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少年が追想する時

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 エダム村。
 百人と満たない人口に対し、牛や羊に鶏といった家畜は何倍以上もいる。広大な牧草地ばかりで他は何もない山間の田舎村。辺鄙とも呼べるそんな場所がアスレイの故郷だった。
 だが、そんな暮らしが不満だったというわけではなく。
 親の手伝いや家畜の世話は楽しかったし、後に生まれた妹たちは友達のような存在で。毎日飽きることはなかった。
 そして何よりもアスレイにとって、一番楽しみだったことは―――。




「はい、また私の勝ち!」

 山の向こうまで続く牧草地帯のど真ん中で、宙へと投げ飛ばされた少年。
 鳶色の髪、茶の瞳。まだあどけない幼少期のアスレイ。
 地面を何度か転がった彼は、牧草で汚れた体をそのままに「もう一度」と叫びながら即座に立ち上がる。

「まだまだ…動けなくなったら負けだからなっ!」

 そう言って駆け出していくアスレイ。
 だが幼い故に動きは単調だ。
 拳を何度も突き出しているだけの少年に、少女は先ほどと同じく、その腕を掴み再度投げ飛ばす。綺麗な一本背負い。アスレイはまたしても地面へと倒れた。
 こんなやり取りが既に今だけで20回近く繰り返されているわけなのだが、双方止める様子も飽きる気配もない。楽しさから笑顔を滲ませながら、この日も二人は太陽が山の向こうへと沈むまで、繰り返し遊び鍛え続けるのだ。





「ふふーん…今日も私の勝ちね」

 何度も何度も投げ飛ばされ転がされ流石に動けなくなり、仰向けのまま倒れ込むアスレイ。
 全身を大きく揺らし呼吸をしながら、彼は視界に入ってきた彼女を見つめる。
 アスレイと同じ鳶色のセミロング。大きな同色の瞳。それらは夕焼けに照らされ、仄かに紅く染まって映る。
 スレーズ領特有の刺繍が施されたエプロンドレスが似合う彼女は、6つ年上のアスレイの幼馴染みであった。

「ミリア姉ちゃんすごい!」
「またお兄ちゃんに勝った。やったね!」

 勝ち誇っている彼女へと駆け寄る二人の少女は、アスレイの妹二人だ。
 今ではすっかり実兄よりも幼馴染みの彼女を慕ってしまっている。
 募る彼女たちへ笑みを浮かべながら幼馴染みは二人の頭を撫でてやり、それから倒れているアスレイに手を差し伸べる。

「ほら、もうあんなにお日様が真っ赤になってるし、帰らなくちゃね」

 彼女はそう言っておもむろに暮れなずむ空と、赤く輝く夕日を一瞥する。

「…次は負けないから」

 そう言いながらも笑顔で返し、アスレイは彼女の手を握り締める。
 温かく、優しい彼女の温もり。それがアスレイにとって大好きなものの一つであった。

「負けないって言ってるけど、後どれだけ鍛えれば私に組手で勝てるのかしらねー」
「うぐ…けど最近は牛の餌やりも手伝うようになって前以上に筋肉もついたんだぞ」

 アスレイは腕を出して自慢の力瘤を見せたが、生憎と泥まみれであるそんな腕を彼女たちが賞賛するわけもなく。
 だが、微笑みを浮かべて幼馴染みは、そんな少年の頭を優しく撫でる。

「そっか、凄い凄い。じゃあその調子でおばさんたちの手伝い頑張りながら、いつか私を負かしてみなさいよね」

 彼女の満面の笑顔を見つめ、自然とアスレイの口元も綻んでいく。
 と、彼女の両脇に居た妹たちはそんな兄を見て、互いに顔を合わせながらにんまりと笑う。

「あー、お兄ちゃん顔紅くしてるー!」
「もしかして照れてるの?」
「ち、違っ…これは夕日のせいだって!」

 妹たちに茶化され慌ててそう反論すると、アスレイは駆け足で彼女たちから遠ざかっていく。
 確かに、彼の顔は夕日によって紅く照らされていた。だが彼女たちの言う通り、それ以外の―――特別な感情によって染められているという自覚も、アスレイにはあった。
 そんな自覚をすると余計に顔は紅く火照ってしまい。アスレイは慌てて逃げるように駆け出して、帰路に立った。



 姉の様に優しい幼馴染みと、いつの間にか何となくで始まった組手。
 それは勝ち目のない、負けばかりの試合であったが、だからこそアスレイはいつか彼女に勝ちたいという夢を抱いた。
 小さく淡い夢を心の奥に秘めながら、そうしてこの日も彼らは一緒に温かな帰り道を歩く。
 それが、アスレイにとっての幸福な時間だった。
 ―――ミリア・ルナ。
 彼女はアスレイにとって、最も親しい幼馴染みで、最も大切で、大好きな人だった。






   
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