4 / 13
第一章 二〇二〇年 ナユタ 夏
第1章 2
しおりを挟む
2
うだるような暑さと、照りつける陽光の下でも、ストリートは活気を失っていなかった。
むしろ逆だ。若者達は口々に暑い暑いと言いながらも、平然と通りを闊歩していく。この街で夏を迎えるのはこれで三度目になるが、繁華街の賑わいは年を追うごとに増しているように思える。考えてみれば当たり前の事だ。街は日に日に拡大を続け、人もまたこの街に移ってくる。新たな人間を受け入れて街はより活発化し、より複雑になっていく。
――関東最大の都市、ナユタ市。
その新市街にある風戸区ウインドストリートを、尾賀叉反は一人歩いていた。
大勢の人が行き交う中で、叉反の周りだけは少し広い。
人込みの中を歩くのはこの仕事の常だが、いつも他人以上に気を遣う。腰から生えた蠍の尾があるためだ。尾の先には針があり、それが不用意に他人に触れないよう、道を行く時は尻尾を丸めるようにして歩かなければならない。
だいたいは、このように周囲の人間のほうが尻尾を気にして、自然と叉反と距離を置くものの、たまに意図せず尾が人にぶつかってしまって、トラブルになり掛けた事が何度かある。
そういう場合、たとえ過失がなくても、たいていはこちらが不利だ。犬や猫の尻尾ならいざ知らず、毒虫の尻尾が触れて気分のいい人間はまずいない。相手は叉反を叱責する。そういう危険な物を何故見せびらかして歩くのか、と。
尻尾のある人間の気持ちは、同じく尻尾を持つ者にしかわからない。風呂に入れば尻尾も洗う。毒針にも適切な配慮をしている。尻尾がぶつかって怪我をした人間もいない。だが、煩わしい罵りは止まない。住人の大半がフュージョナーであるナユタでさえ、尻尾周りのトラブルは起こりうる。
おかげで、仕事でもなければこんな人込みに来る事はない。
白い壁が眩しいカフェを見つけ、叉反は足をそちらに向ける。ストリートの真ん中に設置されたベンチでは若者が談笑し、ビジネスマンがひと休みしている。誰も叉反には目もくれない。
カフェの入り口はストリートから小さな階段を下りたところにあった。
店外にパラソル付きのテーブル席が三つ設けられている。店の中には入らず、叉反は一番奥のテーブルまで進み、椅子を引いた。
尻尾付きの人間でも楽に座れる、背もたれのない丸椅子だ。
すでにテーブルには先客がいた。男性。四十過ぎくらい。浅黒い肌。大柄の体にアロハシャツ、鋭角なデザインのサングラス、麦わら帽子を被り、イチゴのシロップがたっぷり掛かったかき氷のラージサイズを食べている。
「……人を待ってるんだがな」
氷を咀嚼しながら、男が言った。
「俺も待っている」
言いながら、叉反は灰皿を引き寄せ、ハイライトのケースから一本取り出すと、男に銘柄が見えるようにケースを置いた。
店員がやって来た。火をつける前に言った。
「キリマンジャロとチョコレートパフェを」
「かしこまりました。コーヒーから先にお持ちしてよろしいですか?」
「いや、すまないが二つとも一緒に持ってきてくれ。時間はかかって構わないから」
「かしこまりました。二つともご一緒に、ですね」
「頼むよ」
店員がテーブルから去ると、男が向き直った。上目遣いに、こちらを値踏みするように見ている。その口が動いた。
「なるほど。あんたが社長の代理人か」
「そうだ」
叉反は答えて、煙草に火をつける。
全て符丁だ。席に着く前のやり取り、持ってきた煙草の銘柄、注文の仕方まで。フュージョナーが多いこの街でも蠍の尾を生やした人間はそうは見ないが、互いに相手がわかるように、念のために講じた手立てだった。
「高山喜一さん、で間違いないな?」
「そういうあんたが、探偵の尾賀叉反か?」
叉反は頷いた。
「俺も一本もらおう」
