婚約破棄はokですが、復縁要請は却下します!

桃瀬ももな

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「――できた」

深夜の執務室。
私とクライヴ殿下は、完成した「返信」をテーブルの上に広げ、満足げに頷き合った。

羊皮紙にびっしりと書き込まれた文字。
それは手紙というより、もはや「脅迫状」に近い契約書だった。

「どうだ、ニオ。この第3条『猫の精神的苦痛に対する賠償』の項目、金貨五百枚というのは安すぎないか?」

殿下が真剣な顔で指摘する。

「妥当なラインです。あまり吹っ掛けすぎて、向こうが破産してしまっては回収できませんから。『生かさず殺さず』が搾取の基本です」

私はインクの乾いた書面に、バルト公爵家の印章をバンッ!と押した。

「それに、メインディッシュはこちらですから」

私が指差したのは、第1条の項目だ。

『一、ニオ・バルトの帰還を希望する場合、契約金として【ニオ・バルトの体重と同重量の純金インゴット】を支払うこと』

「……改めて見ると、エグい条件だな」

殿下が苦笑する。

「君は小柄で細身だが、人間の体重分の純金となれば……今の相場で金貨換算すると、およそ五万枚。国家予算の半分が吹っ飛ぶぞ」

「あら、安売りしてしまいましたか? 私の市場価値はプライスレスですが」

「ふふっ。違いない」

殿下は楽しそうに笑い、自分のサインを書き入れた。

「加えて、私からの請求項目。『優秀な人材を引き抜こうとしたことに対する違約金』および『猫を人質にした動物愛護法違反の制裁金』……締めて金貨一万枚。これでトドメだな」

「完璧です。これを読んだ時の陛下の顔が見ものです」

私たちは悪魔のような笑顔を交わし、手紙を封筒に入れた。

「早馬を出せ! 最速で届けろ!」

殿下の号令と共に、私たちの「不幸の手紙」は夜の闇へと放たれた。

          ◇

数日後。ニオの祖国、レイガルド王国の謁見の間。

「な、な、なんじゃこりゃあああ!!」

国王陛下の絶叫が、高い天井に木霊した。
手には、私たちが送った手紙が握られている。

玉座の脇には、やつれた顔のジェラルド殿下と、なぜか囚人服(リリナとお揃いのピンク色ではない)を着せられたリリナ嬢が正座させられていた。

「ち、父上! ニオは何と言ってきたのですか!?」

ジェラルド殿下がすがりつくように問う。

「『戻る気はない』だと……? いや、『条件次第では考える』と書いてあるが……その条件が……」

国王陛下は震える手で手紙をジェラルド殿下に渡した。

「よ、読んでみろ……余は目眩がして読めん……」

ジェラルド殿下は手紙を受け取り、読み上げた。

「えーと……『第一条、ニオ・バルトの体重と同じ量の金を払え』……?」

彼はキョトンとして、自分の体を見下ろした。
そして、パァッと顔を明るくした。

「父上! なんだ、そんなことですか! ニオなんてガリガリじゃないですか! あいつ、食事に興味がないから軽いですよ? せいぜい小麦粉の大袋三つ分くらいでしょう!」

「……馬鹿者」

国王陛下が力なく玉座に沈み込んだ。

「金の比重を知らんのか……。同じ体積でも、金は水の十九倍重いのだぞ……。しかも『体重と同じ量』ということは、単純な重さ比べではない。その価値換算だ」

「えっ?」

「財務大臣に試算させたところ……我が国の国庫が空になる金額だそうだ」

「な、なんですとぉぉぉ!?」

ジェラルド殿下の目が飛び出る。
横で聞いていたリリナ嬢も「きゃあ、国が破産しちゃうぅ!」と他人事のように叫んだ。

「お、おいリリナ! お前が香水を井戸に入れたせいだぞ!」

「違うもん! ジェラルド様がニオ様を捨てたからだもん!」

醜い責任の押し付け合いが始まる。
国王陛下は頭を抱えた。

「ええい、黙れ! ……しかし、払わねばニオは戻らん。戻らねば、この国は行政機能不全で死ぬ。……払うしかないのか……?」

「で、でも父上! そんな大金、どこから……」

「お前の離宮を売れ」

「えっ」

「王家の保養地も売れ。余のコレクションの骨董品も売る。……それでも足りなければ、お前の身ぐるみを剥いで質に入れる!」

「そ、そんなぁ……!」

ジェラルド殿下が泣き崩れる。

しかし、手紙の続きにはさらなる地獄が記されていた。

『なお、上記金額が納付された場合でも、私は【戻ることを検討する】だけであり、帰国を確約するものではありません。
 検討の結果、やはり戻らないと判断した場合でも、手付金としての返金は致しません。
 ご了承のうえ、送金ください』

