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回想
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彼と出会ってから一週間が経った。
あの丘に行くことが私の日課となり、遠回りだった帰り道は私の新たな下校通路へと変わった。丘で一人、自然な音色と心を和ませながら歌を響かせる毎日を繰り返すようになったのだ。
だがあれ以来、彼の姿を見ていない。元をいうと、彼はあの日偶然、私の歌を聞きつけて丘にやってきただけのこと。もうここにはこないのかもしれないと薄々諦めかけていた。
人と接することに慣れない私に話しかけてくれた、見ず知らずの彼を良く見ていただけだったのかもしれない。いつしかそう考えるようになった。
春休みに入ると、毎日のように丘に行くことが出来なくなっていった。毎年この時期は勉強や家事の手伝いが通常以上に忙しくなり、自分の時間に余裕がなくなる。家事の手伝いにはおばさんが経営するパン屋での仕事ももちろん含まれる。アルバイトの子たちと同様、働いた分だけおばさんから時給を貰う。いわばこれが私のお小遣いだった。
中学三年生の頃から仕事を教わった。おばさんは好きなものは自分で買いなさいと主張する人だった。そのため、欲しいものがあれば、その言葉を鵜呑みして必死に働いている。最近ではスマホが欲しいがために働いている。
春休み中旬のお昼、私は休憩時間をもらって久しぶりに丘に行った。丘は相変わらず人気がなく静かだったが、芝生の上に桜の木が頑健よく立っていて花を咲かせていた。
見事な桜だな。
街の桜の咲きに比べて、この桜はすでに半分ほど咲いている。
私は散った桜の花びらを払って座り、一息ついて景色を思う存分一望した。
やっぱり、ここに座ると落ち着く。風に当たりながら心を鎮めていると、私は不意に母との思い出が浮かんできた。
小学一年生の時に癌で亡くなったお母さんとの思い出。それは実に短いものだった。癌の病名は乳がん。それがどれほど忌々しい病気なのか、その当時は分からなかった。
「お母さん、きっと元気になるよ」
お見舞いに付き添ってくれていたおばさんや周りの人々は口を揃えてそう言った。だから私は、その言葉をただ信じて、毎日の日課としてお母さんに会いに行った。
病室にいる母は、いつも笑顔だった。頭にはニット帽をかぶり、やや丸みのある顔、膨れた手足に変だなと感じる部分はあったけれど、お母さんの体の悪い虫は治るものなのだと平然と思っていた。だから私も、母にありったけの笑顔で甘えた。
私のわがままは毎回お母さんと歌を歌うということに決まっていた。お母さんがピアノを弾き、私はそれに歌を乗せる。それが私にとってお母さんと病室での楽しいひとときだったのだ。ピアノ演奏者だったお母さんは、私がリクエストした曲を軽々となんでも弾いてくれた。私が見舞いに来る時間には必ず机には携帯ピアノが置かれていた。
「今日は何歌いたい?」と聞くお母さんに遠慮なくリクエストして私はお母さんと演奏する時間を楽しんでいた。
『また元気になってコンサートしたいな』
ピアノを弾くたびに、口癖ようにお母さんは言っていた。
だが、結局その願いは忽然と叶わぬものとなった。
「大好きだよ」と呟きながら、私の手をそっと掴んだお母さん。お母さんから伝わる温かい手の感触を逃さぬようにと、私は掴まれた手をぎゅっと握り返した。ふっと唇が緩んだお母さんの頬には一筋の涙が流れ、静かに眠る大好きなお母さんをただ見つめた。
次の瞬間、糸が切れたかのようにお母さんの手から力が抜けるのを感じた。隣で動く心電図は一線になり、窓の隙間から聞こえるそよぎをかき消すような音に耳鳴りを感じた。
耳鳴りが治った時には、私の口の水分はほとんど残っていなかった。水上に揚げられた魚のように口をパクパクさせながら、私は目の前で眠っているお母さんに声をかけようとする。だが、伝える言葉が思い当たらず、私は再び嗚咽を漏らすだけだった。起きるはずのない冷たい体を必死に両手で揺らしながら、泣いたのを憶えている。