叉反が返答するより早く、高山はハイライトを一本抜き取ると、ケースを投げて返した。
下調べはしたし、電話で一度話もしたが、実際に会ってみて確信する。予想通りの、どこにでもいる不良中年だ。
――高山喜一。民間航空会社《ライアンエア》の元パイロット。見てくれからは想像もつかないが、小型機と中型輸送機の操縦免許を持つ。ライアンエアでは主に輸送を担当していたが、ひと月前に素行不良で解雇処分にされている。
前々から社長との折り合いが悪かった高山は、会社を辞める際、意趣返しとして社長室からある物を持ち出した。誰にも知られていない社長の隠れた趣味を収めた、プライベートスナップ三十枚を。
他人の弱みを握った人間が取る行動は、大別して二つ。
――全てを自分の胸に収めて、何事もなかったかのように振る舞うか。
――あるいは弱みを徹底的に利用して、相手からさらに奪い取るか。
高山がどちらのタイプであるかは、言うまでもない。
「前置きはいらねえ。本題に入ろうじゃねえか」
見てくれはごついが安物にも見える金のライターで火をつけ、高山は煙を吐き出した。
「で、社長はちゃんと言った通り用意したんだろうな? 現金で一千万をよ」
「いいや」
即座に叉反は言った。高山の目に剣呑な光が見えた。
「……ああ?」
「西ヶ谷社長は今回の取引に応じないそうだ。だが事は穏便に済ませたい。素直に例の写真を返却するなら、今回の脅迫については通報しない、と」
「おいおい、何か勘違いしてんじゃねえか」
苛立たしげに煙草を吹かし、高山は半笑いで言った。
「モノを握ってんのはこっちだぜ? そっちが選べる立場かよ。いいか、金さえ払えば写真は返してやるって言ってんだ。でなきゃ、どうなるかはわかるよな。あんな写真がばら撒かれたら、あのおっさんは今後、まともに外を歩けなくなっちまうぜ」
叉反は無表情で相手を見返した。実際、言うべき事は限られている。
「こちらも、もう一度言おう。社長は取引に応じない。今なら穏便に済ませられる。写真を返却して終わりにしろ。それなら、あんたの今回の脅迫は警察には知られない」
「は、何が警察だ」
高山の声が大きくなった。
「あんな変態野郎に何が出来る。あいつが出さねえってんなら、他のとこに持ってったっていいんだ。週刊誌でもどこにでもな。写真が世に出たら終わるのはあいつだ。一千万で今後の人生が買えるなら安いもんだろうが」
叉反は黙って一服した。煙草を銜えたまま、じっと高山を見る。
「おい。何とか言ったらどうなんだ?」
「あんたの事を調べさせてもらったよ、高山さん」
灰を落として、叉反は言った。
それが可笑しかったのか、高山は鼻で笑う。
「ふん、何を調べたんだ? 電話番号か、SNSのアカウントか? それとも女の趣味か?」
「ずいぶん儲けてるみたいじゃないか。副業のインターネットビジネスで」
途端に、高山の顔から笑いが消えた。
叉反は懐からスマートフォンを取り出し、画像を表示して高山に見せる。隠語と暗号によってブツの値段と量を示した、高山と客とのメールを。
「今月は頭だけで三十万の売り上げだな。グループ相手の取引だと実入りも大きいだろう。栽培家への草代はともかく、基本的にはあんたの個人経営だから上前もはねられない」
草――大麻の隠語だ。
高山の煙草の灰が長くなりつつあった。携帯を仕舞い、続ける。
「会社の輸送機で運輸をやる傍ら、契約した各地の〝農場〟から草を仕入れてナユタまで持ち帰る。個人経営も大変だ。ほとんどの事は自分でやらなくちゃならない。人任せにも出来ないしな。昼はパイロットで、夜は草の販売員。日によっては寝る暇もなかっただろう」
高山がさっきまで口に運んでいたかき氷が、水になり始めている。カップを持つ手が小刻みに震えている。
