探偵尾賀叉反『翼とヒナゲシと赤き心臓』

安田 景壹

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『翼とヒナゲシと赤き心臓』12

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12


 負の感情を噴出させ、白虎の体から雷流が発散する。引き金を引きざま扇のように腕を振って、仁は小火竜の電流をばら撒きながら、一気に背後のペントハウスへと駆けた。追跡を振り切るにはついて来られない場所へ行くしかない。全力だった。全力で仁は駆けた。
 だが――
「あれ、いいの?」
 すぐ後ろで、生き物の気配がした。
「虎に背を向けて」
 足が竦む。息が止まった。背の翅に尖った何かが触れた瞬間、死にもの狂いで仁は跳んだ。
 思ったより、距離は空かなかった。歩みを止めた虎が笑い声を上げた。
「あっはははははは!! 何、今の! まさにゴキブリじゃん!! ふ、くくくッ!」


「お前……ッツ!」
 恐怖と屈辱で胸の奥がぎりぎりと痛んだ。つん、としたものが込み上げてくる。
「はははは。でも、これでわかったでしょ? 下手に逃げようとすればその体を掻っ捌いてやる。お前はここで、僕と生きるか死ぬかの遊びをするしかないんだよ」
 何が遊びだ。こんな下らない気紛れに巻き込んでおいて、ふざけた事を――
「そら! 早くしないと腕が飛ぶぞ!」
 虎の爪が再び動いた。怒りを抱く間もない。爪が体を掠めるぎりぎりのところで、仁は一撃を躱す。いや違う。逆だ。爪のほうが体を掠めるように動いているのだ。
 楽しんでいる。逃げ惑う仁を追い詰めて、五分間を楽しみ尽くすつもりだ。仁が一足で跳べる距離ぎりぎりを白虎は詰めてくる。


 小火竜のグリップを掴む。迷わず引き金を引いた。電流は白虎の体に導かれるように飛び出していく。だが、無駄だった。向こうにしてみれば躱すまでもない。自身の緑電を少し放てば、それだけでこちらの電撃が弾かれてしまう。今出来るのは、その事実を認識する事くらいだ。
 白虎が前足を振り上げた。鋭い爪が陽光を受けて鈍く光る。小火竜の口を足元に向けた。放たれた稲妻が、再び緑電と反発して舞い上がる。電気の壁を切り裂いて爪が真上から降ってくる。小柄な体の足が、全力でそのバネを発揮した。至近距離の詰め合いだ。体はともすれば接しそうなのに、相手はまるで偶然、仁が爪にかかるのを待つかのようだ。
 体は必死だ。たとえ踊らされているとわかっていても、避けないわけにはいかない。何とか手段が見つかるまで逃げるしかない。
 あと一体何分だ? あとどれだけ、こうしていられる? 
虎の姿が目の前から消えた。怖気が走る瞬間、白い影を視界の端に捉える。
「死んじゃう?」


 少年の声が囁いた。足は動かなかった。爪が接近してくるのが見えた瞬間、仁は自分の人生が終わるのを悟った。ボケ探偵、こんな時くらい助けに来いよ――!
「いいザマだ」
 少年の笑い声が、耳に残った。
 爆音が轟いたのは、まさにその瞬間だった。
「何!?」
 根元に特大の鉄球か何かが直撃したような、そんな衝撃が走った。建物が震えていた。白虎の動きが、あり得ないほど長く止まった。驚愕。戸惑い。それは少年が仁の前で見せた、唯一の隙だった。
 叩き付けるかのようなスピードで仁は右手をその縞柄に接触させる。瞬間、電流が迸り、右手のリングに干渉する。コンマ一秒と経たぬうちに、緑電のリングは何事もなかったかのように掻き消えた。
 直後、白虎が表情を変えた。


「お前……ッ!」
「遊びは僕の勝ちだ。帰らせてもらうよ!」
 言うが早いか、全速力で仁は駆けた。もはや一秒だってこいつと一緒には居たくない。早く、早くこいつから逃げないと。
 思考が働いたのはそこまでだった。足を踏み出そうとした瞬間、神経に畳み掛ける衝撃に仁は打たれた。全身を律していた意識の糸が、一瞬で断ち切られる。四肢は力を失い、体が崩れ落ちていく。
「遠慮するなよ。運が良かったとはいえ、約束は約束だ」
 激しい緑の光が、虎を包み込んでいた。発光が収まった時、白虎の尾を持つ少年が、再び姿を現していた。
「何が起こったのかはあとで調べさせる。まずは運び出してやるよ、明槻仁」
 少年がゆっくりとした足取りで近付いてくる。危機からは、まだ逃れる事は出来なかった。圧倒的な力と荒天のような気紛れを持ち合わせ、その手に仁を掴もうとしていた。


 目を開けると、明け方の空が遠くにあった。遠く、見上げるほど遠く。俺はしばらくの間、何も考えられなかった。目を開けてはいるが、感覚としては不確かだ。俺は、どうやら目を開けているらしい。夢の中にいるようで、だったら、このままいっそ眠ってしまいたい。
 大きな音が聞こえた。目を開ける前に、だ。とてつもなく大きな音がしたのは、たぶん確かだろう。記憶に残っている。俺はゆっくりと記憶を辿っていく。俺は一体どうなったのか。以前に目を閉じてから目を開けるまでに、何があったのか。
 ――ばいばい、失敗野郎。


 記憶の声は、直後に起こった痛みも連れてきた。肉が裂け、血管が破裂する瞬間。真っ二つになったと思ったその時には、すでに地面に向かっていた。
 死んだはずだ。じゃあ、ここはあの世か。
 俺は手を動かした。重かった。さらさらと何かが静かに崩れていった。首を横に動かすと、灰色の中に埋まった、鳶のアシユビが見えた。
「死んでも楽にゃならないんだな」


 そんな事を呟く。体に痛みはないがひどく重いし、傷口も、どうやら塞がってはいるが、しこりというか、切りつけられた時の感覚とでもいうか、そういうものが残っているようで気持ちが悪い。浅く息を吐く。静謐を感じる。寝起きみたいな感覚だ。心臓も動いているらしい。
 ……つまり、まだ生きている。
「いやいや嘘だろ」
 起き上がる事はまだ出来ない――したくないが、とにかく俺は少し意識をはっきりさせた。いやだって、無理だろう。体分断寸前だったし、何より、まず助からない高さから落ちたのだ。普通に考えれば、生きているはずがない。
「どうなってやがる」


 ようやく、俺は身を起こした。袖に被さっていた灰色の砂が、静かに落ちた。
 手で掬ってみる。砂じゃない。灰だ。粉末になった灰の山。
 俺は再び上を見上げた。巨大な円に切り取られた空。
 屋上から見下ろした円形の、見えない底の正体が、この灰の山であるらしい。
 出口は高い。壁をよじ登れば行けるんだろうが、取っ掛かりのような物は見当たらない。
 落ちたら、終わりってか。
 ……ほら見ろ、これだ。


 結局、世の中、そうそう上手くはいかない。どころか、ろくでもない事ばかりだ。何だって何度も何度も命の危険に晒されなきゃならない? 俺はただ、普通に生きたかっただけだ。普通に飯食って、普通に仕事して、あとはちょっと人から認めてもらえれば、それで――……
 ――俺は飛ぶ。
 声がした。昔聞いた声が。よく知っている奴だ。生まれた時からの付き合い。鏡の中に映るうるせえ奴。
 ――俺は飛ぶんだ。
 ……うるせえってんだ。
 ――こんな下らねえ街は出て行ってやる。新しい場所に行くんだ。そこで、俺は世の中に飛び出す。俺だって何かが出来るって事を思い知らせてやる。俺の腕を見て笑いやがった奴等全員に、目に物見せてやるんだ。
 ……そうかい。しかしお前、ここで仕事一つ満足に出来ねえのに、新しい場所で何やろうってんだ?
 答えたのは別の人間だった。冷たい目が俺を見ている。吐きそうになる。そんな目で見るんじゃねえ。ガキの戯言だったんだ。笑って見逃してくれりゃいいだろうが!
 へえ。じゃあ、やっぱりお前にゃ何も出来ねえんだな。
 夢みたいな事、言っておいて――