お母さんが死去してから、私はお母さんの姉である佐智子おばさんに引き取られた。その以前からおばさんの家で暮らしていたため、おばさんは私を快く歓迎してくれた。
おばさんの家に引っ越して半年が経った頃、おばさんは私に「お母さんから預かったものがある」と言って、リビングの引き出しから小さな箱を私に渡した。
それはお母さんが私に残したプレゼントだったのだ。
「姉さんが美希に残した最後のプレゼントよ。ほら」
おばさんは箱に書かれた『美希へ』という文字をなぞった。
箱を開けると、中にはピンクのウォークマンが入っていた。それは新品ではなく、使い遺した跡がいくつか見られた。側面を見ると『SAKI』とお母さんの名前が彫ってあった。
「これを最期に渡された時、『家族の証として、美希に持ってて欲しい』って言ってたわ。肩身ね、姉さんの」
それから、そのウォークマンは肌身離さぬものになった。新たな曲を挿入することもせず、私はもらった当時のままの状態でそれを今でも使っている。ライブラリにはJPOPやクラシックが入っていて、どれもお母さんが病室で弾いてくれた曲だった。
だが、一曲だけ、聞き覚えのない歌が挿入されていた。アコギと合わせて歌うバラード曲。初聴した時、透き通ったハイトーンボイスの声、細かなギターの音色がスッと耳に入ってきた。その奥からは密かに綺麗なピアノの音色も幾つか聞こえた。
その歌声を聞くたびに、私は目元に熱を感じてしまう。胸が苦しくなる。その理由はなんとなくわかっていた。この曲を聴いて目を閉じると、そこには暖かい情景が浮かぶ。私が自然と求めてしまうものに愛しく感じてしまう。
おばさんたちとの生活は幸せだ。でも、おばさんとの間にある『家族』というサークルにうまく溶け込むことは容易いことではない。私の些細なわがままを、おばさんは優しく応えてくれる。それに対して、お母さんならなんて返すのだろうかと考えてしまう。
おばさんは、そんな私の様子を見かねては「姉さんはね」とたくさん話をしてくれた。そのおかげで幾分か、お母さんとの哀しい別れは思い出となり、私の強みへと変わっていったのだ。
だが、おばさんはお父さんのことを一切教えようとしない。私はお父さんとの記憶が鮮明に残っていない。だから家族アルバムを見返してみるものの、お父さんが写った家族写真は一枚もないのだ。
以前、おばさんにお父さんの話を切り出したことがあった。
「私のお父さんってさ、今何してるのかな」
その問いに、おばさんは急かすよう「知らないわよ、あんな男」と主張するだけだった。
父がどんな人だったのか、私はよく知らない。道端ですれ違っても、私はお父さんと気づく自信がない。でも、お父さんに会いたい。その願いがあの曲を聞くたびに一層強くなっている。
ひらひらひらと舞い散る桜の花びらを手に取る。頰を流れた涙を手の甲で拭いながら、私は桜と共に夕日が沈む景色を写真に撮った。
夕日が沈む短い時間が一生続いてほしい。音楽と同じで、写真は一生の思い出を残してくれる。消えることなく、人が忘れた記憶を思い出させてくれる。
丘には相変わらずいろんな音を聴かせてくれる。その音一つひとつに大きな力があり、人それぞれの記憶を思い出すきっかけになるときがある。風の音や、風に揺らぐ桜の散る音、桜の枝にいる小鳥の囀り。
たくさんの音が重なり合う音。その中に、シャッター音が後方から聞こえた。
「...いい景色やな」
聞こえてきた声に、自分の鼓動が早くなるのを感じた。振り返ると、男性がカメラを構えていた。真っ黒のカメラのファインダーに目を細めて、何度も同じ音をならした。
「間に合ってよかった」
男性は顔からカメラが離し、首からカメラをぶら下げる。私と彼の目線が交差した。
「久しぶりやな。……美希ちゃん」そう言って彼は私に微笑んだ。
二人は白のベンチに腰掛け、撮った夕日の写真を見返した。夕陽に染まる街並みや、山頂に欠けていく儚い夕陽が写されている。
