探偵尾賀叉反『翼とヒナゲシと赤き心臓』

安田 景壹

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『翼とヒナゲシと赤き心臓』13

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これまでトビから聞いた話と、叉反自身に起こった事を総合する。
「仁は、この真上の屋上にいると言ったな」
 叉反は言った。意図せず吸い込んだ紫煙が、ささくれ立ちそうになる神経を押さえる。
「ああ。うまく逃げ切れていればいいけど、な……」
「聡い子だ。何とか切り抜けているとは思うが」
 とにかく、のんびりしている暇はないようだ。煙草を消して、叉反は立ち上がった。
「行くか」
「行くか……って、どこにだよ。ぱっと見た感じ出口はねえぞ」


 辺りを見回して、トビが言う。確かにそうだ。周囲は壁で囲われ、その壁には手足をかけられそうな物はない。ここは焼却した灰の集積場だ。叉反がそうしたように燃やされてしまうか、トビがそうであったように上から落ちてくるかでしか、ここに立ち入る術はない。
 そして、ここから出るためには。
「こういう施設の灰が、この後どうなるか知っているか?」
「……いや、知らねえよ。ていうか、あんたはここが何なのか知っているのか」
「菊月環境美化センター。ナユタと他都市との境にあるゴミ処理場だ。ここで出た灰は、このあと塩素を除去された上で、セメントなどの原料にされる」
「……つまり?」
「ここで終わりじゃないって事だ」


 そう言い終えた瞬間、叉反は足元に奇妙なものを感じた。気のせいではなかった。機械の駆動音が聞こえる。巨大な筒の底が振動し始めていた。
「今度は何だよ……」
 心底うんざりしたような、泣きそうな声でトビが言った。足元の砂粒のような灰が、僅かにだが動き始めていた。
「灰を洗浄槽に流し始めたな。おそらく底にパイプラインがあるはずだ」
「なあ、あんたまさかそこから出ようって言うんじゃないだろうな?」
「出口はそこしかない」
「馬鹿言ってんじゃねえ! 灰まみれになって出て行けって言うのか!」
 どころか、このまま潜れば窒息する。そう言おうかと思ったが、相手を刺激しそうなのでやめておく。灰の流出は続き、沈下していく感触と共に、目に見えて量が減っていくのがわかる。


「周りを見ろ。灰の減る勢いが早い。おそらくパイプの口は大きく、人が通れるくらいはある。灰が流れ切る瞬間を狙って入れば洗浄槽まで行ける。そこからなら、脱出は可能だ。どの道このままじゃ手詰まりなんだからな」
 地面は下がり続けている。だが、灰がなくなるまではまだまだかかるようだ。この集積タンクの底は深いらしい。無性にもう一本吸いたくなって、叉反は新たに煙草を銜える。
「……出られるのか、ここから?」
「俺は出ないがな。仁を助けなければならん。こう言っては何だが、あんたも出られるかどうかわからんぞ。この施設に巣食っている奴等が、秘密が外に漏れるのを良しとするわけがない」
「まだ誰かに狙われるっていうのか?」
「まず確実にな。逃がす理由がない」
「くそ! 何だってんだよ。実験だの何だの俺は知ったこっちゃねえってのに、何だ、俺が悪いってのか!? 俺は巻き込まれただけだぞ!」
「俺だってそうだ」
 そう言って煙を吐き出した叉反の目に、苛立ちに満ちた目つきで睨み付けてくるトビの瞳が映った。


「何だ?」
「こっちの台詞だ。何であんたそんなに落ち着いていられるんだ? 大した事ない、とか言いたいんじゃないだろうな?」
「何の話だ」
「タフぶってんじゃねえよ。そりゃあんたこういうの慣れていそうだけどな、俺は違う。俺は殺されかけるなんて初めてだし、骨がばきばき音立てながら体が変わっていくのなんて経験したくもなかった。なあ、あんた本当に俺の味方か? 実は向こうの回し者っていうんじゃないだろうな?」
 男はその身を震わせて、猜疑心に溢れた目で叉反を見た。何て事はない。そこにいるのは、見えない脅威に怯える若い男だ。
 自分は我慢強く出来ている。叉反はそう自負している。職業柄、感情的にならないように普段から訓練しているし、自分の精神の起伏には気を遣っている。


 目の前の男の姿に、僅かな苛立ちを感じたとしても、叉反は心の別の場所から、その感情の動きを他人事のように観察して、制御する事が出来る。
「だったらどうする?」
 短くなった煙草の灰を落とし、携帯灰皿に吸い殻を仕舞うと、叉反は新たにもう一本、煙草を口に銜える。
「俺が仮に敵だとして、お前に何が出来る。言っておくが、素人に負けてやるほど俺はお人好しじゃない。お前のその鉤爪が届く前に、俺はお前を黙らせる事が出来る。パニックになるのは勝手だが、それで物事は解決しない。助かりたければ、まずは落ち着くんだ」
「……黙らせるだとか、そういう事を言い出すから信用出来ねえんだよ。あんた、本当に味方なのか?」
「確かめてみろ。一本吸え」


 ケースを軽く振って飛び出させた煙草を、トビに差し向ける。戸惑いながら、トビは左手で煙草を受け取りぎこちなく銜えた。ポケットからライターを取り出して擦る。
トビの銜え煙草が火に近付いた瞬間、叉反は痩せた頬に拳を振るった。力まず振り抜くだけの拳。手応えはあった。会心の当たりだ。およそ想定したようにトビの口からは煙草が飛び出し、その体は吹っ飛んで灰の上に落ちた。
「何しやがる!」
 怒号がすぐに返ってきた。自分の煙草に火を着け、落ちた煙草を拾い、灰を払う。
「俺が敵なら今ので死んでいたな」
「てめえ……!」
 トビの瞳に怒りが宿った。灰の上から立ち上がり牛のようにこちらに突っ込んでくる。鉤爪を持つ右手が顔面目がけて迫ってくる。
 思ったよりは早い。
 だが内股を蹴り払うほうが早かった。


 眼前で鉤爪が空を切り、トビは大の字に倒れ込んだ。
「頭でも腹でもどこでも狙える」
 見下ろして、叉反は言った。
「ぶっ殺してやる。てめえ!」
 跳ね起きたトビが振るった腕を半身で躱す。それなりに、喧嘩の仕方はわかっているらしかった。鉤爪を外した瞬間、間髪を入れず左の拳が飛んでくる。足を蹴り上げただけのキック、再びの鉤爪。体の勢いに任せるまま、叉反は相手の足を刈り上げ、三度灰の上に転がした。
 煙草の灰が少し長くなっていた。崩れそうだった灰を叩いて落とし、また口に銜える。
 今度はすぐに起きようとはしなかった。


「何を考えてやがる、あんた」
 寝転がったまま、間を置いてトビが言った。
「何がしてえんだ?」
「一番納得出来るやり方を選んだだけだ。お互いにな」
「出来るわけないだろ、納得なんて……」
 言いながら、トビは身を起こした。まだ怒っている。
「俺が喚いたから殴って黙らせる気だったのか?」
「昔、俺が喚いた時はそうされた。諭す事も出来たが、今のあんたにそれは効果的じゃない。軽く喧嘩をして、頭の血を下げさせる必要があった」
「必要なら暴力を使うって?」


「平和な世界なら必要ない。だが、命を狙われる場所では別だ。どんな手段を使っても、まずは冷静にならなければならない。生き残りたいのであれば」
叉反は煙草を差し出した。トビが手を伸ばしかけ、引っ込めかけた後、結局叉反の手から摘み取り、口に銜える。
「火が着く時に軽く呼吸しろ」
 言って、ライターの火を近付けてやる。トビの煙草の先が赤く燃え、紫煙が流れた。煙を吸い込むとトビは顔をしかめ、ひどく咳き込みながら煙を吐き出した。
「なんだこりゃ……」
「ハイライトだ。昔からある煙草だ」
「きつい」
 恐る恐るトビは続きを吸って、慣れない様子で煙を吐き出した。


「ここを出るまではあんたの味方だ。安心してくれ」
「そりゃどうも。結構なご指導痛み入るぜ」
 煙草を銜えたまま、苦々しい顔で言う。
「だが、もう殴るのは――」
 ――違和感。悪寒。感覚に走る黒いノイズ。
 まるで手品のように男の体が消えたのは、その瞬間だった。
「――ッ!?」


 叉反の目に捉えられたのは、煙草とともに舞い上がった灰埃の端だけだ。足元で何かが蠢く気配がした。
いや、気配だけではなかった。叉反は目を見張った。盛り上がった灰が、眼前でゆっくりと動いていた。さながら鮫の背びれだ。姿の全ては見えないのに、そこにいる事をこちらに理解させる。
盛り上がった灰は次第に低く下がっていき、再び平らとなった。深く潜ったのだ。叉反を捉える、その一瞬を狙うために。
ないはずの視線を感じる。あからさまな照準合わせ。しかし銃ではない。もっと大きな、何かだ。
――――来た。


 踏切の悪い足場を全力で駆ける。コンマ数秒おいて、叉反のいた場所から灰が噴出する。精査する隙はない。再び足元から気配がして、体すれすれで灰が舞う。その中で、黒く長いものが蠢いて、またすぐに足元へ消える。
 肢、だ。とすると相手は――
 背後の殺気めいた感覚に思考を中断し、叉反は無理矢理跳んだ。間違いない。視界に入ったのは紛れもなく昆虫の肢だ。相手の正体が見えた。こいつは――……
「――ッ!!」
 影が叉反の背後で伸びていた。振り返り際、強い力が両端から叉反を締め付ける。抵抗しようとしたその時、相手の姿が目に映った。
 直後、叉反の体は一気に地中へと引き摺り込まれた。
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