「――……ぁあああ」
 体を支え切れない。アシユビの爪で頭皮を裂いてしまいそうだ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。思い出したくない! 自分の言っていた事なんて……!
 やっぱり、やめよう。ここで、リタイアしよう。
 くだらねえ。ろくでもねえ。無理だったんだ、俺には。こんな、こんな意志薄弱な俺には。
 遠くのほうで、何かが音を立てだしたのは、その時だった。
 いや、よく聞けば遠くじゃない。この円形の壁の中からだ。しかも、だんだん近付いてくる。
 がこん、がこん、と音は移動し、唐突に左方の壁が水飲み鳥の仕掛けのように開いた。間を置かず、壁の中から大量の灰が流れ出てくる。朦々とした煙が立ち、陽光が照らす円形の中に漂う。
 どうやら、ここの灰はああやって溜まっているらしい。だから何だって話だが。
 ……ああ、何だありゃ。灰の上に何かがある。


 俺はすぐ身近にあったそれに手を伸ばした。茶に近い、よく見たことがある色だ。鳶色。この右腕の色だ。灰の上にあったのは鳶色の羽根だった。俺の体から抜けた、って事はない。羽毛めいた物はあっても翼はない。
 煙が晴れてくる。がこん、と壁が元のように戻る。
 違和感があった。灰の山の中に、妙な物が混ざっていた。でかい。大柄の人間くらいの大きさの、赤い何かの塊。鞘、とでもいうか。昆虫の卵みたいな。そんな形をしている。
「……あれは」
 赤い鞘の中に、俺は人影を見つけた。その次の瞬間には、俺は灰の中から立ち上がっていた。



 ――爆発した。
 炎の中に落ちていく最中は、全ての事象がスローモーションに思えた。背で火炎の揺らぎを感じていた。炎に呑まれる瞬間も、それとわかった。体があっという間に焼き尽くされるのをはっきりと知覚した。
 何かが起こったのはそのあとだ。暗転のような間があり、大きな爆発音が一つ。それからしばらく経って、叉反は自分の前に何者かの気配を感じた。その時には、もう火炎の熱は感じなかった。
 目の前にいるのが何なのか、何となく予感があった。目を開けた時、予感に間違いがなかった事を知った。
 そいつは血のように赤い胴体に、蝙蝠のような翼を広げ、そして太い一本の蠍の尾を持って目の前に鎮座していた。四足の獣、獅子のようだ。巨大なその口を開ければ、否応なく、自分などひと齧りだと想像させる。


「お前は何者だ」
 待ち構えていた怪物に向かって、叉反は言った。
 怪物は答えず、ただ不気味に笑っていた。黒曜石のような爪のある前足を動かし、まるで猫が眠るような姿勢を取りながらも、爛と光る二つの目が、じっと叉反を捉えている。
 笑う顔は、まるで人間のようだ。
「質問がわからないのか。お前は何者だと聞いている」
「そんな問い掛けが必要あるのか、探偵尾賀叉反」
 さながら地獄の底に吹く風だ。ごうごうと呻り立てるような声で、怪物が答える。
「俺達は一心同体だ。何者かなどと問う必要はない。ただ使えばいいのだ。手に入れた力を」
「どういうつもりか知らないが、願い下げだ。とっとと出て行ってもらおう。俺には関係ないし、今後も関わるつもりはない」


「いらない物を簡単に捨てられるなら、とっくに尻尾を千切っていただろう。もはや無理だ。俺はお前となった。お前の血肉は俺の物で、お前の心には俺が住み着いている」
「図々しい奴だ」
 叉反はコートの内側に手を伸ばした。腋の下にホルスターが吊るされ、中に拳銃が入っていた。FEGモデルP9R。かつてテロ組織との戦いで手に入れた、叉反の銃。
「簡単に銃を向けるようになったな。叉反」
 人間の顔で、怪物が言った。額に、口元に皺が出来ていた。
「銃は最低、ではなかったのか?」
「知ったような口を利くな。お前は俺じゃない」
「いいや、同じだ。お前が頑なに銃を握らなければ、俺達は出会わずに済んだかもしれない。だが、お前は銃を握り、力を使って、人を殺した」
 巨大な蝙蝠の両翼が、叉反を包み込んだ。怪物の顔が間近にあった。
「お前が自らの道にぶちまけた血の匂いを辿って、俺はやって来た。お前は目を逸らして俺を見ないようにしていたが、俺はこうしてお前と顔を突き合わせている。よく見ろ、お前の顔を」
「消えろ」


