18 / 25
第二章 家族とか
4.足枷の人
しおりを挟む
母をデイサービスに送り出した後、私はそれほど空いてもいない電車で出勤する。
ピーク時を過ぎているとは言え、都心に向かうこの電車は多少時間をずらしたところで空席などない。
「おはようございます」
カチャカチャとキーを叩く音ばかりが響くフロアに入り、邪魔にならぬよう小声で挨拶をし自分のデスクに荷物を置く。
そしてすぐさまパソコンの電源を入れ、今日やることを整理したのち作業に取り掛かる。
始業時間に来られないから、時折不定期に開催される朝礼にも出られない。
朝会は派遣で新しく来た人の挨拶や連絡事項などがあるときに開催される。
それを知らない私は、誰がいつから来ていたのかもわからない。
夕礼も同じく定時よりも早く帰る私は出られない。
夕礼では派遣期間が終了した人や退職者の挨拶などがあるときなどに開催される。
いつの間にか来ていた派遣さんが、いつの間にかいなくなっている。
朝と夕方の「通常勤務の人は当たり前にいる時間帯」にいないということは、そういうことだ。
会社で今何が起きているか、掴めない。
部会も大抵が朝イチで始まる。
ここでも同じ。情報が遅れる。漏れる。
周囲はわざわざいない人間のための配慮なんてしない。
だから私は議事録が作られればそれを共有フォルダまで取りに行って内容を確認するしかない。
議事録を作ったのが適当な人間だと情報が洩れていることも多々ある。
「今日の部会で何か話ありました?」
そう聞いても、自分に関係のないことは聞き流す人がほとんどだから、私に必要な情報が必ず得られるわけじゃない。
部会や朝礼に出られないからといって、業務そのものが滞るということはない。
でも会社にいてやらねばならないことは業務だけではない。仕事以外の作業というものもある。
事務処理やら申請やら、働くからには必要な雑務というのがある。
困るのはそこだ。
朝は既にみんな働いている中に「おはようございます」と身を縮こめてやってきて、夕方はみんながまだ働いているのに「お疲れ様です」とペコペコしながら帰っていく。
肩身が狭い。
こんなにぴったりな言葉なんてないと思う。
それから急いで電車に乗って、寄り道する暇もなく最低限の食糧だけ買って家に帰る。
就職のため私が借りた1Kのアパートに母と済むのは精神衛生上多大な無理があった。
まだ入社二年目でお金もないときなのに、それでも耐えられなくて引っ越した。
帰れば母のベッドを置いたリビングから、毎度「遅い」と怒声が返る。
デイサービスから帰る四時までに家に着くのは無理だ。
朝だって十時からしか働けないのだ。三時までしか働けなかったら、昼休憩が強制的に一時間で、実働四時間になってしまう。それでは介護の必要な母と私が暮らしていくだけの生活費を稼ぐのは難しく、なんとか五時間働かせてもらっている。
だから四時から五時くらいまでの間、母は一人で家にいる。
短時間ではあるが、置いておけるのは母が自由に歩けないからだ。
認知症なんてまだ遠い先の話だと思っていたのに、脳梗塞を患ってからあれよあれよという間に若年性の認知症まで始まってしまった。
認知症の人間なんて一人で置いておくのは危険な面があるが、私が働く上では母が自力で歩けなくなっていたのはまだよかったことかもしれない。
誰だかもよくわからない娘に世話を焼かれる母も、よかったのか悪かったのかわからない。
だが他に誰も残らなかったのは、母の自業自得であるのは間違いない。
母は人を不快にさせる天才だったから。
◇
「お先に失礼します」
そう言って荷物を持って立ち上がると、通りがかった澤田さんが「お」と足を止めた。
「もう帰り? いつもいいねー、早くて。俺なんか仕事が忙しくて絶対にそんな早くは帰れないね。明るいうちに帰ったことなんかないよ」
そう言ってがははと笑う。
悪気がないのはわかってる。
これはただの彼の挨拶だ。
だからいつもなら胸にもやもやを抱え込んだまま、笑ってスルーする。
けれど今日の私には、それができなかった。
「じゃあ交換します? これから走って電車に乗って、五分で夕飯の買い物を済ませて、走って家に帰って、それでも『遅い!』って怒鳴りつけられて、召使いのようにご飯を作って下の世話をして、眠りにつくまで罵詈雑言に耐え忍ぶ。澤田さんの大変な仕事より、楽かもしれませんね」
「いや、そんなこと言わなくてもいいじゃん。俺だって毎日残業で大変なんだからさあ」
「私も残業して仕事がしたいです。絶対残業できないから。絶対に時間までに仕事を終わらせなきゃいけないんです。誰にも迷惑はかけられませんしね。こうやって話す暇も惜しいですもん。あ、電車一本乗り過ごしました。母に茶碗投げつけられると大変なので失礼しますね」
本当のことしか言ってない。
けれど澤田さんは、私が嫌味を言っただけだと思ってるのだろう。
「そんなにヒリヒリしてると疲れるぞー」
わざとのんびりとした声で、私の背中にそんな声を投げかけた。
もう、とうに疲れ切っている。
ピーク時を過ぎているとは言え、都心に向かうこの電車は多少時間をずらしたところで空席などない。
「おはようございます」
カチャカチャとキーを叩く音ばかりが響くフロアに入り、邪魔にならぬよう小声で挨拶をし自分のデスクに荷物を置く。
