探偵尾賀叉反『翼とヒナゲシと赤き心臓』

安田 景壹

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『翼とヒナゲシと赤き心臓』9

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9


「仁!」
 レベッカはカードキーを投げた。
「扉をロックして、今すぐに!」
 少年が走る。足音はもうすぐそこまで近付いている。
 カードキーをスライドさせ、赤いボタンを押す。部屋の扉が閉ざされていく。その隙間に組織の黒服の姿を見た時、扉は完全に閉まり切り、ロックされた。
「どうするの!?」
「ここの保管庫はマスターキーと同じレベルの鍵がないと開けられない。奴等が鍵を持って来る前に逃げないと」
「どうやって」
「仁、薬品棚の中身を全部出して。人一人、入れられるくらいに」
「……わかった」
 仁は何かを察したようだった。棚の扉を開け、中身を次々と外へ出していく。


「……ぶ。……とぶ」
「え?」
 不意にトビの右手がレベッカの腕を掴んだ。鳶のアシユビ。力は入っていないが、精一杯握り締めている。
「……俺は、死ぬのか」
 切れ切れに、トビが言った。
「貴方は死なない。体内のモンストロが動けば、こんな傷すぐに」
「死にたくねえ」
 聞こえているのかいないのか、トビは声を出す。
「さっきまで、死にたかった。でも、今は怖え。死ぬのが、すげえ怖い。ろくでもねえ。冗談じゃねえ」
「……すぐにストーンを動かすから」
 小火竜を取り出す。グリップのレバーを操作し、出力を最低に。服のボタンを外してストーンを埋め込んだ胸元に宛がう。
「俺は、飛ぶんだ」
 トビが言った。確かな意思を込めて。


「このろくでもねえ状況から、飛ぶんだ」
「勿論。絶対に、そう出来る」
 引き金を引いた。トビの呻き声が上がる。電流が皮膚の下のストーンへと流れ込む。
 ばちり、と緑の電流が、傷の辺りで弾けた。
「終わったよ!」
 仁が叫ぶ。棚の中は綺麗に空になっていた。余計なパーツも取られ、人一人余裕を持って入れられる空間が空いている。レベッカは頷き、棚の横にある電子パネルを操作した。緊急搬出。コンテナ装填。
 棚の裏側で機械が作動し始めた。いざという時、薬品を運び出せるように用意された空のコンテナが、コンベヤーの上にセットされた。
「仁。彼を運び込んで」
「入るの?」
「ええ。急いで」
 二人でトビを抱え、奥のコンテナに体を折り曲げて入れる。少し窮屈かもしれないが我慢してもらうしかない。


「仁、貴方も入って」
「え?」
「貴方とトビならちょうど入れる。行き先を一階の運搬口に設定しておくから、そこから逃げて」
「お姉さんはどうするんだよ!」
「私は探偵を脱出させる。さあ急いで!」
 強引に仁を棚の奥へと押し込む。コンテナの中に入ったのを確認して、搬出を開始させる。コンテナの蓋が閉まり、コンベヤーが動き出す。
 大砲のような衝撃が、保管庫の扉を襲ったのはその時だ。
 瘤のように扉の中心部分が盛り上がっていた。鍵を待たず強引に破りに来たか。レベッカは気絶している痩身の男に近付き、その手からショットガンを取り上げた。撃った事はないが、撃ち方の知識はある。
 二度目の衝撃。保管庫全体が震えている。扉に大きな亀裂が入った。おそらく、次の一撃には耐えられないだろう。ジェラルミンケースを資料棚のほうへ滑らせ、手近にあった道具を掴み、資料棚へと走る――アンプルを折る。間に合うかどうか。


 次の瞬間、三度目の衝撃が、鉄壁の扉を突き破った。
「ふー」
 のそり、と影が入ってきた。大きな頭部、筋肉が膨れ上がった腕。全身を取り巻く緑色電光。鰐だ。鰐のフュージョナー。その姿が目に入った瞬間、レベッカはショットガンの引き金を引いた。
 到底、耐えられる衝撃ではない。だが、背を張り付けた資料棚が安定を保った。散らばった散弾が鰐へと着弾する。衝撃に震える体に鞭打って、レベッカは素早く右手を動かし、小火竜の銃把を握り流れるままに引き金を引いた。空間を走った電撃が標的を捉えた瞬間、畳みかけられた敵が血を吐くような声を上げた。
 ショットガンを捨て、ジェラルミンケースを掴み駆けた。駆けて逃げるしかない。無残に開いた扉を通り、まだ状況を掴めていない黒服どもの脇をすり抜け、一拍置いてレベッカに気付いた彼らの声に後ろ手に電撃を放つ。エレベーターだ。そこまで行けば、地下二階まで一気に行ける。


