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第三章:騎士学校・高等部
第53話 導き石
しおりを挟む翌朝、谷に朝日が差しこむ頃、僕たちはミスティ族の集落を離れた。空気は澄んでいたけど、山間にはまだ濃い霧が溜まり、谷底には陽が届かず、暗い影を湛えていた。
ナルが先頭を歩く。足取りは静かで迷いがなく、けれど音を立てず、まるで山そのものが彼女を受け入れているようだった。
身に纏う毛皮は山に生息する獣のものだろう。風に揺れるその白と灰の斑模様は、霧に溶け込み、輪郭を曖昧にする。
彼女の額には第三の眼を示す印が描かれていて、その下にある本来の眼と同じほどに強い存在感を放っていた。
その印は、神々の加護を受ける者――彼女が特別な巫女である証だった。
彼女の背後を進む僕らにとって、その印と静けさは奇妙な安堵を与えていた。
谷底は静けさに支配されていた。風が吹かず、腐敗臭が立ち込めていた。そこは幽鬼の領域だ。けれど、彼らの姿は見えなかった。気配すらない。不気味なほど静かだった。
それは、ナルの存在のせいだと、誰もが理解していた。彼女の気配には、あきらかに常人とは異なる〝何か〟が宿っているように感じられた。
神々に触れた者だけが持つ、どこか常人ならざる気配と、皮膚の下に流れる異質な力の痕跡――それが、幽鬼を遠ざけているのだろう。
彼女の示す道は、岩壁の裏に走る細い獣道だった。雨水で削られた石肌と、苔の滑りやすい足場が続き、片側は崖。滑れば谷底へ真っ逆さまだ。
それでも、訓練を受けた兵士たちは無言で後に続いた。誰もが、言葉よりも周囲の異常な静寂に集中していた。
その道の途中、リーランド少尉が腰の革袋から小さな黒い石を取り出すのが見えた。
人の目にはただの煤けた石ころにしか見えないけど、わずかに脈打つような微弱な魔力が感じ取れた。
「これは軍で使用される特殊な鉱石――〈導き石〉だ」
少尉は囁くように言いながら、道脇の石にそれをそっと置いた。
「帝都で特別な訓練を受けた魔術師でなければ気づけない、特殊な魔力にだけ反応するようになっている。これは軍が移動する際の目印になる」
少尉は手短に説明を終え、十歩ほど進んでは同じものを取り出して配置していく。すべてが同じ間隔で置かれていた。
〈導き石〉は、谷に流れる死の気配の中でも、微かに光るような気配を放っていた。まるで静かな合図のように、魔術師だけに届く目印だった。
僕がその気配に気づけるのは、騎士学校で魔力を見る方法を学んでいたからなのだろう。
しばらくすると、急に風が止んだ。
ナルが足を止め、谷底の方向に耳を傾ける。僕たちもまた、呼吸を殺す。そこには、目に見えない圧があった。
まるで巨大な存在が、霧の下で息を潜めているような気配。周囲の気温がわずかに下がり、草の葉先に結露が浮かび始める。
ナルは一歩も動かず、数秒の間を置いてから振り返った。
「行きましょう。風が止むのは、幽鬼たちが〝目覚め〟かけているから」
僕たちはうなずきで答えて、それから慎重に歩を進める。幽鬼たちはまだ姿を見せていない。けれど、確かにそこにいるのが気配で分かった。
目に見えない敵に包囲されながら、僕らはただ、前を進むナルの背中を信じて進み続けた。
僕らはこの死の谷を、静かに、生きて通り抜けねばならなかった。
霧の密度が薄れ、苔むした岩の隙間から乾いた草が見られるようになる頃、ナルが立ち止まった。
片手を軽く挙げるだけで、後続の兵士たちは音も立てずに動きを止め、身をかがめる。小隊全員が、視線を前方の斜面に集中させていた。
眼下に視線を向けると、無数の天幕が点々と張られ、そのあいだからは淡い煙がまっすぐ空へと昇っている。調理か、鍛冶か。焚かれる煙は細く、けれどいくつも立っていた。
視線をさらに下げると、動く影が見えた。
鉄と革に身を包んだ兵士たち。武装は軽く、騎兵ではないようだが、十人単位の部隊が散発的に歩哨についている。
槍を持つ者、弓を手入れする者、地図のようなものを広げている士官の姿も確認できた。
「……本隊の中核にしては、意外と脆いな」
リーランド少尉が小声でつぶやく。
彼の視線は、天幕の配置や火の位置、兵士の移動経路、そして物資の積み上げられた場所を丹念に追っている。
「背後は……がら空き、ですね」
僕もまた、尾根の裂け目から覗き込むようにして全体を観察した。
〈商業連邦〉の陣地は、正面に見える帝国の砦を強く意識して構築されていた。背後の山間に防壁らしきものはなく、警備も手薄だった。
今僕らが潜んでいるこの山間――つまり、少数民族の古道から続くこの尾根については、まったくといっていいほど警戒がない。兵の巡回すら見当たらない。
「こんな山の中から軍勢が来るとは思っていない、か……。まあ、ふつうはそうだ」
少尉が口元を歪める。
「幽鬼の谷を越えられる人間なんて、まず、いないと思ってるんだろうな」
彼の言葉に、僕は軽くうなずく。
ナルは一言も発しないまま、斜面の土を手で掬い上げ、静かに香りを嗅いでから、再び道へと目を戻した。
「あと一刻もすれば、陽が傾く。あの山から影が広がれば、さらにこちらの姿は見えにくくなる」
僕はメモ帳を取り出して、見た内容を簡単に書き留めていく。天幕の数、煙の数、物資の場所、通路の幅、警備の空白地帯――
すべてが敵軍の〝喉元〟に通じる情報だった。
「陽が沈みきる前に、引き返しましょう」
ナルの言葉に反応して、兵士たちは痕跡を残さないように、足跡も丁寧に消していく。
一行は、斜面の影に溶け込むようにして撤収を開始した。風が吹き抜け、乾いた枯れ葉を巻き上げる。
敵軍の背後を突く準備は、着々と整いつつある――この作戦を成功させるためにも、ここで手に入れた情報を無事に砦へと持ち帰らねばならなかった。
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