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『翼とヒナゲシと赤き心臓』6
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――闇の中で、大勢の手が動いている。叉反の真上で。まるで透けたガラスの下から見るように、体が仰向けになっているのがわかる。意識はぼんやりとして、起きてはいるが体に命令は下せない。幽霊にでもなったかのようだ。
ここはどこだ。俺は、一体どうなったんだ。
疑問が浮かぶが、それさえもどこか鈍麻している。
蠢く手は、どれも手袋をしていて真っ赤だった。働かない頭のせいで、それが血だと気付くのに少し時間がかかった。血。血だ。誰の血だろう。
目の前を誰かが横切った。頭部を包み込むような緑の帽子をつけている。手術着だ。とすると、どうやらこれは自分の手術らしい。気を抜くと、意識が再び眠りにつこうとする。無理に起きていたくても、力が入らない。
誰かが叉反の顔を覗き込んだ。周りと同じく帽子を被ってマスクをしている。顔はわからないが、大きなブルーの瞳が特徴的だった。どこかで見た気がする。つい最近。ここで横たわる前に。
思い出した。コンビニに駆け込んできた女。燃えるような赤髪の外国人。彼女だ。
自分を覗き込んだ相手の事を思い出したのと同じくして、女の手に何か大きな物が渡された。赤い、球体。その周りに機械めいた装置のような物も付いている。
首が少しだけ動かせた。自分の腹部が見えた。器具によって皮が留められた、開かれた腹。
女が、手に持った物体を腹へと近付ける。慎重に、慎重に降ろしていく。声が出そうになった。止せ。やめろ。装置が降りていく。内臓を掻き分け、叉反の体の中へ。
止せ。止せ。止せ。しかし、声は出ない。意識が霧の中へ紛れるように、再びぼんやりと閉ざされていく。夢中で、叉反は起き上がろうとした。拘束を逃れ、この妙な儀式から抜け出さなければならない。
やめろ。やめろ。やめろ――――……!
飛び起きた瞬間、叉反は声にならない叫びを上げながら、咄嗟に懐に手を伸ばしていた。だが実際には、銃はおろかホルスターを隠すためのコートでさえ、叉反は身に着けていなかった。周りには誰もいなかった。血で汚れた無数の手も、青い瞳の女も。
深呼吸して、汗を拭う。落ち着きを取り戻しながら、叉反は自分の格好を見た。
入院着らしい、薄緑の簡素な服。身を起こしたのは、白いシーツが掛けられたベッドの上だ。どうやらしばらく眠っていたらしい。周りはコンクリートの壁に囲われていた。部屋は、牢屋のように小さかった。
ご丁寧に、叉反の着ていた衣服は一つ残らず整えられてベッドの傍に置いてあった。財布も靴も一切が変わりなく置いてあった。銃は最初から持ってきていない。私物の携帯電話もあるが、電源が入らない。
ひとまず着替える事にした。服を脱ぎ、叉反はそっと腹のほうを見た。
怖気が走った。
縫合痕だ。下腹部の辺りに開腹した痕がある。あの悪夢はどうやら現実だったらしい。俺はここに連れて来られた後、体の中に何かを仕込まれたのだ。
しばらく考えが纏まらなかった。深呼吸を繰り返す。とにかく、まずはここを出なければ。
現状を整理する。俺は黒犬との戦いの後で、ここに連れてこられたらしい。体は大怪我を負っていて、到底動けるようなものじゃなかったはずだが、今、自分に異常はない。砕けた骨、潰された内臓でさえ再生している。
似たような事は以前にもあった。生命の危険に冒されたフュージョナーの身体が、急速回復する現象。今回もそれと考えていいのだろうか。いや、体が治ったのはこの際良しとして、気になるのは、ここに叉反を運び込んだ連中が一体何を考えているか、という事だ。奴等はこの体に妙な物を入れた。装置らしき物が付いた赤い球体。