「待てよ、センセイ」
 むずりと、有無を言わさぬ強い力が、レベッカの衣服の背を掴み上げた。
「っ!?」
 足元が浮遊感に襲われる。反射的に小火竜の銃口を向けた瞬間、固い鱗のような感触が乱暴にレベッカの手を弾いた。ジェラルミンケースの取っ手を握る指がすべり、ケースが足元へと落ちる。
「効かねえよ。俺はモンストロを完璧に使いこなした。あんたのお得意の電撃はシャワーみたいなもんだ。ショットガンの弾もな」
 襟を掴まれたまま、レベッカは強く壁に押し付けられた。
 鰐男の得意気な顔が、目の前にあった。
「スガロ……」
「その節は世話になったな、センセイ。おかげさまでどうだ。今や俺はそこらのフュージョナーを完全に〝超越〟した」
 ばちり、と緑電がスガロの体から迸る。なるほど、確かにモンストロストーンのコントロールには成功したらしい。だが、それだけだ。


「超越ですって?」
 ライムントの片腕の頃の経験が、男の見当違いな言葉に反応して、レベッカの中から冷笑を引き出した。
「馬鹿言わないで。貴方はまだ獣人態を操り始めたばかり。ライムントや白王が望むレベルには到底達していないわ」
「その白王だって、今に俺が身の程を教えてやる。たかがネコのガキに、化けモンになった俺が負けるわけがねえ」
 鋭い歯が並んだ口が、そっと耳元に近付く。
「綺麗な顔だな、センセイ。手術してもらった時からずうっと綺麗だと思ってた。白王は逃げるなら殺せって言ってたが、なあ……」
 尖った爪の先が、レベッカの頬に触れた。男の笑みとともに顎のラインをなぞっていく。怖気が背筋を這う。


「俺ならあんたを助けてやれる。こんな状況だ。バレやしねえよ」
「スガロ、何をしている!」
 黒服の一人が叫んだ。
「その女を始末しろ! 反逆者は結社には不要だ!」
「……うるせえよ」
 スガロが無造作に腕を振った。その腕に無数の電流が発生しているのが見えた。
 さながら連続する落雷だった。スガロの腕から迸った無数の緑電が、廊下にいた黒服四名の体に瞬く間に降り注いだ。声を上げる事すらなかった。強力な電流に晒された人間達は、そのまま床へと倒れ伏した。
 肉の焦げる臭いがした。


「ちっと疲れるんだがな、こんな事まで出来るようになったんだ。もう銃もいらねえや」
 下卑た笑みを浮かべて、スガロがこちらへ顔を戻した――瞬間、レベッカは全霊を懸けて、その首筋へ飛び込んだ。忍ばせた注射器の針を皮膚へと突き立て、薬品を体内へと送り込む。
「……確かに、すごいわ。モンストロストーンが生み出す生体電流を増幅させて放つなんてね。でも、それだけ」
 その耳元で囁くと、注射器を引き抜きスガロの巨躯を蹴り飛ばし、レベッカは拘束から逃れた。いや、もうスガロには力を保つ余裕はない。
「組織変異を強制的に停止させる、モンストロ被験者用の鎮静剤。死にはしないけど、二、三日はまともに動けないから」
 スガロの返答はない。骨格の変化が始まり、元の姿――生まれた時の姿へと戻っていく。
 小火竜を拾い、レベッカは先を急いだ。探偵を探さなければならなかった。



 警報が鳴り響いている。しかし、それは今の戦闘に関係ない。
 まるで、他の誰かに体を明け渡したかのような、しかし自分の意識も確実に存在する中で、叉反は攻撃を繰り出していた。背負った二挺の銃はもはやない。武器は己の体のみ。
 だが、相手に叩き込む拳の威力は、明らかに銃弾の比ではなかった。
 人型と化した黒犬の胸板に拳がめり込んだ刹那、その衝撃に耐えられないまま相手の体は宙を舞うが如く飛び、壁にその体の跡を残すほど叩き付けられる。