「さ、詐欺だぁぁぁ!」

ジェラルド殿下が叫んだ。

「これじゃあ、金だけ取られて戻ってこない可能性もあるじゃないか!」

「当たり前だ。ニオだぞ? あいつがそんな甘い契約をするわけがない」

国王陛下は悟りを開いたような顔で遠くを見た。

「だが……我々に拒否権はない。今や国の運命は、あいつの手のひらの上なのだ……」

          ◇

一方、クリフォード王国の執務室。

「……というような阿鼻叫喚が、今頃繰り広げられている頃でしょうね」

私は優雅に紅茶を啜りながら、窓の外を眺めた。

「性格が悪いな、君は」

クライヴ殿下が呆れたように笑う。

「『検討する』とだけ書いて、金を巻き上げるつもりか?」

「いえいえ。金貨五万枚も積まれたら、さすがに『出張コンサルタント』くらいはしてあげますよ。週一回、手紙で指示を出すだけの」

「……高いコンサル料だな」

「技術料(テック代)です」

私はニヤリと笑った。

「それに、今回の本当の目的は金ではありません」

「ん?」

「『戻りません、絶対に』という私の強い意志表示です。あんな法外な条件、まともな神経なら呑めるわけがありません。諦めてくれるのが一番です」

私はそう確信していた。
いくらなんでも、国を傾けてまで私一人のために金を払うはずがない、と。

だが。

私の「合理的思考」は、時に「追い詰められた人間の狂気」を見誤ることがある。

数日後。
私の元に、信じられない報告が届くことになった。

「ニオ様! 大変です!」

セバスがまたしても血相を変えて飛び込んできた。

「入金されました!」

「は?」

「レイガルド王国より、金貨五万枚……全額、指定口座に入金されました! 『これで国はスッカラカンだが、ニオさえ戻れば元が取れるはずだ!』とのメッセージ付きで!」

「……はあああああ!?」

私は思わずカップを取り落としそうになった。

「ば、馬鹿なんですか彼らは!? 本当に払ったんですか!?」

「はい。どうやら王家の資産を全て売り払ったようで……」

「……狂ってる」

私は頭を抱えた。
冗談のつもりでふっかけた条件を、本気で呑んでくるとは。
これでは、詐欺師の汚名を着るか、本当に戻って泥船を立て直すか、二択を迫られることになってしまう。

「どうするんだ、ニオ。……金を受け取った以上、契約成立だぞ」

クライヴ殿下が、少し不安そうな顔で私を見る。

「君は……帰るのか?」

私は唇を噛んだ。
金貨五万枚。
一生遊んで暮らせる額だ。
猫と一緒に、南の島で優雅な隠居生活も夢ではない。

でも。

私は殿下の顔を見た。
この不器用で、仕事熱心で、私のことを誰よりも評価してくれるパートナーの顔を。

「……殿下」

私は決意を込めて言った。

「契約書をよく思い出してください」

「え?」

「私は『検討する』としか書いていません。……これからじっくり、十年くらいかけて『検討』して差し上げますよ」

「……ぶっ、はははは!」

殿下が爆笑した。

「さすがだ、ニオ! 稀代の悪女だ!」

「褒め言葉として受け取っておきます」

私は不敵に笑った。
金は貰う。
だが、体は返さない。
そして心も――すでに、ここにあるのだから。

しかし。
金で解決できない問題が、一つだけ残っていた。
ジェラルド殿下たちの執念だ。
金を払ったのに戻ってこない私に対し、彼らが次に打つ手は……「武力行使」でも「懇願」でもなく、もっと斜め上の「奇策」だった。
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