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『翼とヒナゲシと赤き心臓』3・4
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タウルス・モデルSMT9。ホルハス・タウルス社製サブマシンガン。装弾数三十発。さっきからそれなりに引き金が引かれていたから、あまり弾は残っていないだろう。
叉反は前傾姿勢気味にサブマシンガンを構え直す。自身の銃は、今はない。あと利用出来そうなのは後ろに倒れている痩せ男の銃、それに小太りの男が持っていた拳銃だ。もっともそれは、今や黒い巨犬と化した男の足元にあるが。
男の骨格が音を立てている。顔面の骨が人間の物から犬のそれへと急激に変化し、しかも正常に機能し始めている。口が自然に開閉し、呼吸を行い、眼球が物を認識していた。まるで最初からその体であったかのように、骨も神経も筋肉も、全てが正常に動いていた。
強いて言うならば、回帰症だ。フュージョナーがその体に宿した動植物そのものに変じてしまう病。
だが、これは違う。回帰症の変化はこんな急激なものではないし、そもそも回帰症では巨大化しない。
「場外乱闘だと」
思わず、言葉が口を衝いて出る。
「熊に出くわしたようなものだ」
叉反の独り言に答えたのかどうか――
「ガァアアアルルァッ!!」
巨犬が咆哮と共に床を蹴った。
狙いは定めていた。巨犬が跳んだ瞬間、叉反もまた犬が地を蹴った地点目がけて回転するように飛び込む。瞬間、背後で商品棚が音を立てて吹っ飛んだ。小太りの男が握っていた拳銃を左手に掴みざま、SMT9の引き金を強く引く。リズミカルな震動と共に火を吹くSMT9の九ミリ弾が巨犬の背へ吸い込まれるように着弾する。空撃ちの音。弾切れだ。サブマシンガンをガラスへ向かって投げ捨てる。半回転したマシンガンがガラスを打ち破り、本棚を足場に外へと躍り出る。
黒い影が迫っていた。次の行動を取る前に猛烈な攻撃が叉反の体を壁へと吹っ飛ばす。自身の体が壁を砕く衝撃に内臓が震える。銃を構える暇などない。跳躍した巨犬の追撃が、叉反の肋骨を砕いた。
血が喉からせり上がった。吐き出した真っ赤な血が、犬の黒い前足を汚す。万事休す、だ。もはや腕を上げる力さえ残っていない。
死が迫っていた。この前足がもうひと押しされるだけで、俺は死ぬ。造作もなく。心臓を破られて。
犬の顔が近くにあった。血の臭いを嗅いでいるようだ。生暖かい吐息が頬に触れた。終わりはもうすぐそこまで来ていた。
「おー、いい具合にやられたねえ」
――声が聞こえた。知らない声が。
「これなら回復速度の実験も出来る。死亡寸前の怪我からでさえ、被験者の体は修復されるのかどうか」
声は、次第に近付いているように聞こえた。少年の声だ。たぶん、仁よりは年上だろう。
「だから、それ以上は駄目だよ。さすがに完全に死亡した体は蘇らないだろうし。博士はその探偵の回収を望んでいる。手を引くがいい……って」
すぐ傍にいた巨犬の表情が、瞬間変わる。
「まあ、聞こえてないよね」
風が唸った。瞬く間に巨犬の体が飛び去っていた。一拍遅れて、巨体が地面に叩き付けられる音と、その悲鳴が聞こえてくる。
信じられない事だが、どうやら巨犬は自ら飛び退いたのではないらしかった。投げ飛ばされたのだ。とてつもない力によって。
巨犬の影が去ったその場に、小さな人間が立っていた。褐色の肌に、銀髪。小柄な、十四、五才くらいの少年。
「心配しなくてもいい。君は助かるよ。もっとも、後になって苦しむかもしれないけどね。死んだほうがマシだったって」
彼の口が動く。外見に似合わない大人びた口調。血が失われていくせいで、視界が急速に閉じていく。
「さあ行こう、探偵尾賀叉反。運命を握るための遠き道のり。その始まりの場所まで」
全身の力が抜けていく。手の中の拳銃が地に落ちて、乾いた音を立てた。
4
体が分解されている。
全ての感覚が、際限なくどこまでも広がっていって、まるで自分の体が宇宙にでもなったかのようだ。暗闇に光る数多の星々が、自身を構成する細胞の一つ一つであり、それらは取り返しがつかないほど分散されてしまって、もう戻って来ないのだと思った。
これが、きっと死だ。俺は、とうとうこの世から飛び立ったというわけだ。自分で飛んだという意識はなく、気が付けば空にいた、という感じだけれど。
