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王宮から公爵家の馬車に揺られること三十分。
私は屋敷に到着するなり、自室へと駆け込みました。
後ろから侍女のアリスが「お嬢様、落ち着いてください!」と叫んでいますが、落ち着いている暇などありません。
時間は有限。そして自由へのカウントダウンは既に始まっているのです。
「アリス、ぼさっとしないで。クローゼットの奥にある、あの『非常時用トランク』を出してちょうだい」
「ひ、非常時用……? ああ、あの三年前から準備されていた、やたらと頑丈な革の箱ですか?」
「そう、それよ。中身の確認も手伝って。金貨、宝石、換金性の高い美術品、そして隣国の永住許可証……よし、漏れはないわね」
私はドレスの背中の紐を強引に引きちぎりながら、手際よく着替えを始めました。
パーティー用の豪華なドレスなど、これからの旅には邪魔なだけです。
動きやすい厚手のトラベルスーツに身を包み、髪を一つに束ねます。
「お嬢様、本当に……本当に行ってしまわれるのですか? 殿下との婚約破棄なんて、旦那様が黙っていないはずですわ!」
「お父様? ええ、あの方は今ごろ王宮で顔を真っ赤にして叫んでいるでしょうね。でも、あの方に私の人生をこれ以上浪費させる権利はないわ」
その時、一階から激しい足音が聞こえてきました。
地響きのような怒鳴り声と共に、私の部屋の扉が勢いよく蹴り開けられます。
そこに立っていたのは、顔を真っ赤に染めた父、アルマ公爵でした。
「ダイヤ! 貴様、何ということをしてくれたのだ!」
「あらお父様。夜分遅くにお疲れ様です。お顔の血圧が上がっているようですが、お体は大丈夫ですか?」
「ふざけるな! カイル殿下から聞いたぞ! 婚約破棄を二つ返事で承諾したそうではないか! なぜ泣いて縋らん! なぜ許しを請わんのだ!」
父は机を叩き、私を指差して震えています。
彼にとって、私は王家とのパイプを繋ぐための「便利な道具」に過ぎなかったのでしょう。
その道具が勝手に契約を解除してきたのだから、腹が立つのも無理はありません。
「お父様。泣いて縋るという行為には、平均して二時間の時間と、相当量の塩分・水分の排出が伴います。そのコストを支払ったところで、あのおバカな殿下が考えを変える確率は統計上〇・二パーセント以下。やるだけ無駄ですわ」
「統計だと!? 貴様、親に向かって何を……!」
「それよりもお父様。こちらをご覧ください。私がこれまでに公爵家の領地経営、および王宮の予算編成を代行した際の『コンサルティング料』の明細です」
私は用意していた分厚い書類を、父の鼻先に突きつけました。
父は呆然とした顔で、そこに書かれた莫大な金額を見つめています。
「な、なんだこれは……。我が家の年収の三倍近いではないか!」
「当然です。私が寝る間も惜しんで働いた成果ですから。今すぐ全額を支払えとは言いません。その代わり、今この瞬間をもって、私はアルマ公爵家を勘当されたということにしてください。この書類は、その『手切れ金』として相殺してあげますわ」
「勘当……だと? 貴様、家を捨ててどこへ行くつもりだ!」
「どこでも。少なくとも、有能な人間を道具としか見ないこの国よりは、マシな場所へ行きますわ。アリス、荷物を運んで」
「は、はいっ!」
アリスは私の勢いに押され、震えながらトランクを抱え上げました。
父はまだ、書類に書かれた数字に目を回しているようです。
「待て、ダイヤ! まだ話は終わって……!」
「終わっていますわ。あ、言い忘れましたが、地下のワインセラーにある一番高いヴィンテージワイン、一本いただきましたから。旅の景気づけに」
私は父の横をすり抜け、軽やかな足取りで廊下を歩きます。
これまでこの屋敷の壁に飾られた絵画や、高価な調度品を見るたびに「これを売ればいくらになるかしら」と考えていた日々ともおさらばです。