「さっきも言った通り、社長は穏便に話を済ませたがっている。あんたが何も言わずに写真を返すなら、この件はそれで終わる」
「……脅そうって言うのか。今度は俺を」
「まさか」
叉反は銜え煙草のまま笑って答える。
「お前と一緒にするな。副業については警察に伝えてある。まもなく迎えが来るだろうさ」
直後、唸り声とともに飛んできたかき氷のカップを叉反は片手で払った。次いで投げつけられた椅子を受け止める。高山は案外素早かった。テーブルを蹴り倒し、植え込みを踏み散らかし、あっという間に壁をよじ登って、ストリートに出る。
「トビ!」
上方に向かって叉反は叫んだ。すかさず植え込みの縁を踏み切りに、跳ねるように壁を蹴って登り、ストリートへと降り立つ。
「ふん。出番だな」
店のすぐ近くのベンチに座っていた癖っ毛の若者が、そんな事を呟きながら立ち上がった。その時には高山が道を猛進している。
「おい、おっさん。残念だが大人しく――」
「どけ、この野郎!」
余裕ぶって道を遮った若者を、高山が容赦なく殴り飛ばす。どこかから悲鳴が上がった。若者を押しのけ、高山は人込みの中を突き進んでいく。
「く、この――っ!」
間を置かず立ち上がった若者が高山のアロハシャツの襟首を掴んだ。荒々しく振るわれる高山の拳を寸でで躱し、右腕でその体に組み付く。だが、腕力は向こうのほうが上だ。あっさり振り払われ、再度拳が飛んだ。
「邪魔なんだよ、この鳥野郎が!」
顔面に拳を受けた若者は、しかし今度は倒れなかった。くるりと回転しざま、お返しとばかりに右腕を振り、裏拳を高山の顔にヒットさせる。鳶のアシユビの硬い節が高山を怯ませるが、倒すには至らない。すかさず反撃のための腕が振り上がり、次の瞬間その腕を捻り上げられた高山は、苦悶の声を上げた。
「終わりだ。高山さん」
掴んだ高山の腕をさらに捻り上げ、叉反は言った。
呻き続けていた高山は、やがて諦めたのか、ふっと力を抜いて跪いた。
拘束用のゴムバンドで高山の手を括る。裏稼業も今日限りだ。大麻取締法においては営利目的での大麻所持および譲渡は七年以下の懲役とされる。そう簡単には出てこられないだろう。
意気消沈しているであろう高山の顔は、しかしどこか冷静だった。
妙には思ったが、今日の〝取引〟も含めて、高山の件は前もって知り合いの刑事に伝えてある。じきにパトカーがやって来るだろう。あとは向こうに任せればいい。
「油断し過ぎだ、トビ」
叉反は苦い口調で言った。
鳶手の若者――トビは顔しかめながら答える。
「反省してるよ。たく、中年のおっさんだって言うから」
「やり遂げるまで油断はするな。怪我するだけじゃない、対象を逃すかもしれないんだ」
相手の弛緩した空気を感じ取って、思わず言葉に険が混じる。
「……悪かった。身に染みたよ、所長」
殴られた箇所を押さえながら、トビは気まずそうに目を伏せた。
やれやれ。先が思いやられる新人だ。そう思いながら、叉反はしかし、かつての記憶を思い出す。昔、自分がまだ見習いだった頃。自分の実力を高く見積もったせいで犯した、みっともない失敗を。
――指導はする。失敗を繰り返させないために。だが根気よく、だ。お互いのために。
「トビ、頼みがある。さっきのカフェに行ってきてくれ」
「後片付けでもして来いって?」
こちらの顔は見ないようにしながら、トビが沈んだ声で答える。
「それもあるが、もう一つ」
叉反は腕時計を見る。時間的には、そろそろだろう。
「パフェを貰ってきてくれ。キリマンジャロも一緒に」
トビは何とも言えない顔で叉反を見返した。
ウインドストリートで目的の写真を取り返し、警察で事情を説明してから、ライアンエアのビルへと向かった。依頼人である社長の西ヶ谷に写真を渡し、奪われた全てのプライベートスナップが揃っているかどうかを確かめてもらう。
