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メロンパン
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その夜、私は夢を見た。
今よりも低い視点からぼんやりと情景が浮かんでくる。そこには寝室で寝ている綺麗な女性と、小学生の女の子が椅子に座っていた。二人は微笑み、楽しそうだった。
二人は親子だ。ぼんやりとしか目に映っていないけれど、はっきりと判る。
なぜなら、一度見たことがある光景だからだ。椅子に座り、地面に届かない足を宙にぶらぶらさせている女の子。そして、手や頬がやや骨ばり、寝間着から露出された蒼白な肌をしているものの、「きれい」だと感じさせる美貌を保つ女性。
私とお母さんだった。
おそらくこれも夢だろうが、この数年間、お母さんの顔をこんなにリアルに見たことはなかった。久しぶりに感じるお母さんの温もりに、私は目頭が微かに熱くなる。
自分のお母さんは癌で亡くなったのだという事実がショックだったからか、それ以前の記憶は鮮明ではなく、夢のように、うっすらと漂っていた。だが、この夢の中ではお母さんの顔、声がはっきりと蘇ってきた。
「この曲はね、お父さんがママのために書いてくれたラブレターなんだよ」お母さんはあの古びたウォークマンを流した。毛布の上に置いた携帯型電子ピアノを軽く弾きながら。
「パパの声だぁ」
「そうよ。この曲はね、パパが作った曲だからね」
「パパ、どこ行っちゃったのかな?」
私の質問に対して、女性は笑顔を向けるだけでしばらく声を発しなかった。
「……今は、色々あって遠いところにいるだけ。また戻ってくるよ」
ベッドの上から見える綺麗青空を眺めながら微笑を浮かべた。その様子を私はただ黙って見つめていた。
「美希」お母さんが私の名を呼び、優しく髪をクシでとき始めた。
「美希、よく聞いて。これから美希はたくさんの経験をするわ。その中で、険しい道を通ったり、大きな壁にぶつかったり、立ち止まりそうになることが必ずあるはず。そんな時は、まず自分の気持ちに素直になることよ。自分の意思を決して止めてはダメ。貫くことが大事よ。勇気を持てば、美希は最高の人間になれるわよ」優しみのある温かいお母さんの声だった。
その声を最後に、徐々に情景は薄くなり、照明が消えていくかのように夢の世界は暗くなった。
重たい瞼を開け、西から差し込む金色の太陽の日差しが体内を覚ました。久々に変な夢だったなと、朝一のあくびをしながら思う。
かすかな夢での出来事を思い返して分かったことがある。それは、あれに入っている曲が、聴いていたあの歌声が、お父さんだったということだ。
こんな夢、今まで見たことがなかった。久々の母の温もりが今でも感じられる。夢で見たお母さんの姿を思い出し、頬が少し緩む。
ベッドから腰を浮かし起き上がり、大きく背伸びをする。乱れたベッドシートの直し、横窓を開けてみると外はすっかりと賑わっていた。商店街から朝の音楽が流れていた。
部屋着に着替えて軽く髪を束ねると、また「はあ~」と口を大きく開けた。ゆっくりと階段を降りてリビングに向かった。
リビングからはフライパンで焼いている音や野菜を切る音が聞こえてきて、匠海とおばさんが朝食の準備をしていた。
「おはようで~す」
机に座ると、隣で匠海はオレンジジュースを飲み干しておはよう代わりに小さなげっぷを出した。
「あ、美希ねぇおはよう」
匠海のやつ、いつも勢いよく飲むくせはいつまで経っても治らない。おまけにげっぷまで。
「美希、昨日はよく寝てたわね」
おばさんはスリッパの音を立てながら、目玉焼きとベーコンがのったお皿を私の目の前に運んできた。
「今日も朝から忙しくなるよ。さっさと食べて下準備しなきゃ」
「今日、僕、翔と遊ぶんだ。美希ねぇも一緒に遊ぼうよ」
「元気だなぁ、匠海は。私ね、お母さんの仕事の手伝いをするから、遊べないの。ごめんね。翔君といっぱい遊んできな」