「すごい。これ、モデルみたい……」と写真を見ながら吐息を漏らす。風景を背景に私の後ろ姿が影を作っていて綺麗だった。
やっぱ、夕日って綺麗。
何枚か撮った情景写真を見ながらお互い浸ってしまう。彼の横顔をその都度見ながら、私は言葉を繰り返す。
「……綺麗」写真よりも、その写真を見る彼の姿に。シャープな鼻の形が際立って絵に描いたような姿から目が逸らせなかった。
しまった、と私は思わず口を手でおさえる。
「綺麗って、俺かいな」
「いや、あの。……すいません」
自分の言動が恥ずかしい。赤面で体が熱くなった。
「そんな顔真っ赤にして。めちゃ恥ずかしがるやん。
私の表情を可笑しく思ったのか、彼は腹に手を置いて、上下に大きく揺れた。
笑い声が丘の上で響き渡り、微風がそれに重なる。
「…腹、痛え」
屈託のない笑顔に、私は恥ずかしさなどなくなってしまった。
軽く涙を拭く彼を尻目に、私は勢いよく彼にカメラを向けた。
「そんな笑わないでください」
アルバムに移ると、そこにはしっかりと彼のクシャっとした笑みが写っていた。それを見て、私の口角が自然と上がった。
「なんや、撮るんやったら一緒に撮ろうや」
彼は尻を滑らせて一歩近づいてきた。近づいた距離に、私は無意識に体をずらしてしまう。彼のお香の匂いがほのかに感じた。
「ほら、携帯貸してみ」
言われるがままに、彼の手のひらに携帯を預けた。彼の掛け声に合わせてぎこちなく顔横でピースを作った。彼がどんなポーズを取ったのかは、レンズから目を離せなかった私には見えなかった。
「よし!ええんちゃうか」
「ありがとうございます」
彼から返された携帯を、躊躇うことなくスカートのポケットに入れた。
「ところで、さっきから気になっててんけどさ、なんでエプロン着てるんや?」
「ああ、おばさんの店で手伝いをやってて、今休憩中に抜き出して来たんです。だから、こんな格好なんですよね」
「バイトってことか。なんの店や?」
「パン屋です。えーっと、あの商店街をぬけた路地の角にある『ユーフォーリア』っていう店です」
丘から見える小さな商店街から地図をなぞるように指を動かした。指の止まった位置から引かれた糸を見るように、彼は指から丘へと目線を向けた。
「『ユーフォーリア』は幸福っていう意味があるんですよ。おばさんの作るパン、どれもすっごく美味しくて人気なんですよ。今度、よかったら食べに来てください。特に、メロンパンがおすすめです」
いつもお菓子に出てくるおばさんのパンの中で、あのメロンパンが格別に美味しい。それまでメロンパンを食べたことがなかった私にとって、あの味は最高なものだ。
「メロンパンか。俺の大好物や」
「そうなんですか?」
「うん。じゃあ、今度買いに行かせてもらおうかな」
「ぜひ!」
前のめりになって答えた私に、彼は「おぉ」と少し身をそらしたが、すぐさま優しく頷いて白い歯を見せた。
次の瞬間、右腰に振動を感じた。ポケットから携帯を取り出すと、おばさんから着信電話があった。
「どうしよう。そろそろ戻らないと」
ヤバイ。休憩時間から十分過ぎている。
「そっか。ほな、早く戻り」
彼の気遣いに、私は軽く頷く。
「…あの、また会えて嬉しかったです。ありがとうございました」
急いでベンチから立ち上がり、私は彼に潔くお別れをした。
「お手伝い、がんばって」
手を振る彼の優しい声。それに私は微笑み返した。踵を返し、私は坂を下がって階段の手摺りを掴んだ。
「ちょっと待って、美希ちゃん!」
咄嗟に名前を呼ばれ、階段を降りる足が空中で止まる。
「……まだ言ってなかったよな、俺の名前」
彼の大きな声が丘に響いた。
コンクリート階段の手前、私の両足は草原についていた。つま先の向きは階段に向いたまま、私は腰から後ろを振り返った。
落ちた桜の花びらが一斉に舞い上がり、彼の声が一線にして耳に届いた。静まった丘で、それがいっそう大きく聞こえた。
その名に、私は目を見開いた。マスクを外し、ニヤッと歯を見せて笑う彼の顔が目に映った。聞き覚えのある名前。見覚えのある顔。
