夜伽聖女と呪われた王子たち

藤原いつか

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第七章

焦がれる境界②

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 一歩ずつ。
 ノヴァがその距離を詰めていく。
 セレナはただそれを茫然と見つめるだけしかできなかった。

 目の前の光景が未だに現実味を帯びないのだ。
 あまりに再会が突然過ぎて。

「……どうして」
「…それはこちらの台詞です。あの部屋から出られるはずのない貴女が、どうしてこんな所に居るんですか」

 ノヴァの表情は殆どその冷たい眼鏡の向こう。怒っているのか嘆いているのかもわからない。
 目が合わないだけでこうも感情が読み取れないものなんだなとセレナは思う。
 だけどその声音からは呆れや憤り以外にも、戸惑いや躊躇いも確かに感じた。

 ノヴァ自身も今こんな所でセレナに会えるとは思っていなかったのだろうか。
 セレナから離れたのはノヴァの意思だ。ノヴァが望んで、自分以外の居場所を選んだ。
 そう思っていた。

 なのに、その足は。止まる気配を見せずにまっすぐ自分に向かっている。
 そこに揺るぎのない強い意志を感じた。

 あぁ、でもやっぱり、分らない。ノヴァがいま何を考えているのか。
 じわりと胸に広がる痛みに思わず拳をかたく握った。
 
 もう二度と会えないと思っていた。
 だけど、もしも会えたら。
 もう一度会えたら。
 思い切り怒ってやるつもりだった。

 ――嘘つきって。けっきょくノヴァもわたしのこと、利用しただけだったんでしょうって。

 どこからどこまでが嘘で本当なのか分からない。何を信じれば良いのかもうわからない。
 セレナの心はとっくにズタズタだ。

 こんなにわたしを弱くしておいて。全部与えて奪っておいて。
 よくもその顔を見せることができたなって言ってやりたかった。
 思い切り、怒って、なじって、詰め寄って。
 その綺麗な顔に平手の一発でもくれてやるつもりだったのに。
 なのに、どうして。いつもの威勢も出てこない。

「……来ないで」

 やっと自分の口から零れたのは、情けないくらいの弱々しい拒絶だった。
 その声が届く距離の先でようやくノヴァが歩みを止める。
 だけどその距離はもう互いの射程圏内。手を伸ばせば届く距離だ。

「わたしのところに、帰ってくるつもりがないなら…わたしに、二度と、触れないで」

 それがセレナがいま言える、心からの本心だった。

「……セレナ」

 ノヴァがようやくその無表情を崩して、本当の感情を滲ませる。
 やっと、表情かおが見えた。そのことにセレナは心の片隅で安堵した。

「…本当は。会うつもりは、ありませんでした。まだ、その時ではないと。そうかたく、決めていたのに」

 くしゃりと表情かおを歪ませて、ノヴァはその視線をまっすぐセレナに向ける。
 再会してからノヴァは一瞬たりとも視線をセレナから外そうとしない。だけどそれはセレナも同じだった。
 夢か幻のようなこの瞬間。確かめたければ触れれば良いと分っている。
 でもだからこそ、触れられない。
 触れたその瞬間に、すべての夢から醒めてしまいそうで。
 そうしたらもう二度と、立ち上がることはできない気がしたのだ。

修道院ここに着いた時から、貴女の気配は感じていました。だけどその魔力も質も、僕の知るものとはどこか違って…確証は持てなかった。それに貴女はここには居るはずのない存在。だから勘違いだと必死に自分に言い聞かせて…必死に気を、逸らしていたのに」

 まるで子どもの言い訳のようにここに居る理由を並べるノヴァは、悔しそうに唇を噛む。
 もしかしたら一番ノヴァ自身が、ここに居る理由を問いたいのかもしれない。自分自身に。

「だけど、貴女は気付いていないかもしれないけれど、もう修道院ここは…! 貴女の魔力で満ちている。異質なまでに膨れる魔力のもとは、確かに今目の前に居る貴女だ。いったい何をしたんですか。貴女は、いったい……!」

