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ベルンハルト領が筋肉と脂の芳醇な香りに包まれていた頃。
王都の王宮内、第一王子ジュリアンの執務室では、それとは正反対の「絶望の香り」が漂っていました。
「……おい、シラス。この書類の山は何だ。僕の美しい机が見えないではないか」
ジュリアン王子は、目の前にそびえ立つ紙の要塞を見上げて、力なく呟きました。
傍らに控える事務官のシラスは、眼鏡を指で押し上げ、冷淡な声で事実を告げます。
「殿下、それは本日中に処理していただかなければならない、各領地からの予算申請と外交報告書です。……以前は、ナタリー様がすべて下読みをして、殿下はサインをするだけで済むように整えてくださっていましたが」
「なっ……ナタリーが? あ、あの可愛げのない女が、これほどの量をこなしていたというのか?」
「左様でございます。彼女は、殿下が『鏡を見て前髪を整えている時間』や『新作のポエムを推敲している時間』のすべてを、この実務に充てておられましたから」
シラスの淡々とした言葉が、ジュリアンの胸に鋭く突き刺さります。
ジュリアンは震える手で一枚の書類を手に取りましたが、そこに並ぶ複雑な数式と関税の項目を見た瞬間、目眩がしてそれを手放しました。
「わ、分からない……! この『減価償却』とは何だ? 僕への愛を数値化したものか!?」
「いいえ、単なる会計用語です。殿下、現実を見てください」
その時、バタンと大きな音を立てて扉が開きました。
現れたのは、フリルをこれでもかと盛り込んだドレスを纏ったリリィです。
「ジュリアン様ぁ! 聞いてくださいませ! 宝石店に行ったら、私のカードが使えないって言われたんですの! あんな失礼な店、すぐに取り潰してくださいまし!」
リリィはジュリアンの腕に縋り付き、いつものように甘えた声を上げました。
しかし、今のジュリアンにはその声が、脳天を突き抜ける不快なノイズにしか聞こえません。
「リリィ……今、僕は大事な仕事の最中なんだ。お金のことは、その……シラスに聞いてくれ」
「シラス様、どういうことですの? 私は次期王妃になる身。国庫のお金は、私の美しさを維持するためにあるはずですわ!」
シラスは、深いため息を吐きながら、一枚のリストを提示しました。
「リリィ様。残念ながら、現在王子の個人資産は底を突いております。……ナタリー様が婚約破棄と同時に、ご自身の名義の資産、および彼女が運用していた投資信託の配当金をすべて引き揚げられましたので」
「……え?」
リリィの顔から、わざとらしい笑みが消えました。
「さらに言えば、ナタリー様は公爵令嬢として、王宮内の備品の維持費や、殿下の夜会の衣装代までも、ご自身のポケットマネーで補填されていた形跡がございます。それらが一気に消えた今、王宮の財政は火の車です」
「そ、そんな……! あの女、そんな姑息な真似を……!」
ジュリアンは机を叩こうとしましたが、自分の腕の細さを思い出し、そっと拳を下ろしました。
「シラス! ナタリーを連れ戻せ! あ、あの女なら、この程度の事態、すぐに解決できるはずだ!『僕の側室になれる権利をやるから戻ってこい』と伝えれば、喜んで……」
「殿下、既にお忘れですか? あなたは彼女を公式な場で、不名誉な理由で婚約破棄し、さらには公爵家も彼女を廃嫡しました。今の彼女は、北の最果て……ベルンハルト辺境伯の元へ向かったという情報がございます」
「ベルンハルト……? あの野蛮な『黒狼』のところか!?」
ジュリアンの顔が青ざめました。
ベルンハルト辺境伯といえば、王都の貴族たちが「顔を合わせるだけで寿命が縮む」と恐れる武闘派中の武闘派です。
「リリィ、どうしよう……。このままでは僕、ポエムを書く紙すら買えなくなってしまう……」
「そ、そんなの嫌ですわ! 私は贅沢をするために、あの女を追い出したんですのよ!」
二人が執務室で醜い言い争いを始めている間、シラスは密かに窓の外を眺めました。
彼の視線の先にあるのは、北の空。
(ナタリー様。……あなたは今頃、あの筋肉だらけの地で、思う存分笑っておられるのでしょうね。……正直、私もそちらへ転職したい気分ですわ)
王都の光輝く王宮。
しかしその実態は、有能な一人の女性を失ったことで、ガラガラと音を立てて崩れ去ろうとしている「砂の城」でしかありませんでした。
ナタリーが徹底的に効率化し、魔法のように回していた日常。
それがどれほど貴重なものだったのかを、愚かな王子たちは、空っぽになった財布と、積み上がった書類の山を前にして、ようやく気づき始めていたのです。
もっとも、ナタリー本人は。
「王都? ああ、あの空気の薄い場所ね。もう地名すら忘れそうになったわ」
と、今頃プロテインを片手に笑っているに違いないのですが。