 それを見ても、不思議と感情は湧かない。鉄の意志。一切の感情が消え去ったような感覚。何一つ、心が波立つ事はない。
 赤い熱が、体中を駆け巡っている。
「……一体、何が起きやがった」
 黒犬の口が動いた。まだ息がある。
 加速とともに放った跳び蹴りが、壁を破壊して犬の男を廊下に転がした。満身創痍。肉体の再生に際して、体中で緑の電流が発生している。
「……冗談じゃ、ねえ!」
 男の体が四足獣へと変じる。完全に叉反に背を向け、一目散に走り去る。
 何処へ逃げようというのか。
 一歩一歩、叉反の体は進んでいく。……いや、進むのは俺の意志だ。心は、体から離れてはいない。俺が奴を追っている。奴の息遣いを感じ、気配を感じ、一歩一歩近付いている。


 奴を、仕留めるために……。
 暗い廊下を進んでいくと、やがて叉反は開け放たれた扉を見つけた。
 先に見えたのは複雑に入り組んだ、広い空間だった。多く機械、装置があり、そのほとんどが小型の家屋ほどの大きさだ。どうやら、清掃工場の根幹――処理装置に当たる区画らしい。
 静まり返った区画の中、叉反は柵に仕切られた、一本道の狭い通路に足を踏み入れた。
 物音はしない。だが、強烈なまでに冴え渡った勘が獲物はここにいると確信していた。あの犬はこのどこかで、息を潜めている。
 ばちり、と今や聞き慣れた音が響いた。道の先だ。


 破砕機から続くコンベヤーを辿って、見えてきたのは切り立った崖だった。砕かれたゴミはコンベヤーで運ばれ、やがてその崖の下に落ちる。崖下はつまり、ゴミ置き場だった。そしてその淵の近くで、奴は傷を癒していた。あと一歩踏み出せば、その体を踏み潰せる位置にまで叉反は近付いていった。
「来やがったか……探偵」
 苦しげな息遣いの中、黒犬が言った。叉反は淡々と、事実だけを返した。
「お前もこれで終わりだ」
 弱り切った体のはずの犬が、叉反の言葉に笑みを浮かべる。
「何があったか知らねえが、さっきまでと随分態度が違うな。それがお前の本性ってわけか」
「何?」
「惚けんなよ。お前は暴力を楽しんでるんだ。この俺を好き放題打ちのめして、挙句には殺したいって思ってんのさ」
「何を言っている……」


 ――何を怯えている? 叉反は自問した。自分はこの男を殺しにきたのではなかったのか?
 違う。俺は、俺は人殺しをしようとしているんじゃない。必要なのは状況の打破だ。暴力も武力も全てはそのためだ。
 本当か? 叉反は自分の耳でその問いを聞いた。
 赤い獅子が見えた。翼の生えた獅子。刃のような歯をぎらつかせ、蠢く舌が叉反に問うた。
 ――俺達はこいつを殺しにきたんじゃないのか?
「俺は……」
 体の奥から発されていた熱が引いていく。周りの音や気配がリアルに聞こえ、ようやく自分の血が通い出した錯覚さえ覚えて、目が眩む。
「隙だらけだな」
 黒い影が動く。反応が遅れた。飛び込んできた黒犬の爪が深く身を抉る。体がくの字に折れる。続く背後からの二撃。背中を抉られ、ふらつきながらも振り返り、構えを取ろうとした瞬間、人型に戻った黒犬の、膨れ上がった巨腕が拳を握って放たれた。


 躱せるはずがなかった。
 強い衝撃が体を宙へ運ぶ。浮遊感は一瞬だけ。すぐさま体は下方へと落下する。
 ゴミの山に穴が空いた。体を強く打ったせいで、意識さえ混濁している。
「逆転だ。この間の借りは返したぜ」
 男の声が聞こえた。最低限しかついていなかった電灯が、大きく光り始める。遠くで、機械の駆動音がした。
 ゴミ山が震えている。地面が動き始めた。ゴミ置き場の床が次第に傾いているのがわかる。
 床が傾く下方に扉があった。大きな鋼鉄製の扉だ。それが音を立てて開いていく。その隙間から、熱が漏れていた。
 赤い炎が見える。さっき見た幻覚めいたものじゃない。本物の炎。
焼却炉だ。
「あばよ探偵。安心しろ、一瞬で骨も残りゃしねえ」
 勝ち誇ったかのような男の声が響く中、燃え盛る炎を持つ口は、ゆっくりと叉反を飲み込もうとしていた。
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