玄関まで来ると、執事や使用人たちが不安そうに集まっていました。
彼らの中には、私がどれほど仕事をこなしていたか知っている者もいます。
「皆様、短い間でしたが、効率的な業務遂行にご協力いただき感謝します。明日からは、あの無能な……失礼、お父様の指示に従って、せいぜい頑張ってくださいね」
「お、お嬢様……!」
「では、さようなら。……あ、アリス。あなた、もし私の新しい商会で働きたいなら、一ヶ月後に隣国の『銀の狐亭』に来なさい。給料は今の三倍出すわよ」
「さんば……! 行きます! 這ってでも行きますわ、お嬢様!」
アリスの力強い返事を聞いて、私は満足げに頷きました。
優秀な人材の確保。これも起業には不可欠な要素です。
屋敷の外には、事前に手配しておいた真っ黒な馬車が待機していました。
夜の闇に紛れて、国境を越えるための秘密のルートを通る手はずになっています。
「さあ、出発よ。御者さん、速度優先でお願い。馬のスタミナは気にしなくていいわ。予備の馬代は多めに払ってあるから」
「はいよ、お嬢様! 景気いいねぇ!」
馬車が走り出し、公爵家の門をくぐり抜けます。
後ろを振り返ると、窓から父が身を乗り出して何かを叫んでいるのが見えましたが、風の音にかき消されて聞こえません。
「(さあ、まずは国境の検問ね。あそこの守衛は甘いものが好きだから、王室御用達の高級チョコを用意してあるわ。……ふふ、予定通り。すべては計画通りだわ)」
私は座席に深く腰掛け、トランクの中に隠した金貨の袋を一つ、愛おしそうに撫でました。
愛も、名誉も、地位もいらない。
必要なのは、知恵と、勇気と、そして誰にも文句を言わせない圧倒的な「資産」です。
「おやすみなさい、腐りかけた私の故郷。明日、私が目覚める頃には、新しいビジネスの香りがしているはずよ」
夜の街道を、一筋の光のように馬車が駆け抜けていきます。
悪役令嬢と呼ばれた女の、あまりにも清々しい「夜逃げ」でした。
私は屋敷に到着するなり、自室へと駆け込みました。
後ろから侍女のアリスが「お嬢様、落ち着いてください!」と叫んでいますが、落ち着いている暇などありません。
時間は有限。そして自由へのカウントダウンは既に始まっているのです。
「アリス、ぼさっとしないで。クローゼットの奥にある、あの『非常時用トランク』を出してちょうだい」
「ひ、非常時用……? ああ、あの三年前から準備されていた、やたらと頑丈な革の箱ですか?」
「そう、それよ。中身の確認も手伝って。金貨、宝石、換金性の高い美術品、そして隣国の永住許可証……よし、漏れはないわね」
私はドレスの背中の紐を強引に引きちぎりながら、手際よく着替えを始めました。
パーティー用の豪華なドレスなど、これからの旅には邪魔なだけです。
動きやすい厚手のトラベルスーツに身を包み、髪を一つに束ねます。
「お嬢様、本当に……本当に行ってしまわれるのですか? 殿下との婚約破棄なんて、旦那様が黙っていないはずですわ!」
「お父様? ええ、あの方は今ごろ王宮で顔を真っ赤にして叫んでいるでしょうね。でも、あの方に私の人生をこれ以上浪費させる権利はないわ」
その時、一階から激しい足音が聞こえてきました。
地響きのような怒鳴り声と共に、私の部屋の扉が勢いよく蹴り開けられます。
そこに立っていたのは、顔を真っ赤に染めた父、アルマ公爵でした。
「ダイヤ! 貴様、何ということをしてくれたのだ!」
「あらお父様。夜分遅くにお疲れ様です。お顔の血圧が上がっているようですが、お体は大丈夫ですか?」
「ふざけるな! カイル殿下から聞いたぞ! 婚約破棄を二つ返事で承諾したそうではないか! なぜ泣いて縋らん! なぜ許しを請わんのだ!」
父は机を叩き、私を指差して震えています。
彼にとって、私は王家とのパイプを繋ぐための「便利な道具」に過ぎなかったのでしょう。
その道具が勝手に契約を解除してきたのだから、腹が立つのも無理はありません。
