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ベルンハルト要塞の夜は更けるのが早く、冷たい静寂が石造りの廊下を支配します。
しかし、ナタリーの「筋肉センサー」は、ある一点を指して激しく反応していました。
「……アン、起きなさい。夜のパトロールの時間よ」
「ナタリー様、深夜の二時です。パトロールという名の、旦那様の隠密トレーニング覗き見はやめてくださいまし……」
アンは毛布に潜り込みましたが、ナタリーは既に機能性抜群の隠密用(という名の、単に動きやすい)黒い服に着替えていました。
「いいえ、アン。ここ数日、ルードヴィヒ様は深夜になると決まって地下の練兵場へ向かっているわ。……あの研ぎ澄まされた広背筋が、夜な夜な何をしていると思う? これは妻(仮)として、あるいは筋肉愛好家として確かめる義務があるわ」
ナタリーは、猫のような足取りで部屋を抜け出しました。
渋々ついてくるアンを引き連れ、薄暗い地下階段を降りていきます。
突き当たりの重厚な扉の隙間から、微かな明かりと、低く唸るような声が漏れてきました。
(……来ましたわね。秘密の特訓? それとも、領地を守るための禁断の魔術? もしや、服を脱ぎ捨てて全身に油を塗りたくる『ポージング練習』かしら!?)
ナタリーは期待に胸を膨らませ、扉の隙間に目を凝らしました。
そこには、上半身裸で鏡の前に立つルードヴィヒの姿がありました。
松明の炎に照らされ、隆起した筋肉が美しい陰影を描き出しています。
「……よし。いくぞ」
ルードヴィヒが、震えるような声で呟きました。
ナタリーは息を呑みます。
「……布団が、吹っ飛んだ」
「………………は?」
ナタリーの思考が停止しました。
鏡の中のルードヴィヒは、真剣な面持ちで、自身の表情を確認しています。
「いや、パンチが足りないな。北の寒さを表現しつつ、心の氷を溶かすには……。……アルミ缶の上にある、あるみかん」
ルードヴィヒは、ふむ、と頷くと、今度は変なポーズを決めました。
片足を上げ、両手を広げたその姿は、まるで「獲物を威嚇する熊」ですが、口から出ているのは……。
「……電話に、誰も出んわ」
「な、ナタリー様。……帰りましょう。見てはいけないものを見てしまいましたわ」
アンが青ざめた顔で袖を引きましたが、ナタリーは衝撃のあまり動けません。
あの「北の黒狼」と恐れられる男が、夜な夜な一人で「ダジャレ」の練習をしていたなんて。
「……誰だ!」
気配を察したルードヴィヒが、鋭い眼光で扉を睨みつけました。
ナタリーは逃げ遅れ、扉が勢いよく開かれます。
「な、ナタリー!? なぜここに……!」
ルードヴィヒの顔が、一瞬にして耳まで真っ赤に染まりました。
彼は慌てて床に落ちていたシャツを拾い上げ、逞しい体を隠そうとしましたが、手遅れです。
「……旦那様。今のは、北の地に伝わる古の呪文か何かでしょうか? それとも、私の聞き間違い?」
ナタリーが震える声で尋ねると、ルードヴィヒは絶望したように顔を覆い、その場に崩れ落ちました。
「……見たな。……見てしまったな、ナタリー」
「ええ、しっかりと。特に『あるみかん』の時の、大胸筋のピクつきは実に見事でしたわ」
「……違うんだ。俺は、俺はただ……」
ルードヴィヒは、絞り出すような声で告白し始めました。