意外な事に高山は写真を全て持って来ていた。似たような脅迫の事例では、たいていの場合、奪った物を小出しに返す事で、長期間に渡り金銭をせしめるというのが脅迫する側の手口だ。高山はそうする気がなかったのだろうか。
「辞める前の話ですが、高山はひどく金に困っていたようです。今回の脅迫がもしうまくいっていたら、案外、どこかに高飛びでもするつもりだったのかもしれません」
と、人には言えない趣味を持つ西ヶ谷社長は、思い出したように言った。
それから、これまでの経費と報酬について再度確認し、ネットを通して送金してもらい依頼は完了。
「わかっているとは思いますが、写真については……」
ライアンエアを辞する際、西ヶ谷社長は念を押すように言った。
「もちろんです。こちらの信用にも関わる事ですから、どうかご心配なさらず」
叉反がそう言ったにも関わらず、西ヶ谷社長はその後二度も念を押した。叉反は淡々と答え、社長が三度目を言い出さないうちに、トビとともに会社を出た。
うだるような暑さと、照りつける陽光の下でも、ストリートは活気を失っていなかった。
むしろ逆だ。若者達は口々に暑い暑いと言いながらも、平然と通りを闊歩していく。この街で夏を迎えるのはこれで三度目になるが、繁華街の賑わいは年を追うごとに増しているように思える。考えてみれば当たり前の事だ。街は日に日に拡大を続け、人もまたこの街に移ってくる。新たな人間を受け入れて街はより活発化し、より複雑になっていく。
――関東最大の都市、ナユタ市。
その新市街にある風戸区ウインドストリートを、尾賀叉反は一人歩いていた。
大勢の人が行き交う中で、叉反の周りだけは少し広い。
人込みの中を歩くのはこの仕事の常だが、いつも他人以上に気を遣う。腰から生えた蠍の尾があるためだ。尾の先には針があり、それが不用意に他人に触れないよう、道を行く時は尻尾を丸めるようにして歩かなければならない。
だいたいは、このように周囲の人間のほうが尻尾を気にして、自然と叉反と距離を置くものの、たまに意図せず尾が人にぶつかってしまって、トラブルになり掛けた事が何度かある。
そういう場合、たとえ過失がなくても、たいていはこちらが不利だ。犬や猫の尻尾ならいざ知らず、毒虫の尻尾が触れて気分のいい人間はまずいない。相手は叉反を叱責する。そういう危険な物を何故見せびらかして歩くのか、と。
尻尾のある人間の気持ちは、同じく尻尾を持つ者にしかわからない。風呂に入れば尻尾も洗う。毒針にも適切な配慮をしている。尻尾がぶつかって怪我をした人間もいない。だが、煩わしい罵りは止まない。住人の大半がフュージョナーであるナユタでさえ、尻尾周りのトラブルは起こりうる。
おかげで、仕事でもなければこんな人込みに来る事はない。
白い壁が眩しいカフェを見つけ、叉反は足をそちらに向ける。ストリートの真ん中に設置されたベンチでは若者が談笑し、ビジネスマンがひと休みしている。誰も叉反には目もくれない。
カフェの入り口はストリートから小さな階段を下りたところにあった。
店外にパラソル付きのテーブル席が三つ設けられている。店の中には入らず、叉反は一番奥のテーブルまで進み、椅子を引いた。
尻尾付きの人間でも楽に座れる、背もたれのない丸椅子だ。
すでにテーブルには先客がいた。男性。四十過ぎくらい。浅黒い肌。大柄の体にアロハシャツ、鋭角なデザインのサングラス、麦わら帽子を被り、イチゴのシロップがたっぷり掛かったかき氷のラージサイズを食べている。
「……人を待ってるんだがな」
氷を咀嚼しながら、男が言った。
「俺も待っている」
言いながら、叉反は灰皿を引き寄せ、ハイライトのケースから一本取り出すと、男に銘柄が見えるようにケースを置いた。
店員がやって来た。火をつける前に言った。
「キリマンジャロとチョコレートパフェを」
「かしこまりました。コーヒーから先にお持ちしてよろしいですか?」
「いや、すまないが二つとも一緒に持ってきてくれ。時間はかかって構わないから」
「かしこまりました。二つともご一緒に、ですね」
「頼むよ」
店員がテーブルから去ると、男が向き直った。上目遣いに、こちらを値踏みするように見ている。その口が動いた。
「なるほど。あんたが社長の代理人か」
「そうだ」
叉反は答えて、煙草に火をつける。
全て符丁だ。席に着く前のやり取り、持ってきた煙草の銘柄、注文の仕方まで。フュージョナーが多いこの街でも蠍の尾を生やした人間はそうは見ないが、互いに相手がわかるように、念のために講じた手立てだった。
「高山喜一さん、で間違いないな?」
「そういうあんたが、探偵の尾賀叉反か?」
叉反は頷いた。
「俺も一本もらおう」
叉反が返答するより早く、高山はハイライトを一本抜き取ると、ケースを投げて返した。
下調べはしたし、電話で一度話もしたが、実際に会ってみて確信する。予想通りの、どこにでもいる不良中年だ。
――高山喜一。民間航空会社《ライアンエア》の元パイロット。見てくれからは想像もつかないが、小型機と中型輸送機の操縦免許を持つ。ライアンエアでは主に輸送を担当していたが、ひと月前に素行不良で解雇処分にされている。
前々から社長との折り合いが悪かった高山は、会社を辞める際、意趣返しとして社長室からある物を持ち出した。誰にも知られていない社長の隠れた趣味を収めた、プライベートスナップ三十枚を。
他人の弱みを握った人間が取る行動は、大別して二つ。
――全てを自分の胸に収めて、何事もなかったかのように振る舞うか。
――あるいは弱みを徹底的に利用して、相手からさらに奪い取るか。
高山がどちらのタイプであるかは、言うまでもない。
「前置きはいらねえ。本題に入ろうじゃねえか」
見てくれはごついが安物にも見える金のライターで火をつけ、高山は煙を吐き出した。
「で、社長はちゃんと言った通り用意したんだろうな? 現金で一千万をよ」
「いいや」
即座に叉反は言った。高山の目に剣呑な光が見えた。
「……ああ?」
「西ヶ谷社長は今回の取引に応じないそうだ。だが事は穏便に済ませたい。素直に例の写真を返却するなら、今回の脅迫については通報しない、と」
「おいおい、何か勘違いしてんじゃねえか」
苛立たしげに煙草を吹かし、高山は半笑いで言った。
「モノを握ってんのはこっちだぜ? そっちが選べる立場かよ。いいか、金さえ払えば写真は返してやるって言ってんだ。でなきゃ、どうなるかはわかるよな。あんな写真がばら撒かれたら、あのおっさんは今後、まともに外を歩けなくなっちまうぜ」
叉反は無表情で相手を見返した。実際、言うべき事は限られている。
「こちらも、もう一度言おう。社長は取引に応じない。今なら穏便に済ませられる。写真を返却して終わりにしろ。それなら、あんたの今回の脅迫は警察には知られない」
「は、何が警察だ」
高山の声が大きくなった。
「あんな変態野郎に何が出来る。あいつが出さねえってんなら、他のとこに持ってったっていいんだ。週刊誌でもどこにでもな。写真が世に出たら終わるのはあいつだ。一千万で今後の人生が買えるなら安いもんだろうが」
叉反は黙って一服した。煙草を銜えたまま、じっと高山を見る。
「おい。何とか言ったらどうなんだ?」
「あんたの事を調べさせてもらったよ、高山さん」
灰を落として、叉反は言った。
それが可笑しかったのか、高山は鼻で笑う。
「ふん、何を調べたんだ? 電話番号か、SNSのアカウントか? それとも女の趣味か?」
「ずいぶん儲けてるみたいじゃないか。副業のインターネットビジネスで」
