婚約破棄はokですが、復縁要請は却下します!

桃瀬ももな

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「きゃあ、ごめんなさいぃ! 私ったら、あまりに素敵な殿方がいらしたから、つい声をかけてしまいましたぁ」

リリナ嬢は、まるで舞台女優のように大げさな仕草で頬に手を当てた。

食堂の空気が完全に止まっている。

彼女は私の存在など道端の石ころ程度にしか思っていないようで、熱っぽい視線をクライヴ殿下一点に集中させていた。

「初めましてぇ。私、隣国から親善使節団に同行して参りました、リリナ・フォン・メールと申しますぅ。……あのぉ、もしかして、クライヴ皇太子殿下……ですよね?」

上目遣い。
小首をかしげる角度は完璧な四十五度。
潤んだ瞳のキラキラ攻撃。

(うわぁ……)

私は冷めた味噌汁を見るような目で彼女を観察した。
教科書通りの「ぶりっ子」だ。
免疫のない男ならイチコロかもしれないが、相手が悪すぎる。

私はチラリと殿下を見た。
殿下はスプーンを持ったまま、能面のように無表情だった。

「……誰だ、この騒がしい女は」

声のトーンが絶対零度だ。

「あらん、酷いですぅ! 騒がしいだなんて……私、ただご挨拶をしようと思ってぇ」

リリナ嬢はめげない。
むしろ、冷たくされると燃えるタイプか、あるいは単に空気が読めていないだけか。
彼女はズカズカとテーブルに近づき、私の隣に立った。

「あ、ニオ様もいらしたんですねぇ。奇遇ですぅ」

「……リリナさん。貴女、なぜここに?」

「だからぁ、使節団についてきたんですぅ。ジェラルド様が『ニオが隣国で路頭に迷っていないか心配だ』って仰るから、私が代わりに様子を見に来てあげたんですよぉ?」

「……それはどうも」

嘘だ。
どうせ「隣国の皇太子がイケメンらしい」という噂を聞きつけて、物見遊山でついてきたに違いない。

「でね、ジェラルド様からお手紙を預かってきたんですぅ。ほら、感謝してくださいね?」

リリナ嬢はピンク色の封筒を取り出し、私の目の前にヒラヒラと見せつけた。
強烈なバラの香水の匂いが漂う。

(臭っ……!)

私は鼻をつまみたい衝動を抑え、指先だけでその封筒をつまんだ。

「……毒劇物の類ではありませんよね?」

「失礼ですねぇ! 愛のメッセージですよぉ!」

愛?
あの筋肉ダルマ(ジェラルド)が?

私はペーパーナイフ代わりにフォークの柄で封筒を開封した。
中から出てきたのは、達筆だが内容の薄そうな便箋が一枚。

私はそれを広げ、殿下にも見えるようにテーブルに置いた。

『拝啓、ニオ・バルトへ』

冒頭から偉そうだ。

『君が隣国で惨めな生活を送っていると思い、僕は心を痛めている。
 君は可愛げがなく、生意気で、金に汚い女だが、十年の付き合いに免じて最後の慈悲を与えてやろうと思う。
 今すぐ帰国し、リリナに土下座して謝罪するなら、君を【側室(愛人枠)】として迎えてやってもいい。
 これは破格の待遇だ。泣いて喜ぶがいい。
 追伸:慰謝料の三万枚は、やっぱり返してほしい』

