探偵尾賀叉反『鉄仮面党の黙示録』

安田 景壹

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第一章 二〇二〇年 ナユタ 夏

第1章  1

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 朝四時に携帯が鳴った。起き抜けの頭が条件反射で覚醒した。
すぐに電話に出て、話を聞いた。それから十分ほどで支度をし、買い置きの缶コーヒーを飲み干し、山本銕郎てつろうは家を出た。こんな呼び出しは警官には珍しくもない。刑事になってからは、特に。
 現場は近い。新市街中央区の路地裏。駅前辺りはまともに見える中央区も、一本裏に入れば埃が積り、ゴミや汚物の異臭が漂う。朝日はまだ昇っておらず、暗いとも明るいとも言えない時間だ。だというのに、もうマスコミらしい車が何台かやって来ている。


 仕事熱心な事だ。山本は小さく舌打ちした。これで暑かったら最悪だった。真夏とはいえ朝はまだ過ごし易い。それが唯一の救いだなと思いながら、山本銕郎巡査長は非常線をくぐった。
「おはようございます」
 山本が声を掛けると、少し先に立っていた年配の刑事が振り返った。
「おう。早かったじゃねえか」
 先輩刑事、坂東ばんどうはそう言うと、視線を前方へ戻した。目が、睨むように細められている。
「家が近いもんですから」
 そう言いながら、山本は一瞬、目を見張った。
 電話で殺しだとは聞いていた。だが、目の前の光景は、あまりにも異様だった。


 ――それなりに広い路地裏の中空に、巨大な蜘蛛の巣が掛かっている。
糸によって描かれたいくつかの円と、中心部から放射状に伸びるいくつもの糸。外周部の糸模様は複雑かつ細やかで、さながらタペストリーのような造形を成している。
「ジョロウグモだ」
 山本が近くに寄ると、巣を睨みつけたまま、坂東が言った。
「蜘蛛の種類だよ。鑑識の一人に詳しいのがいて、そいつによればジョロウグモの巣だそうだ」
 ジョロウグモ――しかし、本物の蜘蛛ではない。その辺りにいるような蜘蛛が、こんな奇怪な真似をやってのけたのではない。
「フュージョナー、ですか」
「ああ。蜘蛛野郎だか蜘蛛女だか、とにかく体にジョロウグモが混じった奴の仕業だ」
 吐き捨てるように坂東は言った。坂東くらいの世代ではフュージョナーへの危機意識を捨てずにいる者が少なくない。当世では差別発言と取られかねないような言葉でも、平然と口に出してみせる。
「いくらフュージョナーとはいえ、こんな真似が簡単に出来るとは思えません」
「だがやれるとしたら、これだけの糸を造れる奴でなきゃいかん」


 山本の脳裏に、ふと、ある噂話がよぎった。ここ一か月ばかり、ナユタの街で密かに話題に上がる、ある特殊な薬品の話。
「……例の噂、関係ありますかね」
「あれが実在するってんならな。もっともそんな事にでもなれば、化け物みてえな犯罪者が増えちまうよ。冗談じゃない」
 鑑識が蜘蛛の巣を見ながら、口々に何を言い合っている。
 巣から目が離せなかった。あまりにも奇怪で、非道とさえ謗られるようなやり口のせいで。
「蜘蛛の糸は見かけよりずいぶんと丈夫らしい。あれくらいの太さになると、チェーンソーくらい持ってこないと切れないかもしれんそうだ。おかげで……ホトケさんを降ろせねえ」
淡々と、坂東が言った。口を動かしながらも、網目の一つ一つからでさえ手掛かりを読み取らんとするような真剣な眼差しはそのままだ。
 遺体は、巣の中心部にあった――冒涜的な姿で。


 全身には蜘蛛の糸が幾重にも巻き付けられている。ところどころから出血が見られ、糸は斑状に赤く染まっている。両手足はバツの字のように上方と下方、それぞれ大きく広げられていた。後ろに少し反った頭部にもまた糸が巻き付いていたが、大きく開いた口元だけは何もついていない。
まるで、絶叫を上げたかのような様。その口元は死者が苦悶にのたうちながら殺された事を示していた。全身に巻き付いた糸は、明らかに遺体を締め上げるように巻かれており、何箇所かは骨まで砕いているだろう。ショック死か、窒息死か。詳しい死因については司法解剖を待つしかないが、一つ言えるとすれば、犯人の殺意は相当以上のものだった、という事。


「怨恨ですかね」
 予断は禁物だが、山本は言った。すぐさま、坂東の首が横に振られる。
「違うだろうな」
「何でそう言えるんです?」
 問いながら、山本の胸中にはある予感が生まれていた。
 殺人事件は、今月に入ってこれでもう三度目だ。そのうちに二件は、いくつかの共通点を抱えている。
 坂東は口では言わず、右手側の壁を指差した。
 すぐにわかった。薄汚れた壁に小さく何か書かれている。そう認識した時点で、予感は確信に変わっていた。
 壁にあったのは、血文字だ。



《虚言を弄して富を奪う者、死の悲鳴を上げるべし――鉄仮面党》



「前の二件とは違う奴ですか……」
 血文字を凝視しながら、山本は呟いた。「ああ」と坂東が答える。
「蜘蛛なんざ、今日まで影も形もなかったからな。党って事は何人かいるってこったろう。イカレた〝半人はんじん〟どもの寄り合いだ」
 半人とは、半分しか人間でない、という意味のフュージョナーに対する蔑称だ。咎められて然るべき言葉遣いだが、今はあえて聞き流す。この状況で無用な対立は御免だ。
「……磔刑か。処刑人気取りってわけだ」


 後方でマスコミが騒ぐ声が聞こえる。早晩、この一件は街中に広まるだろう。今はまだ隠せているが、前の二件についてもそのうち嗅ぎつけるかもしれない。ニュースは、新旧を問わず街中を駆け巡る。
 そこから予想される事態は、あまり良いものではない。ナユタという街の創設理念に背くもの。疑心。怯懦。自衛のために剥き出しにされる、敵意。
「カルトのフュージョナーどもの連続殺人か」
 不穏な感情を隠そうともせず、坂東が言った。その目は刑事の目つきであり、獲物を見定め、追い詰めていく猟犬の目だ。


「楽しい夏になるな」
 とても同意出来ない。だが、追わなければならないのは確かだ。自分もまた猟犬の一匹なのだから。
 山本は友人の顔を思い出していた。警官とは違う目を持つ街の住人。旧市街に居を構える、蠍尾の探偵。
 ――厄介な事になる。おれも、あいつも。
 山本は蜘蛛の巣を睨む。今月で三人目の、殺人による被害者。これ以上の犯行は絶対に阻止しなくてはならない。
 巣の向こう側に、昇り始めた太陽が見える。
 陽光を受けた死のタペストリーが、鈍い金色に輝き始めた――
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