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第四章

痛みに散る花

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 現実は残酷だ。
 兄弟の中で誰よりも多く戦線に身を置くアレスは、何よりも良くそれを知っている。

 アレスにとっての実戦は、人相手よりも魔のモノが相手の方が多かった。
 魔のモノとは異形のモノ。瘴気を撒き散らし人を襲うバケモノだ。
 浄化の力が最も有効だとされているが、その力を持つ者は多くはない。高度な魔法や魔術と女神の加護を受けた剣でのみ、対抗しうる存在。戦線に赴く者は選ばれた者だけ。

 だからアレスが戦線で仲間を失ったのは、討伐隊として参加した初めての戦線でだった。

 自ら志願した遠征。騎士団の団長や討伐隊の部隊長、それに父である国王陛下からもまだ早いと諌められた。だけどアレスは一刻も早く功績を上げたかった。
 剣の腕には自信があった。危険な場だとは分かっているつもりだった。だけど死ぬ気は微塵もなかった。
 まだ18だったアレスに、こわいものなど何もなかった。

 そうして青く愚かな自分の目の前で、友を失った。
 騎士団に出入りするようになってからずっと隣りに居てくれた同じ年の親友。その粗暴から王子らしからぬアレスにとって、気兼ねなく互いを高め合うこのできる、唯一の友だった。
 その友が、自分を庇って魔のモノの牙で喉を裂かれた。あの日の赤が忘れられない。

 死体は魔のモノにそのまま持っていかれて弔うことすらできなかった。彼が遺した剣だけが唯一の遺品だ。
 彼は修道院で育った孤児で、騎士団の団員たちを家族と慕っていた。通常なら修道院に遺品として収められるか焼かれるはずのそれを、騎士団長に頭を下げて譲ってもらった。
 愚かな己の戒めとして、そして誓いの証として。

 だからアレスは、魔のモノを憎んでいる。魔のモノが住まう森から溢れ出る瘴気もだ。

 今や国民を脅かすそれは、民の生活を、そして命をも奪う驚異となった。近隣の町がひとつ潰れるほどの脅威だ。
 瘴気に体を蝕まれ、もしくは魔のモノに襲われ、体の自由を失った者も少なくない。そうして職を失い自ら命を絶った者もいる。討伐で命を落とす者も、そして残される家族も。
 すべてが犠牲者だ。その存在こそが、悪なのだ。

 口にしたことはないが、アレスは誓った。自分を庇い失った友に。
 いずれあの森は焼き払う。魔のモノは必ず自分が根絶やしにする。
 忌まわしき魔の森。命を蝕む瘴気。それに苦しむ民を、アレスは討伐に行く度に一番近くで見てきた。

 ――だから、“聖女”が自分の前に現れたとき。
 まるで希望そのもののようなその存在を、心底喜び同時に焦がれた。

 彼女の浄化の力は、瘴気で蝕まれた国民をきっと救ってくれるだろう。彼らの傷ついた体と心を、きっと。ただ奪われるばかりだった彼らにようやく訪れた希望の兆し。
 期待していたのだ。おそらく誰よりも、アレス自身が。


 聖女であるエレナが城下で一番古く大きな修道院を祭事の為に訪れると聞き、だからアレスは遠征明けの休暇にも関わらず、招待されてもいないのに馬を走らせた。昼間は必要時以外は殆ど外に出ないアレスの、聖女エレナへの気持ちがそうさせた。
 聖女の歓迎を名目とした、いわばお披露目の場だ。
 その修道院には瘴気の影響で町を追われた孤児たちが多く身を寄せている。自分も何度か様子を見に行ったことのある場所だったし司祭とも顔見知りだ。
 彼女の訪問は、子どもたちにきっと光を与えてくれるだろう。そう信じて疑わなかった。
 そのさまを、この目で。どうしても見てみたかった。
 初めて彼女と会ったあの日、自分が受け取った加護のように清らかな力をもう一度。

 馬を衛兵に任せ、自分もよく使用する裏口から修道院の中に入り、身分のある者の訪問の際によく使われる部屋に真っ直ぐ向かう。賓客が使う部屋は限られているので彼女がどこに居るかはすぐに察しがついた。
 表では聖女歓迎の場の準備は既に整えられ、白い服に身を包んだ子ども達が参拝者や見学の為の一般人たちに花を渡していた。ささやかながらも食事や酒が振る舞われ、王家もその一部を取り計らったと聞いている。おそらくそこに兄であるイリオスの名も連なっているだろう。
 魔の森の影響で沈んでいた町が、久方ぶりの賑やかを取り戻していた。