朝にもかかわらず元気だなと、匠海を見るとつくづく思う。JKの肩書を持つだけで私の体力はおばさん並みであるため、常に早起きで朝から商店街の友達と遊ぶ匠海がすでに羨ましい。
「もう、遊びにいくの?」
「うん、翔の家行く」
「今日は朝から西村さんところで預かってもらうことにしたの。春休み期間で朝から忙しいからね」
パン屋の前にある花屋は、匠海と同じ幼稚園に通う西村翔君のご両親が経営している。幼稚園で仲良くなりママ友となった関係で、店の営業中はよく廉君と匠海は遊んでいることが多い。
「それじゃあ、安心だね」と言って、私はトーストにバターを塗る。
「ねぇー、早く翔の家行きたいー」
「はいはい。もうちょい待ってね。準備するから」
私的にはゆっくり静かに朝ごはんを食べたいのだが、あれこれ遊びの準備でリビング中を走る匠海が視界に入って騒がしい。バターがトーストの上を滑る前に、私はバターナイフでトーストをなぞる。
「ごちそうさま」
テレビのリモコンに手を伸ばすことなく、食後の挨拶を済ませるとそそくさと朝食を食べ終えた。冷蔵庫に残っていたチーズケーキに手を伸ばし、コーヒ牛乳を片手に持って自分の部屋に向かった。戻ってみると、部屋は身震いをするほど寒くなっていた。
ベッドの横窓を閉め、椅子にかけたカーディガンを羽織って机の電気をつける。椅子に座って目の前に積んでいる分厚い問題集をみると、一気に夏休みの闇が迫ってきていることを悟る。春休み課題のことをすっかり忘れていた、というよりは分かっていたけどやる気が起きずに放置していたということだ。あと半月足らずでこれを終わらせなければいけないのか。後から後悔すると自覚しているのに実行しないこの性格を、どうにか治したいものだ。
そう思いながら、私はやる気を無理やり催した。開店ギリギリまで勉強を続けようと意思を固めると、意外にも勉強は捗る。何気に自分には集中力が長けているのではないか、と自画自賛したくなるほどだった。
左利きである不便の一つとしてよくあることだが、しばらくして左手はノートと擦って黒くなっていた。でも、これが努力の証だと考えれば悪くはない。気づけば開店の一時間前になっている。下から時間が刻まれているごとにパン焼きの香ばしい匂いがしてくる。くんくんっと鼻を鳴らしながら、椅子の背板に背中を傾ける。
また肩が凝った気がする。肩に大きな荷物がくっついているようだ。
「美希、降りてきて!」
おばさんの慌てた声が突然と下から聞こえてきた。
開店の準備の時間だ。私は重い足取りで椅子から立ち、階段を降りて声の方に向かった。
「ごめん、お待たせ。このパン並べていったらいい?」
厨房に置かれた各種のパンをざっと目を通す。いつもと変わらず焼きたてのパンの匂い、色は最高だ。
「おばさん?」
反応がないおばさんに目が移る。私の声は耳に入っていなかったようで、私のほうに見向きもしていない。おばさんの視線は店の入り口にのびていた。厨房入口前で硬直気味のおばさんの肩を軽く叩く。
「おばさん、どうした.....の」
おばさんの視線の先にいた人物に、言葉が途切れた。
「おはよう、-美希ちゃん」
マスク越しで聞こえてきた声。サングラスの奥からは、あの少年のような目。黒キャップを深く被っていた。あの肩書きが似合うオーラを感じさせる。
「……弘本雄人」
目の前に立つ彼の姿に彼の名前がこぼれた。
微小に開いた口からこぼれたその言葉に、おばさんの体は催眠が解け、勢いよく反らされた。
「ひ、弘本雄人!?」
おばさんの高声が店に響き渡った。
「まだ、開店準備中でしたか。急にお邪魔してすいません」
彼はマスクをゆっくりと外し、あの意地悪っけのある顔を見せた。
「嘘でしょ?な、なんでここに!」
「ここのメロンパンをね、ぜひいただきたいと思いまして」
「メ、メロンパン?」
状況が飲み込めていないのか、おばさんの口調が上ずる。