 その瞳が。
 その綺麗な碧の色が、自分を映して揺れていた。
 セレナは目を離せずにノヴァのその心が揺れるのをじっと見つめる。
 その心はどっちだろう。
 自分をおそれているのか、それとも。
 それでも会いにきてくれた。

「…だけどこうして対峙して、ようやく少しだけ理解しました。その身に移した呪いが、どれだけ量を増したか…もうじきに、その身にはおさまりきらなくなる。その前に、一度中断するべきです。でなければ僕が何の為に…!」

 そこまで叫んでノヴァがはっと自分の口を咄嗟におさえる。過ぎた言葉に後悔とやるせなさが滲んでいた。そしてようやくセレナが、口を開く。
 
「…わからないよ。ノヴァが何を考えて、何の為にそこに居るのか。何も言ってくれないで、わたしを置いていったくせに」

 ノヴァとは対照的にだんだと心を落ち着けたセレナの言葉に、ノヴァは言葉を詰まらせ僅かに視線を外した。

「だけど…!」

 その行為が気に喰わなくて、セレナは声を大きくする。ノヴァがびくりと肩を揺らして視線を上げた。まるで叱られた子どものよう。だけどセレナは怯まず続ける。

 逸らさないで。ちゃんと見て。ちゃんと見せて。
 もう間違わないで済むように。

「だけどわたしも、こうして対峙してようやく理解した」

 ――ノヴァの、呪いが解かれ。
 そしてノヴァは自分から離れていった。まるで目的を果たしたかのように。
 そして再会した彼は、本当の王子さまになっていた。

 もう自分は用済みなのだと思った。
 勝手に王位など望んでいないと思っていただけで、ノヴァは本当はずっとそれを望んでいただけなのかもしれない。
 生まれ持った境遇が過酷な運命を彼に背負わせた。そのすべてに反逆するすべと機会を彼が得られたのだとしたら…その一手を自分が担えたのだとしたら。それでも良いかと納得する心もあったのだ。

 だってノヴァは、初めて自分のすべてを受け容れてくれたひとだから。心を預けることができるひとだったから。
 諦める覚悟はできていた。

 だけど、違う。
 ──違った。
 
「わたしの為に、ノヴァが欲しくもないものを手に入れて、そうしてそこに居るのなら。もうそんなの全部、要らないから。だから、帰ってきて。わたしの傍に居て、ノヴァ」

 じゃり、と。その足元で土砂が鳴る。
 大きく揺れる瞳に躊躇う一歩。
 だけど自分からは触れられない。
 
 自分の意思で決めてくれなくては意味がない。
 だから自分は動かない。ここから、決して。

「…あいかわらず。ずるいですね、貴女は」

 ぽつりと呟いたノヴァは、懐かしい苦笑いをそっとセレナに向けた。
 それだけで胸がいっぱいになる。
 たったそれだけのことなのに、セレナの瞳からは涙が零れた。

 再会した時はまるで他人のようだったその表情《かお》も声音も。
 離れる前とまるで変わらず、ただセレナを見つめるノヴァがそこに居た。
 そうしてかつて傍で見守り続けたように、いとおしそうに。

「貴女の為ではありません。僕が僕の為に、選び取った道です」

 だけどノヴァの答えは、セレナが導き出したものとは異なる答えだった。
 まるでセレナの考えを否定するように、正すようにはっきりとノヴァは口にする。
 それを否定されてしまえば、セレナにはもう彼を引き留める術はない。
 なのに。

 ノヴァは一歩、ふたりの間に残っていた距離を詰めた。
 その様子にセレナは思わず目を瞠る。
 言っていることとやっていることが伴っていない。
 否定すらなら、拒絶するなら。
 どうしてノヴァは、求めるのか。