 引き金に指をかける。力を込めれば、弾が出る。前のような減装弾じゃない。怪物の脳天を貫通して、くたばらせるには十分だ。
「くくく、残酷な事を考える」
 笑みを消さず、怪物が言った。
「だが、どうしてもそうしたいなら、顎の下に銃を当てるがいい。他人を撃つより怖いだろうが、そのほうが確実だ」
「俺は消えろと言ったんだ」
 蝙蝠の翼が大きく羽ばたいた。視界が不明瞭になる。銃を構えている腕の感覚が消え、体がそこにあるという感覚もなくなっていく。
「挨拶はこのくらいにしておこう。まずは楽しむがいい。お前が手に入れた、人を超えた力を」
 羽ばたきが大きくなるにつれて、意識が浮上していくのがわかった。
 目を覚ました時、叉反は自分が横になっている事を悟った。掌に、ざらざらとした感触がある。視界にあるのは空だ。真円に切り取られた、白っぽい空。


「――よう。起きたか」
 知っているような、知らないような声が聞こえた。即座に叉反は身を起こした。懐に手を入れるが、右手の先には何もなかった。
 銃。そう、P9Rは今この場にはない。
「おい、落ち着けって。俺は助けてやったんだぞ」
 目の前の癖っ毛の男が呆れたように両手を挙げる。男の右手は鳶のアシユビだ。それでようやく、叉反はこの男がコンビニにいた若い男だという事を思い出した。
「……助けた?」
「説明し辛いけどね。あんたが灰の中に沈みそうになっていたから、引っ張り上げた。見かけより重かったぜ」
「俺は、どうなっていたんだ?」
「どうなってたって言われてもな……」


 男は困ったように頭を掻いた。
「……まあ、座れよ。立ってんのも疲れるだろ」
 言って、男は灰色の地面に腰を下ろした。ふと口元が寂しくなって、叉反は内ポケットを探った。今度は目当ての物があった。潰れかけた煙草のケースが。
「吸ってもいいか?」
 ケースを見せると、男はどうでもいいように頷いた。
「どうぞ。俺は気にしない」
 ケースを下方に傾けると、白い吸い口が見えた。もう、そんなに数はない。一本を取り出して口に銜えると、ライターで火を着ける。若干のラム香がして、きつめの煙を肺に取り込んだ。
 腰を下ろすと、叉反は煙草を手にやり、煙を吐き出して男に言った。
「自己紹介がまだだったな。探偵の尾賀叉反だ」
「ああ、知ってるよ。あんたと別れる前にあいつらが言っていたのを聞いた。俺は……トビだ。トビって呼んでくれ」


「わかった。助けてくれてありがとう、トビ」
 叉反は軽く頭を下げた。トビの顔は曇っていた。
「……言っとくけど、お礼なんかしてる場合じゃねえぜ。探偵さん」
 沈んだ面持ちでトビは言い、それから、叉反と別れた後、自分達の身に何が起こったのかを語った。
「――ここに落ちてから目が覚めるまでの記憶はねえ。目を覚まして少ししたら、あんたがそこの壁から出て来たんだ。赤い膜っつーか、鞘みたいなのに入ってな」
 左の人差し指で、トビは後方の壁を示した。
「その鞘は、どうなったんだ?」
「俺が触ったら溶けたよ。欠片も残らなかった」


「なるほど。赤ん坊の保護膜に似ているな」
「……何だって?」
 トビが顔をしかめて聞き返してきた。
「フュージョナーの胎児が母親のお腹にいる頃に作る膜だ。俺の尻尾の毒針みたいに、出産時に母体を傷つけかねない物を覆ってしまう。体から剥がすとそのうち溶けてしまうんだ」
「何ていうか、SFみたいだったぜ。あんたの全身を守るカプセルみたいなさ」
 間違ってはいない。気を失う直前、叉反の体は焼却炉の炎の中へと放り込まれた。熱を感じてはいたが、死ぬ気は決してしなかった。
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