腹部に触れる。妙に出っ張っているとか、そういう違和感はない。が、ほぼ間違いなく、あの装置は俺の体に収まっている。
まるで実験動物だ。連中は何故俺にあんな物を? そもそも、あれは一体何だ。
そこまで考えて、叉反は一つ、思い付いた。
例の装置。手術をしてまで体の中に設置したのだ。そうしようと考えついた者の心情を考えれば、次にする事は何だろう。
効果の確認。観察だ。装置を取り込んだ叉反がどうなるか、見たいはずだ。
部屋の中を見回す。ベッドの他にあるのは、衣服が載っていた棚くらいだ。出入り口は一つ。コンクリートの壁に合わない、機械制御の自動扉。
身柄を押さえたいのなら、この扉は開くまい。だがもし、叉反に何かをさせたいのなら……。
スイッチがあった。指先で触れると、緑のランプが灯った。
音もなく扉が開く。廊下には小さなオレンジの電灯が灯っているだけで、他に明かりはない。
他に選択肢はない。誰かが、きっとこの光景をどこかで監視しているだろう。まずはそいつに、話を聞く事にしよう。
――十分と掛からなかっただろう。
「ぐうァっ!」
警備室でさっきまでいた部屋をモニターしていた男の腕を捻り上げ、壁際にその体を押し付けながら、叉反は口を開いた。
「知っている事は全部教えてもらおう。ここは一体どこだ。俺の他にも誰か連れて来たのか?」
男は答えない。抵抗しようと力を入れるが、さらに強く抑え付ける。胸ポケットに入っていたカードケースを抜き取り、顔写真付きのIDを確かめた。
「菊月環境美化センター。警備員のスガロ、か」
菊月、というのはナユタ西部、新旧市街からかなり離れた、他の都市との境界線辺りの地名だ。山岳地帯で、普段は登山やハイキングを目的に訪れる人が多い。
「清掃工場が正体不明の連中の根城だったとはな」
「……消されるぜ、お前」
壁に顔を押し付けられながらも、スガロは口を開く。
「俺達の組織を侮る奴は、一人残らず消される」
「そもそもお前達の招待がなければ知りもしなかった。消される謂れはない」
「は、馬鹿な奴だな。抵抗せずに利用だけされてりゃ楽に死ねただろうに」
「俺が聞きたいのは脅し文句じゃない」
「脅しだって?」
ばちり、と腕を掴む掌に電流が流れた。
「確かめてみるか?」
稲妻が飛んだ。スガロの体から。咄嗟に手を放すのと同時に、体が突き飛ばされる。衝撃を殺さず流されながらも、壁の手前で叉反は着地する。
顔を隠すように男が右手で顔面を覆う。全身を緑の雷が取り巻いていた。
「超越……」
男が言った。呪文のように。突如として雷電は弾けた。轟音と共に迸る稲光に、スガロの体が包まれる。発光は部屋中を覆い尽くし、反射的に叉反は顔を背けた。
光が消える。電流が弾けている。目の前にいたのは、それまで見ていた男の影とは違う。
鰐だった。ただの鰐じゃない。鰐人、とでも言うべきか。二本の足で立ち、古の恐竜のように獲物を狙う体勢でありながら、その瞳にはさっきまでの男と変わらない光が宿っているようにも思える。
「回帰症、だなんて感想は言うなよ」
鰐が言った。スガロの声で。
「……回帰症でなければ、なんだ」
構えを取りながら、叉反は問う。スガロは笑った。鰐の顔で。誇るように。
「組織が俺に力を与えた。お荷物だった俺の中の鰐を力に変えたんだよ。〝モンストロ〟だ」
「モンストロ?」
「化けモンって意味さ」
鰐が一気に迫った。とてつもない筋力で床を蹴り、一気に距離が縮まる。反応するより早く、凶悪な爪が胸倉を掴み上げた。
空気を切る。巨腕が振るわれた。何をされたか認識する間もなく、叉反の体はドアへと投げつけられていた。衝撃で外れたドアの上を転がり、背の激痛に震える。
「立てよ。まだこんなもんじゃないんだろう? 探偵さんよ」
鰐が言う。確かに、回帰症じゃない。モンストロ。化け物、か。
「自分で言うなら世話がない」
立ち上がる。間合いは遠かった。向こうから仕掛けてくる気配はない。お互い手を出さないなら無論膠着だ。だが向こうには余裕がある。こちらは徒手空拳で人外を名乗る者に挑まなければならない。
「お前、何故だ」
「あん?」
ふと思った事を、叉反はスガロに問うていた。
「何故そんな姿になった。自ら求めてそうなったのか」
「ああ? 何だそれ。お前は銃を手に取る時躊躇わないだろう。俺も同じだ。目の前に力が転がっていたら迷わないだろうが」
「その結果、人と見なされなくてもか」
「何の問題がある。こちとらフュージョナーだ。最初っから人間じゃねえんだよ」
なるほど。ならば、葛藤などあるまい。
「俺達は人間じゃない、か」
「お前は人間だっていうのか。そんな尻尾が生えているのに?」
「別に間違っちゃいない。俺だって人間だ」
お互い、違う道を行く者のようだ。だが背を向けて逃げれば、奴はきっと追ってくるだろう。
どうやら倒さなければならないらしい。それが一番早く、確実に現状を突破出来る。
「やるしかねえなあ、探偵。てめえの人生はここで終わりだ」
「終わりなんかじゃない。俺は生きて先に進む」
攻め手を選択する。あとはタイミングだ。緊張の中で確信を見出す瞬間、叉反は跳び込むつもりでいた。
しかし……。
「――ストーップ!」
幼さの残る声が、張り詰めた空気を引き裂いた。
「それ以上やるなら二人まとめて僕が相手をするよ。それでもやるかい?」
叉反は動じなかった。緊張も、構えも解く事はなかった。危険な相手だとわかったからだ。目の前の鰐よりも、突如として現れた、この声の主のほうが。
「……いつの間に」
スガロが呟いた。
少年が立っていた。無邪気にさえ見える笑みを浮かべた、褐色の肌に銀髪。両手には奇妙なほど大きな手袋をしている。刺繍の入ったシャツに迷彩のカーゴパンツ。腰の辺りで、白黒縞毛の尻尾の先が揺れていた。
「スガロ、駄目じゃないか。探偵は実験で使うって言ったろ。間違って殺したらライムントになんて言うつもりだ」
「別に殺しはしませんよ。ただ、格の違いをわからせようとしただけです。白王」
スガロが頭を垂れて言った。
少年……。あいつだ。黒の巨犬を引き摺り倒した、あの少年。
「探偵尾賀叉反。起きられたんだ。元気そうで何より。僕は白王、白い王で白王だ。よろしく」
少年はそう言って、グローブのように厚い手袋に覆われた手を差し出してきた。指先には猫の爪を模したような突起が付いている。
返答する義理は、しかし、ない。
「お前達が何者かは知らない。実験だか何かに使われる理由もない。俺に何か埋め込んだのならさっさと外してもらおうか」
「威勢がいいね、探偵。でも獣人態のスガロに後れを取るようじゃ、僕には勝てない」
鰐男が少年の傍で控えていた。鰐の顔に人間らしい不敵な笑みを浮かべている。
「今ここで大人しくしてくれるなら、僕らも手荒な真似はしない。暴れるのは勝手だけど、こっちは万が一にも君に死んで欲しくはない。少なくとも実験が終わるまでは」
「使われる理由はないと、そう言ったはずだ」
「そうだろうね。でも……」
ぱちん、と白王の指が鳴った。音が発生したその瞬間、糸くずのような緑の電流が叉反の腹部へと潜り込んでいた。
腹の底で、激痛が湧き起った。体中の血管を食い破るかのような電流の流れ。神経を走り回り、思考を空白にする。
「少なくとも〝力〟を手に入れなければ、ここを出る事さえ出来ないよ?」
筋肉が全身を支えられなくなる。それでも、呻き一つ洩らさなかったのは意地のおかげだ。膝は崩れ落ちながらも叉反は意識を保っていた。その視界から白王とスガロを決して逃さぬために。