「心配する事はない」
誰かが言った。落ち着いた、男の声だ。俺の知り合いにこんな話し方をする奴はいない。まるで教師か何かだ。それも極めつけに頭の良い。
「君に新たな力を与えよう。これまでの人生から飛翔するための、革新の力を」
暗闇の中に光が現れる。大きな、緑色の光。その光が見えた瞬間、拡散していくかのようだった体の感覚が、収束し始めるのがわかった。強い引力を持つ星に、他の星が引き寄せられるように。
「さあ、目覚めの時だ。その姿を見せてくれ」
収束は止まらない。俺は、俺が知っている体が形作られるのを感覚する。光の中に、何かの影を見た。白く爛と光る目の、一羽の鳥の――……
「――ッ!! はあ、はあ……」
気が付くと俺は飛び起きていた。体中が汗でびっしょりだ。思わず掴んだ服は、気を失う前まで着ていたツナギじゃない。病院で患者が着るような、そんな服だ。左手が柔らかなシーツに触れ、俺は自分がベッドの上で眠っていた事を知った。真上に明るいライトがある他は、部屋の中に明かりはなく、どうやらここは少し広めの部屋らしいという事くらいしかわかない。
寝起きから血が通ってくるにつれて、いつもの調子が戻ってくる。右腕にも変わりはない。肘辺りまで羽毛に覆われた、鳶のアシユビだ。
「気分はどうかね?」
背後から声がした。闇の中で聞こえた声と同じだった。顔を上げると、明かりの中に人影が見えた。
白衣の男だ。糊の利いたシャツに上等そうな濃紺のネクタイ。顔は、どうやら俺よりは年上らしいが、実際のところはよくわからない。男はその半身を闇の中に置いていた。ちょうど光と闇の境界線上に、男は立っていた。
「誰だ……?」
喉が枯れている。唾を飲み込んだ。男の口が動くのが見えた。
「ここの責任者だ。君の治療を担当した。気分はどうだ? 何か気になるところはあるか?」
答えず、俺は殴られた後頭部に手をやった。痛みはない。どころか、傷さえ残っていない。
「いや……」
「ならいい。この部屋はしばらく好きに使える。ゆっくり休むといい」
言って、男は踵を返し、闇の向こうへと踏み出す。
「待ってくれ。何が、一体どうなってるんだ。さっぱりわからない。ここはどこだ」
「分岐点に来た、という事だ。運命を切り替えられるかもしれない地点に」
顔をこちらには向けず、そのままの姿勢で男が言う。
「君はこのまま日常に戻る事が出来る。受けた傷、遭遇した事件。全てを忘れて生きていく事が。ナユタから去るのもいいだろう。どうであれ、道を戻る事は出来る」
男が指で部屋の隅を示した。先にあるのは扉だ。
「あるいは、君は進む事も出来る。突然の嵐に挑む、先が見えない道に。安穏のない、暴力が待つ道だ。だが、前進する事が出来る」
「何が言いたいんだ?」
「別に。ただ私はどういうわけか、君の未来の分岐点に立っていた。偶然にも何かを与える役割であったがために、君に手術を施した。これ以上の介入は出来ない。なにぶん、忙しい身なのでね」
「俺の体に何かしたのか!?」
「言っただろう。飛翔する力を与えると。あとは君の好きにすればいいさ、トビ君」
男の姿が完全に闇へと消えた。叫んで呼び止めたが、返事は返ってこない。
一点だけ強い光が灯った部屋に、俺は一人きりになった。
前進。嫌な言葉だ。進めない人間には聞くに堪えない。
だいたい、俺は巻き込まれたのだ。ここがどこだか知らないし、さっきの男が誰なのかなど知りたくもない。とっとと家に帰って、次の職を探さなきゃならない。バイトでも何でもいい。生きなければならない。生きないと。
生きないと、死んでしまう。
笑ってしまうくらいに当たり前の事だが、俺はいつもここで立ち止まる。生きる理由は、生きなければ死んでしまうからだ。職を失くし、貯蓄を失い、家を失くして、路頭に迷う。目に浮かぶのはそんな暗い未来ばかりで、俺はそれから逃げようと必死になる。友人も、恋人もいない。将来の夢も持っていない。そんな物が手に入る人生じゃなかった。
生きていくと虚無ばかり味わう。自分の事などとっくに見捨てている。フュージョナーなんて、所詮はただの人間だ。人間に数えられない人間、というのが、なおの事厄介だ。
だからもう、本当に生きていく理由など見当たらないのだが、死を選ぶほど絶望し切れてはいないのだ。どんな目にあっても、明日に期待してしまう。明日は、明日こそは、劇的な何かが起こって、人生が変わるんじゃないか、と。
……今が、その時か?