そしてすぐさまパソコンの電源を入れ、今日やることを整理したのち作業に取り掛かる。
始業時間に来られないから、時折不定期に開催される朝礼にも出られない。
朝会は派遣で新しく来た人の挨拶や連絡事項などがあるときに開催される。
それを知らない私は、誰がいつから来ていたのかもわからない。
夕礼も同じく定時よりも早く帰る私は出られない。
夕礼では派遣期間が終了した人や退職者の挨拶などがあるときなどに開催される。
いつの間にか来ていた派遣さんが、いつの間にかいなくなっている。
朝と夕方の「通常勤務の人は当たり前にいる時間帯」にいないということは、そういうことだ。
会社で今何が起きているか、掴めない。
部会も大抵が朝イチで始まる。
ここでも同じ。情報が遅れる。漏れる。
周囲はわざわざいない人間のための配慮なんてしない。
だから私は議事録が作られればそれを共有フォルダまで取りに行って内容を確認するしかない。
議事録を作ったのが適当な人間だと情報が洩れていることも多々ある。
「今日の部会で何か話ありました?」
そう聞いても、自分に関係のないことは聞き流す人がほとんどだから、私に必要な情報が必ず得られるわけじゃない。
部会や朝礼に出られないからといって、業務そのものが滞るということはない。
でも会社にいてやらねばならないことは業務だけではない。仕事以外の作業というものもある。
事務処理やら申請やら、働くからには必要な雑務というのがある。
困るのはそこだ。
朝は既にみんな働いている中に「おはようございます」と身を縮こめてやってきて、夕方はみんながまだ働いているのに「お疲れ様です」とペコペコしながら帰っていく。
肩身が狭い。
こんなにぴったりな言葉なんてないと思う。
それから急いで電車に乗って、寄り道する暇もなく最低限の食糧だけ買って家に帰る。
就職のため私が借りた1Kのアパートに母と済むのは精神衛生上多大な無理があった。
まだ入社二年目でお金もないときなのに、それでも耐えられなくて引っ越した。
帰れば母のベッドを置いたリビングから、毎度「遅い」と怒声が返る。
デイサービスから帰る四時までに家に着くのは無理だ。
朝だって十時からしか働けないのだ。三時までしか働けなかったら、昼休憩が強制的に一時間で、実働四時間になってしまう。それでは介護の必要な母と私が暮らしていくだけの生活費を稼ぐのは難しく、なんとか五時間働かせてもらっている。
だから四時から五時くらいまでの間、母は一人で家にいる。
短時間ではあるが、置いておけるのは母が自由に歩けないからだ。
認知症なんてまだ遠い先の話だと思っていたのに、脳梗塞を患ってからあれよあれよという間に若年性の認知症まで始まってしまった。
認知症の人間なんて一人で置いておくのは危険な面があるが、私が働く上では母が自力で歩けなくなっていたのはまだよかったことかもしれない。
誰だかもよくわからない娘に世話を焼かれる母も、よかったのか悪かったのかわからない。
だが他に誰も残らなかったのは、母の自業自得であるのは間違いない。
母は人を不快にさせる天才だったから。
◇
「お先に失礼します」
そう言って荷物を持って立ち上がると、通りがかった澤田さんが「お」と足を止めた。
「もう帰り? いつもいいねー、早くて。俺なんか仕事が忙しくて絶対にそんな早くは帰れないね。明るいうちに帰ったことなんかないよ」
そう言ってがははと笑う。
悪気がないのはわかってる。
これはただの彼の挨拶だ。
だからいつもなら胸にもやもやを抱え込んだまま、笑ってスルーする。
けれど今日の私には、それができなかった。
「じゃあ交換します? これから走って電車に乗って、五分で夕飯の買い物を済ませて、走って家に帰って、それでも『遅い!』って怒鳴りつけられて、召使いのようにご飯を作って下の世話をして、眠りにつくまで罵詈雑言に耐え忍ぶ。澤田さんの大変な仕事より、楽かもしれませんね」
「いや、そんなこと言わなくてもいいじゃん。俺だって毎日残業で大変なんだからさあ」
「私も残業して仕事がしたいです。絶対残業できないから。絶対に時間までに仕事を終わらせなきゃいけないんです。誰にも迷惑はかけられませんしね。こうやって話す暇も惜しいですもん。あ、電車一本乗り過ごしました。母に茶碗投げつけられると大変なので失礼しますね」
本当のことしか言ってない。
けれど澤田さんは、私が嫌味を言っただけだと思ってるのだろう。
「そんなにヒリヒリしてると疲れるぞー」
わざとのんびりとした声で、私の背中にそんな声を投げかけた。
もう、とうに疲れ切っている。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました
放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。
だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。
「彼女は可哀想なんだ」
「この子を跡取りにする」
そして人前で、平然と言い放つ。
――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」
その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる