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第八章
ほんとうの自分
しおりを挟むセレナの問いに目の前の藍色の瞳が目を丸くしたのは一瞬で、すぐにそれはもとに戻った。
だけどそこに居たのは確実に、セレナの知る“イリオス”ではなかった。
「バレちゃったか。まぁいずれバレるだろうとは思っていたけどね。怒られるからイルにはまだ内緒にしておいてくれるなら、自己紹介くらいはするよ」
「……イリオスのこと…?」
「そう、僕がここに居る間は、彼はこの城には居ない。でもそろそろ時間だ。戻らないと」
「ま、待って、こんな状態で…?!」
“イリオス”は今までとは異なる表情を見せ、あっさりとセレナの手を振り払いベッドから下りる。慌てて身を起こすセレナを意外にも手助けし、それからふたり対峙した。
イリオスではないというセレナの確信を目の前の相手は否定もせず、それどころかあっさりと認めた。
想定外ながらも相手に自分への敵意は見られない。警戒心ひとつで向き合うセレナに“イリオス”はまた笑う。
「イルが手を焼くわけだ。得体の知れない相手を捕まえようとするなんて、とんだ聖女さまだね」
「…嫌味にしか聞こえない」
少なくともこの人物は、セレナの秘密を既に知っている口ぶりだった。
穢れや呪いを浄化できるわけではない、ただの受け身のセレナの体を。
「きみがこの世界に喚ばれた事実をもう少しきみは奢って良い。きみは間違いなく選ばれたんだ。ほかの誰にも代えられない」
その言い方に、何故だかふと懐かしい思いが込み上げた。
だけど理由は分らない。遠い昔にとても似た口ぶりの知り合いが居た気がする。
顔は間違いなくイリオスなのに、素性がばれた後だからなのか取り繕う気の一切みえない彼は、イリオスとは異なる笑みをセレナに向ける。
「僕は、ブランシェス。ブランと呼んで」
「……ブラン」
「まったくの初めましてではないけれど、こうして会うのは初めましてかな」
「…今までもイリオスのふりをして、会ったことがあるの…?」
「それは秘密。考えてみて、ぼくとイル…イリオスとの違いを。もちろんイリオスには内緒でね」
「……あなたは」
戸惑いに言葉が続かないセレナの唇に、ブランシェスはそっと人差し指をあてる。ひみつのかたちを作るように。
その瞳の奥で光が煌めく。セレナをまっすぐ映したまま。
「誰にも内緒だよ、セレナ…って、しまった、コレはもう使うなってイルに言われてたんだった」
「…? ブラン…?」
「…なるほど、きみには…効かないみたいだ」
ひとりで意味ありげな視線を向けるブランシェスにセレナは怪訝そうに身を竦ませる。
イリオスとは違って、なんだか得体の知れないかんじが不気味でおそろしいとその時ようやく感じた。敵意は感じられないけれど、自分に傾ける心も一切感じられない。
イリオスも大概手の内も心も見せないけれど、彼はわざとひけらかして恐怖を煽るようなひとだ。顔は同じなのにまるで違う。
「口約束は信用できないんだけれど…仕方ない。他人の前で僕の名前を決して口にしないで、セレナ。約束してくれるなら、さっきの紙の内容を、つぎに会えた時に教えてあげる」
「…!」
「そろそろ戻らないと。イルに代わってきみの様子を見にきただけだったんだけどな。そもそもきみにも触れない約束だったけど…思わず触れてしまったし」
「待って、まだ訊きたいことがある、この呪いは…!」
縋るように手を伸ばしたセレナの手を、ブランシェスは穏やかに笑ってひらりと交わす。
どこからともなく現れた白い蝶が、彼のまわりをくるくると旋回した。淡く光を放ちながら。
「きみの決意の行く末を見守っているよ。イルにばれなければ、また会えるかもね」
「待ってブラン、あなたは…どこに、戻るの? どこに居るの…?」
訊いたセレナに、ブランシェスは思わず目を丸くした。
それからおかしそうにセレナに笑う。屈託なく子どものように。
「まさか僕を探す気かい? やめておいた方が良い、今度こそイリオスがきみに手錠をかけるかも。物理的にこの部屋からもう二度と、出られないように」
「…ッ、それは、困るけど…! でも、とにかく今はなんでも良いから知りたい、夜伽聖女や呪いのこと、それから瘴気のことも…!」
ようやく掴んだ手がかりのはずだったのに、こんな爆弾だけを置いて去られても困る。
もう逃げずに向き合うと決めた。夜伽聖女と、そして呪いに。
「…そうだな、じゃあ…」
セレナの切実な思いが伝わったのかは分からないが、ブランシェスが退いていた距離を縮め、一歩セレナに近づいた。セレナは怯まず真っ向からそれを受け止める。この敵か味方かも分らない、相手を。
おもしろそうにそんなセレナを見下ろして、ブランシェスは流れるセレナの黒髪を一筋その手にとって唇を寄せて囁いた。内緒話をするように。セレナにだけに、聞こえるように。
「もしもすべての呪いを集めて、それでもきみがきみで居られたら…西の森においで。すべてのはじまりの場所。僕はそこに居る。最後の呪いは僕が持っている」
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改めて考えると、いろいろと変わってしまったんだなとセレナは思った。
窓の外はもうすっかり暗い。
自分で用意したたっぷりの湯を張った浴槽に、見慣れた白い花をいくつか浮かべる。以前ノヴァがしてくれたそれは、いつの間にか毎日のお風呂の習慣になった。