「.....マジ?」
手に持っていた携帯の着信音が再び鳴る中で、私の呟きが重なった。
あの丘に行くことが私の日課となり、遠回りだった帰り道は私の新たな下校通路へと変わった。丘で一人、自然な音色と心を和ませながら歌を響かせる毎日を繰り返すようになったのだ。
だがあれ以来、彼の姿を見ていない。元をいうと、彼はあの日偶然、私の歌を聞きつけて丘にやってきただけのこと。もうここにはこないのかもしれないと薄々諦めかけていた。
人と接することに慣れない私に話しかけてくれた、見ず知らずの彼を良く見ていただけだったのかもしれない。いつしかそう考えるようになった。
春休みに入ると、毎日のように丘に行くことが出来なくなっていった。毎年この時期は勉強や家事の手伝いが通常以上に忙しくなり、自分の時間に余裕がなくなる。家事の手伝いにはおばさんが経営するパン屋での仕事ももちろん含まれる。アルバイトの子たちと同様、働いた分だけおばさんから時給を貰う。いわばこれが私のお小遣いだった。
中学三年生の頃から仕事を教わった。おばさんは好きなものは自分で買いなさいと主張する人だった。そのため、欲しいものがあれば、その言葉を鵜呑みして必死に働いている。最近ではスマホが欲しいがために働いている。
春休み中旬のお昼、私は休憩時間をもらって久しぶりに丘に行った。丘は相変わらず人気がなく静かだったが、芝生の上に桜の木が頑健よく立っていて花を咲かせていた。
見事な桜だな。
街の桜の咲きに比べて、この桜はすでに半分ほど咲いている。
私は散った桜の花びらを払って座り、一息ついて景色を思う存分一望した。
やっぱり、ここに座ると落ち着く。風に当たりながら心を鎮めていると、私は不意に母との思い出が浮かんできた。
小学一年生の時に癌で亡くなったお母さんとの思い出。それは実に短いものだった。癌の病名は乳がん。それがどれほど忌々しい病気なのか、その当時は分からなかった。
「お母さん、きっと元気になるよ」
お見舞いに付き添ってくれていたおばさんや周りの人々は口を揃えてそう言った。だから私は、その言葉をただ信じて、毎日の日課としてお母さんに会いに行った。
病室にいる母は、いつも笑顔だった。頭にはニット帽をかぶり、やや丸みのある顔、膨れた手足に変だなと感じる部分はあったけれど、お母さんの体の悪い虫は治るものなのだと平然と思っていた。だから私も、母にありったけの笑顔で甘えた。
私のわがままは毎回お母さんと歌を歌うということに決まっていた。お母さんがピアノを弾き、私はそれに歌を乗せる。それが私にとってお母さんと病室での楽しいひとときだったのだ。ピアノ演奏者だったお母さんは、私がリクエストした曲を軽々となんでも弾いてくれた。私が見舞いに来る時間には必ず机には携帯ピアノが置かれていた。
「今日は何歌いたい?」と聞くお母さんに遠慮なくリクエストして私はお母さんと演奏する時間を楽しんでいた。
『また元気になってコンサートしたいな』
ピアノを弾くたびに、口癖ようにお母さんは言っていた。
だが、結局その願いは忽然と叶わぬものとなった。
「大好きだよ」と呟きながら、私の手をそっと掴んだお母さん。お母さんから伝わる温かい手の感触を逃さぬようにと、私は掴まれた手をぎゅっと握り返した。ふっと唇が緩んだお母さんの頬には一筋の涙が流れ、静かに眠る大好きなお母さんをただ見つめた。
次の瞬間、糸が切れたかのようにお母さんの手から力が抜けるのを感じた。隣で動く心電図は一線になり、窓の隙間から聞こえるそよぎをかき消すような音に耳鳴りを感じた。
耳鳴りが治った時には、私の口の水分はほとんど残っていなかった。水上に揚げられた魚のように口をパクパクさせながら、私は目の前で眠っているお母さんに声をかけようとする。だが、伝える言葉が思い当たらず、私は再び嗚咽を漏らすだけだった。起きるはずのない冷たい体を必死に両手で揺らしながら、泣いたのを憶えている。