長い間密かに抱え続けた期待が、報われるのか?
暴力が待つ、とあの男は言った。安穏はないと。たぶん、もう二度と、自宅のベッドに潜り込めさえしないような道だ。いつ死ぬか、わからない道だ。それでも……。
「……っ!?」
ふと、胸の辺りで動悸めいた鼓動がして息が詰まる。
心臓じゃない。胸の中心、胸骨の下のほうだ。鼓動は次第に激しくなって、俺は堪えられずベッドから崩れ落ちる。気が遠くなってくる。体中が熱くて、たちまち汗が噴き出してきた。胸が焼かれるように熱い。熱を発しているところを思わず握って、そこで気付いた。
緑の光だった。皮膚の下からでもわかるくらい強い光で、何かが俺の中で光っていた。小さい、拳くらいの大きさの何か。発光は次第に強く、熱はさらに温度を増していく。
息が苦しい。皮膚の下で何かが蠢いている。気のせいじゃない。まるで筋肉自体が意志を持ったかのように、勝手に動き出したかのようだ。ばちり、という音がして、俺はそちらに目をやる。コンビニの男と同じだ。指先に巻きつくように、俺の体から放電が始まっていた。
鳶の右手からは感覚がなくなっていく。指が動いているが、俺が動かしているという感じじゃない。体と右腕が切り離されていくみたいだ。霞んだ視界が、閉じていく。
それでも……。
それでも、飛べるなら?
タウルス・モデルSMT9。ホルハス・タウルス社製サブマシンガン。装弾数三十発。さっきからそれなりに引き金が引かれていたから、あまり弾は残っていないだろう。
叉反は前傾姿勢気味にサブマシンガンを構え直す。自身の銃は、今はない。あと利用出来そうなのは後ろに倒れている痩せ男の銃、それに小太りの男が持っていた拳銃だ。もっともそれは、今や黒い巨犬と化した男の足元にあるが。
男の骨格が音を立てている。顔面の骨が人間の物から犬のそれへと急激に変化し、しかも正常に機能し始めている。口が自然に開閉し、呼吸を行い、眼球が物を認識していた。まるで最初からその体であったかのように、骨も神経も筋肉も、全てが正常に動いていた。
強いて言うならば、回帰症だ。フュージョナーがその体に宿した動植物そのものに変じてしまう病。
だが、これは違う。回帰症の変化はこんな急激なものではないし、そもそも回帰症では巨大化しない。
「場外乱闘だと」
思わず、言葉が口を衝いて出る。
「熊に出くわしたようなものだ」
叉反の独り言に答えたのかどうか――
「ガァアアアルルァッ!!」
巨犬が咆哮と共に床を蹴った。
狙いは定めていた。巨犬が跳んだ瞬間、叉反もまた犬が地を蹴った地点目がけて回転するように飛び込む。瞬間、背後で商品棚が音を立てて吹っ飛んだ。小太りの男が握っていた拳銃を左手に掴みざま、SMT9の引き金を強く引く。リズミカルな震動と共に火を吹くSMT9の九ミリ弾が巨犬の背へ吸い込まれるように着弾する。空撃ちの音。弾切れだ。サブマシンガンをガラスへ向かって投げ捨てる。半回転したマシンガンがガラスを打ち破り、本棚を足場に外へと躍り出る。
黒い影が迫っていた。次の行動を取る前に猛烈な攻撃が叉反の体を壁へと吹っ飛ばす。自身の体が壁を砕く衝撃に内臓が震える。銃を構える暇などない。跳躍した巨犬の追撃が、叉反の肋骨を砕いた。
血が喉からせり上がった。吐き出した真っ赤な血が、犬の黒い前足を汚す。万事休す、だ。もはや腕を上げる力さえ残っていない。
死が迫っていた。この前足がもうひと押しされるだけで、俺は死ぬ。造作もなく。心臓を破られて。
犬の顔が近くにあった。血の臭いを嗅いでいるようだ。生暖かい吐息が頬に触れた。終わりはもうすぐそこまで来ていた。
「おー、いい具合にやられたねえ」
――声が聞こえた。知らない声が。
「これなら回復速度の実験も出来る。死亡寸前の怪我からでさえ、被験者の体は修復されるのかどうか」
