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北へ向かう馬車の中、私は膝の上に置いた「黄金桃」の木箱を、愛おしく撫でていました。
外の景色は次第に緑を失い、冷たく厳しい岩肌と、薄暗い針葉樹林が広がっていきます。
「お嬢様、そろそろアルスター公爵領の境界です。……本当に、このまま突っ込むおつもりで?」
御者のトマスが、ガタガタと震える声で尋ねてきます。
彼が恐れるのも無理はありません。
北の盾、王国の冷徹な守護者、そして「氷の公爵」ことアルスター様。
彼は合理性を欠くもの、そして「無駄な社交」をこの世で最も嫌うと言われています。
「トマス。寒くなってきましたわね。でも、この寒さこそが、桃の糖度をギュッと閉じ込めるための天然の冷蔵庫になるんですのよ」
「お嬢様……。さっきから桃の話しかしていませんね。相手はあの公爵様ですよ? 一歩間違えば、桃ごと凍らされて追い出されます」
「構いませんわ。凍った桃は、それはそれでシャーベットのような新食感として売り出せばいいだけですもの」
私は窓の外に目を向けました。
確かに空気は刺すように冷たいですが、私の心は、この先に待つ「巨大な市場」への期待で、桃のように赤く火照っていました。
やがて、切り立った崖の上にそびえ立つ、堅固な黒石造りの城が見えてきました。
アルスター公爵家の居城「アイシクル城」です。
城門の前に馬車が止まると、すぐさま槍を手にした兵士たちが周囲を囲みました。
「止まれ! ここはアルスター公爵領だ。事前の通達なき通行、および訪問は認められん!」
私は落ち着いて馬車の扉を開け、ゆっくりと大地に足を下ろしました。
農作業着の上に羽織った厚手のマントをなびかせ、最高のお辞儀を披露します。
「ごきげんよう、勇敢な兵士の皆様。私はピーチベル辺境伯家の娘、モモカ・フォン・ピーチベルと申します」
「ピーチベル……? 王太子殿下と婚約破棄されたという、あの『桃狂い』の令嬢か?」
「あら、失礼ね。正確には『桃を愛し、桃に愛された運命の令嬢』ですわ」
私は木箱を一つ、兵士たちの前に差し出しました。
「公爵様へ、緊急の献上品を持ってまいりました。これは我が領地が誇る、国家戦略物資です」
「戦略物資だと……? ただの果物ではないのか?」
「いいえ。これは、厳しい冬を乗り越える兵士たちの士気を高め、公爵領の経済を潤す『甘い爆弾』ですわ。もし公爵様がこれをお受け取りにならないのであれば、私はこの場でこれらを全て自給自足し、この城を桃の香りで包囲して差し上げます」
兵士たちが顔を見合わせ、困惑しています。
そりゃそうでしょう。ドレスも着ていない令嬢が、農具を持った屈強な男たちを引き連れて、桃を武器に城を包囲すると脅しているのですから。
「待て。主公に確認してくる。……変な動きをするなよ」
一人の兵士が城内へと走っていきました。
それから数十分。冷え込む風の中で待っていると、重厚な城門がゆっくりと開き、一人の男性が姿を現しました。
漆黒の軍服に身を包み、透き通るような銀髪をなびかせた、冷徹そのものの美貌。
アルスター公爵、その人です。
「……ピーチベル家の娘か。私の時間を奪うに値する理由があるのだろうな?」
その声は、まるで万年雪を切り裂くような鋭さを持っていました。
普通の令嬢なら腰を抜かすところでしょうが、私はむしろ、彼のその「冷たさ」に感動していました。
(なんて素晴らしい……! この温度、桃を保管するのに最適な地下室と同じですわ!)