お母さんが死去してから、私はお母さんの姉である佐智子おばさんに引き取られた。その以前からおばさんの家で暮らしていたため、おばさんは私を快く歓迎してくれた。
おばさんの家に引っ越して半年が経った頃、おばさんは私に「お母さんから預かったものがある」と言って、リビングの引き出しから小さな箱を私に渡した。
それはお母さんが私に残したプレゼントだったのだ。
「姉さんが美希に残した最後のプレゼントよ。ほら」
おばさんは箱に書かれた『美希へ』という文字をなぞった。
箱を開けると、中にはピンクのウォークマンが入っていた。それは新品ではなく、使い遺した跡がいくつか見られた。側面を見ると『SAKI』とお母さんの名前が彫ってあった。
「これを最期に渡された時、『家族の証として、美希に持ってて欲しい』って言ってたわ。肩身ね、姉さんの」
それから、そのウォークマンは肌身離さぬものになった。新たな曲を挿入することもせず、私はもらった当時のままの状態でそれを今でも使っている。ライブラリにはJPOPやクラシックが入っていて、どれもお母さんが病室で弾いてくれた曲だった。
だが、一曲だけ、聞き覚えのない歌が挿入されていた。アコギと合わせて歌うバラード曲。初聴した時、透き通ったハイトーンボイスの声、細かなギターの音色がスッと耳に入ってきた。その奥からは密かに綺麗なピアノの音色も幾つか聞こえた。
その歌声を聞くたびに、私は目元に熱を感じてしまう。胸が苦しくなる。その理由はなんとなくわかっていた。この曲を聴いて目を閉じると、そこには暖かい情景が浮かぶ。私が自然と求めてしまうものに愛しく感じてしまう。
おばさんたちとの生活は幸せだ。でも、おばさんとの間にある『家族』というサークルにうまく溶け込むことは容易いことではない。私の些細なわがままを、おばさんは優しく応えてくれる。それに対して、お母さんならなんて返すのだろうかと考えてしまう。
おばさんは、そんな私の様子を見かねては「姉さんはね」とたくさん話をしてくれた。そのおかげで幾分か、お母さんとの哀しい別れは思い出となり、私の強みへと変わっていったのだ。
だが、おばさんはお父さんのことを一切教えようとしない。私はお父さんとの記憶が鮮明に残っていない。だから家族アルバムを見返してみるものの、お父さんが写った家族写真は一枚もないのだ。
以前、おばさんにお父さんの話を切り出したことがあった。
「私のお父さんってさ、今何してるのかな」
その問いに、おばさんは急かすよう「知らないわよ、あんな男」と主張するだけだった。
父がどんな人だったのか、私はよく知らない。道端ですれ違っても、私はお父さんと気づく自信がない。でも、お父さんに会いたい。その願いがあの曲を聞くたびに一層強くなっている。
ひらひらひらと舞い散る桜の花びらを手に取る。頰を流れた涙を手の甲で拭いながら、私は桜と共に夕日が沈む景色を写真に撮った。
夕日が沈む短い時間が一生続いてほしい。音楽と同じで、写真は一生の思い出を残してくれる。消えることなく、人が忘れた記憶を思い出させてくれる。
丘には相変わらずいろんな音を聴かせてくれる。その音一つひとつに大きな力があり、人それぞれの記憶を思い出すきっかけになるときがある。風の音や、風に揺らぐ桜の散る音、桜の枝にいる小鳥の囀り。
たくさんの音が重なり合う音。その中に、シャッター音が後方から聞こえた。
「...いい景色やな」
聞こえてきた声に、自分の鼓動が早くなるのを感じた。振り返ると、男性がカメラを構えていた。真っ黒のカメラのファインダーに目を細めて、何度も同じ音をならした。
「間に合ってよかった」
男性は顔からカメラが離し、首からカメラをぶら下げる。私と彼の目線が交差した。
「久しぶりやな。……美希ちゃん」そう言って彼は私に微笑んだ。
二人は白のベンチに腰掛け、撮った夕日の写真を見返した。夕陽に染まる街並みや、山頂に欠けていく儚い夕陽が写されている。
「すごい。これ、モデルみたい……」と写真を見ながら吐息を漏らす。風景を背景に私の後ろ姿が影を作っていて綺麗だった。