途端に、高山の顔から笑いが消えた。
叉反は懐からスマートフォンを取り出し、画像を表示して高山に見せる。隠語と暗号によってブツの値段と量を示した、高山と客とのメールを。
「今月は頭だけで三十万の売り上げだな。グループ相手の取引だと実入りも大きいだろう。栽培家への草代はともかく、基本的にはあんたの個人経営だから上前もはねられない」
草――大麻の隠語だ。
高山の煙草の灰が長くなりつつあった。携帯を仕舞い、続ける。
「会社の輸送機で運輸をやる傍ら、契約した各地の〝農場〟から草を仕入れてナユタまで持ち帰る。個人経営も大変だ。ほとんどの事は自分でやらなくちゃならない。人任せにも出来ないしな。昼はパイロットで、夜は草の販売員。日によっては寝る暇もなかっただろう」
高山がさっきまで口に運んでいたかき氷が、水になり始めている。カップを持つ手が小刻みに震えている。
「さっきも言った通り、社長は穏便に話を済ませたがっている。あんたが何も言わずに写真を返すなら、この件はそれで終わる」
「……脅そうって言うのか。今度は俺を」
「まさか」
叉反は銜え煙草のまま笑って答える。
「お前と一緒にするな。副業については警察に伝えてある。まもなく迎えが来るだろうさ」
直後、唸り声とともに飛んできたかき氷のカップを叉反は片手で払った。次いで投げつけられた椅子を受け止める。高山は案外素早かった。テーブルを蹴り倒し、植え込みを踏み散らかし、あっという間に壁をよじ登って、ストリートに出る。
「トビ!」
上方に向かって叉反は叫んだ。すかさず植え込みの縁を踏み切りに、跳ねるように壁を蹴って登り、ストリートへと降り立つ。
「ふん。出番だな」
店のすぐ近くのベンチに座っていた癖っ毛の若者が、そんな事を呟きながら立ち上がった。その時には高山が道を猛進している。
「おい、おっさん。残念だが大人しく――」
「どけ、この野郎!」
余裕ぶって道を遮った若者を、高山が容赦なく殴り飛ばす。どこかから悲鳴が上がった。若者を押しのけ、高山は人込みの中を突き進んでいく。
「く、この――っ!」
間を置かず立ち上がった若者が高山のアロハシャツの襟首を掴んだ。荒々しく振るわれる高山の拳を寸でで躱し、右腕でその体に組み付く。だが、腕力は向こうのほうが上だ。あっさり振り払われ、再度拳が飛んだ。
「邪魔なんだよ、この鳥野郎が!」
顔面に拳を受けた若者は、しかし今度は倒れなかった。くるりと回転しざま、お返しとばかりに右腕を振り、裏拳を高山の顔にヒットさせる。鳶のアシユビの硬い節が高山を怯ませるが、倒すには至らない。すかさず反撃のための腕が振り上がり、次の瞬間その腕を捻り上げられた高山は、苦悶の声を上げた。
「終わりだ。高山さん」
掴んだ高山の腕をさらに捻り上げ、叉反は言った。
呻き続けていた高山は、やがて諦めたのか、ふっと力を抜いて跪いた。
拘束用のゴムバンドで高山の手を括る。裏稼業も今日限りだ。大麻取締法においては営利目的での大麻所持および譲渡は七年以下の懲役とされる。そう簡単には出てこられないだろう。
意気消沈しているであろう高山の顔は、しかしどこか冷静だった。
妙には思ったが、今日の〝取引〟も含めて、高山の件は前もって知り合いの刑事に伝えてある。じきにパトカーがやって来るだろう。あとは向こうに任せればいい。
「油断し過ぎだ、トビ」
叉反は苦い口調で言った。
鳶手の若者――トビは顔しかめながら答える。
「反省してるよ。たく、中年のおっさんだって言うから」
「やり遂げるまで油断はするな。怪我するだけじゃない、対象を逃すかもしれないんだ」
相手の弛緩した空気を感じ取って、思わず言葉に険が混じる。
「……悪かった。身に染みたよ、所長」