「――失礼。聖女殿がこちらに居ると聞いたのだが」

 かたく閉じられた扉へノックと共に声をかける。声音を落とそうとしたけれど、表の喧噪に掻き消されそうで思ったよりも大きな声になってしまった。
 暫くの沈黙の後、躊躇いがちにゆっくりと開かれる扉。白いローブを身に纏った女が隙間からそっと様子を伺うように視線を向ける。
 それからアレスの姿を確認して声を上げた。

「…アレス王子…?!」

 おそらく聖女殿のお付の者と思われるその侍女の、その態度に僅かに違和感を覚える。
 確かに居るはずもない自分が突然部屋を訪ねれば驚きはするだろうが、その類のものではないとアレスは感じた。

 部屋の奥には人の気配。おそらく聖女殿は間違いなくここに居るのだろう。表ではその存在を心待ちにしている。
 彼女の出番の前に、一言だけでも挨拶がしたかった。顔が見たくて声が聞きたくて。
 遠征に出る前に授かった加護により、自分は怪我ひとつなく帰還した礼を、顔を見て告げられればそれだけで満足だった。
 そして彼女の御業きせきに喜ぶ民の顔が見られれば、それで。

「…ナナリー…? 誰なの、私、今日はもう…」

 奥から聞こえてきたその声に、扉の所で顔を蒼くした侍女が視線を彷徨わせて歯噛みする。
 それから一瞬の思案の後、アレスを中へと招き入れた。
 その態度に不審に思いながらも、促されるままに部屋へと足を踏み入れる。

 天井から垂れさがる薄い絹のカーテンの向こうの人影が、そっと自分を迎えた。
 エレナだ。知らずアレスの胸が鳴る。

 初めて会った時のまま、いやあの時よりもその姿は輝いているようにアレスの瞳には映る。
 艶のある白銀の髪は美しく結いあげられ、透き通るようなその肌は薄い純白のベールに覆われてはいるが、距離を詰めればその表情も分かる。
 大きな桃色の瞳を更に大きく見開いて、エレナはアレスの姿に驚きを隠せずその口元を両手で覆う。その仕草すら可憐で可愛らしい。
 
「…アレス様…?」
「久しぶり、エレナ。大事なお役目の前に突然ごめん。ただ一目会いたくて…あの時の礼を――」

 アレスの言葉が言い終わる前に、エレナがその胸に飛び込んできた。
 咄嗟のことながらアレスはそれを受け止め、わっと泣き出したエレナに思わず意表を突かれるも、腕の中の小さなその存在にひどく胸を揺さぶられる。

 公式な発表があったわけではない。だが彼女は兄であるイリオスの婚姻相手として最も有力視されている相手だ。こんな場面ところを見られたら、派遣争いの良い火種だ。
 頭では冷静にそう思うのに、アレスは子どものように泣くエレナをそっと抱き締めていた。
 よく見ると彼女はひどく薄着だ。着替えはもうとうに済んでいるはずの時間帯なのに何故。
 それから部屋の隅にエレナの着ていたと思われる純白のドレスが脱ぎ捨てられていることに気づく。
 彼女の身に、いったい何があったのか。

「…どうしたんだ、エレナ。これから皆を救おうという、聖女殿が」

 状況に戸惑いながらも軽口を忍ばせエレナから事情を聞こうとするも、どうにも彼女は泣きやまない。よく見るとその手にはハンカチが強く握られていて、自分が訪ねる以前からおそらく泣いていたことが伺えた。
 仕方なく決まり悪そうに自分の主の行動を見つめる侍女にアレスは視線を向けた。確かナナリーと呼ばれていた。
 扉はきちんと閉められている。この部屋に他に人はおらず、事情を知っているのはもはや彼女しか居ない。

「ナナリー、説明を。表では皆、彼女を待っている」
「……はい」

 エレナに向けられるものとは異なる命令を、その声音に感じてナナリーは思わず身を固くする。
 第一王子と違って今日の祭事に招待されてもいないこの第二王子であるアレスがここに居る理由をナナリーはただしく理解していた。
 もはやそれに縋るしかないと覚悟を決めて、慎重に言葉を選びながらこれまでのいきさつを語った。


 ――祭事が始まる予定よりはやく、エレナ達が修道院に着いた時。ひとりの子どもがエレナの姿を認めて泣きながら縋った。
 聖女の訪問を皆が待っていた。浄化の施しを受けられるのだと期待して、そしてその姿に逸る心を止められず、護衛の隙間をすり抜けてひとりの子どもがエレナのドレスの足元に縋りついたのだ。
 あまりにも突然で、止める手も間に合わなかった。

「聖女さま…! 慈悲の心を、どうか…! たすけてください、聖女さま…!」

 まだ幼いその子の体には、瘴気を受けて現れる穢れの痕が肌に強く浮き出ていた。修道院に身を寄せる孤児だとエレナでも分かった。ここがそういう場であるとも聞いていた。
 だけどエレナにとって初めて対面するその存在は、恐怖そのものだった。