「僕の望みは…ただひとつ。僕は必ずこの国の次の王となり、そして」

 セレナのすぐ目の前まで来たノヴァは、まっすぐに今度は迷いなく、セレナに触れた。
 その瞳に射抜かれてセレナは逆に動けない。ただ見上げる。いとおしそうに自分に触れるノヴァの顔を。
 そっと頬に冷たいノヴァの手。ぴくりと無意識に体が撥ねた。

「貴女を“夜伽聖女”の呪いから解き放つ」

 涙に暮れる。その向こうでノヴァが溺れて、その笑顔さえ見えなくなる。

 抱き締められた腕は遠い記憶とは異なる匂いがした。
 だけど自分を抱くその腕の感触は変わらない。
 きっと一生忘れられない。

「僕は貴女に、生きて欲しい。できれば笑って、未来さきのことなど何も躊躇わず」
 
 ふるふるとその腕の中で、セレナは半ば無意識に首を振った。
 ノヴァの思いを否定するわけじゃない。
 だけど受け容れるわけにはいかなかったのだ。

 身勝手なノヴァの望みは、自分の気持ちも意思もまるで受け付ける隙などない。
 当人の気持ちまるごと無視したそれは、確かにノヴァの為の選択だったのかもしれない。
 だけどそんなの、到底受け入れられない。

 そう思うのに、それだけは確かなのに。言葉が上手く出てこない。
 傲慢だと怒ってやりたいのに、だけど気付いてしまった。その心はもう自分に向いていないのだと。
 こんなに近くで触れているのに。
 まるで目には見えない境界が、ふたりの間には確かにあった。

 ノヴァのことを理解しているつもりでいて、結局何も解っていなかったのだと思い知らされる。
 自分が思っているよりもずっと、自分の自惚れなんかよりももっと。
 ノヴァはその心と身を、自分に捧げてくれていたのだとその時ようやく理解した。
 その為に自分セレナすらも切り捨てたのだと。

 泣きじゃくるセレナをノヴァはただ抱き留める。セレナも必死にその胸に縋った。
 離れたらもう二度と。今度こそきっと、会えなくなる。

 セレナの思いを踏みにじって、ノヴァは愛を囁くように別れの言葉を告げる。

「もう二度と触れられなくても、傍に居られなくても良い。だから、貴女は…自由に生きて」

 頬に触れていたその手が、自分の顔を上に向かせる。
 ノヴァの意図を感じて更に涙が溢れた。
 ずるい、そう思うのに。
 拒めない。自分もそれを望んでいた。だけど望んでいたのは別れのキスなんかじゃなかった。

 零れる涙を舐めとる残酷な甘い舌。
 吐息が互いの唇で触れ合って、そうして覚悟を纏って唇が重なった。
 一瞬だけ離れては角度を変えてまた重なって、今までの寂しさを埋めるように、何度も重なってやがてもっと深くなる。
 どちらからともなく絡めた舌は、すぐにノヴァにきつく吸われてセレナは小さくノヴァの中で声を漏らした。こんな時でもこの体は例外なく欲の火を灯す。だけど今はただ、哀しさがそれよりも勝っていた。
 押し付けられる唇も舌も体も、そのすべてをセレナは受け入れた。ノヴァの覚悟がそこにはあったから。
 だけど受け入れられないものがひとつだけあった。


 遠くで、もしくは意識の片隅で。すべてを吹き飛ばす音がした。
 風が強く吹き荒れる。何かが壊れる音がして、それから人の気配と声がふたりに向けられる。

 ようやく離れた唇から透明な糸がひいて、ノヴァの舌先がそれを舐めとって喉を鳴らす。
 セレナを抱きしめていたノヴァの手がそっと解かれた。ノヴァの服を離さないセレナの腕をノヴァは優しく、でも強引に引きはがして。ふたりの隙間を風が吹き抜ける。

 風に吹かれてセントポーリアの白い花弁が舞う。
 視界を掠めるそれに紛れて、ノヴァは微かに笑ってみせた。


「さよなら、セレナ。きっと、ずっと――愛してる」


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