「ついておいで、探偵。まずは色々と教えてあげる」
あやすような声音で、白王が言った。
――闇の中で、大勢の手が動いている。叉反の真上で。まるで透けたガラスの下から見るように、体が仰向けになっているのがわかる。意識はぼんやりとして、起きてはいるが体に命令は下せない。幽霊にでもなったかのようだ。
ここはどこだ。俺は、一体どうなったんだ。
疑問が浮かぶが、それさえもどこか鈍麻している。
蠢く手は、どれも手袋をしていて真っ赤だった。働かない頭のせいで、それが血だと気付くのに少し時間がかかった。血。血だ。誰の血だろう。
目の前を誰かが横切った。頭部を包み込むような緑の帽子をつけている。手術着だ。とすると、どうやらこれは自分の手術らしい。気を抜くと、意識が再び眠りにつこうとする。無理に起きていたくても、力が入らない。
誰かが叉反の顔を覗き込んだ。周りと同じく帽子を被ってマスクをしている。顔はわからないが、大きなブルーの瞳が特徴的だった。どこかで見た気がする。つい最近。ここで横たわる前に。
思い出した。コンビニに駆け込んできた女。燃えるような赤髪の外国人。彼女だ。
自分を覗き込んだ相手の事を思い出したのと同じくして、女の手に何か大きな物が渡された。赤い、球体。その周りに機械めいた装置のような物も付いている。
首が少しだけ動かせた。自分の腹部が見えた。器具によって皮が留められた、開かれた腹。
女が、手に持った物体を腹へと近付ける。慎重に、慎重に降ろしていく。声が出そうになった。止せ。やめろ。装置が降りていく。内臓を掻き分け、叉反の体の中へ。
止せ。止せ。止せ。しかし、声は出ない。意識が霧の中へ紛れるように、再びぼんやりと閉ざされていく。夢中で、叉反は起き上がろうとした。拘束を逃れ、この妙な儀式から抜け出さなければならない。
やめろ。やめろ。やめろ――――……!
飛び起きた瞬間、叉反は声にならない叫びを上げながら、咄嗟に懐に手を伸ばしていた。だが実際には、銃はおろかホルスターを隠すためのコートでさえ、叉反は身に着けていなかった。周りには誰もいなかった。血で汚れた無数の手も、青い瞳の女も。
深呼吸して、汗を拭う。落ち着きを取り戻しながら、叉反は自分の格好を見た。
入院着らしい、薄緑の簡素な服。身を起こしたのは、白いシーツが掛けられたベッドの上だ。どうやらしばらく眠っていたらしい。周りはコンクリートの壁に囲われていた。部屋は、牢屋のように小さかった。
ご丁寧に、叉反の着ていた衣服は一つ残らず整えられてベッドの傍に置いてあった。財布も靴も一切が変わりなく置いてあった。銃は最初から持ってきていない。私物の携帯電話もあるが、電源が入らない。
ひとまず着替える事にした。服を脱ぎ、叉反はそっと腹のほうを見た。
怖気が走った。
縫合痕だ。下腹部の辺りに開腹した痕がある。あの悪夢はどうやら現実だったらしい。俺はここに連れて来られた後、体の中に何かを仕込まれたのだ。
しばらく考えが纏まらなかった。深呼吸を繰り返す。とにかく、まずはここを出なければ。
現状を整理する。俺は黒犬との戦いの後で、ここに連れてこられたらしい。体は大怪我を負っていて、到底動けるようなものじゃなかったはずだが、今、自分に異常はない。砕けた骨、潰された内臓でさえ再生している。
似たような事は以前にもあった。生命の危険に冒されたフュージョナーの身体が、急速回復する現象。今回もそれと考えていいのだろうか。いや、体が治ったのはこの際良しとして、気になるのは、ここに叉反を運び込んだ連中が一体何を考えているか、という事だ。奴等はこの体に妙な物を入れた。装置らしき物が付いた赤い球体。
腹部に触れる。妙に出っ張っているとか、そういう違和感はない。が、ほぼ間違いなく、あの装置は俺の体に収まっている。