声は、次第に近付いているように聞こえた。少年の声だ。たぶん、仁よりは年上だろう。
「だから、それ以上は駄目だよ。さすがに完全に死亡した体は蘇らないだろうし。博士はその探偵の回収を望んでいる。手を引くがいい……って」
すぐ傍にいた巨犬の表情が、瞬間変わる。
「まあ、聞こえてないよね」
風が唸った。瞬く間に巨犬の体が飛び去っていた。一拍遅れて、巨体が地面に叩き付けられる音と、その悲鳴が聞こえてくる。
信じられない事だが、どうやら巨犬は自ら飛び退いたのではないらしかった。投げ飛ばされたのだ。とてつもない力によって。
巨犬の影が去ったその場に、小さな人間が立っていた。褐色の肌に、銀髪。小柄な、十四、五才くらいの少年。
「心配しなくてもいい。君は助かるよ。もっとも、後になって苦しむかもしれないけどね。死んだほうがマシだったって」
彼の口が動く。外見に似合わない大人びた口調。血が失われていくせいで、視界が急速に閉じていく。
「さあ行こう、探偵尾賀叉反。運命を握るための遠き道のり。その始まりの場所まで」
全身の力が抜けていく。手の中の拳銃が地に落ちて、乾いた音を立てた。
4
体が分解されている。
全ての感覚が、際限なくどこまでも広がっていって、まるで自分の体が宇宙にでもなったかのようだ。暗闇に光る数多の星々が、自身を構成する細胞の一つ一つであり、それらは取り返しがつかないほど分散されてしまって、もう戻って来ないのだと思った。
これが、きっと死だ。俺は、とうとうこの世から飛び立ったというわけだ。自分で飛んだという意識はなく、気が付けば空にいた、という感じだけれど。
「心配する事はない」
誰かが言った。落ち着いた、男の声だ。俺の知り合いにこんな話し方をする奴はいない。まるで教師か何かだ。それも極めつけに頭の良い。
「君に新たな力を与えよう。これまでの人生から飛翔するための、革新の力を」
暗闇の中に光が現れる。大きな、緑色の光。その光が見えた瞬間、拡散していくかのようだった体の感覚が、収束し始めるのがわかった。強い引力を持つ星に、他の星が引き寄せられるように。
「さあ、目覚めの時だ。その姿を見せてくれ」
収束は止まらない。俺は、俺が知っている体が形作られるのを感覚する。光の中に、何かの影を見た。白く爛と光る目の、一羽の鳥の――……
「――ッ!! はあ、はあ……」
気が付くと俺は飛び起きていた。体中が汗でびっしょりだ。思わず掴んだ服は、気を失う前まで着ていたツナギじゃない。病院で患者が着るような、そんな服だ。左手が柔らかなシーツに触れ、俺は自分がベッドの上で眠っていた事を知った。真上に明るいライトがある他は、部屋の中に明かりはなく、どうやらここは少し広めの部屋らしいという事くらいしかわかない。
寝起きから血が通ってくるにつれて、いつもの調子が戻ってくる。右腕にも変わりはない。肘辺りまで羽毛に覆われた、鳶のアシユビだ。
「気分はどうかね?」
背後から声がした。闇の中で聞こえた声と同じだった。顔を上げると、明かりの中に人影が見えた。
白衣の男だ。糊の利いたシャツに上等そうな濃紺のネクタイ。顔は、どうやら俺よりは年上らしいが、実際のところはよくわからない。男はその半身を闇の中に置いていた。ちょうど光と闇の境界線上に、男は立っていた。
「誰だ……?」
喉が枯れている。唾を飲み込んだ。男の口が動くのが見えた。
「ここの責任者だ。君の治療を担当した。気分はどうだ? 何か気になるところはあるか?」
答えず、俺は殴られた後頭部に手をやった。痛みはない。どころか、傷さえ残っていない。
「いや……」
「ならいい。この部屋はしばらく好きに使える。ゆっくり休むといい」
言って、男は踵を返し、闇の向こうへと踏み出す。