殴られた箇所を押さえながら、トビは気まずそうに目を伏せた。
やれやれ。先が思いやられる新人だ。そう思いながら、叉反はしかし、かつての記憶を思い出す。昔、自分がまだ見習いだった頃。自分の実力を高く見積もったせいで犯した、みっともない失敗を。
――指導はする。失敗を繰り返させないために。だが根気よく、だ。お互いのために。
「トビ、頼みがある。さっきのカフェに行ってきてくれ」
「後片付けでもして来いって?」
こちらの顔は見ないようにしながら、トビが沈んだ声で答える。
「それもあるが、もう一つ」
叉反は腕時計を見る。時間的には、そろそろだろう。
「パフェを貰ってきてくれ。キリマンジャロも一緒に」
トビは何とも言えない顔で叉反を見返した。
ウインドストリートで目的の写真を取り返し、警察で事情を説明してから、ライアンエアのビルへと向かった。依頼人である社長の西ヶ谷に写真を渡し、奪われた全てのプライベートスナップが揃っているかどうかを確かめてもらう。
意外な事に高山は写真を全て持って来ていた。似たような脅迫の事例では、たいていの場合、奪った物を小出しに返す事で、長期間に渡り金銭をせしめるというのが脅迫する側の手口だ。高山はそうする気がなかったのだろうか。
「辞める前の話ですが、高山はひどく金に困っていたようです。今回の脅迫がもしうまくいっていたら、案外、どこかに高飛びでもするつもりだったのかもしれません」
と、人には言えない趣味を持つ西ヶ谷社長は、思い出したように言った。
それから、これまでの経費と報酬について再度確認し、ネットを通して送金してもらい依頼は完了。
「わかっているとは思いますが、写真については……」
ライアンエアを辞する際、西ヶ谷社長は念を押すように言った。
「もちろんです。こちらの信用にも関わる事ですから、どうかご心配なさらず」
叉反がそう言ったにも関わらず、西ヶ谷社長はその後二度も念を押した。叉反は淡々と答え、社長が三度目を言い出さないうちに、トビとともに会社を出た。
0
あなたにおすすめの小説
睿国怪奇伝〜オカルトマニアの皇妃様は怪異がお好き〜
猫とろ
キャラ文芸
大国。睿(えい)国。 先帝が急逝したため、二十五歳の若さで皇帝の玉座に座ることになった俊朗(ジュンラン)。
その妻も政略結婚で選ばれた幽麗(ユウリー)十八歳。 そんな二人は皇帝はリアリスト。皇妃はオカルトマニアだった。
まるで正反対の二人だが、お互いに政略結婚と割り切っている。
そんなとき、街にキョンシーが出たと言う噂が広がる。
「陛下キョンシーを捕まえたいです」
「幽麗。キョンシーの存在は俺は認めはしない」
幽麗の言葉を真っ向否定する俊朗帝。
だが、キョンシーだけではなく、街全体に何か怪しい怪異の噂が──。 俊朗帝と幽麗妃。二人は怪異を払う為に協力するが果たして……。
皇帝夫婦×中華ミステリーです!
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
~後宮のやり直し巫女~私が本当の巫女ですが、謂れのない罪で処刑されたので後宮で人生をやり直すことにしました
深水えいな
キャラ文芸
明琳は国を統べる最高位の巫女、炎巫の候補となりながらも謂れのない罪で処刑されてしまう。死の淵で「お前が本物の炎巫だ。このままだと国が乱れる」と謎の美青年・天翼に言われ人生をやり直すことに。しかし巫女として四度人生をやり直すもののうまくいかず、次の人生では女官として後宮入りすることに。そこで待っていたのは後宮で巻き起こる怪事件と女性と見まごうばかりの美貌の宦官、誠羽で――今度の人生は、いつもと違う!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる