婚約破棄はokですが、復縁要請は却下します!

桃瀬ももな

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「――緊急書簡! バルト公爵家より、特級便です!」

執務室の空気を切り裂いたのは、泥だらけになった伝令の声だった。

彼は息も絶え絶えに、封蝋(シーリングワックス)で厳重に閉じられた一通の手紙を私に差し出した。
封筒には、我が国の王家の紋章と、バルト公爵家の紋章が並んで押されている。

「……王家と実家の連名ですか。嫌な予感しかしませんね」

私は受け取った手紙の重みを感じながら、ペーパーナイフを手に取った。

隣では、クライヴ殿下が警戒心を露わにしている。

「特級便だと? 通常、国家間の宣戦布告や大災害の時に使われるレベルだぞ。……一体何が起きたんだ」

「開封します」

私は手際よく封を切り、中の羊皮紙を広げた。

そこに書かれていたのは、父バルト公爵の冷徹な筆跡ではなく、震えるような文字で綴られた、国王陛下(ジェラルドの父)からの直筆メッセージだった。

          ◇

『拝啓、ニオ・バルト嬢へ

 元気でやっているか。余は元気ではない。胃に穴が開きそうだ。
 単刀直入に言おう。
 戻ってきてくれ。今すぐにだ。
 
 そなたが去ってから二週間。我が国は今、緩やかな、しかし確実な「死」に向かっている。

 まず、ジェラルドが帰国した翌日から、王宮の機能が麻痺した。
 彼が「俺がやる!」と張り切って決裁した書類が、全て間違っていたからだ。
 予算の桁を一つ間違えて発注したり、重要な同盟国への祝電を送り忘れたり、逆に敵国へラブレター(リリナ宛の誤送)を送ったりと、ミスのデパート状態だ。

 宰相(そなたの父)も過労で倒れた。「ニオがいないと、この国の業務フローは回らない設計になっていたようです」と言い残して療養に入ってしまった。
 
 そして何より、リリナ嬢だ。
 彼女が「聖女の祈り」と称して城内の井戸に香水を投げ込んだせいで、城中の水がローズの香りになり、料理人が全員ストライキを起こした。
 余はもう三日も、パンと水(ローズ味)しか口にしていない。

 ニオよ。
 我々は間違っていた。
 ジェラルドの婚約破棄を認め、そなたを手放したことが、これほど国家的損失(ロス)になるとは思わなかったのだ。

 ジェラルドは廃嫡も辞さない覚悟だ。
 だから頼む。
 戻ってきて、この混乱を収拾してくれ。
 報酬は弾む。王妃の座も約束しよう。
 
 追伸:そなたの猫(ラグドール)は、メアリおばさんの家に行く寸前で余が保護した。今は余の膝の上で寝ている。人質だ。』

          ◇

読み終えた私は、静かに羊皮紙をデスクに置いた。

「……」

「……どうした、ニオ。顔色が悪いぞ」

心配そうに覗き込む殿下に、私は手紙をスライドさせた。

「殿下。読んでください。これが『組織崩壊のサンプルケース』です」

殿下は手紙に目を通し――そして、額に青筋を浮かべた。

「……ふざけるな」

殿下が低い声で唸る。

「自分たちで追い出しておいて、困ったら『戻ってこい』だと? しかも猫を人質に取るとは……一国の王のすることか!」

「全くだらしがない話です。自浄作用が機能していません」

私は眼鏡を外し、レンズを拭いた。
怒りはない。ただただ、呆れと軽蔑があるだけだ。

「……ニオ」

殿下が私の手首を掴んだ。
その力は強く、少し痛いほどだった。

「君は……帰るのか?」

「……」

「王妃の座も、報酬も約束されている。……君の父親も倒れているそうだ。情に厚い君なら、見捨てられないのではないか?」

殿下の瞳が揺れている。
不安。焦燥。そして、私を失うことへの恐怖。

(……ああ、この人は)

なんて分かりやすい人なんだろう。
私のことなど「便利な道具」だと思えばいいのに。
こんな時でも、私の意志を尊重しようとしつつ、必死に引き止めようとしている。

私は、掴まれた手首に自分の手を重ねた。

「殿下。一つ訂正させてください」

「え?」

「私は『情に厚い』のではありません。『借金に厳しい』のです」

私はニヤリと笑った。

「彼らは私に多大なる精神的苦痛と、未払いの残業代、そして猫との触れ合い時間の損失を与えました。このまま『はい、そうですか』と戻って助けてやる義理など、これっぽっちもありません」

「じゃあ……!」

「ですが、放置すれば祖国が滅び、私の実家(資産)も道連れになります。それは私の老後計画においてマイナスです」

私は立ち上がり、窓の外の空を見上げた。
遠い祖国の空へ向かって、宣戦布告をするように。

「助けるにしても、条件があります。……向こうが血の涙を流して後悔するような、最高にふっかけた条件がね」

私は振り返り、殿下にウィンクした。

「殿下。紙とペンを。……それと、この国で一番優秀な交渉人を呼んでください。いいえ、殿下が立ち会ってください」

「私が?」

「ええ。私の『現・雇用主』として、引き抜き工作に対する違約金を請求する権利がありますから」

殿下は一瞬きょとんとして、それからパァッと顔を輝かせた。

「……ははっ! そうか、そうだな!」

殿下は私の肩を抱き寄せ、力強く頷いた。

「任せろ。私は強欲だぞ? ニオ・バルトという至宝を奪おうとした罪、国家予算が傾くほど請求してやる」

「期待しています。……さあ、返信の時間(ショータイム)です」

私はデスクに向かい、新しい羊皮紙を広げた。

祖国の王よ、そして元婚約者よ。
覚悟するがいい。
「悪役令嬢」と呼ばれた女が、本気で交渉のテーブルについた時、何が起こるか。

私はサラサラとペンを走らせ始めた。
その内容は、慈悲も情けもない、徹底的な「搾取」の要求書だった。
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