 悲鳴を上げようとしたエレナを、咄嗟に庇ったのはナナリーだった。素早くエレナの口元を押えて自分の胸に抱き込んで、護衛に子どもを引き剥がしてもらう。
 それから騒ぎに駆け付けた司祭に簡単に状況を説明し、落ち着かせる為の言い訳を述べて時間を置くよう頼み、控えの部屋にエレナを連れてきた。
 エレナはひどく動揺し、困惑し、恐怖し。
 祭事には出ないと言って泣きだしたのだ。

「……あの、服は」

 脱ぎ捨てられたドレスを見つめながら問うアレスの静かな声音に混じるものに。ナナリーは思わずびくりと体を揺らし、深く頭を下げて答える。アレスの顔はおそろしくて見れない。
 自分の主の非を詫びる気持ちと、許しを乞う気持ちと。その両方で、答える唇が震えた。

「…よごれて、しまったからと…」
「穢らわしくて着ていられないということか」

 否定しようと咄嗟に首を振るも、体は正直だ。言葉にはなり得ない。
 この場で嘘をつくことなど、一介の侍女であるナナリーにはかなわなかった。
 腕の中でエレナが泣きながらアレスに縋る。

「アレス様…アレス様…! どうか、お心添えをくださいませ…! 私は今まで、あのようなものとは触れることなどなく、聖なる場所で生きてきたのです…! あのような、穢れ…! おそろしくて仕方ないのです、私のこの身まで、穢されてしまったら…!」

 触れたからといって、瘴気に侵された穢れが他人にうつることなどあり得ない。誰もが知っていることだ。
 だがその見た目故に子どもたちは今まで白い目を向けられてきたのも事実だった。
 アレスは知っている。彼らの心の痛みも、この修道院が影ではなんと呼ばれているのかも。

「…あなたが、清めてあげれば良いだろう。皆それを望んでいる」
「無理です、私には…!」

 まるで駄々をこねる子どものように、エレナはアレスの腕の中で首を振る。
 大粒の涙がアレスの服や肌にも染み込んで、それをアレスはどこか遠い場所で見つめていた。
 昼間の痛みにはとうに慣れていたはずだ。なのにどうしてか彼女の涙が、叫びが。アレスの身の内を熱く焼く。痛くなどない。この痛みは――

「…清らかな身でないと…触れることもかなわないのか」

 ――これが、聖女。
 皆が待ち望んだ希望の存在。

 祭事は聖女エレナの体調不良により延期となった。
 次までに必ず彼女を説得すると頭を下げたナナリーの懇願により、アレスが口添えをした。
 表向きは修道院の主催でも、後ろ盾は王家だ。とりやめることなど許されない。彼女を聖女として受け入れた、国民への示しがつかない。

 ――必要なのだ。今この国には、聖女エレナの存在が。
 例え、誰も救わない、聖女でも。

 それでもまだ自分は。



「……嫌…!」

 その泣き声で、アレスの意識が引き戻される。

 気が付くと薄暗い視界に浮かび上がるその姿。
 自分たちの為だけに召喚されたという、“聖女”。王家を蝕む永き呪いを浄化したという、その存在。セレナと名乗ったその名前をぼんやりと思いだす。

 ここに来るまでに自分の意識はひどく朦朧としていて、それは彼女を襲っている今でさえも、どこか現実味を感じなかった。
 エレナの拒絶に失望し、それから何かに突き動かされるように、ここまで来た気がする。
 イリオスに頼んで無理やり場を調整し、碌な睡眠も食事もとらず、この部屋まで来た。
 呪いを解くその為だけに、彼女を抱きに。

「……おまえも。どうせ心の内では、蔑んでいるんだろう。俺たちのこの呪われた身を」
「そんなこと…っ」
「…本当は。触れたくもないのだろう、おまえも…!」

 知らず噛みしめた奥歯から息が漏れ、アレスは自身のものを彼女の入口に宛がった。
 いつの間に取り出していたのか、いつの間に彼女の素肌を晒していたのか、もはや記憶も曖昧だ。
 理解できない。こんな気持ちのまま、それでも身を固くする己自身も。

「…やめて、お願い…」

 うつ伏せに拘束され、その表情かおはアレスには見えない。泣き声の懇願に、胸は痛む。だけど自身の痛みの方がずっとずっと勝っていた。

 痛くて痛くて、仕方なくて。慣れたはずの呪いの痛みが、すべての思考を奪い去る。
 それに突き動かされるままに、アレスは受け容れる用意もされていないセレナの内に、自身を深く埋め込んだ。

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