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国境付近の宿場町。
あと数キロで隣国との境界線というところで、私の馬車は不自然に停止しました。
御者の「お、お嬢様! 後ろから王室の騎兵隊が!」という悲鳴に近い声が聞こえます。
「……しつこいわね。ストーカー規制法があれば即座に訴えているところよ。あ、この世界にそんな便利な法律はなかったわ」
私は溜息をつき、愛用の計算機(魔石式)をバッグに仕舞いました。
馬車の扉が乱暴に開けられると、そこには息を切らしたカイル様と、ハンカチを握りしめて今にも泣き出しそうなメルさんの姿がありました。
「待て! 逃がさんぞ、ダイヤ! 貴様、公爵家の金庫から多額の資金を持ち出したそうだな!」
「人聞きが悪いわね。あれは私の正当な退職金……いえ、慰謝料の先払いです。お父様との合意の上ですよ。あ、合意というか『拒否権を与えなかった』だけですけれど」
「ダイヤ様ぁ……! 私の、私のせいで、あなたがこんな風に国を追われるなんて……っ!」
メルさんが、私の足元に崩れ落ちるようにして泣き始めました。
その仕草、角度、涙の量。
どこからどう見ても「悲劇のヒロイン」として満点の演技です。
「メル、君が泣くことはない。悪いのはすべて、反省の色も見せずに逃げ出そうとしたこの女なのだから」
「でもぉ、カイル様ぁ……。ダイヤ様はきっと、私への嫉妬で心が壊れてしまったんですわ。ねえ、ダイヤ様、今からでも謝れば、カイル様もきっと許してくださいます!」
私は、彼女の潤んだ瞳をじっと見つめました。
そして、手元の手帳にスラスラと何かを書き込みます。
「……ええと、メルさん。今ので合計時間が三分加算されました」
「え? な、何のことですの?」
「私の貴重な人生の時間を、あなたの下手な芝居に付き合わせていることへの損害賠償額です。今の『しおらしい私』のポーズ、市場価格でいうと大体銀貨三枚分くらいの価値しかありませんけれど、私の時給は高いのですよ?」
メルさんの泣き顔が、一瞬で固まりました。
彼女の計算では、私がここで激昂するか、あるいは絶望して泣き崩れるはずだったのでしょう。
「貴様……! メルがこれほどまでに心を痛めているというのに、また金の話か! どこまで汚らわしい女なんだ!」
「カイル様、お言葉ですが。『汚らわしい』という形容詞は、現在進行形で国庫の予算を使い込み、このメルさんの高級美容クリーム代に充てている殿下にこそふさわしいかと」
「なっ……! なぜそれを!」
「私がつけていた裏帳簿を甘く見ないでください。殿下、あなたが先週の夜会でメルさんに贈った『深海の真珠ネックレス』。あれ、私が来年度の治水工事予算から捻出するために頭を抱えていた予備費から出ていますわよね?」
カイル様が、目に見えて動揺し始めました。
彼は、私が王宮の書類をただ「処理」していただけだと思っていたようですが、私はすべての金の流れを把握していました。
「治水工事……? そんなもの、後回しでいいだろう!」
「その『後回し』のせいで、来年の梅雨時期には王都の下町が浸水する計算になっています。被害総額は推定金貨五千枚。その責任、婚約破棄した私にはもう関係ありませんが、次期国王としてどう説明なさるおつもり?」
「五、五千枚……?」
「まあ、頑張ってください。あ、メルさん。先ほどから流しているその涙ですが、もし本当に私のせいで泣いているのでしたら、その水分を隣国の干ばつ地域にでも寄付してはいかがかしら。一滴あたり〇・〇一ルクの価値くらいにはなるかもしれませんわ」
私はメルさんの横を通り過ぎ、馬車のステップに足をかけました。
メルさんは呆然とした表情で私を見上げています。
「ダイヤ……様……。あなた、怖いですわ……。カイル様、やっぱりこの方は悪魔ですわ!」
「ええ、効率の悪さを何よりも嫌う悪魔です。……さあ、御者さん。出発して。これ以上ここにいると、私の知能指数まで下がりそうだわ」
「き、貴様! 逃げるのか! 戻れ! 戻ってこの帳簿の計算をやり直せ! メル、どうすればいいんだ、この数字の羅列は!」
カイル様が地面に散らばった書類を指差して叫んでいますが、私は窓を閉め、カーテンを引きました。
彼らは気づいていないのでしょう。
有能な「悪役」を排除した後の世界が、どれほど無慈悲な現実(赤字)に支配されるのかを。
「ふう。これでようやく静かになるわね。……アリス、次の街に着いたら、一番高い紅茶を淹れてちょうだい。あのおバカな声を聞いたせいで、耳が汚れちゃったわ」
「はい、お嬢様! 喜んで!」
馬車が再び動き出し、ガタンと音を立てて国境のゲートを越えました。
背後でカイル様の情けない叫び声が遠ざかっていきます。
「(さあ、ここからは未知の領域。まずは隣国ノートンの商業ギルドに挨拶ね。あそこのギルド長は、かなりの強欲だと聞いているわ……。ふふ、楽しみ。私とどっちがより効率的に稼げるか、勝負ですわね)」
私は暗い馬車の中で、新しい手帳の真っ白なページを開きました。
そこには「隣国支配計画」という、およそ令嬢とは思えない物騒なタイトルが踊っています。
愛なんて、お腹を膨らませてはくれません。
ですが、積み上げた金貨の山は、いつだって私を裏切らない。