「北の連中は、毎日厳しい寒さと魔物の脅威にさらされている。領主である俺が、もっと奴らを笑わせて、心の底から温めてやりたいと思ったんだ。だが……見ての通り、俺は生まれつき愛想が悪く、顔も怖い。だから、せめて面白い言葉の一つでも言えればと……」
ナタリーは、その言葉を聞いて、じわじわと込み上げてくるものを抑えきれませんでした。
それは笑いではなく……深い、深すぎるほどの「効率性への疑問」です。
「……ルードヴィヒ様。あなたの志は素晴らしいわ。筋肉だけでなく、心まで領民を守ろうとするその姿勢、尊敬に値します」
「ナタリー……」
「でも、今のダジャレは『筋肉の無駄遣い』ですわ!」
ナタリーはルードヴィヒの肩をガシッと掴みました。
「いい? その素晴らしい体躯、その圧倒的な威圧感から放たれる『布団が吹っ飛んだ』は、笑いではなく『恐怖』しか生み出しません。ギャップが強すぎて、領民の心臓が止まってしまいますわよ!」
「な、何だと……? では、俺はどうすればいいんだ。練習用のネタ帳は、もう三冊目だぞ」
ルードヴィヒが差し出した手帳には、びっしりと「ダジャレ」や「一発芸(物理)」のアイディアが書き込まれていました。
「……旦那様。笑いとは、計算ですわ。そして筋肉と同じく、正しいフォームで行わなければ効果は出ません。分かりました……私が、あなたを『面白い男』に育て上げてあげますわ!」
「ナタリー様、本気ですか!? この救いようのないスベり具合を、どうにかできると?」
アンの声が響きましたが、ナタリーの目には炎が宿っていました。
「ええ。幸いにも、旦那様の『表情筋』は未開拓の宝庫だわ。ここを鍛え直せば、爆笑の渦を巻き起こすことも夢ではないはずよ。さあ、ルードヴィヒ様! まずはその『あるみかん』のポーズから修正しましょう!」
「……ああ。頼む、ナタリー。俺を……俺を面白い領主にしてくれ」
漆黒の要塞の地下で、奇妙な師弟関係が結ばれた瞬間でした。
ナタリーは、ルードヴィヒの「ギャグのキレ」を筋肉理論で改善するという、人類史上最も不毛で、かつ情熱的な挑戦を開始したのでした。
その夜、地下室からは「もっと広背筋を意識して笑いを溜めて!」「はい、ここで顔芸!」というナタリーの怒号が、明け方まで響き渡ったといいます。
しかし、ナタリーの「筋肉センサー」は、ある一点を指して激しく反応していました。
「……アン、起きなさい。夜のパトロールの時間よ」
「ナタリー様、深夜の二時です。パトロールという名の、旦那様の隠密トレーニング覗き見はやめてくださいまし……」
アンは毛布に潜り込みましたが、ナタリーは既に機能性抜群の隠密用(という名の、単に動きやすい)黒い服に着替えていました。
「いいえ、アン。ここ数日、ルードヴィヒ様は深夜になると決まって地下の練兵場へ向かっているわ。……あの研ぎ澄まされた広背筋が、夜な夜な何をしていると思う? これは妻(仮)として、あるいは筋肉愛好家として確かめる義務があるわ」
ナタリーは、猫のような足取りで部屋を抜け出しました。
渋々ついてくるアンを引き連れ、薄暗い地下階段を降りていきます。
突き当たりの重厚な扉の隙間から、微かな明かりと、低く唸るような声が漏れてきました。
(……来ましたわね。秘密の特訓? それとも、領地を守るための禁断の魔術? もしや、服を脱ぎ捨てて全身に油を塗りたくる『ポージング練習』かしら!?)