それは無理もない。目の前に彼が突然現れたら、誰もが同じ反応をするに違いない。
「雄人がどうしてもこの店に寄って行きたいと一点張りなもので。突然お邪魔してしまい申し訳ありません」
ふいに彼の隣の女の人が彼の言葉に付け足した。
「いやぁ~。はぁ、そうですか。それはそれは、ドウモ」
状況を把握せぬまま会話が続く状況に、おばさんは無感情の感謝の言葉を発した。だが、肩を縮ませて恐縮している恐縮している割に、おばさんの目は常に彼の方に向いて瞬いていた。
おばさんの目、乙女になっている。初めて見たおばさんの一面に込み上がる笑いを抑えた。
そういや、おばさん世代が弘本雄人の人気絶頂期だったんだっけ。もしかしておばさん、彼のファンだったりして。 あの様子を見る限り、そんな気がしてならない。
…ところで、彼の隣にいるあの女性は誰だろうか。
密かにおばさんから彼の隣に立つ女性に目を移した。
彼の付き人か。それともプライベートでの関係性か。ミニスカートが似合う華奢な足で、彫り深い顔面で目が輝いている。色白の肌に薄オレンジのチークが際立って綺麗だった。髪を揺らすたびにラベンダーの香水の匂うようなエレガントな女性。女でも見惚れてしまう。
「今、出来上がったところですか?さっきからパンのええ匂いがしてきてお腹が鳴りそうやわ」
「はい、そうなんですよ。ちょうどさっき、出来上がったところなんですよ。ぜひ出来立て食べてください。用意いたしますので」
おばさんは厨房に入るなり、出来立てのメロンパンを取り出して皿の上に置いた。
いつもにも増して迅速に動くおばさんの姿に、私は目を見開く。
当店自慢のチョコメロンパンとオリジナルメロンパン、そしてブレンドコーヒーを窓際のカウンターに並ぶ。彼はすぐにメロンパンの前に座り、彼の目がそれにかぶりつけていた。
「お待たせしました。どうぞ、召し上がってください」
「ありがとうございます!こりゃめちゃええ匂い。ではいただきますぅ!」
口を大きく開けて、彼はほっぺたが膨らむくらいにメロンパンを齧る。
一口目にメロンパンを口いっぱいに頬張り、彼の目が徐々に開いていった。
口の中にあったメロンパンを飲み込み、彼は目を輝かせながら手に持った歯型のついたメロンパンを見る。
「うまい!」
おばさんと私の方に目線を交互に向け、彼は白い歯を見せる。
「想像以上にうまいでこれ。美希ちゃんが言ってた通りや。今まで食べた中で、ここのメロンパンが一番かもしれん」
彼の口から出る自然な褒め言葉に、私の顔は嬉しさを隠しきれなかった。
「うまいうまい」と連呼しながらパンを頬張る彼の姿に、私の心が波打つ。
三分も経たずにそれらを平らげた。
「満足してもらえたようで、光栄ですぅ。このメロンパン、この店の一番人気のパンなんですよ。雄人さんに食べてもらえて本当によかったです」
一息つき、ブレンドコーヒーを啜る姿を、おばさんは隣の席で眺めながら言った。
十分も経たぬうちに、皿のメロンパンを食べた彼を見て、おばさんこそ満足そうだ。
「美希ちゃんからすっげーうまいって聞いてたんで、ずっと食べたいな思ってたんですよ。予想以上のお味で驚きました」
「やだもう~。美希ったら、いつ、どこでそんなこと言ってたんですか?」
おばさんったら、彼が来てから口角が上がりっぱなし。見ていてこっちが恥ずかしくなる。テーブル席にいる私の存在すら気づいていない様子だ。
「美希さん、よね」
不意に肩を叩かれ、私は正面を向く。あの綺麗な女の人が私の対面に座って目を向けていた。
「あ、はい」私はとりあえず生返事を返す。
「雄人から聞いていたのよ。綺麗な歌声をした女の子に会ったって。どんな子か気になっていたから、会えて嬉しいわ」
艶のある髪の毛を耳にかける彼女の姿に、私は「はあ、どうも」と応えるだけだった。
「あの、あなたは・・・」
頭に浮かび続けていた疑問を、私はおずおずと尋ねた。