王都の王宮内、第一王子ジュリアンの執務室では、それとは正反対の「絶望の香り」が漂っていました。
「……おい、シラス。この書類の山は何だ。僕の美しい机が見えないではないか」
ジュリアン王子は、目の前にそびえ立つ紙の要塞を見上げて、力なく呟きました。
傍らに控える事務官のシラスは、眼鏡を指で押し上げ、冷淡な声で事実を告げます。
「殿下、それは本日中に処理していただかなければならない、各領地からの予算申請と外交報告書です。……以前は、ナタリー様がすべて下読みをして、殿下はサインをするだけで済むように整えてくださっていましたが」
「なっ……ナタリーが? あ、あの可愛げのない女が、これほどの量をこなしていたというのか?」
「左様でございます。彼女は、殿下が『鏡を見て前髪を整えている時間』や『新作のポエムを推敲している時間』のすべてを、この実務に充てておられましたから」
シラスの淡々とした言葉が、ジュリアンの胸に鋭く突き刺さります。
ジュリアンは震える手で一枚の書類を手に取りましたが、そこに並ぶ複雑な数式と関税の項目を見た瞬間、目眩がしてそれを手放しました。
「わ、分からない……! この『減価償却』とは何だ? 僕への愛を数値化したものか!?」
「いいえ、単なる会計用語です。殿下、現実を見てください」
その時、バタンと大きな音を立てて扉が開きました。
現れたのは、フリルをこれでもかと盛り込んだドレスを纏ったリリィです。
「ジュリアン様ぁ! 聞いてくださいませ! 宝石店に行ったら、私のカードが使えないって言われたんですの! あんな失礼な店、すぐに取り潰してくださいまし!」
リリィはジュリアンの腕に縋り付き、いつものように甘えた声を上げました。
しかし、今のジュリアンにはその声が、脳天を突き抜ける不快なノイズにしか聞こえません。
「リリィ……今、僕は大事な仕事の最中なんだ。お金のことは、その……シラスに聞いてくれ」
「シラス様、どういうことですの? 私は次期王妃になる身。国庫のお金は、私の美しさを維持するためにあるはずですわ!」
シラスは、深いため息を吐きながら、一枚のリストを提示しました。
「リリィ様。残念ながら、現在王子の個人資産は底を突いております。……ナタリー様が婚約破棄と同時に、ご自身の名義の資産、および彼女が運用していた投資信託の配当金をすべて引き揚げられましたので」
「……え?」
リリィの顔から、わざとらしい笑みが消えました。
「さらに言えば、ナタリー様は公爵令嬢として、王宮内の備品の維持費や、殿下の夜会の衣装代までも、ご自身のポケットマネーで補填されていた形跡がございます。それらが一気に消えた今、王宮の財政は火の車です」
「そ、そんな……! あの女、そんな姑息な真似を……!」
ジュリアンは机を叩こうとしましたが、自分の腕の細さを思い出し、そっと拳を下ろしました。
「シラス! ナタリーを連れ戻せ! あ、あの女なら、この程度の事態、すぐに解決できるはずだ!『僕の側室になれる権利をやるから戻ってこい』と伝えれば、喜んで……」
「殿下、既にお忘れですか? あなたは彼女を公式な場で、不名誉な理由で婚約破棄し、さらには公爵家も彼女を廃嫡しました。今の彼女は、北の最果て……ベルンハルト辺境伯の元へ向かったという情報がございます」
「ベルンハルト……? あの野蛮な『黒狼』のところか!?」
ジュリアンの顔が青ざめました。
ベルンハルト辺境伯といえば、王都の貴族たちが「顔を合わせるだけで寿命が縮む」と恐れる武闘派中の武闘派です。
「リリィ、どうしよう……。このままでは僕、ポエムを書く紙すら買えなくなってしまう……」
「そ、そんなの嫌ですわ! 私は贅沢をするために、あの女を追い出したんですのよ!」
二人が執務室で醜い言い争いを始めている間、シラスは密かに窓の外を眺めました。
彼の視線の先にあるのは、北の空。
(ナタリー様。……あなたは今頃、あの筋肉だらけの地で、思う存分笑っておられるのでしょうね。……正直、私もそちらへ転職したい気分ですわ)
王都の光輝く王宮。
しかしその実態は、有能な一人の女性を失ったことで、ガラガラと音を立てて崩れ去ろうとしている「砂の城」でしかありませんでした。
ナタリーが徹底的に効率化し、魔法のように回していた日常。
それがどれほど貴重なものだったのかを、愚かな王子たちは、空っぽになった財布と、積み上がった書類の山を前にして、ようやく気づき始めていたのです。
もっとも、ナタリー本人は。
「王都? ああ、あの空気の薄い場所ね。もう地名すら忘れそうになったわ」
と、今頃プロテインを片手に笑っているに違いないのですが。
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