ナタリーは期待に胸を膨らませ、扉の隙間に目を凝らしました。
そこには、上半身裸で鏡の前に立つルードヴィヒの姿がありました。
松明の炎に照らされ、隆起した筋肉が美しい陰影を描き出しています。
「……よし。いくぞ」
ルードヴィヒが、震えるような声で呟きました。
ナタリーは息を呑みます。
「……布団が、吹っ飛んだ」
「………………は?」
ナタリーの思考が停止しました。
鏡の中のルードヴィヒは、真剣な面持ちで、自身の表情を確認しています。
「いや、パンチが足りないな。北の寒さを表現しつつ、心の氷を溶かすには……。……アルミ缶の上にある、あるみかん」
ルードヴィヒは、ふむ、と頷くと、今度は変なポーズを決めました。
片足を上げ、両手を広げたその姿は、まるで「獲物を威嚇する熊」ですが、口から出ているのは……。
「……電話に、誰も出んわ」
「な、ナタリー様。……帰りましょう。見てはいけないものを見てしまいましたわ」
アンが青ざめた顔で袖を引きましたが、ナタリーは衝撃のあまり動けません。
あの「北の黒狼」と恐れられる男が、夜な夜な一人で「ダジャレ」の練習をしていたなんて。
「……誰だ!」
気配を察したルードヴィヒが、鋭い眼光で扉を睨みつけました。
ナタリーは逃げ遅れ、扉が勢いよく開かれます。
「な、ナタリー!? なぜここに……!」
ルードヴィヒの顔が、一瞬にして耳まで真っ赤に染まりました。
彼は慌てて床に落ちていたシャツを拾い上げ、逞しい体を隠そうとしましたが、手遅れです。
「……旦那様。今のは、北の地に伝わる古の呪文か何かでしょうか? それとも、私の聞き間違い?」
ナタリーが震える声で尋ねると、ルードヴィヒは絶望したように顔を覆い、その場に崩れ落ちました。
「……見たな。……見てしまったな、ナタリー」
「ええ、しっかりと。特に『あるみかん』の時の、大胸筋のピクつきは実に見事でしたわ」
「……違うんだ。俺は、俺はただ……」
ルードヴィヒは、絞り出すような声で告白し始めました。
「北の連中は、毎日厳しい寒さと魔物の脅威にさらされている。領主である俺が、もっと奴らを笑わせて、心の底から温めてやりたいと思ったんだ。だが……見ての通り、俺は生まれつき愛想が悪く、顔も怖い。だから、せめて面白い言葉の一つでも言えればと……」
ナタリーは、その言葉を聞いて、じわじわと込み上げてくるものを抑えきれませんでした。
それは笑いではなく……深い、深すぎるほどの「効率性への疑問」です。
「……ルードヴィヒ様。あなたの志は素晴らしいわ。筋肉だけでなく、心まで領民を守ろうとするその姿勢、尊敬に値します」
「ナタリー……」
「でも、今のダジャレは『筋肉の無駄遣い』ですわ!」
ナタリーはルードヴィヒの肩をガシッと掴みました。
「いい? その素晴らしい体躯、その圧倒的な威圧感から放たれる『布団が吹っ飛んだ』は、笑いではなく『恐怖』しか生み出しません。ギャップが強すぎて、領民の心臓が止まってしまいますわよ!」
「な、何だと……? では、俺はどうすればいいんだ。練習用のネタ帳は、もう三冊目だぞ」
ルードヴィヒが差し出した手帳には、びっしりと「ダジャレ」や「一発芸(物理)」のアイディアが書き込まれていました。
「……旦那様。笑いとは、計算ですわ。そして筋肉と同じく、正しいフォームで行わなければ効果は出ません。分かりました……私が、あなたを『面白い男』に育て上げてあげますわ!」
「ナタリー様、本気ですか!? この救いようのないスベり具合を、どうにかできると?」
アンの声が響きましたが、ナタリーの目には炎が宿っていました。
「ええ。幸いにも、旦那様の『表情筋』は未開拓の宝庫だわ。ここを鍛え直せば、爆笑の渦を巻き起こすことも夢ではないはずよ。さあ、ルードヴィヒ様! まずはその『あるみかん』のポーズから修正しましょう!」
「……ああ。頼む、ナタリー。俺を……俺を面白い領主にしてくれ」
漆黒の要塞の地下で、奇妙な師弟関係が結ばれた瞬間でした。
ナタリーは、ルードヴィヒの「ギャグのキレ」を筋肉理論で改善するという、人類史上最も不毛で、かつ情熱的な挑戦を開始したのでした。
その夜、地下室からは「もっと広背筋を意識して笑いを溜めて!」「はい、ここで顔芸!」というナタリーの怒号が、明け方まで響き渡ったといいます。
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