まるで実験動物だ。連中は何故俺にあんな物を? そもそも、あれは一体何だ。
そこまで考えて、叉反は一つ、思い付いた。
例の装置。手術をしてまで体の中に設置したのだ。そうしようと考えついた者の心情を考えれば、次にする事は何だろう。
効果の確認。観察だ。装置を取り込んだ叉反がどうなるか、見たいはずだ。
部屋の中を見回す。ベッドの他にあるのは、衣服が載っていた棚くらいだ。出入り口は一つ。コンクリートの壁に合わない、機械制御の自動扉。
身柄を押さえたいのなら、この扉は開くまい。だがもし、叉反に何かをさせたいのなら……。
スイッチがあった。指先で触れると、緑のランプが灯った。
音もなく扉が開く。廊下には小さなオレンジの電灯が灯っているだけで、他に明かりはない。
他に選択肢はない。誰かが、きっとこの光景をどこかで監視しているだろう。まずはそいつに、話を聞く事にしよう。
――十分と掛からなかっただろう。
「ぐうァっ!」
警備室でさっきまでいた部屋をモニターしていた男の腕を捻り上げ、壁際にその体を押し付けながら、叉反は口を開いた。
「知っている事は全部教えてもらおう。ここは一体どこだ。俺の他にも誰か連れて来たのか?」
男は答えない。抵抗しようと力を入れるが、さらに強く抑え付ける。胸ポケットに入っていたカードケースを抜き取り、顔写真付きのIDを確かめた。
「菊月環境美化センター。警備員のスガロ、か」
菊月、というのはナユタ西部、新旧市街からかなり離れた、他の都市との境界線辺りの地名だ。山岳地帯で、普段は登山やハイキングを目的に訪れる人が多い。
「清掃工場が正体不明の連中の根城だったとはな」
「……消されるぜ、お前」
壁に顔を押し付けられながらも、スガロは口を開く。
「俺達の組織を侮る奴は、一人残らず消される」
「そもそもお前達の招待がなければ知りもしなかった。消される謂れはない」
「は、馬鹿な奴だな。抵抗せずに利用だけされてりゃ楽に死ねただろうに」
「俺が聞きたいのは脅し文句じゃない」
「脅しだって?」
ばちり、と腕を掴む掌に電流が流れた。
「確かめてみるか?」
稲妻が飛んだ。スガロの体から。咄嗟に手を放すのと同時に、体が突き飛ばされる。衝撃を殺さず流されながらも、壁の手前で叉反は着地する。
顔を隠すように男が右手で顔面を覆う。全身を緑の雷が取り巻いていた。
「超越……」
男が言った。呪文のように。突如として雷電は弾けた。轟音と共に迸る稲光に、スガロの体が包まれる。発光は部屋中を覆い尽くし、反射的に叉反は顔を背けた。
光が消える。電流が弾けている。目の前にいたのは、それまで見ていた男の影とは違う。
鰐だった。ただの鰐じゃない。鰐人、とでも言うべきか。二本の足で立ち、古の恐竜のように獲物を狙う体勢でありながら、その瞳にはさっきまでの男と変わらない光が宿っているようにも思える。
「回帰症、だなんて感想は言うなよ」
鰐が言った。スガロの声で。
「……回帰症でなければ、なんだ」
構えを取りながら、叉反は問う。スガロは笑った。鰐の顔で。誇るように。
「組織が俺に力を与えた。お荷物だった俺の中の鰐を力に変えたんだよ。〝モンストロ〟だ」
「モンストロ?」
「化けモンって意味さ」
鰐が一気に迫った。とてつもない筋力で床を蹴り、一気に距離が縮まる。反応するより早く、凶悪な爪が胸倉を掴み上げた。
空気を切る。巨腕が振るわれた。何をされたか認識する間もなく、叉反の体はドアへと投げつけられていた。衝撃で外れたドアの上を転がり、背の激痛に震える。
「立てよ。まだこんなもんじゃないんだろう? 探偵さんよ」
鰐が言う。確かに、回帰症じゃない。モンストロ。化け物、か。
「自分で言うなら世話がない」
立ち上がる。間合いは遠かった。向こうから仕掛けてくる気配はない。お互い手を出さないなら無論膠着だ。だが向こうには余裕がある。こちらは徒手空拳で人外を名乗る者に挑まなければならない。
「お前、何故だ」
「あん?」
ふと思った事を、叉反はスガロに問うていた。
「何故そんな姿になった。自ら求めてそうなったのか」
「ああ? 何だそれ。お前は銃を手に取る時躊躇わないだろう。俺も同じだ。目の前に力が転がっていたら迷わないだろうが」
「その結果、人と見なされなくてもか」
「何の問題がある。こちとらフュージョナーだ。最初っから人間じゃねえんだよ」
なるほど。ならば、葛藤などあるまい。
「俺達は人間じゃない、か」
「お前は人間だっていうのか。そんな尻尾が生えているのに?」
「別に間違っちゃいない。俺だって人間だ」
お互い、違う道を行く者のようだ。だが背を向けて逃げれば、奴はきっと追ってくるだろう。
どうやら倒さなければならないらしい。それが一番早く、確実に現状を突破出来る。
「やるしかねえなあ、探偵。てめえの人生はここで終わりだ」
「終わりなんかじゃない。俺は生きて先に進む」
攻め手を選択する。あとはタイミングだ。緊張の中で確信を見出す瞬間、叉反は跳び込むつもりでいた。
しかし……。
「――ストーップ!」
幼さの残る声が、張り詰めた空気を引き裂いた。
「それ以上やるなら二人まとめて僕が相手をするよ。それでもやるかい?」
叉反は動じなかった。緊張も、構えも解く事はなかった。危険な相手だとわかったからだ。目の前の鰐よりも、突如として現れた、この声の主のほうが。
「……いつの間に」
スガロが呟いた。
少年が立っていた。無邪気にさえ見える笑みを浮かべた、褐色の肌に銀髪。両手には奇妙なほど大きな手袋をしている。刺繍の入ったシャツに迷彩のカーゴパンツ。腰の辺りで、白黒縞毛の尻尾の先が揺れていた。
「スガロ、駄目じゃないか。探偵は実験で使うって言ったろ。間違って殺したらライムントになんて言うつもりだ」
「別に殺しはしませんよ。ただ、格の違いをわからせようとしただけです。白王」
スガロが頭を垂れて言った。
少年……。あいつだ。黒の巨犬を引き摺り倒した、あの少年。
「探偵尾賀叉反。起きられたんだ。元気そうで何より。僕は白王、白い王で白王だ。よろしく」
少年はそう言って、グローブのように厚い手袋に覆われた手を差し出してきた。指先には猫の爪を模したような突起が付いている。
返答する義理は、しかし、ない。
「お前達が何者かは知らない。実験だか何かに使われる理由もない。俺に何か埋め込んだのならさっさと外してもらおうか」
「威勢がいいね、探偵。でも獣人態のスガロに後れを取るようじゃ、僕には勝てない」
鰐男が少年の傍で控えていた。鰐の顔に人間らしい不敵な笑みを浮かべている。
「今ここで大人しくしてくれるなら、僕らも手荒な真似はしない。暴れるのは勝手だけど、こっちは万が一にも君に死んで欲しくはない。少なくとも実験が終わるまでは」
「使われる理由はないと、そう言ったはずだ」
「そうだろうね。でも……」
ぱちん、と白王の指が鳴った。音が発生したその瞬間、糸くずのような緑の電流が叉反の腹部へと潜り込んでいた。
腹の底で、激痛が湧き起った。体中の血管を食い破るかのような電流の流れ。神経を走り回り、思考を空白にする。
「少なくとも〝力〟を手に入れなければ、ここを出る事さえ出来ないよ?」
筋肉が全身を支えられなくなる。それでも、呻き一つ洩らさなかったのは意地のおかげだ。膝は崩れ落ちながらも叉反は意識を保っていた。その視界から白王とスガロを決して逃さぬために。
「ついておいで、探偵。まずは色々と教えてあげる」
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