探偵尾賀叉反『翼とヒナゲシと赤き心臓』

安田 景壹

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『翼とヒナゲシと赤き心臓』7

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7


 通された部屋は、驚いた事に武器庫だった。
 さながら特殊部隊の装備群だ。拳銃、小銃、機関銃、散弾銃。グレネード・ランチャーも見受けられる。
一体、何を相手にする気なのか。
「《モンストロ》」
背を向けたまま、少年――白王が口を開いた。
「僕らの組織が開発している回帰症のための特効薬だよ。生体電流を強化して細胞をコントロールし、身体を意のままに変化させる。うちの博士によると、五年後には世界中から『回帰症』という言葉を消せるくらい効き目があるんだって」
「何を……馬鹿な事を」


 ようやく全身から痺れが取れてきた。銃器のある棚は全て格子戸シャッターによって閉ざされている。まず、それを確認する。
「そもそも、お前は一体何者だ。俺を何の実験に使おうとしている?」
「僕は組織のあるセクションにおける幹部。あの脱走者、レベッカ・シャーレイ・アンダーソンの拿捕を命じられて部隊を指揮した」
「部隊を指揮、だと。その割には、どいつもこいつもてんでばらばらな動きだったじゃないか」
「そもそも命令がおかしいんだよ。どれだけ優秀か知らないけどさ、裏切り者を生かして捕まえる必要なんてあると思う?」
 装備類が入っているのであろう、黒いボックスに腰かけて、ようやく白王はこちらを向いた。
 十四、五というくらいだろう。小奇麗な顔立ちにある、無垢ささえ感じる大きな瞳が、純粋に疑問を投げかけていた。


「死んでしまっても構わなかったと?」
「ま、後に実験があったから、実際本当に危なくなったらその時は止めに入ったけど。死んじゃっても別に良かったかなー、と」
「人の命を何だと思っている」
 腹底から純粋な怒りが湧いてきていた。
 少年は目の前の大人の怒りなど歯牙にもかけない。尻尾を揺らしながら、猫の手のような手袋の先を頬に当てて小首を傾げる。それから、無邪気に嗤った。
「何とも? 人間なんて僕が撫でればすぐ死ぬもの。いちいち気にかけてらんないよ」
「……お前、今日までどうやって生きてきた。一人で生きてきたわけじゃないだろ」
「なあに、お説教? やめてよね、僕、説教嫌いだし。ていうかさ……」
 室温が一つ下がるかのようだった。少年の瞳が刃のように煌めいた。
「つべこべ言うなら殺しちゃうよ?」


 殺気を纏った白王の視線が、槍のようにその穂先を突き付けていた。
「人を簡単に殺せるつもりか」
「君だって何人も殺したでしょ。蜥蜴のチンピラを追った時にさ」
 少年の目の中に嗜虐的な色が浮かんでいた。
 先日の事だ。勿論、覚えている。二年ぶりに握った銃把、危機の中で対峙した敵、銃弾を撃ち込んだ相手が動かなくなる、あの瞬間の虚無。
「初めて人殺しをした割には落ち着いたもんだよね。案外、人の命なんて何とも思ってないんじゃないの?」
「……俺が嘆いても、殺した者は戻ってこない」
 心に仮面を被せる。何一つ通さない鉄仮面を。
「生きるために武器を使うなら、いずれは直面する事だ。俺は戦って、生き残った。死んでやる理由はなかった。それだけだ」
「ふうん。じゃあ、また命を狙われたら、その相手を殺せるの?」
「そんな質問に答える義務はない。用があるのならさっさと話せ」