花だけではなく湯に混ぜる乳香に香りの良い石鹸に肌を整えてくれるオイル。
タイルの淵に並べられたそれらは、量が減ってもいつの間にか補充されるつくりになっていて大変便利だ。
乳白色の湯にゆっくりと身を沈める。それから自然と詰めていた息を深く長く吐き出した。
お風呂だけでなく、部屋にあるものは何ひとつ変わらない。ノヴァがここに居た頃と。
ふたつ用意してもらった食器やグラス、文字の練習用にと持ってきてくれた子ども向けの絵本やノート。それらすべてが持ち主の帰りや出番を今でも待っているのだ。
――諦めの悪いわたしは小さなノヴァの跡を残したまま。
いったい何を待っているのだろうと我ながら思う。
それはまるで奇跡のような、途方もない願いみたいだと思えた。
ノヴァと一緒に過ごした時間は、改めて思うと短いものだった。いつの間にかひとりで居る時間の方が長くなった。 今ではひとりで自分の世話をすることもすっかり慣れた。
はじめは全部、ノヴァがやってくれていた。
あの頃の自分たちはまだ何も持たず、互いにただ手探りで、必死に何かを掴みとろうとしていたのかもしれない。
今ならそう思える。
それでもそれはセレナにとって、かけがえのない日々だった。
この世界にセレナを喚んだのはノヴァだ。なのにどうして今、ひとりなのだろう。どうしたってそれが納得できない。
そっとお湯を絡めながら、自分の右腕を持ち上げる。そこにはつるりとした頼りない自分の細腕があるだけだ。
筋トレでもしようかな。ぼんやりとそんなことを思って現実逃避をしながら腕を眺めて、もう片方の腕も同じことを繰り返す。持ち上げて隅々まで視線を巡らせるけれど、それはやはり見つからない。
そこにあったはずの穢れの痣がなくなっていた。
ミルヒと、そしてサラから継いだはずのそれは、いつの間にかセレナの体からなくなっている。
ディアナスと、それからアレスにも見られたというから、自分だけの見間違いではなかったはずだ。
それなのに。
――穢れは祓えても、呪いを消すことはできない。成就させるか撥ね返すか。それしか術はない。
ブランシェスが言っていた言葉。
穢れは消えた。結果的に祓えたということだろう。
その理由も仕組みもさっぱり分らないけれど、彼はセレナを聖女と認めていた。
聖女とはいったいなんなのだろう。
分らずともただ、セレナは必死にブランシェスの言っていた言葉を脳裏に刻みつける。
呪いが成就する時、それはノヴァが死ぬ時だ。
そんなことはさせない。絶対に。
だけどそれはつまり、王家が…国王陛下と少なくともイリオスが、ノヴァのその提案を受け入れたということだ。
祭事でのノヴァの王位継承権授与のいきさつはルミナスに聞いた。国王陛下自らが民衆に彼を正式な王子として公表したと。そして近々王子たちの誰かに、王位を譲る宣言をした。
呪いの目的は、“フィラネテス国王”を葬ること。
例え一時の国王であっても構わない。成就さえさせてしまえば、王家に継がれてきた永き呪いより解き放たれる。王家の血筋の安泰が保証されるのだ。
ノヴァというただひとりの犠牲の上に。
「…呪いは…力そのもの」
再会したノヴァも、同じようなことを言っていた。
夜伽によってこの身に継いだ呪いが、自分の体にもたらす変化を一番感じてきたのはセレナだ。
小さな変化と大きな変化。ルミナスはそれを、適応と呼んだ。
そういえばいつの間にか無作為におこる眠気もおさまった。時折気怠さはあるけれど、謹慎中の生活に支障は殆どなかった。やはり馴染んだということだろうか。
――きみがきみで、なくなるよ
ブランシェスの警告は、けれどもセレナには響かない。
そんなのもうとっくだ。無力でひ弱で無気力でなげやりで、死にたがりだった自分はもう居ない。
この世界にきて、わたしは。
心も体もそのままに、一度生まれ変わったのだ。
それは呪いだけがもたらしたものではないはず。
この心だけは紛れもなく、自分のものだ。
勢いよく湯から出て、水を滴らせながら浴室を後にする。タオルを体に巻きつけながら、濡れた自分の体の胸元にそっと手を置いた。
心臓にはまだあの印が刻まれている。ルミナスからこの刻印に関する回答はまだ無い。
わたしが本当に、聖女だというのなら。
呪いを受け容れることのできるこの身だけが、今の自分の確かな武器だ。
身支度を済ませるのとほぼ同時に、控えめに部屋の扉を叩く音がした。
セレナは来客用にとお湯を沸かしていた火をとめて、ゆっくりと扉へと足を向けた。
一応相手だけは確認した方が良いだろう。不躾に入ってくる様子がない限り、とりあえずイリオスではなさそうだ。約束もしていないので当然だけれど。
扉の前で、ノックの返事を返す。
「…はい?」
「え、えっと…ボクです」
ぎこちなく返された言葉に、セレナは扉越しに小さく笑った。セレナが待っていた相手で間違いないようだ。
彼と会うのはあの日以来だ。互いの秘密がそれぞれ明かされたあの祭事の日以来。
ゆっくりと扉を開けて「どうぞ」と中に促すと、相手は一瞬躊躇した後に、緊張を乗せたまま足を部屋に踏み入れる。迷いながらもしっかりと、セレナの顔を見つめながら。
その声は自分の記憶に残る少女と同じなのに、その姿とはまるで違う。
“王子姿”の彼はやはりまだ見慣れない。
「いらっしゃい、ディアナス」
「…お邪魔します、…セレナ」
今ここに居る本当の自分。
互いに受け入れる為に、それぞれの目的の為に。
夜の扉は開かれる。
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