探偵尾賀叉反『翼とヒナゲシと赤き心臓』

安田 景壹

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『翼とヒナゲシと赤き心臓』5

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 情緒不安定で暴力的な黒服に腹を蹴り飛ばされ、混乱の中で気を失い、見知らぬ部屋のソファの上で目を覚ましてから、既にかなりの時間が経過していた。携帯電話の画面を確認してみれば電源が落ちている。ボタンを押しても反応がない。
「はらへった……」
 普段は使わないような乱暴な言葉で呟いて、明槻あかつきじんは思わず鼻で笑った。これじゃあ、まるで探偵だ。あの男、いつも食事の事を気にかけている気がする。質よりは、どちらかと言えば量といった感じで、いやに食事量が多い。あれは将来、絶対太ると毎度思う。


 お腹が鳴った。どうしようもなく、空腹だ。でも緊張がひどくて、何も口に入れたくない。
 布団代わりなのか、かけられていた大き目の白衣を羽織る。気を紛らわすために、仁は改めて自分が今いる部屋を見渡す。
 妙な部屋だ。扉はあるが窓はなく、しかし一人の部屋にしては随分と広い。事務机らしい大き目の机と、少し離れたところにキッチンが設置され、その横には冷蔵庫と食器棚がある。ソファの前には一本足のシンプルな丸テーブルと、来客用らしい椅子が二脚。
部屋は全体的に掃除が行き届いていて、床には塵ひとつ落ちていない。まるで誰も立ち入ってない部屋に家具だけ置いたかのようだ。


 丸テーブルの上にはココアの入った白いカップが置いてある。さっき起きた時に、部屋の主が置いていったものだ。手はつけていない。喉は乾いていたが、我慢した。
 部屋のドアが開いた。入ってきたのは部屋の主と、さっきにコンビニで出会った、赤い髪の間から白い花が一輪生えた女の人だ。どちらも白衣を着ていて、女のほうは少し疲れたような顔をしている。電灯の白い光が二人を照らし、床にその影が映っていた。
「おや、飲まなかったのかね」
 部屋の主である白衣の男が、仁の前のココアを見て言った。


「当たり前だよ。自分を攫った相手から出された飲み物なんて、飲むわけないだろ」
「馬鹿な。コルドロンのココアだぞ。一級品に無粋な物を混ぜるわけがないだろう」
 男がさも心外だという顔で言った。男の左肩甲骨辺りから生えた大蛇が、掠れた声で鳴いた。
 異様な男だった。顔立ちは、外国人らしい。大人だ。お父さんよりも年上だろう。肩幅は広く、浅黒い肌。その右頬には鱗があり、髪の毛は、左半分はしっかりと整えられているが、右半分は獣の体毛のようで、毛羽立っていた。左右の目もそれぞれに違い、左目は人間の黒い瞳、右目は金色で、鳥の物らしかった。
フュージョナー、だ。だが、常識的に言えばあり得なかった。一般的にフュージョナーと類される人間の体に現れるのは、一種類の生物だけだ。ところが、この男は目に入る部分だけで既に四種類もの動物が発現している。しかも、そのうちの一つは生きてさえいる。


「彼を一体どうするつもりです。ライムント博士」
 赤髪の女が口を開いた。二人は、どうやら知り合いらしかった。ただ、どういう関係なのかまでは、わかるはずもない。上司と部下、というところなのだろうか。
 蛇の頭が動く。緑の大蛇の視線が女に向かい、ライムント博士は蛇の頭を撫でつけながら女のほうを見た。
「まあかけたまえ、レベッカ君。話はそれからにしよう」
 ライムントはそう言って、キッチンへと足を向けた。赤髪のレベッカが仁の座るテーブルに近付き、隣の席に腰かけた。
 お互いに無言だった。レベッカの顔は曇っていて、仁を見ようとはしない。でも、こっちには聞く権利がある。自分達が巻き込まれた状況について色々な事を。