 叉反の言葉に、白王は眉根を寄せたが、鼻を鳴らして、まあいいやと言った。
「先日君が殺した嵐場らんば――あのライオンのフュージョナーね。本当だったら今回の被験者になるはずだったんだ。でも、あいつ死んじゃったから、代わりに君に、実験体としての白羽の矢が立ったってわけ」
 ――嵐場はある集団に属していた男だった。《ゴクマ》。つい最近まで、ナユタ周辺を騒がせていたテロリスト集団。数週間前、叉反はある人物の行方を追う過程でこの集団と関わり、命を守るために、獣と化した嵐場を屠った。
「何故、俺だ」
「組織が求める条件をクリアし得るから、だよ。当たり前だろ。君や嵐場みたいな体力馬鹿なら耐えられると踏んで、わざわざ身柄を攫ったんだ」
「……別に今日じゃなくても、いつでも狙われていたというのか」
「レベッカを追っかけなくちゃならなくなったから、急遽決行したけどね。ま、そういうわけで……」
 両腕を広げて、白王が部屋の中の銃器を指した。


「君にはこれから、ある実験に参加してもらう。見ての通り、戦闘だ。得意だって聞いたから、銃器を用意したよ。まあ、効果は薄いと思うけど、好きなのを使ってよ」
「どういう意味だ」
 白王の指が傍にあったリモコンを操作する。部屋の奥に設置された大きなモニターに、映像が映る。
 獣の声が聞こえた。大きな部屋に、今にも暴れ出しそうな巨大な黒い影。
「……さっきの男か」
「そうそう。モンストロの原液がよく回っているせいで、あんなのになっちゃった。電流のコントロールが出来ないんだ。たぶんもう二度と、真っ当な姿には戻れないだろうね」
「……随分と大した特効薬だな」


「怒るの? 人間を弄びやがって、みたいな感じ?」
「事実だろう。お前達がやっているのは、ただの冒涜だ。人間を怪物にして一体何が楽しい」
「逆に聞こう、探偵尾賀叉反。フュージョナーは果たして人間だろうか?」
 まるで王侯貴族のように、白王が尊大に腕を広げる。
「異形として生まれつき、個体差があるせいでフュージョナー同士でさえ、その苦しみを完全には分かち合えない。普通の人間は僕らをひとまとめに怪物と見るし、結局僕らも、そう納得してしまったほうが楽だ。『自分は人間ではない。人間に似た別の何かだ』ってね」
「警備員の男も同じ事を言っていたな。あくまで人間である事を放棄するのか」
「残念だけどね、探偵。それは君みたいな自分のおかしさを認められない者の言い分だ。自分が怪物である事に目を背けていれば、いずれ必ず破綻する」


 白王の指先が銃弾を摘んでいた。圧が掛かった薬莢が、紙のようにくしゃりと曲がる。
「そして、モンストロは自らと向き合った者に道を示す」
 画面の中で、黒犬の唸り声が木霊している。
「自分達が助けてやったとでも言うつもりか」
「彼は状況を打破するために退路を断ち、力に手を伸ばした。君だって生きていくために異能の力を求めたはずだ。他人を寄せ付けない絶対的な力。君にとってそれは銃だったようだけど」
 少年の言葉と共に、電子音がした。間を置かず、銃器棚の前に降りていたシャッターが、一斉に動き出す。
「聞いたよ。君は以前、自分の師匠を銃で失ったんだろ? 以来、自分を信用出来なくなって地下街のヤク中どもの群れに混じり、自然に死ぬのを待ち続けていた。でも時が過ぎて、結局探偵として復帰した。銃には手をつけないようにしていたみたいだけど、それもこの間の一件までだ。君はついに人まで殺し、今や師匠を殺した凶器に、嬉々として手を付けている」


 シャッターが完全に開き切った。銃はもう、すぐそこにある。
「探偵顔負けの調査振りだな。短期間に俺の過去まで調べたのか」
「だって、君の師匠は有名だもの。回転拳銃使いの女探偵。その銃で何人もの人間を葬った悪名高きガンスリンガー……」
 ――思えば、叉反に初めて殺人を見せたのは、師匠だ。
「自分を狙う者を撃っただけだ。それ以上でも以下でもない」
「あれ、師匠の人殺しは見逃すの? 君は結局、見たいものだけ見るんだね。人殺しは人殺しだろ。都合がいいんだよ」
「自分が信じたものを信じているだけだ。あの人は殺したという事実から目を背けなかった。俺はその姿を覚えている。知らぬ口で師匠を語るなら――」
 かつて追い続けた背中が、瞼に浮かぶ。


