていく。

 肩身が狭い。

 こんなにぴったりな言葉なんてないと思う。

 それから急いで電車に乗って、寄り道する暇もなく最低限の食糧だけ買って家に帰る。
 就職のため私が借りた1Kのアパートに母と済むのは精神衛生上多大な無理があった。
 まだ入社二年目でお金もないときなのに、それでも耐えられなくて引っ越した。

 帰れば母のベッドを置いたリビングから、毎度「遅い」と怒声が返る。
 デイサービスから帰る四時までに家に着くのは無理だ。
 朝だって十時からしか働けないのだ。三時までしか働けなかったら、昼休憩が強制的に一時間で、実働四時間になってしまう。それでは介護の必要な母と私が暮らしていくだけの生活費を稼ぐのは難しく、なんとか五時間働かせてもらっている。
 だから四時から五時くらいまでの間、母は一人で家にいる。
 短時間ではあるが、置いておけるのは母が自由に歩けないからだ。

 認知症なんてまだ遠い先の話だと思っていたのに、脳梗塞を患ってからあれよあれよという間に若年性の認知症まで始まってしまった。
 認知症の人間なんて一人で置いておくのは危険な面があるが、私が働く上では母が自力で歩けなくなっていたのはまだよかったことかもしれない。

 誰だかもよくわからない娘に世話を焼かれる母も、よかったのか悪かったのかわからない。
 だが他に誰も残らなかったのは、母の自業自得であるのは間違いない。
 母は人を不快にさせる天才だったから。

     ◇

「お先に失礼します」

 そう言って荷物を持って立ち上がると、通りがかった澤田さんが「お」と足を止めた。

「もう帰り? いつもいいねー、早くて。俺なんか仕事が忙しくて絶対にそんな早くは帰れないね。明るいうちに帰ったことなんかないよ」

 そう言ってがははと笑う。
 悪気がないのはわかってる。
 これはただの彼の挨拶だ。
 だからいつもなら胸にもやもやを抱え込んだまま、笑ってスルーする。
 けれど今日の私には、それができなかった。

「じゃあ交換します? これから走って電車に乗って、五分で夕飯の買い物を済ませて、走って家に帰って、それでも『遅い!』って怒鳴りつけられて、召使いのようにご飯を作って下の世話をして、眠りにつくまで罵詈雑言に耐え忍ぶ。澤田さんの大変な仕事より、楽かもしれませんね」

「いや、そんなこと言わなくてもいいじゃん。俺だって毎日残業で大変なんだからさあ」

「私も残業して仕事がしたいです。絶対残業できないから。絶対に時間までに仕事を終わらせなきゃいけないんです。誰にも迷惑はかけられませんしね。こうやって話す暇も惜しいですもん。あ、電車一本乗り過ごしました。母に茶碗投げつけられると大変なので失礼しますね」

 本当のことしか言ってない。
 けれど澤田さんは、私が嫌味を言っただけだと思ってるのだろう。

「そんなにヒリヒリしてると疲れるぞー」

 わざとのんびりとした声で、私の背中にそんな声を投げかけた。
 もう、とうに疲れ切っている。
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