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time.13

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エンジン音。排気ガスの匂い。
黒い車体に浮かぶロゴ。
千晃くんの甘い眼差し。

分かってたのに。
どんなにツラいか分かってたのに。

簡単に落とされて。また好きになって。

眼球に力を入れて歯を食いしばった時。
ふわりとスーツの片腕が私の頭を抱えた。

「よそ見してる場合か、バカが」

いい匂いのするスーツにさえぎられて、前が見えなくなった。
高野チーフの低音ボイスが、切り刻まれた心を絆創膏のように覆う。

込み上げた涙がモノクロスーツの陰に隠れた。

高野チーフはそのまま速足でエントランスを横切ると、
誰もいないエレベータに乗り込んだ。

「…そ~し~て、」

エレベータの扉が閉まりかけたところで、チーフの低い声が唐突に響く。

「げつようび~、げつようび~、りんごをひ~とつたべました~」

「…なんスか、それ」

あまりの驚きに、一瞬にして涙が止まった。

「知らないのか、お前。かの有名な『はらぺこあおむし』を」

高野チーフが珍妙なものを見る目を私に向ける。

「あ、いえ。知ってますけど…」
「ちょっこれいとけ~きとあいすくり~むとピクルスとチーズとサラミと、…」

なんか。

渋い低音と選曲がどうにもこうにもミスマッチだし。
会社の夜間エレベータの中、微妙な音程で歌うチーフも予想を超えてるし。

唖然としているうちに、エレベータが3階に着いた。

「俺の姪っ子はこれで泣き止む」

私の頭を抱えたまま、チーフの大きな手のひらが頭の上でポンポン弾む。

「…何歳ですか」

そうっと視線を上げてチーフを仰ぎ見ると、

「2歳だ」

どや顔で見下ろされた。

はらぺこあおむしは、食べ過ぎてお腹が痛くなって泣いちゃうけど、
おいしい緑の葉っぱで元気になって、さなぎになって蝶になる。

泣いて泣いて泣いて。
いつかは私も蝶になれるだろうか。

「2歳児と一緒にしないでください」

気恥ずかしくて素直にお礼が言えず、チーフから目を逸らしてうそぶくと、

「上等だ。早く報告書持ってこい」

ペシっと頭をはたかれた。

モノクロスーツの広い背中。力強くて優しい腕。
温かくて落ち着く匂い。偉そうに時々上がる口角。

今朝見た夢を思い出す。

『…バーカ』

極悪パンダなのに。
蹴るんじゃなくて。

無性に抱きしめたくなった。
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