今更復縁とか言われても邪魔なんですけど?

桃瀬ももな

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「ウィルヘルミナ・フォン・ローゼンバーグ! 貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!!」

王宮の大広間に、よく通る声が響き渡った。

優雅なワルツを奏でていた楽団の手が止まり、グラスを傾けていた貴族たちの談笑が凍りつく。

まるで時が止まったかのような静寂の中、私はゆっくりと扇子を閉じた。

目の前に立っているのは、この国の第一王子、セドリック殿下。

金髪碧眼、白磁のような肌。

物語に出てくる王子様そのものの美しい容姿をしている。

けれど、私の心はこれっぽっちも動かない。

(ああ、やっと……やっと、この時が来たのね!)

扇子で隠した口元が、歓喜で歪みそうになるのを必死に堪える。

セドリック殿下は、勝ち誇ったような顔で私を指さしていた。

「何を呆けている! 自分のしでかした罪の深さに、声も出ないか?」

「……罪、でございますか」

私は小首を傾げてみせる。

内心では、ガッツポーズを連打していた。

待っていた。

この瞬間を、私は三年前からずっと待ち望んでいたのだ。

「とぼけるな! 愛しのリリィに対する数々の嫌がらせ、知らぬとは言わせんぞ!」

殿下の隣には、小柄で可愛らしい男爵令嬢、リリィ様が震えながら寄り添っている。

彼女が私の教科書を破いただの、ドレスにワインをかけただの、身に覚えのない罪状が次々と読み上げられていく。

周囲からは、ひそひそと私を非難する声が聞こえてきた。

「なんて恐ろしい……」

「公爵令嬢ともあろう方が、嫉妬に狂うなんて」

「やはり悪役令嬢の噂は本当だったのね」

彼らの視線は冷たい。

だが、私にとってそんなことはどうでもよかった。

私の視線は、セドリック殿下の身体に釘付けになっていたのだ。

(見て、あの細すぎる二の腕……。剣を振るう気があるのかしら?)

私は冷静に観察する。

(胸板も薄っぺらいわ。まるで洗濯板ね。あんな貧相な胸筋で、どうやって国の重責を支えるおつもり?)

視線を下に移す。

(太ももなんて、私のふくらはぎより細いんじゃないかしら。スクワット不足よ、圧倒的なスクワット不足!)