「あら、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね。熊澤麻衣よ。彼の専属マネージャです。よろしくね」
麻衣さんは首を傾けて、ニコッと笑みを見せた。その笑顔に、緊張していた私の表情が少し和らぐ。
マネージャーなのか。謎の安堵感に、私は失笑を浮かべてしまう。何を変なことを。
「それにしても、突然お邪魔してごめんね。びっくりしたでしょ。ここのメロンパンを食べたいって聞かないものだから、仕事に向かう途中に急遽行くことにしたの」
「なるほど。雄人さんがそう言ったんですね」
本当に買いに来てくれた。そのことが嘘のようで嬉しい。口角が上がるのを我慢せずにはいられなかった。
「本当に来てくれると思ってなかったので、びっくりしました」
「今度行くって約束したやろ?俺、約束はちゃんと実行する男やから」
私たちの会話に彼が口を挟んだ。カウンター席をくるっとこちらに向けて、顔横で親指を立てて見せる。
「ちょっと美希。雄人さんとはいつ知り合ったのよ。そういうことなら、もっと早く教えなさいよ」
「言ったところでどうせ信じなかったでしょ」唇を突き出しながら言葉を投げるおばさんに小さな声で返す。
「これ、ごちそうさまでした。ほんまありがとうございました」
カウンター席から立ち上がり、彼はおばさんに一礼をした。
「こちらこそ、こんな閑静な店に来ていただいただけで、もう光栄です。ありがとうございます。ぜひまた買いに来てください。雄人さんであれば、いつでも、何個でも、焼きたてパンを作りますので」
腰を低くして、おばさんは何度も彼にお辞儀を返した。
二人が立ち上がると、私と麻衣さんも自然とテーブル席を立つ。
「ではそろそろ-」
「美希ちゃんってさ、まだ春休み?」
麻衣さんが別れの挨拶をしようとしたと彼が言葉を被せた。
突然の質問に、私は「はい」と反射的に応える。
「ほなさ、残りの休み、付き合ってみーひんか?」
笑顔を向ける彼から出た発言に、私はまたもや思考が停止した。
頭に浮かぶハテナをかき消すように彼は続けていった。
「今から、一緒に大阪行こう」
今よりも低い視点からぼんやりと情景が浮かんでくる。そこには寝室で寝ている綺麗な女性と、小学生の女の子が椅子に座っていた。二人は微笑み、楽しそうだった。
二人は親子だ。ぼんやりとしか目に映っていないけれど、はっきりと判る。
なぜなら、一度見たことがある光景だからだ。椅子に座り、地面に届かない足を宙にぶらぶらさせている女の子。そして、手や頬がやや骨ばり、寝間着から露出された蒼白な肌をしているものの、「きれい」だと感じさせる美貌を保つ女性。
私とお母さんだった。
おそらくこれも夢だろうが、この数年間、お母さんの顔をこんなにリアルに見たことはなかった。久しぶりに感じるお母さんの温もりに、私は目頭が微かに熱くなる。
自分のお母さんは癌で亡くなったのだという事実がショックだったからか、それ以前の記憶は鮮明ではなく、夢のように、うっすらと漂っていた。だが、この夢の中ではお母さんの顔、声がはっきりと蘇ってきた。
「この曲はね、お父さんがママのために書いてくれたラブレターなんだよ」お母さんはあの古びたウォークマンを流した。毛布の上に置いた携帯型電子ピアノを軽く弾きながら。
「パパの声だぁ」
「そうよ。この曲はね、パパが作った曲だからね」
「パパ、どこ行っちゃったのかな?」
私の質問に対して、女性は笑顔を向けるだけでしばらく声を発しなかった。
「……今は、色々あって遠いところにいるだけ。また戻ってくるよ」
ベッドの上から見える綺麗青空を眺めながら微笑を浮かべた。その様子を私はただ黙って見つめていた。
「美希」お母さんが私の名を呼び、優しく髪をクシでとき始めた。
「美希、よく聞いて。これから美希はたくさんの経験をするわ。その中で、険しい道を通ったり、大きな壁にぶつかったり、立ち止まりそうになることが必ずあるはず。そんな時は、まず自分の気持ちに素直になることよ。自分の意思を決して止めてはダメ。貫くことが大事よ。勇気を持てば、美希は最高の人間になれるわよ」優しみのある温かいお母さんの声だった。
その声を最後に、徐々に情景は薄くなり、照明が消えていくかのように夢の世界は暗くなった。
重たい瞼を開け、西から差し込む金色の太陽の日差しが体内を覚ました。久々に変な夢だったなと、朝一のあくびをしながら思う。
かすかな夢での出来事を思い返して分かったことがある。それは、あれに入っている曲が、聴いていたあの歌声が、お父さんだったということだ。
こんな夢、今まで見たことがなかった。久々の母の温もりが今でも感じられる。夢で見たお母さんの姿を思い出し、頬が少し緩む。
ベッドから腰を浮かし起き上がり、大きく背伸びをする。乱れたベッドシートの直し、横窓を開けてみると外はすっかりと賑わっていた。商店街から朝の音楽が流れていた。
部屋着に着替えて軽く髪を束ねると、また「はあ~」と口を大きく開けた。ゆっくりと階段を降りてリビングに向かった。
リビングからはフライパンで焼いている音や野菜を切る音が聞こえてきて、匠海とおばさんが朝食の準備をしていた。
「おはようで~す」
机に座ると、隣で匠海はオレンジジュースを飲み干しておはよう代わりに小さなげっぷを出した。
「あ、美希ねぇおはよう」
匠海のやつ、いつも勢いよく飲むくせはいつまで経っても治らない。おまけにげっぷまで。
「美希、昨日はよく寝てたわね」
おばさんはスリッパの音を立てながら、目玉焼きとベーコンがのったお皿を私の目の前に運んできた。
「今日も朝から忙しくなるよ。さっさと食べて下準備しなきゃ」
「今日、僕、翔と遊ぶんだ。美希ねぇも一緒に遊ぼうよ」
「元気だなぁ、匠海は。私ね、お母さんの仕事の手伝いをするから、遊べないの。ごめんね。翔君といっぱい遊んできな」
朝にもかかわらず元気だなと、匠海を見るとつくづく思う。JKの肩書を持つだけで私の体力はおばさん並みであるため、常に早起きで朝から商店街の友達と遊ぶ匠海がすでに羨ましい。
「もう、遊びにいくの?」
「うん、翔の家行く」
「今日は朝から西村さんところで預かってもらうことにしたの。春休み期間で朝から忙しいからね」
パン屋の前にある花屋は、匠海と同じ幼稚園に通う西村翔君のご両親が経営している。幼稚園で仲良くなりママ友となった関係で、店の営業中はよく廉君と匠海は遊んでいることが多い。
「それじゃあ、安心だね」と言って、私はトーストにバターを塗る。
「ねぇー、早く翔の家行きたいー」
「はいはい。もうちょい待ってね。準備するから」
私的にはゆっくり静かに朝ごはんを食べたいのだが、あれこれ遊びの準備でリビング中を走る匠海が視界に入って騒がしい。バターがトーストの上を滑る前に、私はバターナイフでトーストをなぞる。
「ごちそうさま」
テレビのリモコンに手を伸ばすことなく、食後の挨拶を済ませるとそそくさと朝食を食べ終えた。冷蔵庫に残っていたチーズケーキに手を伸ばし、コーヒ牛乳を片手に持って自分の部屋に向かった。戻ってみると、部屋は身震いをするほど寒くなっていた。
ベッドの横窓を閉め、椅子にかけたカーディガンを羽織って机の電気をつける。椅子に座って目の前に積んでいる分厚い問題集をみると、一気に夏休みの闇が迫ってきていることを悟る。春休み課題のことをすっかり忘れていた、というよりは分かっていたけどやる気が起きずに放置していたということだ。あと半月足らずでこれを終わらせなければいけないのか。後から後悔すると自覚しているのに実行しないこの性格を、どうにか治したいものだ。
そう思いながら、私はやる気を無理やり催した。開店ギリギリまで勉強を続けようと意思を固めると、意外にも勉強は捗る。何気に自分には集中力が長けているのではないか、と自画自賛したくなるほどだった。
