今更復縁とか言われても邪魔なんですけど?

桃瀬ももな

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「はぁ……」

開店前の『カフェ・マッスル・パラダイス』。

私は厨房のシンクに向かって、今日何度目か分からないため息をついた。

「どうしたんだ、姐さん。朝からため息ばっかりで、幸せが逃げるぞ」

野菜の下処理をしていたガロンさんが、心配そうに顔を覗き込んでくる。

彼の手には、山のようなブロッコリー。

「逃げませんわ。幸せ(筋肉)なら、ここにたくさんありますもの」

私は無理やり口角を上げた。

「ただ、ちょっと……体調が優れないというか」

「体調? 風邪か?」

「いいえ。……動悸がするのです」

「動悸?」

「ええ。胸の奥がこう、トクントクンと早く打ったり、締め付けられるように苦しくなったり」

私は胸元に手を当てた。

昨晩のレオナルド様の言葉を思い出すだけで、心拍数が跳ね上がる。

『俺は、今の貴女が好きだ』

その声。

その眼差し。

その時の、シャツ越しに伝わってきた体温。

思い出しただけで、また顔が熱くなる。

「それって……」

ガロンさんがニヤニヤし始めた。

「恋、じゃねぇのか?」

「まさか!」

私は即座に否定した。

「ありえません。私の恋人は筋肉です。上腕二頭筋と結婚したいくらいです」

「いや、筋肉とは結婚できねぇだろ」

「この動悸は、きっと昨日の試作品の『激辛カプサイシン・プロテイン』の副作用か、あるいはカフェインの摂りすぎによる自律神経の乱れですわ」

「素直じゃねぇなぁ……」

ガロンさんは呆れて肩をすくめた。

「まあ、俺は応援してるぜ。あの旦那(レオナルド)なら、姐さんを軽々と『お姫様抱っこ』できるしな」

「ッ……!」

お姫様抱っこ。

脳裏に浮かぶシミュレーション。

レオナルド様の太い腕が、私の背中と膝裏を支え、軽々と持ち上げる。

至近距離で見る大胸筋。

たくましい首筋。

(……悪くない。いや、最高じゃないの)