そう、私、ウィルヘルミナには秘密がある。

幼い頃、父の書斎でこっそり読んだ異国の戦記物。

そこに描かれていた、鋼のような肉体を持つ戦士たち。

彼らの圧倒的な筋肉美に魅せられて以来、私は重度の「筋肉フェチ」になってしまったのだ。

「……おい、聞いているのか!?」

殿下の怒鳴り声で、私は我に返る。

いけない、つい殿下の貧弱なボディラインに見入ってしまっていた。

「はい、伺っておりますわ。殿下」

「ならば弁明してみろ! 涙を流して許しを請うなら、修道院送りくらいには減刑してやらんでもないぞ」

殿下はふんぞり返り、私が泣き崩れるのを期待しているようだ。

しかし、残念ながら私の目から涙が出ることはない。

出るのは、安堵のため息だけだ。

「弁明など、一切ございません」

「なっ……!?」

「殿下のおっしゃる通り、私は貴方様の婚約者として相応しくない女でございます。嫉妬深く、性格も悪い。ええ、もう最悪ですわ」

私はすらすらと、自分の悪口を肯定していく。

「ですから、その婚約破棄、喜んでお受けいたします」

「は……?」

殿下の目が点になった。

周囲の貴族たちも、ぽかんと口を開けている。

「よ、喜んで……だと?」

「はい。殿下のような素晴らしい方には、私のような悪女よりも、リリィ様のような可憐な方がお似合いですもの」

私はリリィ様に微笑みかける。

彼女はビクリと肩を震わせたが、その瞳はどこかキョトンとしていた。

「そ、そうであろう! ようやく自分の立場を理解したようだな!」

殿下は気を取り直し、再び胸を張った。

薄い胸板がさらに薄く見える。

ああ、プロテインを飲ませて差し上げたい。

「では、これで婚約は正式に破棄ということでよろしいですね?」

「う、うむ。国王陛下にも既に許可は取ってある」

「左様でございますか。それは重畳」

私はドレスのポケットから、一枚の羊皮紙を取り出した。

常に持ち歩いていた、この日のための準備万端な書類だ。

「では、こちらに署名をお願いいたします」

「なんだこれは」

「婚約破棄の合意書でございます。後になって『やっぱり婚約破棄はなし』なんて言われては困りますから」

「誰が言うか!」

殿下は憤慨しながら、私の差し出した羽ペンをひったくり、乱暴に署名をした。

その筆跡の細さにも、私は心の中で溜息をつく。

筆圧が弱い。

前腕伸筋群の鍛錬が足りない証拠だ。

「確認いたしました。ありがとうございます」

私は書類を大切に懐にしまうと、最上級のカーテシー(挨拶)を披露した。

「これにて、私は自由の身……いえ、謹慎処分を受ける身となりますので、早々に退場させていただきますわ」

「ま、待て!」

くるりと背を向けた私を、殿下が呼び止める。

「なんだその態度は! もっとこう、悲しむとか、悔しがるとか……!」

「悲しむ?」

私は振り返り、首を傾げた。

「どうして悲しむ必要がございますの? 殿下は愛するリリィ様と結ばれ、私は自由になれる。ウィンウィンではありませんか」

「う、うぃんうぃん……?」

「それに殿下」

私は一歩、殿下に近づいた。

小声で、彼にだけ聞こえるように囁く。

「私、常々思っていたのですけれど……」

「な、なんだ」

「男性たるもの、もう少し身体を鍛えられた方がよろしいかと存じますわ。今のままでは、リリィ様をお姫様抱っこすることもままならないのではなくて?」

「なっ……!?」

殿下の顔が真っ赤になる。

図星だったようだ。

「余計なお世話だ! この筋肉ダルマ女!」

「あら、最高の褒め言葉をありがとうございます」

私はにっこりと微笑んだ。

筋肉ダルマ。

ああ、なんて素敵な響きだろう。

私の目指す理想郷(カフェ)には、まさに筋肉ダルマたちが集うのだから。

「では、ごきげんよう。皆様も、引き続き素敵な夜会をお楽しみくださいませ」

私は高らかに宣言し、颯爽と歩き出した。

背後で殿下が何か喚いているが、もう耳には入らない。

大広間の重い扉を、衛兵が開けてくれる。

その衛兵の腕を見て、私は思わずときめいた。

(あら、いい上腕三頭筋……。採用候補ね)

衛兵に熱い視線を送りつつ、私は廊下へと出た。

冷たい夜風が、火照った頬に心地よい。

「終わった……」

誰もいない廊下で、私は大きく伸びをした。

窮屈なコルセットも、重たいドレスも、そして何より『王子妃教育』という名の拷問も、これですべて終わりだ。

「ふふっ、あはははは!」

こみ上げてくる笑いを抑えきれない。

「やったわ! ついにやったわ!」

私はドレスの裾をまくり上げ、廊下をスキップしたいくらいの気分だった。

実家からは勘当されるだろう。

社交界からも追放されるに違いない。

だが、私には計画がある。

長年、この日のために貯め込んできたお小遣い。

そして、とある『事業計画』。

「待っていてね、私の愛しい筋肉たち……!」

私は拳を握りしめる。

その拳には、貴族の令嬢らしからぬ力がみなぎっていた。

目指すは王都の下町。

そこに、私の城を築くのだ。

麗しき肉体美を愛でながら、極上のプロテインと赤身肉を提供する、夢の楽園。

名付けて、『カフェ・マッスル・パラダイス』。

「さあ、急がなきゃ。いい物件はすぐに埋まってしまうもの」

私は夜の王宮を、競走馬のような速さで駆け抜けていった。

誰もが振り返るほどのスピードで。

こうして、悪役令嬢ウィルヘルミナの、華麗なる転身劇が幕を開けたのである。
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