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『翼とヒナゲシと赤き心臓』23
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23
バールを片手に、俺は探偵に続いて通路を進んだ。人影はない。体調も良くなってきている。靴があるおかげで走りやすい。
モンストロストーン。俺の体に埋め込まれたこの異物は、俺の体を完璧に調整してくれるらしい。さっきまでの疲労感は嘘みたいに消えている。気分も――実に奇妙だが――少し上向きな気さえする。とにかく動かなければ、というような気分が渦巻いているのだ。たぶん、生き残るために。
「探偵、まずはどうするんだ?」
「二人を探したいところだが手がかりが少ない。レベッカとは地下一階、仁とは屋上で別れた。そうだったな?」
「ああ」
「ではまず地下一階に向かおう。ここからそう遠くはないはずだ」
建物の配置的に、俺達の今いるこの階層も地下だろうが、ここからさっきの地下一階までどう行くかは見当もつかない。順当に行けば階段くらいはありそうだが……。
突然、建物が大きく揺れた。足元のバランスが崩れ、俺は転びそうになる。
「爆発か!?」
「かもな」
叉反がそう答えた瞬間、目の前が暗闇に覆われる。一瞬の事だが、電灯は明滅を繰り返している。何かが聞こえた気がした。人の叫び声のような。
「聞こえたか? 今の」
叉反は頷いた。
「少し遠いな。行ってみよう」
言うが早いか、探偵は走り出した。あっという間だ。ったく、こっちの事も少しは考えてくれよ!
大急ぎで俺は探偵の後を追う。幸い通路はほぼ一本道だ。俺と叉反の靴音だけが響いている。
それなりに走ったところで、探偵が不意に足を止めた。
「待て」
俺を制止し、探偵は一人で進む。前に何かある。俺はそっと、探偵の歩く先を覗き見た。
――血だ。
さっきの俺のように大量の血がぶちまけられた床の上に、人影が転がっていた。
いや、俺はそいつに見覚えがあった。黒犬の耳。最初に俺達をコンビニで襲ってきた二人組の片割れだ。
「死んでるのか……?」
叉反は答えなかった。慎重に近づき、そっと手を伸ばす。突然、叉反の薄汚れたコートの袖が、黒い手に掴まれた。獣のような体毛が血で濡れている。
「触るな……」
絞り出すような声で、はっきりと男はそう言った。
「誰にやられた?」
「ガキだ……。小さな、ガキ。たぶんフュージョナーだ。腕に鋏を持っている……」
男の体から、弱々しい緑の電流が弾けている。
「あの女。連れて行かれたぞ……」
「この先か」
男は頷く。
「譲ってやるよ。行きやがれ。俺は少し休ませてもらうぜ。傷の治りが、遅え……」
「……ありがとう」
「うるせえ。いずれお前も殺してやる」
最後のほうはほとんど小声だった。叉反は立ち上がり言った。
「この先だ。行こう」
俺は頷き、叉反に続く。男の傍を通る時、情けないが少しばかり怖気が走る。
血まみれで倒れながら、男は俺をじろりと見た。何を言うわけでもない。俺を見ていたわけではなく、たまたま目が合ったのだろう。何を言われるでもなく、俺は男の前を通り過ぎる。
その目に、奇妙なぎらつきがあったのが心に引っ掛かった。満身創痍のはずなのに、怖さを感じるような執念めいた光。
だが、それ以上を読み解く暇はない。俺は叉反に続き走り出す。緩やかなカーブを描く通路に入ると、もう男の姿は見えない。
通路の終わりが見えてきた。エレベーターの表記が見えたのだ。と、同時に視界へ人影が映った。どういうわけだが、力づくでこじ開けられたような、壊れたエレベーター扉の前に立っている。ざっとだが判別出来る。小さい、灰色のマントを纏った子供。そして……赤い髪の女。
「レベッカ!」
俺は思わず口に出していた。視界の先にいた二人が同時にこちらを振り返る。俺のせいか。それとも二人して立てていたこの足音のせいか。いや、もうそんな事を言っている場合じゃないようだ。表情を崩さない子供。驚いたようなレベッカの顔。
銃を構えた叉反が、間髪入れず言った。
「動くな。彼女を放してもらおうか」
叉反の銃口は灰マントの子供に向けられていた。あいつが、さっきの男に深手を負わせた子供なのか。
子供はしかし、叉反の言葉にすぐには答えなかった。何かを言おうとしたレベッカを吸倍動作で制する。鋏――昆虫の顎のようなものが付いた右手がレベッカに向けられる。そのままマントの中からでかいトランシーバーを取り出し、子供は誰かにへ向けて喋り出す。
「……ああ、リッキィ。探偵が来た。こっちには降りず、上でボクの到着を待て」
そうしてスイッチを切ると、トランシーバーをマントの中に仕舞い、言った。
「探偵尾賀叉反、さっきは妹達が世話になったみたいだね。ボクはトウカツだ」
俺には目もくれない。子供――トウカツは、ただ探偵にだけ話しかけている。
「この女を取り戻しにきたのかい? やめておきなよ。ボクはお前が撃つ前にこの女の首を掻き切る事が出来るし、その後でお前の命を奪う事も出来る。妹や弟を退けたからといって、ボクまでどうにか出来ると思うのはお門違いだよ」
身動ぎしたレベッカにさらに切っ先を突き付けながら、トウカツは続ける。
「それに、知らないかもしれないけど、ここはもうすぐ爆破されるよ。焼却炉の炎を使って丸ごと焼き払われる。早く逃げたほうがいいんじゃない?」
叉反の予想は当たっていたようだ。やはり、もう時間はない。だが、叉反は平然として言い返した。
「能書きはいい。俺の言う通りにするかどうかだ」
「随分と威勢がいいね。だいたい子供に銃を向けて、恥ずかしくないの?」
「大の大人一人を斬り伏せるような奴じゃなければ、俺だってこうはしない。さあ、彼女を放せ。撃たれて無事で済むと思うか」
そう言った直後、一瞬叉反の目が俺を見た気がした。やはり、目が合った。メッセージだ。何を言いたいのかは、この状況から判断するしかない。
俺は左手から右手へバールを持ち替える。
「最後の警告だ。撃つな。この女を殺したくないのなら」
「同じく警告しよう。手を引け。怪我をしたくないならな」
俺はタイミングを計る。出来る事は一つだ。探偵は俺にそれをやれと言う。だが、やるしかない。出来なきゃ、目の前で人が死ぬ。
叉反とトウカツが睨み合う。レベッカが緊張した面持ちで二人を見る。俺は、事が動くその一瞬を逃さない。
――再び、建物が揺れた。
その瞬間、俺は動いた。雄叫びを上げながら、一直線にレベッカへと向かっていく。トウカツの目が僅かに俺を見た刹那、銃声が轟いた。灰マントが翻り、レベッカの傍を離れる。俺は彼女の手を掴んだ。
「逃げろ、トビ! 彼女を守れ!!」
叉反が叫んだ。返事もしないで、俺は走り出す。背後から銃声が聞こえてくる。死にもの狂いで足を動かす。
「加工区画まで行って! 非常口がある!」
同じく走りながらレベッカが叫ぶ。加工区画。さっきのコンベヤーがあった空間か。くそ、あんなところに非常口があったなんて!
油断すれば今にもトウカツが追いついてきそうだ。そんな思いが、俺の心を逸らせる。あっという間に、俺は犬の男がいた通路の辺りまで戻ってきた。ついさっき目にした血痕が再び視界に入る。が――
「いない?」
男の姿はそこになかった。
「トビ、何してるの! 早く!」
一瞬、足を止めたレベッカが俺を追い越していく。まずい。今は逃げないと。血痕から目を離し、前を見る。また建物が揺れた。そうして俺は見た。天井から欠片のような物が落ちてくるのを。白い天井に亀裂が入っていくのを。その下をレベッカが走り抜けようとしているのを。
「止まれ!!」
叫ぶと同時に俺は駆ける。レベッカが振り返ったその瞬間、天井がパズルのピースのように抜け落ちる!
バールを捨て飛び込むように彼女の腕を掴み――ずっと手に持っていたケースがその手から離れる――引っ張りながら覆いかぶさる。目を閉じた瞬間、轟音が響き渡る。天井が落ちた。何が落下したのか、とてつもない衝撃波が建物中に響き渡った。俺は身を屈し、必死にレベッカを自分の影に隠す。通路は塞がれただろう。降り注ぐ無数の破片を背中に感じる。わかるのは生きている事だけ。自分が潰れていないという事実だけ。
――ゥウウォグォオオオオ…………
奇妙な音。何かの唸り声のような。耳をつんざく大きな声。地鳴りのような振動。まるで歩いてくるかのような。
歩いてくる……?
「トビ」
レベッカの声に俺はようやく目を開ける。すぐ近くに、彼女の青い目があった。慌てて俺は身を起こし、辺りを見る。灰褐色の土埃が舞い、どうなったのかすぐにわからない。目の前には瓦礫が積み重なっていて、すぐに動くのは難しそうだ。
「大丈夫?」
「あ、ああ。……俺は平気だ」
あんたは、と言おうとした。だが、地響きがそれを遮った。
――……ズシン、ズシン。
靄のような埃の中を何かが歩いていた。巨大な、とてつもなく巨大な影。何だ。映画か何かで見るような光景が、実際に今、俺の前に現れている。
陽光が差し込んできた。地上階からここまで一気にぶち抜かれたのだ。光が、土埃の幕を照らす。影が、俄かに動きを止める。その体から聞き覚えのある放電音と、緑の光が発せられる。
グァアアアアアアアアアアッ!!
咆哮とともに迸った緑の稲妻が、瞬く間に土埃を払った。
「な……っ」
俺は見た。長い、まるで橋のように長く、大きなその体を。土気色の鱗が全身にびっしりと生え揃い、大きく、牙を覗かせる口は悪魔のように禍々しい。木の幹のような四肢、それ自体が大蛇のようにしなる尾。
鰐。それも、巨大な鰐だ。緑電を体中に纏わせた、竜のような鰐。
「デイノスクス……」
レベッカが呟いた。俺はそっと瓦礫の影に身を隠す。まだ、奴に見つかってはいない。
「何だよ、あれは! ここにはあんな化け物までいたっていうのか?」
「――いえ、あれは超獣態。モンストロの超過摂取があそこまでの回帰を引き起こしたんだと思う。でも、だからってあんな……」
レベッカは納得出来ないといった素振りで一人何かを呟いている。今はどうでもいい。また太陽の下に出られたはいいが、あんなもんどうやって切り抜けろって言うんだ。
遠方で爆発音がした。巨大鰐デイノスクスの向こうに炎の柱が見えた。あの位置。焼却炉だ。ついで、俺達が今いる建物のどこかからも爆音が轟く。爆弾か。どうやらついに向こうの作戦が実行に移されたようだ。施設の放棄。そして徹底的破壊。
デイノスクスが爆音に反応して、頭を左右に振る。俺とレベッカは瓦礫の影でただひたすらに身を潜める。攻撃。逃走。いずれも選べはしない。ただひたすら、脅威がこちらに牙を剥かないよう祈るばかり。
ふと、上空を影がよぎった。軽やかな音を立てて、人影が目の前に着地する。
――息を呑んだ。
「あれ。これはこれは」
猫の手のような手袋を振りかざし、そいつは言った。
「失敗野郎と裏切り者じゃないか。こんなところで仲良くどうしたの?」
「白王……ッ!」
レベッカが言いざま、手に持った小さな銃を構える。褐色の肌の少年は、嘲笑うように白虎の尾を揺らした。
「どうやら、面白い時に来たみたいだね」
屋上から俺を落とした時のような、冷酷な笑み。背後からは、鰐の鳴らす足音が響く。
最悪の状況だった。
FNモデル・ハイ・パワー・マーク3。巨漢の黒服から奪った銃を見た時、因縁を感じずにはいられなかった。数週間前の事件でも似たような経緯で同じ銃を手にし、戦った。あの時と同じように、今また叉反は引き金を引く。小刻みに揺れる建物のせいで狙いが不安定だ。
放たれた銃弾は、しかしトウカツの腕から生えた昆虫の顎によって弾かれる。金属音が響き渡った。鋼化しているのだ。
「続ける前に一つ聞かせてもらおう」
お互いに間合いを取った時、叉反は言った。
「少年を一人見なかったか。お前くらいの歳の子だ」
「お前……ボクが本気でそれに答えるとでも思っているのか?」
「知ってそうだからな。多少無茶してでも答えてもらう」
「嫌な大人だ」
姿勢を低くして、トウカツが斬りかかってくる。しかし、トウリンやゴククのようなプレッシャーは感じない。斬撃を紙一重で躱し、体勢を変える刹那を狙って銃口を突き付ける。
「無駄だ。この狭い通路ではお前はモンストロの力を活かせない。いかに動きが良くてもこの距離ならもう外さない。刃を下ろせ。お互い、こんな事をしている場合ではないはずだ」
「そう言うのならさっさと死ね」
刃を振り回すようにトウカツは回転。引き金は引けない。叉反はバックステップで距離をとる。トウカツもまた、迂闊に突っ込んできたりはしない。
「まるで飾りのような銃だ。撃つ気がないのか?」
「お喋りしている暇があるのか? 悠長な事だな」
トウカツの顔が忌々しげに歪んだ。その時だった。
『――……兄さん、聞こえるか? 今すぐ逃げろ。 想定外の――』
マントの内側から子供の叫び声が聞こえてきた。ゴクク。トウカツの表情が俄かに変わる。直後、立っていられないほどの大震動が叉反達を襲ってきた。大轟音。崩落音。トビ達が逃げた方向からだ。
「ちっ。一体何が――」
トウカツの呻きが、通路の奥から響く声によって遮られる。咆哮。確信は持てないがそんな感じだ。だが、今くらいの大きさは――……
「残念だが、お前の相手をしている暇はなくなった」
ばちばちと緑電を発しながら、トウカツは言った。
「勝負はお預けだ。妹達の借りはいずれ必ず返す」
言うが早いか、雷の如き瞬速でトウカツは壊れたエレベーターの中へと消えた。放電音だけが次第に遠のいていく。
殺してやる。借りは返す。因果ばかりが積もっていく。だがため息をついている暇はない。叉反は踵を返し、トビ達の後を追った。
震動。そして爆音。
途中何度か足を取られそうになりながらも叉反は走り、そして唸り声が徐々に大きくなっていくのを聞いた。何かがいる。この先に、尋常ならざる何かが。
位置で言えば、犬の男が倒れていた辺りだろう。朦々と塵や埃が立ち込めていて、口と鼻を腕で覆う。周囲は瓦礫の山だ。慎重に進まなければ。
地響きのような、奇妙な震動が続く。何だ。とても考えが及ばない。ある種予感のようなものはあるが、あまりにも荒唐無稽だ。
いや、しかし。俺は見た。この事件の始まり。犬の男がモンストロによってその体を巨獣に変えた瞬間を。もしあれが、さらに大きな規模で起こったとしたら?
刹那、轟いた咆哮と緑電の眩しい輝きが答えとなった。濃霧めいた粉塵が閃光とともに散っていく。差し込んだ陽光の下、叉反はそいつの姿を見た。
四足の竜。吼え猛り、稲妻を纏うその姿は、そうとしか言いようがなかった。あの緑電光がモンストロの影響を証明している。という事は、あれもまたフュージョナーの形態変化の結果だというのだろうか。元は人間だった存在が、あそこまで急激に変貌するというのか。
驚く暇もまた、叉反には与えられなかった。視界の先、上層階から人影が飛び降りる。危なげなく着地したその小柄の影の正体を叉反は一瞬で見てとった。
「白王!」
瓦礫を飛び越え、叉反は駆けた。奴の先にもまた人影があった。瓦礫を背に身を隠すようにしている二人。トビとレベッカだ。
「動くな! 一歩でも動けば撃つ!」
射程距離ぎりぎりの位置で、叉反は叫んだ。
大仰に白王は両手を挙げた。振り返りながら、にんまりと笑う。
「それはいいけどね、探偵。あいつに気付かれたよ?」
巨影が驚くほどスピードで向きを変えた。言われるまでもない。だが、この状況では一度に二つの脅威を相手には出来ない。
瞬時、叉反は竜を撃った。撃ちながら、惹きつけるようにその視界へと入っていく。とにかく二人からこいつを引き離さなければ。
『――ふん。面白いな。お手並み拝見させてもらおう』
意識の裏から響く怪物の笑いを聞き流し、叉反はさらに撃った。スピードリロード。残る弾はこれで全て。
這い回る竜が咆哮した。叉反に狙いを定めたのだ。さながら地獄の剣山のように牙が並んだ口を開き、突進してくる。速度が段違いだ。叉反の全力疾走など、一瞬で距離を詰められてしまう。もはや元が何だったのかさえわからない瓦礫の山に巨竜は突っ込んだ。破片が粉々に飛び散る。転がりながら回避した叉反の上を鉄骨が飛び出した天井の残骸が飛んでいく。攻撃を避けるだけではない。何か一つに当たっただけで即座に死ぬ――そんなイメージが脳裏を駆け抜けた瞬間、とてつもない衝撃に叉反の体は吹っ飛ばされる。
骨が砕け、内臓が潰れた。尋常ならざる量の血が口から吐き出され、叉反は地面に叩き付けられる。身震い。攻撃でさえない。奴が体勢を立て直す動作でさえ、触れればそれで終わりだ。
『くくく、馬鹿を言え。死なせんよ。もっと俺を楽しませろ』
炎。叉反は自分の体が燃え出すのを見た。熱いが、苦しくはない。体中が炎に包まれている。自己治癒を実行した時の何倍もの速度で、今受けた傷が塞がり再生していく。
「これは……」
『俺の力を持ってすれば、このくらいは当然だ。さあ、足掻いてみせろ。圧倒的なモンストロの力に。この俺に縋っておけば良かったと後悔するがいい。さあ、やってみせろ!』
哄笑に言い返す間もなく、巨影が迫る。振り回される尾。まるで大木が襲ってくるかのよう。自分でも信じられないほど力を振り絞り、叉反は跳躍する。逃げ切れない。さながらトラックに激突したかのような衝撃で背中を叩かれ、ボールのように叉反は跳ね返る。墜落。体は破損すると同時に再生していく。
駄目だ……反撃の手などない。
「探偵――! ――レスを!」
誰かの声が聞こえる。レベッカ。しかし、よく聞き取れない。耳は再生の途中だ。銃で竜へと狙いを付ける。だが、銃はすでにその形を保ってはいなかった。銃把から上はほとんど全て消失している。腕は筋肉がズタズタに傷つけられたせいで震えている。その腕もまた炎によって包まれていく。
三度、この身を襲う衝撃。もはや痛みさえ感じないまま、体は宙を舞う。
――これが誓いを破った者の末路か。殺さない。殺したくないと思いながら、殺されたくないあまりに人を撃った者の。そう、あの事件から、俺の心にはずっと後悔が渦巻いていた。殺さずに済ます事が出来たのでは? そのための技術だったのでは?
『馬鹿を言うな。死地において、お前は相手を殺さないで助かると本気で思っているのか。今のお前は何だ?』
甘い。甘すぎる。殺し合いはどちらかが死なねば決着しない。お前の後悔は、ただ覚悟のない者が吐く妄言だ――
炎が全身を包んでいく。本当に何度でも蘇らせるのだ。たとえ、俺の心臓が止まっても。俺を苦しめ、俺の間違いをせせら笑うためだけに。
『覚悟を持て。人を殺す覚悟を。そうすれば力を与えてやる。奴はもう元には戻れない。ただの怪物だ。殺す意義さえ存在する。甘いお前にはうってつけの相手だ。ふふ、ははははは!』
獅子の男を殺した後。叉反は確かに思ったのだ。もし、もし仮に、殺さぬまま相手を圧倒する事が出来るなら。夢想と笑われても仕方ないが、もしそんな、奇跡のような力を手にする事が出来るなら。
もう二度と、誓いを破らずにいられるなら。
「グゥルウウガァアアア!!」
焼け付くほどの激しい閃光が視界に満ちる。緑電の咆哮。雷の柱だ。身を癒す炎に包まれながら叉反は笑う。これは、欠片一つ残るまい。
激しい光の奔流が叉反を飲み込む。終わりだ。これで――
〝――馬鹿を言うな。他人の全てを奪わんとするなら、自分もまた他人に全てを奪われるのだ。私はその覚悟を持って生きている〟
叱咤するようなその言葉は、一体誰の物だったのか。
〝覚悟も矜持も、信念さえも持たない奴が私に意見するな。己なき愚物め。弁えろ〟
鋭く心を突いた言葉。生と死を目の当たりにしたあの日――
〝自分の道は自分で探せ。誓いがあれば死んでも離すな。一度果たせなくとも持ち続け、貫き通せ。そうやって、生きてみせろ〟
――俺に、その資格はあるのか? 叉反は自分自身に問う。
愚問だ。そんな事を問う自体、覚悟を持っていない証拠。
本物ならば。本物の覚悟を持つならば、まず何よりも先に立ち上がってみせろ。
光の奔流が消えていく。燃え盛っていた炎とともに。
「……ほう」
白王のそんな呟きが聞こえた。巨竜が、わずかに動きを止めていた。あるいは竜自身さえも、これで終わりだと思ったのか。
「そういえば、妙だとは思った。犬の男の傷を見た時に」
一人、叉反は言葉を紡ぐ。己の考えを確かめるために。
「トビや俺の傷は瞬く間に治ったというのに、トウカツに切られたあの男の傷は、治りが極端に遅かった」
それだけではない。最初にあの男と戦った時、叉反は内なる怪物に半ば意識を乗っ取られていた。あの時もまた、彼の回復速度は鈍っていたのではないか?
「二度と人間の姿には戻れないとまで言われた男が、形態変化を繰り返した。これは一体何を示すのか」
怪物が沈黙している。ついさっきまで饒舌だった怪物が。
巨竜の口が再び開かれる。電光。さっきよりは小さいが、それでも叉反を飲み込むほどの放電。間髪入れず吐き出された超電流に対して、叉反は右腕を掲げた。
――炎は俺の中にある。俺の手の中に。
瞬間、渦巻いて生まれた炎の塊が超電流を受け止め、掻き消していく。
「結論は、こうだ。俺に埋め込まれた物はモンストロの力を打ち消す性質を秘めている」
怪物の苦々しげな顔が、叉反には見えた。
『……だから、何だと言うのだ。俺の力は俺の物だ。炎が出し入れ出来たとて、それ以上を俺が許すとでも――』
「許す許さないの問題じゃない」
覚悟は決めた。もう、迷わない。
「お前は俺だ。最後まで付き合ってもらう」
今こそ、今こそ過去を乗り越える時。
『何を、何を言って――!』
さあ、行こう。叉反は言った。
――闇の彼方に、手を伸ばす。その先に赤い星が燃えている。
「――――超越」
星を掴む。その瞬間、灼熱の炎が叉反の体を包み込み、燃え盛るままその身を焼き尽くしていく。
炎に痛みはなかった。全ての細胞が燃え尽きて、新生していく。
炎に苦しみはなかった。あらゆる感情は浄化され、再構築される。
血が巡る。心臓のように鼓動する、赤い星から生まれた血が。
新たな肉体は鎧のようでもあり、生身そのものでもあった。熱を帯びた赤い皮膚と、硬質さを持つ銀の皮膚。頭の頂きから尾の先まで、全てが刷新された肉体。
「超人態……」
白王の微かな呟きでさえ耳に届く。今しがたの、レベッカの言葉が甦る。彼女は名を呼んだのだ。この力の名を。赤色巨星。大火。火星の対抗者。
蠍の心臓。
「アンタレス」
次の瞬間、叉反は跳んだ。炎を纏った拳が、巨竜の脇腹を打つ。肥大化したその体を大きく窪ませ、巨竜は苦悶の声を上げる。もはや、元の体ではあり得ない膂力。
殴られたその箇所から、緑の粉光が剥がれ落ちる。それが何かは直感的にわかった。肉体に留められなくなったモンストロエネルギー。アンタレスの炎が触れる度、その身から分解されていくのだ。
すかさず振り回された尾の一撃を、叉反は蹴りで迎え撃つ。エネルギーが散り、巨体が揺らめく。
打撃では埒が明かない。
叉反は己の内側から炎を呼び起こした。体内から熱が放出され、右拳を包むように一つの球形を成していく。高く掲げたそれは、燃え盛る炎の星だ。竜が、一気に消耗した竜が叉反に狙いを定める。巨体の筋肉が撓み、跳ぶ。その口で、叉反を喰らわんと。
叉反は避けなかった。すでにすべき事は決まっている。巨竜の口が叉反を飲み込む。光が失せた暗闇。その中で輝く大火球の拳。
解き放つ。
直後、激しい火炎のエネルギーが爆発するように巨竜の内部で溢れ出し――
次の瞬間、遡る瀑布の如き勢いで緑の粉光が炎とともに天へと向かう。
後には、二人の人影だけが残されていた。右ストレートを振り抜いた後のように拳を掲げた超人と、そして、背に鰐の鱗を持つ、倒れ込んだ男の姿が。
消し去った。巨竜と化すまでに蓄積されたモンストロエネルギーを、アンタレスの力で消し去ったのだ。
激しい疲労感が、間を置かず叉反を襲う。体は元に戻らないが、叉反は思わず膝をついた。口元がマスクのように変化していなければ、まず嘔吐しているだろう。超人的な力の対価を要求するかのように、全身を締め付けられるような苦しみがやってくる。
バールを片手に、俺は探偵に続いて通路を進んだ。人影はない。体調も良くなってきている。靴があるおかげで走りやすい。
モンストロストーン。俺の体に埋め込まれたこの異物は、俺の体を完璧に調整してくれるらしい。さっきまでの疲労感は嘘みたいに消えている。気分も――実に奇妙だが――少し上向きな気さえする。とにかく動かなければ、というような気分が渦巻いているのだ。たぶん、生き残るために。
「探偵、まずはどうするんだ?」
「二人を探したいところだが手がかりが少ない。レベッカとは地下一階、仁とは屋上で別れた。そうだったな?」
「ああ」
「ではまず地下一階に向かおう。ここからそう遠くはないはずだ」
建物の配置的に、俺達の今いるこの階層も地下だろうが、ここからさっきの地下一階までどう行くかは見当もつかない。順当に行けば階段くらいはありそうだが……。
突然、建物が大きく揺れた。足元のバランスが崩れ、俺は転びそうになる。
「爆発か!?」
「かもな」
叉反がそう答えた瞬間、目の前が暗闇に覆われる。一瞬の事だが、電灯は明滅を繰り返している。何かが聞こえた気がした。人の叫び声のような。
「聞こえたか? 今の」
叉反は頷いた。
「少し遠いな。行ってみよう」
言うが早いか、探偵は走り出した。あっという間だ。ったく、こっちの事も少しは考えてくれよ!
大急ぎで俺は探偵の後を追う。幸い通路はほぼ一本道だ。俺と叉反の靴音だけが響いている。
それなりに走ったところで、探偵が不意に足を止めた。
「待て」
俺を制止し、探偵は一人で進む。前に何かある。俺はそっと、探偵の歩く先を覗き見た。
――血だ。
さっきの俺のように大量の血がぶちまけられた床の上に、人影が転がっていた。
いや、俺はそいつに見覚えがあった。黒犬の耳。最初に俺達をコンビニで襲ってきた二人組の片割れだ。
「死んでるのか……?」
叉反は答えなかった。慎重に近づき、そっと手を伸ばす。突然、叉反の薄汚れたコートの袖が、黒い手に掴まれた。獣のような体毛が血で濡れている。
「触るな……」
絞り出すような声で、はっきりと男はそう言った。
「誰にやられた?」
「ガキだ……。小さな、ガキ。たぶんフュージョナーだ。腕に鋏を持っている……」
男の体から、弱々しい緑の電流が弾けている。
「あの女。連れて行かれたぞ……」
「この先か」
男は頷く。
「譲ってやるよ。行きやがれ。俺は少し休ませてもらうぜ。傷の治りが、遅え……」
「……ありがとう」
「うるせえ。いずれお前も殺してやる」
最後のほうはほとんど小声だった。叉反は立ち上がり言った。
「この先だ。行こう」
俺は頷き、叉反に続く。男の傍を通る時、情けないが少しばかり怖気が走る。
血まみれで倒れながら、男は俺をじろりと見た。何を言うわけでもない。俺を見ていたわけではなく、たまたま目が合ったのだろう。何を言われるでもなく、俺は男の前を通り過ぎる。
その目に、奇妙なぎらつきがあったのが心に引っ掛かった。満身創痍のはずなのに、怖さを感じるような執念めいた光。
だが、それ以上を読み解く暇はない。俺は叉反に続き走り出す。緩やかなカーブを描く通路に入ると、もう男の姿は見えない。
通路の終わりが見えてきた。エレベーターの表記が見えたのだ。と、同時に視界へ人影が映った。どういうわけだが、力づくでこじ開けられたような、壊れたエレベーター扉の前に立っている。ざっとだが判別出来る。小さい、灰色のマントを纏った子供。そして……赤い髪の女。
「レベッカ!」
俺は思わず口に出していた。視界の先にいた二人が同時にこちらを振り返る。俺のせいか。それとも二人して立てていたこの足音のせいか。いや、もうそんな事を言っている場合じゃないようだ。表情を崩さない子供。驚いたようなレベッカの顔。
銃を構えた叉反が、間髪入れず言った。
「動くな。彼女を放してもらおうか」
叉反の銃口は灰マントの子供に向けられていた。あいつが、さっきの男に深手を負わせた子供なのか。
子供はしかし、叉反の言葉にすぐには答えなかった。何かを言おうとしたレベッカを吸倍動作で制する。鋏――昆虫の顎のようなものが付いた右手がレベッカに向けられる。そのままマントの中からでかいトランシーバーを取り出し、子供は誰かにへ向けて喋り出す。
「……ああ、リッキィ。探偵が来た。こっちには降りず、上でボクの到着を待て」
そうしてスイッチを切ると、トランシーバーをマントの中に仕舞い、言った。
「探偵尾賀叉反、さっきは妹達が世話になったみたいだね。ボクはトウカツだ」
俺には目もくれない。子供――トウカツは、ただ探偵にだけ話しかけている。
「この女を取り戻しにきたのかい? やめておきなよ。ボクはお前が撃つ前にこの女の首を掻き切る事が出来るし、その後でお前の命を奪う事も出来る。妹や弟を退けたからといって、ボクまでどうにか出来ると思うのはお門違いだよ」
身動ぎしたレベッカにさらに切っ先を突き付けながら、トウカツは続ける。
「それに、知らないかもしれないけど、ここはもうすぐ爆破されるよ。焼却炉の炎を使って丸ごと焼き払われる。早く逃げたほうがいいんじゃない?」
叉反の予想は当たっていたようだ。やはり、もう時間はない。だが、叉反は平然として言い返した。
「能書きはいい。俺の言う通りにするかどうかだ」
「随分と威勢がいいね。だいたい子供に銃を向けて、恥ずかしくないの?」
「大の大人一人を斬り伏せるような奴じゃなければ、俺だってこうはしない。さあ、彼女を放せ。撃たれて無事で済むと思うか」
そう言った直後、一瞬叉反の目が俺を見た気がした。やはり、目が合った。メッセージだ。何を言いたいのかは、この状況から判断するしかない。
俺は左手から右手へバールを持ち替える。
「最後の警告だ。撃つな。この女を殺したくないのなら」
「同じく警告しよう。手を引け。怪我をしたくないならな」
俺はタイミングを計る。出来る事は一つだ。探偵は俺にそれをやれと言う。だが、やるしかない。出来なきゃ、目の前で人が死ぬ。
叉反とトウカツが睨み合う。レベッカが緊張した面持ちで二人を見る。俺は、事が動くその一瞬を逃さない。
――再び、建物が揺れた。
その瞬間、俺は動いた。雄叫びを上げながら、一直線にレベッカへと向かっていく。トウカツの目が僅かに俺を見た刹那、銃声が轟いた。灰マントが翻り、レベッカの傍を離れる。俺は彼女の手を掴んだ。
「逃げろ、トビ! 彼女を守れ!!」
叉反が叫んだ。返事もしないで、俺は走り出す。背後から銃声が聞こえてくる。死にもの狂いで足を動かす。
「加工区画まで行って! 非常口がある!」
同じく走りながらレベッカが叫ぶ。加工区画。さっきのコンベヤーがあった空間か。くそ、あんなところに非常口があったなんて!