左利きである不便の一つとしてよくあることだが、しばらくして左手はノートと擦って黒くなっていた。でも、これが努力の証だと考えれば悪くはない。気づけば開店の一時間前になっている。下から時間が刻まれているごとにパン焼きの香ばしい匂いがしてくる。くんくんっと鼻を鳴らしながら、椅子の背板に背中を傾ける。
また肩が凝った気がする。肩に大きな荷物がくっついているようだ。
「美希、降りてきて!」
おばさんの慌てた声が突然と下から聞こえてきた。
開店の準備の時間だ。私は重い足取りで椅子から立ち、階段を降りて声の方に向かった。
「ごめん、お待たせ。このパン並べていったらいい?」
厨房に置かれた各種のパンをざっと目を通す。いつもと変わらず焼きたてのパンの匂い、色は最高だ。
「おばさん?」
反応がないおばさんに目が移る。私の声は耳に入っていなかったようで、私のほうに見向きもしていない。おばさんの視線は店の入り口にのびていた。厨房入口前で硬直気味のおばさんの肩を軽く叩く。
「おばさん、どうした.....の」
おばさんの視線の先にいた人物に、言葉が途切れた。
「おはよう、-美希ちゃん」
マスク越しで聞こえてきた声。サングラスの奥からは、あの少年のような目。黒キャップを深く被っていた。あの肩書きが似合うオーラを感じさせる。
「……弘本雄人」
目の前に立つ彼の姿に彼の名前がこぼれた。
微小に開いた口からこぼれたその言葉に、おばさんの体は催眠が解け、勢いよく反らされた。
「ひ、弘本雄人!?」
おばさんの高声が店に響き渡った。
「まだ、開店準備中でしたか。急にお邪魔してすいません」
彼はマスクをゆっくりと外し、あの意地悪っけのある顔を見せた。
「嘘でしょ?な、なんでここに!」
「ここのメロンパンをね、ぜひいただきたいと思いまして」
「メ、メロンパン?」
状況が飲み込めていないのか、おばさんの口調が上ずる。
それは無理もない。目の前に彼が突然現れたら、誰もが同じ反応をするに違いない。
「雄人がどうしてもこの店に寄って行きたいと一点張りなもので。突然お邪魔してしまい申し訳ありません」
ふいに彼の隣の女の人が彼の言葉に付け足した。
「いやぁ~。はぁ、そうですか。それはそれは、ドウモ」
状況を把握せぬまま会話が続く状況に、おばさんは無感情の感謝の言葉を発した。だが、肩を縮ませて恐縮している恐縮している割に、おばさんの目は常に彼の方に向いて瞬いていた。
おばさんの目、乙女になっている。初めて見たおばさんの一面に込み上がる笑いを抑えた。
そういや、おばさん世代が弘本雄人の人気絶頂期だったんだっけ。もしかしておばさん、彼のファンだったりして。 あの様子を見る限り、そんな気がしてならない。
…ところで、彼の隣にいるあの女性は誰だろうか。
密かにおばさんから彼の隣に立つ女性に目を移した。
彼の付き人か。それともプライベートでの関係性か。ミニスカートが似合う華奢な足で、彫り深い顔面で目が輝いている。色白の肌に薄オレンジのチークが際立って綺麗だった。髪を揺らすたびにラベンダーの香水の匂うようなエレガントな女性。女でも見惚れてしまう。
「今、出来上がったところですか?さっきからパンのええ匂いがしてきてお腹が鳴りそうやわ」
「はい、そうなんですよ。ちょうどさっき、出来上がったところなんですよ。ぜひ出来立て食べてください。用意いたしますので」
おばさんは厨房に入るなり、出来立てのメロンパンを取り出して皿の上に置いた。
いつもにも増して迅速に動くおばさんの姿に、私は目を見開く。
当店自慢のチョコメロンパンとオリジナルメロンパン、そしてブレンドコーヒーを窓際のカウンターに並ぶ。彼はすぐにメロンパンの前に座り、彼の目がそれにかぶりつけていた。
「お待たせしました。どうぞ、召し上がってください」
「ありがとうございます!こりゃめちゃええ匂い。ではいただきますぅ!」
口を大きく開けて、彼はほっぺたが膨らむくらいにメロンパンを齧る。
一口目にメロンパンを口いっぱいに頬張り、彼の目が徐々に開いていった。