「お父様。泣いて縋るという行為には、平均して二時間の時間と、相当量の塩分・水分の排出が伴います。そのコストを支払ったところで、あのおバカな殿下が考えを変える確率は統計上〇・二パーセント以下。やるだけ無駄ですわ」
「統計だと!? 貴様、親に向かって何を……!」
「それよりもお父様。こちらをご覧ください。私がこれまでに公爵家の領地経営、および王宮の予算編成を代行した際の『コンサルティング料』の明細です」
私は用意していた分厚い書類を、父の鼻先に突きつけました。
父は呆然とした顔で、そこに書かれた莫大な金額を見つめています。
「な、なんだこれは……。我が家の年収の三倍近いではないか!」
「当然です。私が寝る間も惜しんで働いた成果ですから。今すぐ全額を支払えとは言いません。その代わり、今この瞬間をもって、私はアルマ公爵家を勘当されたということにしてください。この書類は、その『手切れ金』として相殺してあげますわ」
「勘当……だと? 貴様、家を捨ててどこへ行くつもりだ!」
「どこでも。少なくとも、有能な人間を道具としか見ないこの国よりは、マシな場所へ行きますわ。アリス、荷物を運んで」
「は、はいっ!」
アリスは私の勢いに押され、震えながらトランクを抱え上げました。
父はまだ、書類に書かれた数字に目を回しているようです。
「待て、ダイヤ! まだ話は終わって……!」
「終わっていますわ。あ、言い忘れましたが、地下のワインセラーにある一番高いヴィンテージワイン、一本いただきましたから。旅の景気づけに」
私は父の横をすり抜け、軽やかな足取りで廊下を歩きます。
これまでこの屋敷の壁に飾られた絵画や、高価な調度品を見るたびに「これを売ればいくらになるかしら」と考えていた日々ともおさらばです。
玄関まで来ると、執事や使用人たちが不安そうに集まっていました。
彼らの中には、私がどれほど仕事をこなしていたか知っている者もいます。
「皆様、短い間でしたが、効率的な業務遂行にご協力いただき感謝します。明日からは、あの無能な……失礼、お父様の指示に従って、せいぜい頑張ってくださいね」
「お、お嬢様……!」
「では、さようなら。……あ、アリス。あなた、もし私の新しい商会で働きたいなら、一ヶ月後に隣国の『銀の狐亭』に来なさい。給料は今の三倍出すわよ」
「さんば……! 行きます! 這ってでも行きますわ、お嬢様!」
アリスの力強い返事を聞いて、私は満足げに頷きました。
優秀な人材の確保。これも起業には不可欠な要素です。
屋敷の外には、事前に手配しておいた真っ黒な馬車が待機していました。
夜の闇に紛れて、国境を越えるための秘密のルートを通る手はずになっています。
「さあ、出発よ。御者さん、速度優先でお願い。馬のスタミナは気にしなくていいわ。予備の馬代は多めに払ってあるから」
「はいよ、お嬢様! 景気いいねぇ!」
馬車が走り出し、公爵家の門をくぐり抜けます。
後ろを振り返ると、窓から父が身を乗り出して何かを叫んでいるのが見えましたが、風の音にかき消されて聞こえません。
「(さあ、まずは国境の検問ね。あそこの守衛は甘いものが好きだから、王室御用達の高級チョコを用意してあるわ。……ふふ、予定通り。すべては計画通りだわ)」
私は座席に深く腰掛け、トランクの中に隠した金貨の袋を一つ、愛おしそうに撫でました。
愛も、名誉も、地位もいらない。
必要なのは、知恵と、勇気と、そして誰にも文句を言わせない圧倒的な「資産」です。
「おやすみなさい、腐りかけた私の故郷。明日、私が目覚める頃には、新しいビジネスの香りがしているはずよ」
夜の街道を、一筋の光のように馬車が駆け抜けていきます。
悪役令嬢と呼ばれた女の、あまりにも清々しい「夜逃げ」でした。
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