「…………」

読了時間、約十秒。

私は無言で便箋をクシャクシャに丸めた。

「あらあら、どうしたんですかぁ? 嬉しすぎて言葉も出ない感じですぅ?」

リリナ嬢がニヤニヤと笑う。

「ええ、そうですね。あまりに感動的で涙が出そうです」

私は真顔で言い、通りがかった給仕係を呼び止めた。

「すみません、このゴミを処分していただけますか? 可燃ゴミですが、毒素を含んでいる可能性があるので焼却炉で高温処理してください」

「かしこまりました」

給仕係はプロの顔で丸めた紙を受け取り、銀のトレイに乗せて去っていった。

「ちょっ……! 何するんですかぁ! ジェラルド様の愛をゴミ扱いなんて!」

リリナ嬢が金切り声を上げる。

「愛? これはスパム(迷惑メール)です。受信拒否設定ができないのがアナログ手紙の欠点ですね」

私はナプキンで指を入念に拭いた。

「側室? 冗談も休み休み言えと伝えてください。私は現在、こちらのクライヴ殿下の下で、非常に充実した『定時退社ライフ』を送っておりますので」

「はぁ? 強がっちゃってぇ。どうせ下働きでしょ? 雑用係がお似合いですぅ」

リリナ嬢は鼻で笑い、再びクライヴ殿下に向き直った。

「ねぇ、殿下ぁ。こんな可愛くない女より、私のほうが癒やしになりますよぉ? 私、マッサージとか得意なんですぅ」

彼女は殿下の腕に触れようと手を伸ばす。

その瞬間。

ガシャン!

殿下がスプーンを皿に投げ出した音が響いた。

「……気安く触るな」

「ひゃっ!?」

「その香水、臭い。食事が不味くなる」

殿下はハンカチで口元を覆い、露骨に嫌悪感を露わにした。

「それに、ニオは雑用係ではない。私の筆頭補佐官であり、この国で最も優秀な頭脳を持つパートナーだ」

「えっ……?」

リリナ嬢が目を丸くする。

「貴様のような中身のない女とは格が違う。……失せろ」

「う、うそ……」

殿下の冷徹な一言に、リリナ嬢の顔が引きつる。

「で、でもぉ……私、男爵令嬢で、可愛くて……」

「身分などどうでもいい。知性が感じられない会話は時間の無駄だ。……衛兵!」

殿下が指を鳴らすと、控えていた衛兵たちがザッ!とリリナ嬢を取り囲んだ。

「この女を摘み出せ。二度と私の視界に入れるな」

「はっ!」

「ちょ、ちょっと待ってぇ! 離してぇ! 私はお客様よぉ! ジェラルド様に言いつけてやるんだからぁ!」

リリナ嬢は衛兵に両脇を抱えられ、ジタバタと暴れながら食堂から引きずり出されていった。

「いやぁぁぁ! 覚えてらっしゃいぃぃ!」

捨て台詞がこだまする。
嵐のような騒動が去り、食堂に再び静寂が戻った。

「……ふぅ」

殿下は深く息を吐き、私を見た。

「……あれが、君の元婚約者の相手か?」

「はい。希少なサンプルをご覧いただけて光栄です」

「……君が婚約破棄を喜んでいた理由が、痛いほど分かった。あれと一生を共にするなど、拷問以外の何物でもない」

「でしょう? 慰謝料を払ってでも逃げる価値があるのです」

私は冷めたスープを一口飲んだ。

「それにしても、殿下。容赦ないですね。一応、他国の令嬢ですよ?」

「私のパートナーを侮辱する者は、誰であろうと許さん」

殿下はサラリと言った。
その目は真剣で、冗談の色はない。

「……そうですか」

私は視線を逸らし、パンをちぎった。
不覚にも、少しだけ胸が温かくなった気がした。
この雇い主、口は悪いが、部下を守る気概はあるらしい。

「まあ、リリナ嬢があれで諦めるとは思いませんが……とりあえず、午後の業務に戻りましょう」

「ああ。……そういえば、さっきの手紙」

「はい?」

「『慰謝料を返せ』と書いてあったようだが」

「ああ、あれですか」

私はニヤリと笑った。

「返しませんよ。すでに私の『老後資金口座』に送金済みです。取り返したければ、裁判でも起こせばいいんです。……まあ、勝つのは私ですが」

「……君を敵に回さなくて本当によかった」

殿下は心底そう思ったようで、私の皿に自分のデザート(プリン)をそっと差し出してくれた。

「……賄賂ですか?」

「敬意の表れだ。食べてくれ」

こうして、スパム手紙の襲来は撃退された。
だが、リリナ嬢の「聖女ムーブ」が本格化するのは、これからだったのだ。
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