「お初にお目にかかります、アルスター公爵。単刀直入に申し上げますわ。私と、世界一甘いビジネスを始めませんか?」
「ビジネスだと? 私は甘いものは好まない。それに、王家と揉めている家に関わるのは非合理的だ」
「あら、非合理的? 公爵様、あなたはご自分の領民が、冬の間にどれほど新鮮なビタミンと糖分を求めているか、ご存知ないのですか?」
私は木箱の蓋を、バッ! と勢いよく開けました。
中から現れた「黄金桃」が、北国の薄暗い空の下で、まるで太陽のように黄金色の輝きを放ちます。
同時に、濃厚で官能的な香りが、凍てついた空気を一瞬にして春へと塗り替えました。
「……っ!?」
公爵の眉が、ピクリと動きました。
無機質だった彼の瞳に、一瞬だけ、抗いがたい本能の光が宿ったのを私は見逃しませんでした。
「これは……ただの桃ではないな」
「ええ。これは私の魂を削り、泥にまみれて育て上げた『奇跡の果実』。王家はこれを手放しましたが、賢明なあなたなら、この価値がわかるはず。これを一口召し上がってもなお、私を追い出すとおっしゃるのであれば……」
私は彼を一歩、踏み込んで見上げました。
「私は大人しく、この桃の種をあなたの城庭に埋めて帰りますわ。十年後、ここが桃源郷になった頃にまたお会いしましょう」
「……フッ、面白い。ついてこい、モモカ。その『戦略物資』の真偽、私の舌で確かめてやろう」
氷の公爵が、わずかに口角を上げました。
勝利の予感。
私は心の中でガッツポーズを決め、重い木箱を抱えて、彼に続くように城の奥へと足を踏み入れました。
外の景色は次第に緑を失い、冷たく厳しい岩肌と、薄暗い針葉樹林が広がっていきます。
「お嬢様、そろそろアルスター公爵領の境界です。……本当に、このまま突っ込むおつもりで?」
御者のトマスが、ガタガタと震える声で尋ねてきます。
彼が恐れるのも無理はありません。
北の盾、王国の冷徹な守護者、そして「氷の公爵」ことアルスター様。
彼は合理性を欠くもの、そして「無駄な社交」をこの世で最も嫌うと言われています。
「トマス。寒くなってきましたわね。でも、この寒さこそが、桃の糖度をギュッと閉じ込めるための天然の冷蔵庫になるんですのよ」
「お嬢様……。さっきから桃の話しかしていませんね。相手はあの公爵様ですよ? 一歩間違えば、桃ごと凍らされて追い出されます」
「構いませんわ。凍った桃は、それはそれでシャーベットのような新食感として売り出せばいいだけですもの」
私は窓の外に目を向けました。
確かに空気は刺すように冷たいですが、私の心は、この先に待つ「巨大な市場」への期待で、桃のように赤く火照っていました。
やがて、切り立った崖の上にそびえ立つ、堅固な黒石造りの城が見えてきました。
アルスター公爵家の居城「アイシクル城」です。
城門の前に馬車が止まると、すぐさま槍を手にした兵士たちが周囲を囲みました。
「止まれ! ここはアルスター公爵領だ。事前の通達なき通行、および訪問は認められん!」
私は落ち着いて馬車の扉を開け、ゆっくりと大地に足を下ろしました。
農作業着の上に羽織った厚手のマントをなびかせ、最高のお辞儀を披露します。
「ごきげんよう、勇敢な兵士の皆様。私はピーチベル辺境伯家の娘、モモカ・フォン・ピーチベルと申します」
「ピーチベル……? 王太子殿下と婚約破棄されたという、あの『桃狂い』の令嬢か?」
「あら、失礼ね。正確には『桃を愛し、桃に愛された運命の令嬢』ですわ」
私は木箱を一つ、兵士たちの前に差し出しました。
「公爵様へ、緊急の献上品を持ってまいりました。これは我が領地が誇る、国家戦略物資です」
「戦略物資だと……? ただの果物ではないのか?」
「いいえ。これは、厳しい冬を乗り越える兵士たちの士気を高め、公爵領の経済を潤す『甘い爆弾』ですわ。もし公爵様がこれをお受け取りにならないのであれば、私はこの場でこれらを全て自給自足し、この城を桃の香りで包囲して差し上げます」
兵士たちが顔を見合わせ、困惑しています。
そりゃそうでしょう。ドレスも着ていない令嬢が、農具を持った屈強な男たちを引き連れて、桃を武器に城を包囲すると脅しているのですから。
「待て。主公に確認してくる。……変な動きをするなよ」
一人の兵士が城内へと走っていきました。
それから数十分。冷え込む風の中で待っていると、重厚な城門がゆっくりと開き、一人の男性が姿を現しました。
漆黒の軍服に身を包み、透き通るような銀髪をなびかせた、冷徹そのものの美貌。
アルスター公爵、その人です。
「……ピーチベル家の娘か。私の時間を奪うに値する理由があるのだろうな?」
その声は、まるで万年雪を切り裂くような鋭さを持っていました。
普通の令嬢なら腰を抜かすところでしょうが、私はむしろ、彼のその「冷たさ」に感動していました。
(なんて素晴らしい……! この温度、桃を保管するのに最適な地下室と同じですわ!)
「お初にお目にかかります、アルスター公爵。単刀直入に申し上げますわ。私と、世界一甘いビジネスを始めませんか?」
「ビジネスだと? 私は甘いものは好まない。それに、王家と揉めている家に関わるのは非合理的だ」
「あら、非合理的? 公爵様、あなたはご自分の領民が、冬の間にどれほど新鮮なビタミンと糖分を求めているか、ご存知ないのですか?」
私は木箱の蓋を、バッ! と勢いよく開けました。
中から現れた「黄金桃」が、北国の薄暗い空の下で、まるで太陽のように黄金色の輝きを放ちます。
同時に、濃厚で官能的な香りが、凍てついた空気を一瞬にして春へと塗り替えました。
「……っ!?」
公爵の眉が、ピクリと動きました。
無機質だった彼の瞳に、一瞬だけ、抗いがたい本能の光が宿ったのを私は見逃しませんでした。
「これは……ただの桃ではないな」
「ええ。これは私の魂を削り、泥にまみれて育て上げた『奇跡の果実』。王家はこれを手放しましたが、賢明なあなたなら、この価値がわかるはず。これを一口召し上がってもなお、私を追い出すとおっしゃるのであれば……」
私は彼を一歩、踏み込んで見上げました。
「私は大人しく、この桃の種をあなたの城庭に埋めて帰りますわ。十年後、ここが桃源郷になった頃にまたお会いしましょう」
「……フッ、面白い。ついてこい、モモカ。その『戦略物資』の真偽、私の舌で確かめてやろう」
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