「何者なの、お姉さん達」
 レベッカは口を開かなかった。青い瞳が怯えたように揺れている。
「――ただの研究者だよ。明槻仁君」
 唐突にライムントが口を挟んできた。盆の上から湯気の立つカップを三つ、テーブルの上に置いていく。ブラックのコーヒーだった。
「研究者?」
 ライムントを睨みつけながら仁は問い返した。背蛇の男は仁の前からココアのカップを取り上げ、中身を一気に飲み干す。
「ふむ。やはり一級だな、コルドロンは」
「質問に答えてよ。今の研究者は人攫いもやるわけ?」
「研究のためならね」


 何でもない事のように言って、ライムントは盆をソファに置く。
「つまり、人でなしって事?」
「全ては運命に挑むためだ。我々フュージョナーという存在が何故生まれ、それが世界にとって何を意味するのか。そして、我々は世界に対し、どこまで自らの手で影響を及ぼし得るのか。それを知るためなら、素材を掻き集めるのに手段を選ぶ必要はない」
「僕らはあんたの研究材料ってわけ?」
 抑えようもなく怒気が膨れ上がって言葉に滲む。だが、ライムントの顔色は変わらない。
「鳶の男と、蠍の探偵。発見は偶然だったが、彼らはそれぞれ、現在行っている実験の被験者として適切だと判断した。だからレベッカ君を連れて帰るついでに回収してもらった」
「博士」
 非難がましい口調で、レベッカが口を開く。


「相手を挑発すると知って使うのはやめて下さい」
「挑発する? ふむ……」
 考え込むような仕草の後で、ライムントの目が仁を見た。
「不快だったかね?」
「すごくね。僕も叉反もあのおじさんも、あんたに良いようにされる筋合いはない」
 叉反までもが攫われていたという驚きを、仁は怒りで飲み込んだ。
「ふむ……。しかし、そう頭ごなしに否定したものかな」
 言いながら、ライムントの指がテーブルを叩いた。指で触れた場所が青く光る。と、部屋の奥の壁に光が走り、瞬く間に壁一面に映像が映し出された。
 呻きが聞えた。のた打ち回る男の姿が映っている。右腕が鳶のアシユビである男の姿が。


「おじさん!」
 男は叫び声を上げていた。骨が折れ曲がる音が聞こえる。服が裂けて、背中が盛り上がり、赤い血を流しながら急激に身体が変化する。軋む音と共に現れたのは、翼だ。血と共に羽根を撒き散らし鳶色の翼が広がる。体は人の形を留めてはいない。
 男の喉から出る声が変わりつつあった。人とも鳥ともつかない、苦しげな声に。這いずりながら息をする巨鳥の姿が、そこにはあった。いや、それを鳥と呼んでいい物かどうか。半人半鳥。今や、誰も見た事がない生物へと男は変化していた。
「なに……これ……」


「やれやれ。モンストロストーンは原液より制御が楽なはずなんだがね。一度目の変身から形を保てないか。もう少しサイズを小さくすれば一般人にも耐えられるんだろうが、そうすると変化が全身にまで及ばない可能性がある。全く、うまくいかないものだな」
 眉根を寄せながら、ライムントはコーヒーを口にした。
「あれが……あんなのが実験だっていうの?」
 目の前の大人の――大人というものが必ずしも信頼出来るわけではないという事を、知っていたにも関わらず――落ち着きぶりに、仁はどうしようもなく動揺した。世の中には、到底自分には理解出来ない論理で行動する人間がいる。目の前の男は、まさに理解の外の存在だった。
「ああ。私にとっては実験であり研究の一環だ。だが彼にとっては、チャンスだとも言える。肉体の変化は彼の人生さえも変化させ――」
「そうじゃない!! 人間の体をあんな風にしておいて、一体どういうつもりなんだ!?」
 血の遡りと共に、仁は自分でも信じられないくらいの声で怒鳴った。


 ライムントは顔色一つ変えなかった。湯気の消えたコーヒーを口に運び、カップをソーサーに戻した。
「気に入らないかね?」
「当たり前だ。あんな風になって幸せな人はいない。さっさとおじさんを元に戻せ!」
「取るに足らない、と言ったら、どうかな」
「何だって……?」
「残念ながら、私は生まれつき他人と理解し合うという事が出来なかった。物事を考える上でのスケールが違うんだ。他の人間は自分と、その周囲の人間関係でしか物事を考えない。だが、私はどうしても全体を俯瞰する観点から考えてしまう。どちらが良い悪いではなく、完全に思考の違いだ。人は私の研究を非人道的だというが、私にしてみれば地球が与えた謎を解明するほうが正しく、先決であるように思えた」


「何でだよ」
「解明こそが人類のためだからだよ」
 ライムントが全く変わらない調子で答える。
 意図的にこちらの怒気を無視しているわけではない。温度のない返答を聞きながら仁は思った。言葉にするのにはもう少し確信に足る証拠がいるが、ライムントという男の一端を、仁は掴みかけている気がした。
「全ては人類が新たなステージに辿り着くためだ。そのためなら、たとえ姿形が変わろうと、何人の命が失われようと……『倫理』という奴の上では問題だろうが、知った事ではない。何故なら、地球は進化の過程で何億、何兆という命を奪ってきているからだ。今日に至るまでにも多くの人間が実験で命を落としたが……彼らは私の介入がなくても、同日同時間に別の理由で死んだかもしれない。事故だの病気だのという個人的な理由で、だ。だが少なくとも、私が運命に介入した事で、彼らの生に確かな意味づけを行う事が出来た。私が実験に参加させた彼らは、少なくとも人類の発展に貢献するために生まれ、死んでいったのだ」


 淀みなく語る男の目には、迷いは一切見られない。
 ――ああ、わかった。この男には他人の感情なんて本当にどうだっていいんだ。僕が怒っていたとしても、雨雲が出来たから雨が降ったくらいにしか考えない。この人にとって、他人の感情は天気か何かと同じようなものなんだ――
「貴方は神ではありません。博士」
 それまで黙っていたレベッカが、静かに言った。
「前にも申し上げたはずです。所詮人一人に、神の視点で物事を判断する事は出来ません。ましてや、他人の運命に介入するなど。そんな事は、貴方の傲慢でしかない」
「そう。地球から役割を与えられなかった人間がそうするなら、そうだろうね。しかし、私は違う。望むと望まぬとに関わらず、生まれた時から役割が与えられていたんだ。〝神の子〟としての役割がね」
「……ただの自意識過剰だろ」


「ただの自意識過剰では、人間の形態を変化させるような物は作れんよ」
 ライムントの蛇が、ぴくりと画面のほうへ首を向ける。
「生まれてきた以上、誰にでも役割がある。私は私の役割を全うするまでだ。そして、いずれは君も……」
 ライムントの黒茶の瞳が、仁の目を覗き込む。
「っ、やめろ!!」
「気付かないのか? 自分でも薄々感じているだろう。どう見ても自然界には存在しない歪な二対の翅。自分の正体を探さなかったはずはない。数あるフュージョナーの中でも自分だけが特異だという孤独。それが意味する事に――」


「何の話だよ!?」
「神の子」
 ライムントの言葉が頭に落ちる。
「君に与えられた役割も、また」
「そこまでよ。ライムント博士」
 声と共にレベッカの腕が伸びていた。右手に小さな黒い物体を握っている。小型の拳銃のようだが、全体的にかなり薄い。その拳銃らしき物の先がライムントの頭に突き付けられていた。
「それ以上無関係の人間を巻き込まないでもらいましょう。特に、貴方の話すおかしな話には」


「ふん。《小火竜リトルドラゴン》か。御父上の作品だな。お守りかね?」
「文字通りね。いくら貴方でも、脳に電撃を食らいたくはないでしょう」
 ライムントが笑った。両手を挙げてゆっくりと身を起こす。
 レベッカが左手を白衣の懐に入れて何かを取り出し、それをテーブルの上に滑らせた。
 手元に来たそれを仁は見つめる。思わず、レベッカの物と見比べた。差し出されたのは、レベッカが持つ物と同じ形の武器だ。


「それを持っておいて。相手に向けて引き金を引けばあとは銃が勝手に電撃を当ててくれる。動けなくはなるけど死ぬ事はないから。……一緒にここを出ましょう」
「出るったって……叉反とおじさんは!?」
「一度目の変身はそう長くは続かない。肉体を生かすためにモンストロが活動を休止するから、部屋さえわかれば鳶の彼は連れて行ける。蠍の探偵は……」
「そういえばレベッカ君。探偵の手術はうまくいったのかね?」
 思い出したように、ライムントが言った。


 仁の胸の裡に嫌な予感が走った。
「手術?」
「ああ。探偵の彼には別の実験で協力してもらった。本当は私が完遂したかったんだが、途中トビ君のほうが難航したものでね。探偵の仕上げは、レベッカ君に任せたのだ」
 レベッカの顔が曇る。反射的に、仁の口は動いていた。
「この男の手伝いをしたの?」
「放置出来る状況じゃなかった。手術自体は問題なく完了したから、体は無事よ。今は安静にしているはずだけど、目を覚ましたら……」
「どこにいるの?」
「え?」
「探偵はどこにいるかって聞いたんだ!」


 感情を抑える事が出来なかった。もし、もし叉反まで、あんな姿になるんだとしたら……!
「案内してもらうよ、お姉さん。叉反とおじさんを助けないと」
「……勿論。貴方達は、私が必ずここから逃がしてみせる」
 思い詰めた女の顔から仁は目を逸らす。レベッカの声の悲痛な響きを、聞かないようにした。
 部屋中に聞こえるように電子音が響いたのは、その時だった。
『――博士。聞いてるかい?』
 どこからともなく聞こえてきたのは子供の声だ。といっても、おそらく仁よりは年上だろう。
「……白王はくおうか」
 両手を挙げたまま、ライムントが答えた。


『ちょっと早いけど、次の実験を始めるよ。鳶の彼は使えそうかな?』
「まだ完全にストーンが機能していない。何らかの刺激を与える必要があるかもしれん」
『ふうん。なら、まあ仕方ない。犬のほうで試そうか』
「ああ。モニターに映してくれ。今ちょっと手が離せないんでね」
『りょーかい』
 少年の言葉と共に、壁の画面に光が走る。


 新たに映し出されたのは、白い壁に囲われただだっ広い部屋だ。黒い床の他は何もない。音もなく、奥の壁が唐突に動きだし、扉のように開いていく。そして、その中から黒い影が姿を現した。
「あれは……」
 呟きをかき消すほどの大きな唸り声が、画面の中から轟いた。
 黒い犬だ。コンビニでレベッカを狙っていた男の一人が変身したもの。だが、あれからさらに変化が進んだようで、その大きさはもはや小山のようになっていた。
「まさかモンストロを……」


「ああ。追加で注入した。彼は原液との相性が良かったようでね。せっかくだから、耐性実験に協力してもらった。鎮静剤が刺せなかったので、白王が随分苦労したみたいだが」
 グリップを握るレベッカの手がきつく締められる。
 同時に画面の中で、黒犬の向かいにある壁が開いた。
 誰かが出て来る様子はなかった。白い壁に空いた黒い闇が、映し出されるばかりだ。
 だが、やがて、闇の中で何かが動く気配があった。一歩一歩、確実に部屋のほうへ近づいて来る。闇の中の歩行者に、部屋の光が当たり出した。長身。暗茶のコート。肩にかけた二挺の銃。左右の手に二挺の拳銃。眼前の黒犬を静かな眼光で捉えている。


 蠍の尾が、闇から完全に抜け出す。
「叉反……!」
 仁の声に、白王と呼ばれた少年の、笑みが混じった吐息が重なる。
『さあ始めるよ。探偵対モンストロ、戦闘実験開始だ』
 画面の中の叉反が、二挺の拳銃を構えた。
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