口の中にあったメロンパンを飲み込み、彼は目を輝かせながら手に持った歯型のついたメロンパンを見る。
「うまい!」
おばさんと私の方に目線を交互に向け、彼は白い歯を見せる。
「想像以上にうまいでこれ。美希ちゃんが言ってた通りや。今まで食べた中で、ここのメロンパンが一番かもしれん」
彼の口から出る自然な褒め言葉に、私の顔は嬉しさを隠しきれなかった。
「うまいうまい」と連呼しながらパンを頬張る彼の姿に、私の心が波打つ。
三分も経たずにそれらを平らげた。
「満足してもらえたようで、光栄ですぅ。このメロンパン、この店の一番人気のパンなんですよ。雄人さんに食べてもらえて本当によかったです」
一息つき、ブレンドコーヒーを啜る姿を、おばさんは隣の席で眺めながら言った。
十分も経たぬうちに、皿のメロンパンを食べた彼を見て、おばさんこそ満足そうだ。
「美希ちゃんからすっげーうまいって聞いてたんで、ずっと食べたいな思ってたんですよ。予想以上のお味で驚きました」
「やだもう~。美希ったら、いつ、どこでそんなこと言ってたんですか?」
おばさんったら、彼が来てから口角が上がりっぱなし。見ていてこっちが恥ずかしくなる。テーブル席にいる私の存在すら気づいていない様子だ。
「美希さん、よね」
不意に肩を叩かれ、私は正面を向く。あの綺麗な女の人が私の対面に座って目を向けていた。
「あ、はい」私はとりあえず生返事を返す。
「雄人から聞いていたのよ。綺麗な歌声をした女の子に会ったって。どんな子か気になっていたから、会えて嬉しいわ」
艶のある髪の毛を耳にかける彼女の姿に、私は「はあ、どうも」と応えるだけだった。
「あの、あなたは・・・」
頭に浮かび続けていた疑問を、私はおずおずと尋ねた。
「あら、ごめんなさい。自己紹介がまだだったわね。熊澤麻衣よ。彼の専属マネージャです。よろしくね」
麻衣さんは首を傾けて、ニコッと笑みを見せた。その笑顔に、緊張していた私の表情が少し和らぐ。
マネージャーなのか。謎の安堵感に、私は失笑を浮かべてしまう。何を変なことを。
「それにしても、突然お邪魔してごめんね。びっくりしたでしょ。ここのメロンパンを食べたいって聞かないものだから、仕事に向かう途中に急遽行くことにしたの」
「なるほど。雄人さんがそう言ったんですね」
本当に買いに来てくれた。そのことが嘘のようで嬉しい。口角が上がるのを我慢せずにはいられなかった。
「本当に来てくれると思ってなかったので、びっくりしました」
「今度行くって約束したやろ?俺、約束はちゃんと実行する男やから」
私たちの会話に彼が口を挟んだ。カウンター席をくるっとこちらに向けて、顔横で親指を立てて見せる。
「ちょっと美希。雄人さんとはいつ知り合ったのよ。そういうことなら、もっと早く教えなさいよ」
「言ったところでどうせ信じなかったでしょ」唇を突き出しながら言葉を投げるおばさんに小さな声で返す。
「これ、ごちそうさまでした。ほんまありがとうございました」
カウンター席から立ち上がり、彼はおばさんに一礼をした。
「こちらこそ、こんな閑静な店に来ていただいただけで、もう光栄です。ありがとうございます。ぜひまた買いに来てください。雄人さんであれば、いつでも、何個でも、焼きたてパンを作りますので」
腰を低くして、おばさんは何度も彼にお辞儀を返した。
二人が立ち上がると、私と麻衣さんも自然とテーブル席を立つ。
「ではそろそろ-」
「美希ちゃんってさ、まだ春休み?」
麻衣さんが別れの挨拶をしようとしたと彼が言葉を被せた。
突然の質問に、私は「はい」と反射的に応える。
「ほなさ、残りの休み、付き合ってみーひんか?」
笑顔を向ける彼から出た発言に、私はまたもや思考が停止した。
頭に浮かぶハテナをかき消すように彼は続けていった。
「今から、一緒に大阪行こう」
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