油断すれば今にもトウカツが追いついてきそうだ。そんな思いが、俺の心を逸らせる。あっという間に、俺は犬の男がいた通路の辺りまで戻ってきた。ついさっき目にした血痕が再び視界に入る。が――
「いない?」
男の姿はそこになかった。
「トビ、何してるの! 早く!」
一瞬、足を止めたレベッカが俺を追い越していく。まずい。今は逃げないと。血痕から目を離し、前を見る。また建物が揺れた。そうして俺は見た。天井から欠片のような物が落ちてくるのを。白い天井に亀裂が入っていくのを。その下をレベッカが走り抜けようとしているのを。
「止まれ!!」
叫ぶと同時に俺は駆ける。レベッカが振り返ったその瞬間、天井がパズルのピースのように抜け落ちる!
バールを捨て飛び込むように彼女の腕を掴み――ずっと手に持っていたケースがその手から離れる――引っ張りながら覆いかぶさる。目を閉じた瞬間、轟音が響き渡る。天井が落ちた。何が落下したのか、とてつもない衝撃波が建物中に響き渡った。俺は身を屈し、必死にレベッカを自分の影に隠す。通路は塞がれただろう。降り注ぐ無数の破片を背中に感じる。わかるのは生きている事だけ。自分が潰れていないという事実だけ。
――ゥウウォグォオオオオ…………
奇妙な音。何かの唸り声のような。耳をつんざく大きな声。地鳴りのような振動。まるで歩いてくるかのような。
歩いてくる……?
「トビ」
レベッカの声に俺はようやく目を開ける。すぐ近くに、彼女の青い目があった。慌てて俺は身を起こし、辺りを見る。灰褐色の土埃が舞い、どうなったのかすぐにわからない。目の前には瓦礫が積み重なっていて、すぐに動くのは難しそうだ。
「大丈夫?」
「あ、ああ。……俺は平気だ」
あんたは、と言おうとした。だが、地響きがそれを遮った。
――……ズシン、ズシン。
靄のような埃の中を何かが歩いていた。巨大な、とてつもなく巨大な影。何だ。映画か何かで見るような光景が、実際に今、俺の前に現れている。
陽光が差し込んできた。地上階からここまで一気にぶち抜かれたのだ。光が、土埃の幕を照らす。影が、俄かに動きを止める。その体から聞き覚えのある放電音と、緑の光が発せられる。
グァアアアアアアアアアアッ!!
咆哮とともに迸った緑の稲妻が、瞬く間に土埃を払った。
「な……っ」
俺は見た。長い、まるで橋のように長く、大きなその体を。土気色の鱗が全身にびっしりと生え揃い、大きく、牙を覗かせる口は悪魔のように禍々しい。木の幹のような四肢、それ自体が大蛇のようにしなる尾。
鰐。それも、巨大な鰐だ。緑電を体中に纏わせた、竜のような鰐。
「デイノスクス……」
レベッカが呟いた。俺はそっと瓦礫の影に身を隠す。まだ、奴に見つかってはいない。
「何だよ、あれは! ここにはあんな化け物までいたっていうのか?」
「――いえ、あれは超獣態。モンストロの超過摂取があそこまでの回帰を引き起こしたんだと思う。でも、だからってあんな……」
レベッカは納得出来ないといった素振りで一人何かを呟いている。今はどうでもいい。また太陽の下に出られたはいいが、あんなもんどうやって切り抜けろって言うんだ。
遠方で爆発音がした。巨大鰐デイノスクスの向こうに炎の柱が見えた。あの位置。焼却炉だ。ついで、俺達が今いる建物のどこかからも爆音が轟く。爆弾か。どうやらついに向こうの作戦が実行に移されたようだ。施設の放棄。そして徹底的破壊。
デイノスクスが爆音に反応して、頭を左右に振る。俺とレベッカは瓦礫の影でただひたすらに身を潜める。攻撃。逃走。いずれも選べはしない。ただひたすら、脅威がこちらに牙を剥かないよう祈るばかり。
ふと、上空を影がよぎった。軽やかな音を立てて、人影が目の前に着地する。
――息を呑んだ。
「あれ。これはこれは」
猫の手のような手袋を振りかざし、そいつは言った。
「失敗野郎と裏切り者じゃないか。こんなところで仲良くどうしたの?」
「白王……ッ!」
レベッカが言いざま、手に持った小さな銃を構える。褐色の肌の少年は、嘲笑うように白虎の尾を揺らした。
「どうやら、面白い時に来たみたいだね」
屋上から俺を落とした時のような、冷酷な笑み。背後からは、鰐の鳴らす足音が響く。
最悪の状況だった。
FNモデル・ハイ・パワー・マーク3。巨漢の黒服から奪った銃を見た時、因縁を感じずにはいられなかった。数週間前の事件でも似たような経緯で同じ銃を手にし、戦った。あの時と同じように、今また叉反は引き金を引く。小刻みに揺れる建物のせいで狙いが不安定だ。
放たれた銃弾は、しかしトウカツの腕から生えた昆虫の顎によって弾かれる。金属音が響き渡った。鋼化しているのだ。
「続ける前に一つ聞かせてもらおう」
お互いに間合いを取った時、叉反は言った。
「少年を一人見なかったか。お前くらいの歳の子だ」
「お前……ボクが本気でそれに答えるとでも思っているのか?」
「知ってそうだからな。多少無茶してでも答えてもらう」
「嫌な大人だ」
姿勢を低くして、トウカツが斬りかかってくる。しかし、トウリンやゴククのようなプレッシャーは感じない。斬撃を紙一重で躱し、体勢を変える刹那を狙って銃口を突き付ける。
「無駄だ。この狭い通路ではお前はモンストロの力を活かせない。いかに動きが良くてもこの距離ならもう外さない。刃を下ろせ。お互い、こんな事をしている場合ではないはずだ」
「そう言うのならさっさと死ね」
刃を振り回すようにトウカツは回転。引き金は引けない。叉反はバックステップで距離をとる。トウカツもまた、迂闊に突っ込んできたりはしない。