私はブンブンと首を振った。

いけない。

これ以上妄想すると、厨房で鼻血を出して倒れてしまう。

「と、とにかく! 仕込みを急ぎますよ! 今日も満席の予感ですからね!」

私は強引に話題を切り替え、包丁を握った。

          ◇

その日の夕方。

ランチタイムの戦場のような忙しさが一段落した頃、裏口のドアがノックされた。

コンコン、という控えめな音。

けれど、扉の向こうにいる人物の気配(質量)は隠しきれていない。

「どうぞ、開いてますわ」

私が声をかけると、レオナルド様が入ってきた。

「お疲れ様です、店主殿」

今日のレオナルド様は、いつもの変装(怪しいマントとサングラス)ではなく、珍しく騎士団の制服姿だった。

ただし、マントは外している。

白いシャツに、黒のベスト。

それが、彼の鍛え上げられた肉体を強調していて、破壊力が凄まじい。

ベストのボタンが弾け飛びそうだ。

「い、いらっしゃいませ。今日は制服なんですね」

「ああ。急ぎの会議があってな、着替える暇がなかった。……変装なしで来てしまって、迷惑だったか?」

「いえ! とんでもない!」

私は食い気味に答えた。

「むしろ眼福……いえ、新鮮ですわ。制服萌えというジャンルを開拓できそうです」

「? よく分からんが、迷惑でないなら良かった」

レオナルド様はホッとしたように笑い、いつものVIP席へと向かった。

私は深呼吸をして、冷たい水を運んだ。

「ご注文はいつもの(パンケーキ)で?」

「いや、今日は……これを」

レオナルド様は、背中に隠していた包みをテーブルに置いた。

ずしっ、と重い音がした。

「なんですか、これ?」

「差し入れだ」

彼が包みを開くと、中から現れたのは、巨大な『肉の塊』だった。

赤身の中に、適度なサシが入った、見たこともないほど上質な肉だ。

「こ、これは……?」

「『フレイム・ボア』の肉だ。帰り道に森で遭遇してな、つい……狩ってしまった」

「帰り道についでに狩れるような魔獣でしたっけ?」

フレイム・ボアといえば、討伐ランクBの強力な魔獣だ。

それを「コンビニでお菓子を買ってきました」みたいなノリで出してくるとは。

「脂身が少なくて、タンパク質が豊富だと聞いた。……店のメニューに使ってくれないか?」

レオナルド様は、少し照れくさそうに頬をかいた。

「貴女に……美味いものを食わせたくてな」

ドキンッ。

まただ。

また、心臓が跳ねた。

肉を持ってきただけでときめくなんて、私はどれだけ食い意地が張っているのか。

いや、違う。

肉そのものよりも、彼の「私に食べさせたい」という気持ちが、嬉しかったのだ。

「……ありがとうございます。最高の状態で調理させていただきます」

私は肉を受け取った。

ずっしりと重い。

その重みが、彼の優しさの重みのように感じられた。

「では、今日は特別メニューです。『フレイム・ボアのグリル・特製ガーリックソース』をご馳走しますわ」

「おお! それは楽しみだ!」

          ◇

数十分後。

香ばしい匂いが部屋に充満していた。

私は焼き上がったステーキを切り分け、レオナルド様の前に置いた。

「どうぞ。焼き加減はレアです」

「いただく!」

レオナルド様は肉を口に放り込んだ。

「……ッ!!」

カッ、と目を見開く。

「美味い……! なんだこれは、口の中で肉が解けていくぞ!」

「フレイム・ボアは筋肉繊維が細かいですからね。それに、私の『愛の筋トレ(下処理)』で叩きまくりましたから」

「最高だ……。貴女の手料理は、王宮の晩餐会よりも美味い」

レオナルド様は、本当に幸せそうに笑った。

その笑顔を見ていた時だ。

不意に、私の視界が滲んだ。

「……あれ?」

「ん? どうした、ミーナ?」

レオナルド様がフォークを止めた。

私は慌てて目を擦った。

「いえ、煙が目に沁みたみたいで……」

違う。

煙なんて出ていない。

ただ、目の前の彼が、あまりにも愛おしく見えて、胸がいっぱいになってしまったのだ。

筋肉が好き。

それは変わらない。

でも、今、私の心が震えているのは、彼の上腕二頭筋のせいじゃない。

彼の不器用な優しさ。

まっすぐな瞳。

そして、私を「私」として見てくれる、その温かさ。

(ああ……認めるしかないわね)

私は観念した。

私は、レオナルド・バーンシュタインという一人の男性に、恋をしてしまったのだ。

筋肉フェチの私が。

筋肉以外の要素(内面)で、男の人を好きになるなんて。

「……レオナルド様」

「なんだ?」

「私、貴方の筋肉が大好きです」

「知っている」

彼は苦笑した。

「でも……筋肉以外の部分も、少しだけ……いえ、かなり、好きかもしれません」

私は勇気を振り絞って言った。

心臓が口から飛び出しそうだ。

レオナルド様は、肉を飲み込むのを忘れて、私を凝視した。

「……それは」

彼はゆっくりとフォークを置いた。

「プロテインの副作用ではなく、か?」

「はい。自律神経の乱れでもありません」

私は真っ赤な顔で頷いた。

「純粋な……私の気持ちです」

沈黙が落ちた。

部屋の時計の針の音だけが響く。

レオナルド様は、口元を手で覆い、視線を彷徨わせた。

耳まで真っ赤だ。

「……不意打ちは、卑怯だ」

彼は呻くように言った。

「そんなことを言われたら……俺は、勘違いしてしまいそうだ」

「勘違い?」

「俺が貴女を、客としてではなく……一人の男として、独占したくなってしまうという勘違いだ」

「ッ……!」

今度は私が絶句する番だった。

それって、両思いということですか?

それとも、私の脳内変換が都合よく機能しすぎているだけですか?

空気が甘くなる。

パンケーキのシロップよりも甘く、濃厚な空気が、二人の間に流れる。

レオナルド様が、ゆっくりと手を伸ばしてきた。

私も、吸い寄せられるように手を伸ばす。

指先が触れ合いそうになった、その時。

バンバンバンッ!!!

裏口のドアが、乱暴に叩かれた。

「!?」

二人は弾かれたように離れた。

「ちっ……いいところだったのに」

レオナルド様が、あからさまに舌打ちをした。

「だ、誰でしょう? こんな時間に」

私は動悸を鎮めながら、ドアに向かった。

「はい、どなたですか?」

ガチャリとドアを開ける。

そこに立っていたのは、王宮の紋章が入った服を着た、神経質そうな小男だった。

背後には、数名の衛兵。

「ここが『カフェ・マッスル・パラダイス』だな?」

小男は、嫌な目つきで私を見下ろした。

「はい、そうですが」

「私は財務省の徴税官だ。この店のオーナー、ウィルヘルミナに『特別徴税命令』を伝えに来た」

「特別徴税……?」

嫌な予感がした。

小男は、勝ち誇ったように一枚の羊皮紙を突きつけた。

「本日付で、この店に対し『筋肉美観税』および『高タンパク食品取扱税』、さらに『元婚約者精神的苦痛補償税』を課すこととする」

「はぁ!?」

私は素っ頓狂な声を上げた。

なんだそのふざけた税目は。

「合計金額は……金貨1000枚だ。今すぐ払えなければ、営業停止処分および資産の差し押さえを行う!」

金貨1000枚。

それは、私が王子から巻き上げた慰謝料の倍近い金額だった。

「なっ……無茶苦茶ですわ!」

「無茶苦茶? これはセドリック殿下の直々の命令だ。王族の命令は絶対だぞ?」

小男はニヤニヤと笑った。

「さあ、払えるのか? 払えないなら、この店は没収だ!」

最悪のタイミングだ。

愛の告白(未遂)の直後に、現実という名の暴力が襲いかかってきた。

私は拳を握りしめた。

王子の差し金か。

あの馬鹿、権力を私怨のためだけに行使するなんて。

「……払えません」

私はギリッと奥歯を噛んだ。

「そうかそうか! ならば、今すぐ出て行ってもらおうか! 衛兵、中を改めろ!」

小男が合図をすると、衛兵たちが土足で店内に踏み込もうとした。

その時。

「――待て」

地獄の底から響くような声がした。

衛兵たちの足が止まる。

私の背後から、怒気を孕んだ熱気が膨れ上がった。

「誰の許可を得て、俺の『聖域(みせ)』に土足で踏み込もうとしている?」

レオナルド様が、ゆっくりと姿を現した。

その瞳は、魔獣のように鋭く、静かに燃えていた。

「き、貴様は……!?」

小男が後ずさる。

「邪魔をするなら容赦せんぞ! 公務執行妨害で……」

「公務?」

レオナルド様は鼻で笑った。

「私利私欲の嫌がらせを、公務とは呼ばん」

彼は私の方へ一歩踏み出し、私の肩を抱き寄せた。

「安心しろ、ミーナ。……この程度の雑魚(こもの)、俺の小指(の筋肉)で十分だ」

甘い空気は吹き飛んだ。

代わりに始まったのは、騎士団長レオナルド様による、愛と筋肉の防衛戦だった。
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