やっぱ、夕日って綺麗。
何枚か撮った情景写真を見ながらお互い浸ってしまう。彼の横顔をその都度見ながら、私は言葉を繰り返す。
「……綺麗」写真よりも、その写真を見る彼の姿に。シャープな鼻の形が際立って絵に描いたような姿から目が逸らせなかった。
しまった、と私は思わず口を手でおさえる。
「綺麗って、俺かいな」
「いや、あの。……すいません」
自分の言動が恥ずかしい。赤面で体が熱くなった。
「そんな顔真っ赤にして。めちゃ恥ずかしがるやん。
私の表情を可笑しく思ったのか、彼は腹に手を置いて、上下に大きく揺れた。
笑い声が丘の上で響き渡り、微風がそれに重なる。
「…腹、痛え」
屈託のない笑顔に、私は恥ずかしさなどなくなってしまった。
軽く涙を拭く彼を尻目に、私は勢いよく彼にカメラを向けた。
「そんな笑わないでください」
アルバムに移ると、そこにはしっかりと彼のクシャっとした笑みが写っていた。それを見て、私の口角が自然と上がった。
「なんや、撮るんやったら一緒に撮ろうや」
彼は尻を滑らせて一歩近づいてきた。近づいた距離に、私は無意識に体をずらしてしまう。彼のお香の匂いがほのかに感じた。
「ほら、携帯貸してみ」
言われるがままに、彼の手のひらに携帯を預けた。彼の掛け声に合わせてぎこちなく顔横でピースを作った。彼がどんなポーズを取ったのかは、レンズから目を離せなかった私には見えなかった。
「よし!ええんちゃうか」
「ありがとうございます」
彼から返された携帯を、躊躇うことなくスカートのポケットに入れた。
「ところで、さっきから気になっててんけどさ、なんでエプロン着てるんや?」
「ああ、おばさんの店で手伝いをやってて、今休憩中に抜き出して来たんです。だから、こんな格好なんですよね」
「バイトってことか。なんの店や?」
「パン屋です。えーっと、あの商店街をぬけた路地の角にある『ユーフォーリア』っていう店です」
丘から見える小さな商店街から地図をなぞるように指を動かした。指の止まった位置から引かれた糸を見るように、彼は指から丘へと目線を向けた。
「『ユーフォーリア』は幸福っていう意味があるんですよ。おばさんの作るパン、どれもすっごく美味しくて人気なんですよ。今度、よかったら食べに来てください。特に、メロンパンがおすすめです」
いつもお菓子に出てくるおばさんのパンの中で、あのメロンパンが格別に美味しい。それまでメロンパンを食べたことがなかった私にとって、あの味は最高なものだ。
「メロンパンか。俺の大好物や」
「そうなんですか?」
「うん。じゃあ、今度買いに行かせてもらおうかな」
「ぜひ!」
前のめりになって答えた私に、彼は「おぉ」と少し身をそらしたが、すぐさま優しく頷いて白い歯を見せた。
次の瞬間、右腰に振動を感じた。ポケットから携帯を取り出すと、おばさんから着信電話があった。
「どうしよう。そろそろ戻らないと」
ヤバイ。休憩時間から十分過ぎている。
「そっか。ほな、早く戻り」
彼の気遣いに、私は軽く頷く。
「…あの、また会えて嬉しかったです。ありがとうございました」
急いでベンチから立ち上がり、私は彼に潔くお別れをした。
「お手伝い、がんばって」
手を振る彼の優しい声。それに私は微笑み返した。踵を返し、私は坂を下がって階段の手摺りを掴んだ。
「ちょっと待って、美希ちゃん!」
咄嗟に名前を呼ばれ、階段を降りる足が空中で止まる。
「……まだ言ってなかったよな、俺の名前」
彼の大きな声が丘に響いた。
コンクリート階段の手前、私の両足は草原についていた。つま先の向きは階段に向いたまま、私は腰から後ろを振り返った。
落ちた桜の花びらが一斉に舞い上がり、彼の声が一線にして耳に届いた。静まった丘で、それがいっそう大きく聞こえた。
その名に、私は目を見開いた。マスクを外し、ニヤッと歯を見せて笑う彼の顔が目に映った。聞き覚えのある名前。見覚えのある顔。
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