「まるで飾りのような銃だ。撃つ気がないのか?」
「お喋りしている暇があるのか? 悠長な事だな」
トウカツの顔が忌々しげに歪んだ。その時だった。
『――……兄さん、聞こえるか? 今すぐ逃げろ。 想定外の――』
マントの内側から子供の叫び声が聞こえてきた。ゴクク。トウカツの表情が俄かに変わる。直後、立っていられないほどの大震動が叉反達を襲ってきた。大轟音。崩落音。トビ達が逃げた方向からだ。
「ちっ。一体何が――」
トウカツの呻きが、通路の奥から響く声によって遮られる。咆哮。確信は持てないがそんな感じだ。だが、今くらいの大きさは――……
「残念だが、お前の相手をしている暇はなくなった」
ばちばちと緑電を発しながら、トウカツは言った。
「勝負はお預けだ。妹達の借りはいずれ必ず返す」
言うが早いか、雷の如き瞬速でトウカツは壊れたエレベーターの中へと消えた。放電音だけが次第に遠のいていく。
殺してやる。借りは返す。因果ばかりが積もっていく。だがため息をついている暇はない。叉反は踵を返し、トビ達の後を追った。
震動。そして爆音。
途中何度か足を取られそうになりながらも叉反は走り、そして唸り声が徐々に大きくなっていくのを聞いた。何かがいる。この先に、尋常ならざる何かが。
位置で言えば、犬の男が倒れていた辺りだろう。朦々と塵や埃が立ち込めていて、口と鼻を腕で覆う。周囲は瓦礫の山だ。慎重に進まなければ。
地響きのような、奇妙な震動が続く。何だ。とても考えが及ばない。ある種予感のようなものはあるが、あまりにも荒唐無稽だ。
いや、しかし。俺は見た。この事件の始まり。犬の男がモンストロによってその体を巨獣に変えた瞬間を。もしあれが、さらに大きな規模で起こったとしたら?
刹那、轟いた咆哮と緑電の眩しい輝きが答えとなった。濃霧めいた粉塵が閃光とともに散っていく。差し込んだ陽光の下、叉反はそいつの姿を見た。
四足の竜。吼え猛り、稲妻を纏うその姿は、そうとしか言いようがなかった。あの緑電光がモンストロの影響を証明している。という事は、あれもまたフュージョナーの形態変化の結果だというのだろうか。元は人間だった存在が、あそこまで急激に変貌するというのか。
驚く暇もまた、叉反には与えられなかった。視界の先、上層階から人影が飛び降りる。危なげなく着地したその小柄の影の正体を叉反は一瞬で見てとった。
「白王!」
瓦礫を飛び越え、叉反は駆けた。奴の先にもまた人影があった。瓦礫を背に身を隠すようにしている二人。トビとレベッカだ。
「動くな! 一歩でも動けば撃つ!」
射程距離ぎりぎりの位置で、叉反は叫んだ。
大仰に白王は両手を挙げた。振り返りながら、にんまりと笑う。
「それはいいけどね、探偵。あいつに気付かれたよ?」
巨影が驚くほどスピードで向きを変えた。言われるまでもない。だが、この状況では一度に二つの脅威を相手には出来ない。
瞬時、叉反は竜を撃った。撃ちながら、惹きつけるようにその視界へと入っていく。とにかく二人からこいつを引き離さなければ。
『――ふん。面白いな。お手並み拝見させてもらおう』
意識の裏から響く怪物の笑いを聞き流し、叉反はさらに撃った。スピードリロード。残る弾はこれで全て。
這い回る竜が咆哮した。叉反に狙いを定めたのだ。さながら地獄の剣山のように牙が並んだ口を開き、突進してくる。速度が段違いだ。叉反の全力疾走など、一瞬で距離を詰められてしまう。もはや元が何だったのかさえわからない瓦礫の山に巨竜は突っ込んだ。破片が粉々に飛び散る。転がりながら回避した叉反の上を鉄骨が飛び出した天井の残骸が飛んでいく。攻撃を避けるだけではない。何か一つに当たっただけで即座に死ぬ――そんなイメージが脳裏を駆け抜けた瞬間、とてつもない衝撃に叉反の体は吹っ飛ばされる。
骨が砕け、内臓が潰れた。尋常ならざる量の血が口から吐き出され、叉反は地面に叩き付けられる。身震い。攻撃でさえない。奴が体勢を立て直す動作でさえ、触れればそれで終わりだ。
『くくく、馬鹿を言え。死なせんよ。もっと俺を楽しませろ』
炎。叉反は自分の体が燃え出すのを見た。熱いが、苦しくはない。体中が炎に包まれている。自己治癒を実行した時の何倍もの速度で、今受けた傷が塞がり再生していく。
「これは……」
『俺の力を持ってすれば、このくらいは当然だ。さあ、足掻いてみせろ。圧倒的なモンストロの力に。この俺に縋っておけば良かったと後悔するがいい。さあ、やってみせろ!』
哄笑に言い返す間もなく、巨影が迫る。振り回される尾。まるで大木が襲ってくるかのよう。自分でも信じられないほど力を振り絞り、叉反は跳躍する。逃げ切れない。さながらトラックに激突したかのような衝撃で背中を叩かれ、ボールのように叉反は跳ね返る。墜落。体は破損すると同時に再生していく。
駄目だ……反撃の手などない。
「探偵――! ――レスを!」
誰かの声が聞こえる。レベッカ。しかし、よく聞き取れない。耳は再生の途中だ。銃で竜へと狙いを付ける。だが、銃はすでにその形を保ってはいなかった。銃把から上はほとんど全て消失している。腕は筋肉がズタズタに傷つけられたせいで震えている。その腕もまた炎によって包まれていく。
三度、この身を襲う衝撃。もはや痛みさえ感じないまま、体は宙を舞う。
――これが誓いを破った者の末路か。殺さない。殺したくないと思いながら、殺されたくないあまりに人を撃った者の。そう、あの事件から、俺の心にはずっと後悔が渦巻いていた。殺さずに済ます事が出来たのでは? そのための技術だったのでは?
