断罪よりもドレスが大事!婚約破棄されましたが、お構いなく!

桃瀬ももな

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王都の北側に位置する中央市場は、朝一番の活気に満ち溢れていた。


「……アン、遅れないで。今日の目玉は、西方の行商人が持ち込むという『銀糸の絹(シルバー・シルク)』よ。あれを逃したら、私のブランドの看板ドレスが完成しませんわ!」


「お嬢様、足が速すぎますわ! その『機動戦士型』の服、歩幅が広くなりすぎてメイドの私では追いつけません!」


リアは、雑踏をすり抜けるように突き進んでいく。
彼女の目は、並べられた野菜や果物には目もくれず、ただ一点――布地を扱う商人のテントだけを射抜いていた。


「(あったわ……! あの輝き、間違いない。月光をそのまま紡いだような、あの繊細な銀の光沢!)」


それは、砂漠の国でしか作られないという極めて希少な絹織物だった。
リアは獲物を見つけた鷹のように、その反物(たんもの)へと手を伸ばした。


しかし、彼女の指先がその滑らかな布に触れるのと、全く同時に。
反対側からも、逞しく、かつ節くれだった指先が、その布を掴んだ。


「……離してくださるかしら。私が先に目をつけていましたのよ」


リアは顔を上げず、低く威圧的な声を出した。
公爵令嬢としての矜持(プライド)ではなく、一人のドレス狂いとしての執念が籠もった声だ。


「おかしなことを。僕の指の方が、わずかに零点三秒早くこの耳(布の端)に触れていたはずですよ」


返ってきたのは、低く落ち着いた、それでいて頑固そうな男の声だった。


リアが顔を上げると、そこには一人の青年が立っていた。
地味な茶色の外套を羽織っているが、その下に見えるシャツの襟元は驚くほど清潔だ。
そして何より、その瞳がリアと同じ――獲物を狙う狩人の輝きを放っている。


「零点三秒ですって? 笑わせないで。私の指は、空気の振動でその布が『呼吸』した瞬間に、すでに所有権を確定させていましたわ」


「呼吸……? なるほど、この織りの密度による通気性の変化をそう表現するとは。面白い。ですが、この銀糸の撚(よ)りを見なさい。これは右撚りだ。このテンションを活かせる裁断ができるのは、僕以外にいない」


リアは、思わず相手の顔を凝視した。


「……あなた、今なんておっしゃった? 右撚り? いいえ、これは左撚りの糸を芯にして、銀を巻き付ける際に右へ逃がしている特殊な交差織りよ。だからこそ、この特有の『戻り』が生まれるの。この性質を理解せずにハサミを入れれば、一晩で型崩れしますわ!」


青年は、驚いたように目を見開いた。
そして、さらに布を強く握り直す。


「……信じられない。この市場で、芯糸の撚り方向に気づく人間に出会うとは。だが、君の説は甘い。この布の真価は、光の屈折率を計算した緯糸(よこいと)の打ち込み本数にある。一インチあたり五百本……いや、五百二本だ」


「五百四本よ! 端の処理を見ればわかるでしょう! この二本の差が、ドレープを作った時の『落ち感』を決定づけるのよ!」


二人は、市場の真ん中で、一枚の布を挟んで激しく火花を散らした。
周囲の客や商人は、美男美女が布を奪い合って難解な専門用語を連発する異様な光景に、遠巻きにざわついている。


「あの、お嬢様……。お相手の方、どことなく貴族のような気品がありますけれど……」


「黙っててアン! 今、この布の打ち込み本数について大事な話をしているの!」


「……君のメイドの言う通りだ。僕も今、この銀糸の反射率について、人生で最も重要な議論をしているんだ。邪魔をしないでくれ」


青年もまた、背後に控えていた従者らしき男を片手で制した。


「……いいわ。そこまで言うなら、試してみましょう。店主! この布、いくらなの!?」


リアが商人に叫ぶと、商人は震えながら答えた。


「え、ええと……金貨五十枚ですが……」


「「買った!!」」


二人の声が重なった。
二人は互いに睨み合い、譲る気配は微塵もない。


「……あなた、そんなボロを羽織っているくせに、金貨五十枚なんて出せるのかしら?」


「君こそ。その奇妙な……活動的な服で、公爵家のディナー三回分ほどの金を即答するとはね」


青年は、ふっと口角を上げた。
それは、好戦的でありながら、どこか同類を見つけたような喜びの混じった笑みだった。


「……認めよう。君は、ただの着飾りたいだけの女じゃない。布の『魂』が見えている。……僕はカシアン。通りすがりの、ただの布オタクだ」


「私はリア。……見ての通り、ドレスのために魂を売った仕立て師よ」


二人の手が、銀糸の絹の上でようやく離れた。
だが、それは諦めではなく、新たな争い――あるいは協力への始まりだった。


「店主。この布は半分に分けよう。代金は僕が持つ。……その代わり、リア。君がこの布をどう料理するか、僕に見せてくれないか?」


「半分? ……いいわ。その挑戦、受けて立ちます。私の仕立てたドレスを見たら、あなたのその偏屈な知識がいかに無力か、思い知らせてあげるわ!」


リアはカシアンの手から布の半分をもぎ取ると、意気揚々と踵を返した。


「(カシアン……。あんな変態的な知識を持った男、社交界にはいなかったわ。一体何者なの?)」


リアの心臓が、少しだけ速く鼓動した。
それが、新しい恋の予感なのか、それとも、見たこともない強敵への対抗心なのか、今の彼女にはまだ判別がつかなかった。


「お嬢様……。なんだか、運命的な出会いでしたわね」


「ええ、そうね。……あんなに状態の良い銀糸の絹に出会えるなんて、一生に一度の幸運だわ!」


「……そっち(布)の話でしたか」


アンのため息が、朝の市場の喧騒に溶けていった。
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