「待ってくれ。何が、一体どうなってるんだ。さっぱりわからない。ここはどこだ」
「分岐点に来た、という事だ。運命を切り替えられるかもしれない地点に」
顔をこちらには向けず、そのままの姿勢で男が言う。
「君はこのまま日常に戻る事が出来る。受けた傷、遭遇した事件。全てを忘れて生きていく事が。ナユタから去るのもいいだろう。どうであれ、道を戻る事は出来る」
男が指で部屋の隅を示した。先にあるのは扉だ。
「あるいは、君は進む事も出来る。突然の嵐に挑む、先が見えない道に。安穏のない、暴力が待つ道だ。だが、前進する事が出来る」
「何が言いたいんだ?」
「別に。ただ私はどういうわけか、君の未来の分岐点に立っていた。偶然にも何かを与える役割であったがために、君に手術を施した。これ以上の介入は出来ない。なにぶん、忙しい身なのでね」
「俺の体に何かしたのか!?」
「言っただろう。飛翔する力を与えると。あとは君の好きにすればいいさ、トビ君」
男の姿が完全に闇へと消えた。叫んで呼び止めたが、返事は返ってこない。
一点だけ強い光が灯った部屋に、俺は一人きりになった。
前進。嫌な言葉だ。進めない人間には聞くに堪えない。
だいたい、俺は巻き込まれたのだ。ここがどこだか知らないし、さっきの男が誰なのかなど知りたくもない。とっとと家に帰って、次の職を探さなきゃならない。バイトでも何でもいい。生きなければならない。生きないと。
生きないと、死んでしまう。
笑ってしまうくらいに当たり前の事だが、俺はいつもここで立ち止まる。生きる理由は、生きなければ死んでしまうからだ。職を失くし、貯蓄を失い、家を失くして、路頭に迷う。目に浮かぶのはそんな暗い未来ばかりで、俺はそれから逃げようと必死になる。友人も、恋人もいない。将来の夢も持っていない。そんな物が手に入る人生じゃなかった。
生きていくと虚無ばかり味わう。自分の事などとっくに見捨てている。フュージョナーなんて、所詮はただの人間だ。人間に数えられない人間、というのが、なおの事厄介だ。
だからもう、本当に生きていく理由など見当たらないのだが、死を選ぶほど絶望し切れてはいないのだ。どんな目にあっても、明日に期待してしまう。明日は、明日こそは、劇的な何かが起こって、人生が変わるんじゃないか、と。
……今が、その時か?
長い間密かに抱え続けた期待が、報われるのか?
暴力が待つ、とあの男は言った。安穏はないと。たぶん、もう二度と、自宅のベッドに潜り込めさえしないような道だ。いつ死ぬか、わからない道だ。それでも……。
「……っ!?」
ふと、胸の辺りで動悸めいた鼓動がして息が詰まる。
心臓じゃない。胸の中心、胸骨の下のほうだ。鼓動は次第に激しくなって、俺は堪えられずベッドから崩れ落ちる。気が遠くなってくる。体中が熱くて、たちまち汗が噴き出してきた。胸が焼かれるように熱い。熱を発しているところを思わず握って、そこで気付いた。
緑の光だった。皮膚の下からでもわかるくらい強い光で、何かが俺の中で光っていた。小さい、拳くらいの大きさの何か。発光は次第に強く、熱はさらに温度を増していく。
息が苦しい。皮膚の下で何かが蠢いている。気のせいじゃない。まるで筋肉自体が意志を持ったかのように、勝手に動き出したかのようだ。ばちり、という音がして、俺はそちらに目をやる。コンビニの男と同じだ。指先に巻きつくように、俺の体から放電が始まっていた。
鳶の右手からは感覚がなくなっていく。指が動いているが、俺が動かしているという感じじゃない。体と右腕が切り離されていくみたいだ。霞んだ視界が、閉じていく。
それでも……。
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