「まずは全力でお前を倒す」
「ははは! ベタ惚れ。悪いけど、その怒りはあの犬にぶつけてもらおう。生き残りたいんだったら従う事だね。昆虫坊やのためにも」
「……仁もここにいるのか」
 哄笑に歪んだ白王が、さらに口の端を吊り上げた。
「そう。あの子も変な子だよね。僕の仲間の部屋に閉じ込めてあるから、彼の命も僕らの手の中だ。拒否権がない事は、これでわかったよね?」
 叉反は沈黙で応じた。少なくとも、まだ反撃の機会はある。
「装置の挙動を確認するのが目的だったな」


「期待しているよ。もし実験が失敗すれば、君は間違いなく死ぬ。それじゃあ、ここまでやった意味がないから、せめて起動くらいはしてみせてよ」
「お前達の思い通りには動かない」
 棚に並んだ銃を手に取る。黒く、重い。スリングのついた軍用アサルトライフル。他にもいくつか新型の装備がある。以前、ゴクマは寄せ集めたように銃器を持っていたが、これは違う。軍関係者が本腰を入れてバックアップしない限り、ここまでの装備と設備は手に入るまい。
「俺は俺の戦いをするだけだ」


 白王は鼻で笑った。手早く火器を見繕い、装備する。
 モニターの下の壁が開き始めていた。その先は通路になっていて、明かりがなく先は見通せなかった。
「進みなよ。お手並み拝見だ、探偵」
 言われるまでもなく、闇の通路へと踏み出す。少し長いが、一本道だ。
スピーカーがあるのか、白王の声が聞こえてくる。
『ちょっと早いけど、次の実験を始めるよ。鳶の彼は使えそうかな?』
 誰かと話している。すぐに返答があった。
『まだ完全にストーンが機能していない。何らかの刺激を与える必要があるかもしれん』
『ふうん。なら、まあ仕方ない。犬だけで試そうか』
『ああ。モニターに映してくれ。今ちょっと手が離せないんでね』
『りょーかい』


 大人の声だ。年齢が高い。落ち着いていて、感情を感じさせない。
 前方に光が見えた。声が聞こえる。獣の声が。
 光の中に、叉反は足を入れた。広い部屋だ。周囲に岩のようなオブジェが多く配置されている。その奥にいるのは、黒く毛を逆立てた巨獣。
 何故か、直感した。獣の両眼に燃え滾るのは、きっと、溢れかえるような怒りだ。
『さあ始めるよ。探偵対モンストロ、戦闘実験開始だ』
 その怒りが何に向けられたものであれ、戦わなければならない。巻き込まれた嵐から、生きて帰るために。
 聳え立つ巨獣に向けて、叉反は銃を構える。
 次の瞬間、豪速で繰り出された前足の一撃が、叉反に襲い掛かった。
 ――間一髪、だ。


 瓦礫と土埃を巻き上げる巨獣の一撃を、叉反は跳び退いて躱した。続く、もう一撃。全力で地を蹴って、悪夢のような腕から逃げる。半身を向けた獣の肩に向けて拳銃の引き金を引いた。
 放たれた銃弾が黒い体毛の中へと吸い込まれる。血飛沫を上げてなお、獣の動きに怯みはない。回帰症がどうこうというレベルではない。強靭な筋肉の鎧を纏い、小山ほどにも成長したその体。怪物だというのなら、まさしく怪物だった。
「グルアァッ!!」