『馬鹿を言うな。死地において、お前は相手を殺さないで助かると本気で思っているのか。今のお前は何だ?』
甘い。甘すぎる。殺し合いはどちらかが死なねば決着しない。お前の後悔は、ただ覚悟のない者が吐く妄言だ――
炎が全身を包んでいく。本当に何度でも蘇らせるのだ。たとえ、俺の心臓が止まっても。俺を苦しめ、俺の間違いをせせら笑うためだけに。
『覚悟を持て。人を殺す覚悟を。そうすれば力を与えてやる。奴はもう元には戻れない。ただの怪物だ。殺す意義さえ存在する。甘いお前にはうってつけの相手だ。ふふ、ははははは!』
獅子の男を殺した後。叉反は確かに思ったのだ。もし、もし仮に、殺さぬまま相手を圧倒する事が出来るなら。夢想と笑われても仕方ないが、もしそんな、奇跡のような力を手にする事が出来るなら。
もう二度と、誓いを破らずにいられるなら。
「グゥルウウガァアアア!!」
焼け付くほどの激しい閃光が視界に満ちる。緑電の咆哮。雷の柱だ。身を癒す炎に包まれながら叉反は笑う。これは、欠片一つ残るまい。
激しい光の奔流が叉反を飲み込む。終わりだ。これで――
〝――馬鹿を言うな。他人の全てを奪わんとするなら、自分もまた他人に全てを奪われるのだ。私はその覚悟を持って生きている〟
叱咤するようなその言葉は、一体誰の物だったのか。
〝覚悟も矜持も、信念さえも持たない奴が私に意見するな。己なき愚物め。弁えろ〟
鋭く心を突いた言葉。生と死を目の当たりにしたあの日――
〝自分の道は自分で探せ。誓いがあれば死んでも離すな。一度果たせなくとも持ち続け、貫き通せ。そうやって、生きてみせろ〟
――俺に、その資格はあるのか? 叉反は自分自身に問う。
愚問だ。そんな事を問う自体、覚悟を持っていない証拠。
本物ならば。本物の覚悟を持つならば、まず何よりも先に立ち上がってみせろ。
光の奔流が消えていく。燃え盛っていた炎とともに。
「……ほう」
白王のそんな呟きが聞こえた。巨竜が、わずかに動きを止めていた。あるいは竜自身さえも、これで終わりだと思ったのか。
「そういえば、妙だとは思った。犬の男の傷を見た時に」
一人、叉反は言葉を紡ぐ。己の考えを確かめるために。
「トビや俺の傷は瞬く間に治ったというのに、トウカツに切られたあの男の傷は、治りが極端に遅かった」
それだけではない。最初にあの男と戦った時、叉反は内なる怪物に半ば意識を乗っ取られていた。あの時もまた、彼の回復速度は鈍っていたのではないか?
「二度と人間の姿には戻れないとまで言われた男が、形態変化を繰り返した。これは一体何を示すのか」
怪物が沈黙している。ついさっきまで饒舌だった怪物が。
巨竜の口が再び開かれる。電光。さっきよりは小さいが、それでも叉反を飲み込むほどの放電。間髪入れず吐き出された超電流に対して、叉反は右腕を掲げた。
――炎は俺の中にある。俺の手の中に。
瞬間、渦巻いて生まれた炎の塊が超電流を受け止め、掻き消していく。
「結論は、こうだ。俺に埋め込まれた物はモンストロの力を打ち消す性質を秘めている」
怪物の苦々しげな顔が、叉反には見えた。
『……だから、何だと言うのだ。俺の力は俺の物だ。炎が出し入れ出来たとて、それ以上を俺が許すとでも――』
「許す許さないの問題じゃない」
覚悟は決めた。もう、迷わない。
「お前は俺だ。最後まで付き合ってもらう」
今こそ、今こそ過去を乗り越える時。
『何を、何を言って――!』
さあ、行こう。叉反は言った。
――闇の彼方に、手を伸ばす。その先に赤い星が燃えている。
「――――超越」
星を掴む。その瞬間、灼熱の炎が叉反の体を包み込み、燃え盛るままその身を焼き尽くしていく。
炎に痛みはなかった。全ての細胞が燃え尽きて、新生していく。
炎に苦しみはなかった。あらゆる感情は浄化され、再構築される。
血が巡る。心臓のように鼓動する、赤い星から生まれた血が。
新たな肉体は鎧のようでもあり、生身そのものでもあった。熱を帯びた赤い皮膚と、硬質さを持つ銀の皮膚。頭の頂きから尾の先まで、全てが刷新された肉体。
「超人態……」
白王の微かな呟きでさえ耳に届く。今しがたの、レベッカの言葉が甦る。彼女は名を呼んだのだ。この力の名を。赤色巨星。大火。火星の対抗者。
蠍の心臓。
「アンタレス」
次の瞬間、叉反は跳んだ。炎を纏った拳が、巨竜の脇腹を打つ。肥大化したその体を大きく窪ませ、巨竜は苦悶の声を上げる。もはや、元の体ではあり得ない膂力。
殴られたその箇所から、緑の粉光が剥がれ落ちる。それが何かは直感的にわかった。肉体に留められなくなったモンストロエネルギー。アンタレスの炎が触れる度、その身から分解されていくのだ。
すかさず振り回された尾の一撃を、叉反は蹴りで迎え撃つ。エネルギーが散り、巨体が揺らめく。
打撃では埒が明かない。
叉反は己の内側から炎を呼び起こした。体内から熱が放出され、右拳を包むように一つの球形を成していく。高く掲げたそれは、燃え盛る炎の星だ。竜が、一気に消耗した竜が叉反に狙いを定める。巨体の筋肉が撓み、跳ぶ。その口で、叉反を喰らわんと。
叉反は避けなかった。すでにすべき事は決まっている。巨竜の口が叉反を飲み込む。光が失せた暗闇。その中で輝く大火球の拳。
解き放つ。
直後、激しい火炎のエネルギーが爆発するように巨竜の内部で溢れ出し――
次の瞬間、遡る瀑布の如き勢いで緑の粉光が炎とともに天へと向かう。
後には、二人の人影だけが残されていた。右ストレートを振り抜いた後のように拳を掲げた超人と、そして、背に鰐の鱗を持つ、倒れ込んだ男の姿が。
消し去った。巨竜と化すまでに蓄積されたモンストロエネルギーを、アンタレスの力で消し去ったのだ。
激しい疲労感が、間を置かず叉反を襲う。体は元に戻らないが、叉反は思わず膝をついた。口元がマスクのように変化していなければ、まず嘔吐しているだろう。超人的な力の対価を要求するかのように、全身を締め付けられるような苦しみがやってくる。
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