私は窓の外に広がる広大な草原を見つめながら、勝利を確信した笑みを浮かべるのでした。
あと数キロで隣国との境界線というところで、私の馬車は不自然に停止しました。
御者の「お、お嬢様! 後ろから王室の騎兵隊が!」という悲鳴に近い声が聞こえます。
「……しつこいわね。ストーカー規制法があれば即座に訴えているところよ。あ、この世界にそんな便利な法律はなかったわ」
私は溜息をつき、愛用の計算機(魔石式)をバッグに仕舞いました。
馬車の扉が乱暴に開けられると、そこには息を切らしたカイル様と、ハンカチを握りしめて今にも泣き出しそうなメルさんの姿がありました。
「待て! 逃がさんぞ、ダイヤ! 貴様、公爵家の金庫から多額の資金を持ち出したそうだな!」
「人聞きが悪いわね。あれは私の正当な退職金……いえ、慰謝料の先払いです。お父様との合意の上ですよ。あ、合意というか『拒否権を与えなかった』だけですけれど」
「ダイヤ様ぁ……! 私の、私のせいで、あなたがこんな風に国を追われるなんて……っ!」
メルさんが、私の足元に崩れ落ちるようにして泣き始めました。
その仕草、角度、涙の量。
どこからどう見ても「悲劇のヒロイン」として満点の演技です。
「メル、君が泣くことはない。悪いのはすべて、反省の色も見せずに逃げ出そうとしたこの女なのだから」
「でもぉ、カイル様ぁ……。ダイヤ様はきっと、私への嫉妬で心が壊れてしまったんですわ。ねえ、ダイヤ様、今からでも謝れば、カイル様もきっと許してくださいます!」
私は、彼女の潤んだ瞳をじっと見つめました。
そして、手元の手帳にスラスラと何かを書き込みます。
「……ええと、メルさん。今ので合計時間が三分加算されました」
「え? な、何のことですの?」
「私の貴重な人生の時間を、あなたの下手な芝居に付き合わせていることへの損害賠償額です。今の『しおらしい私』のポーズ、市場価格でいうと大体銀貨三枚分くらいの価値しかありませんけれど、私の時給は高いのですよ?」
メルさんの泣き顔が、一瞬で固まりました。
彼女の計算では、私がここで激昂するか、あるいは絶望して泣き崩れるはずだったのでしょう。
「貴様……! メルがこれほどまでに心を痛めているというのに、また金の話か! どこまで汚らわしい女なんだ!」
「カイル様、お言葉ですが。『汚らわしい』という形容詞は、現在進行形で国庫の予算を使い込み、このメルさんの高級美容クリーム代に充てている殿下にこそふさわしいかと」
「なっ……! なぜそれを!」
「私がつけていた裏帳簿を甘く見ないでください。殿下、あなたが先週の夜会でメルさんに贈った『深海の真珠ネックレス』。あれ、私が来年度の治水工事予算から捻出するために頭を抱えていた予備費から出ていますわよね?」
カイル様が、目に見えて動揺し始めました。
彼は、私が王宮の書類をただ「処理」していただけだと思っていたようですが、私はすべての金の流れを把握していました。
「治水工事……? そんなもの、後回しでいいだろう!」
「その『後回し』のせいで、来年の梅雨時期には王都の下町が浸水する計算になっています。被害総額は推定金貨五千枚。その責任、婚約破棄した私にはもう関係ありませんが、次期国王としてどう説明なさるおつもり?」
「五、五千枚……?」
「まあ、頑張ってください。あ、メルさん。先ほどから流しているその涙ですが、もし本当に私のせいで泣いているのでしたら、その水分を隣国の干ばつ地域にでも寄付してはいかがかしら。一滴あたり〇・〇一ルクの価値くらいにはなるかもしれませんわ」
私はメルさんの横を通り過ぎ、馬車のステップに足をかけました。
メルさんは呆然とした表情で私を見上げています。
「ダイヤ……様……。あなた、怖いですわ……。カイル様、やっぱりこの方は悪魔ですわ!」
「ええ、効率の悪さを何よりも嫌う悪魔です。……さあ、御者さん。出発して。これ以上ここにいると、私の知能指数まで下がりそうだわ」
「き、貴様! 逃げるのか! 戻れ! 戻ってこの帳簿の計算をやり直せ! メル、どうすればいいんだ、この数字の羅列は!」
カイル様が地面に散らばった書類を指差して叫んでいますが、私は窓を閉め、カーテンを引きました。
彼らは気づいていないのでしょう。
有能な「悪役」を排除した後の世界が、どれほど無慈悲な現実(赤字)に支配されるのかを。
「ふう。これでようやく静かになるわね。……アリス、次の街に着いたら、一番高い紅茶を淹れてちょうだい。あのおバカな声を聞いたせいで、耳が汚れちゃったわ」
「はい、お嬢様! 喜んで!」
馬車が再び動き出し、ガタンと音を立てて国境のゲートを越えました。
背後でカイル様の情けない叫び声が遠ざかっていきます。
「(さあ、ここからは未知の領域。まずは隣国ノートンの商業ギルドに挨拶ね。あそこのギルド長は、かなりの強欲だと聞いているわ……。ふふ、楽しみ。私とどっちがより効率的に稼げるか、勝負ですわね)」
私は暗い馬車の中で、新しい手帳の真っ白なページを開きました。
そこには「隣国支配計画」という、およそ令嬢とは思えない物騒なタイトルが踊っています。
愛なんて、お腹を膨らませてはくれません。
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