 咆哮と共に獣が跳ぶ。殺害は目的ではない。駆けた。腹から腰にかけて銃弾を撃ち込み、長方形の部屋の中を走る。戦略はある。だが、タイミングを選ばなければ。
 瓦礫を蹴散らし、巨獣が突進する。直線上に迫る獣の顔面を捉え、叉反は懐中にあった物のピンを抜き、放り投げた。
 放物線を描き、物体が獣の前へと落ちていく。背を向け、耳を覆い、叉反は眼前へとダイブする。刹那、物体が爆発し、激しい発光とともに苛烈な音が獣の鼓膜を刺激する。
三秒。音が静まる瞬間、叉反は振り返り、身悶えする獣に向かって、追加のスタングレネードを投擲する。二度目、三度目の爆発。障害物の影に身を隠し、叉反はその光と音から身を守った。
時間が経った。音も光も消え去った部屋が、震動した。物陰から身を出すと、立て続けに衝撃を食らった巨獣が、息も絶え絶えに震えていた。


ああなったフュージョナーの再生力が凄まじい事は知っている。だが、しばらくは動けまい。
「実験は終りだ」
 どこかで見ているであろう白王に向けて、叉反は叫んだ。
 返答はしばらくなかった。いや、小さくだが、声が聞こえていた。さも可笑しげに嗤う少年の声が。
「……ク、クク。いやまだだ、探偵。まだまだこれからだよ」
 その言葉が終わるか終らないかのうちに、巨獣の体に変化が起きていた。
 稲妻が走る。獣の体が震える。緑の電流が体を覆い尽くし、激しく打ち付けていく。
 獣が、吼えた。煙の中で何かが蠢く。四足獣の形態が瞬く間に変化していく。
 息遣いが聞こえる。荒い、人間の声が。


「……やってくれやがったな、探偵ィッ!!」
 煙を切り裂いて、影が一気に距離を詰めてくる。黒い獣の人型。獣人だ。小さくなっているものの、未だに巨腕と呼ぶに相応しい黒い腕を薙ぐように叩き付ける。咄嗟に照準を合わせた。獣の肩。だが、その時衝撃は襲ってきた。
 砕かれたのは叉反の肩だった。たった一撃。それだけで攻撃を躱し損ねた左腕が破壊された。
腕が飛んだような錯覚に、しかし相手は陥る暇を与えない。続く二撃目が腹部の肉を抉り取り、
赤い血の塊が宙に舞った。
「下らねえ爆弾でよくもやってくれたじゃねえか。この俺を正気に戻しやがって」
 獣人の足が上半身を蹴った。背から障害物に叩き付けられた時、すでに叉反にほとんど意識はなかった。
「俺はなあ、あのまま終わっちまいたかったんだ。あのまま何もわからずに死んじまえばよかったんだ。てめえを殺し損ねたばっかりにこのざまだ。見ろ、この姿を! 俺はもう元には戻れねえ。モンストロは最後の手段だった。あれで俺は死ぬはずだったんだ!」


 苛立ちと共に獣人が何度も何度も足を踏み下ろす。視界は真っ赤だ。もう痛いとすら感じない。見えるのは赤。眼球を濡らす深紅。血の赤。
 そして燃えるような――
『一気に逆転されたねえ、探偵。さあ、どうする? まだまだやれるでしょ?』
 白王の声が聞こえる。だが、自分の音は何一つ聞こえない。息も、心臓の鼓動も。感覚が遮断されている。
 ――燃えるような赤い星が見える。
「その頭を粉々してやる」
 獣人が拳を握った。放つ。暴威の拳を。


 その瞬間だった――輝く赤、獣、翼、そして蠍の尾――赤い瞳が叉反を見ていた。
「お前……!」
 右腕が、勝手に動いていた。砕かれたはずの肉体が、湯気を立ち上らせながら再生していく。
 赤い星が燃えている。
 流した血が、治癒しつつある傷口が、赤く輝いている。
 声が聞こえた。白王の声だ。呟きに近い声だったが、マイクが確かに拾っていた。
『起動したな……』
 叉反の意識は統一された。まるで機械のように、体が戦闘を再開した。
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