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第七章
孤独と救いの砦
しおりを挟む白い花弁がセレナの視界を奪い、次の瞬間にはもう。
そこにノヴァの姿はなかった。
セレナは目の前の空白に全身から力が抜けぺたりと地面にお尻をついた。
唇にはまだ。ノヴァの温もりが、その余韻が。
セレナを濡らした彼の跡がまだ、残っているのに。
あまりにも短い再会。
あまりにも一方的な別れ。
――最後なら。お別れなら。
さよならをして欲しかったのは自分の本心のはずだった。
セレナの心を知ってか知らずか、ノヴァはそれに応えてくれたのだ。
だけど全く、嬉しくない。
自分との別れを彼は選んだ。
自分の為であるという残酷な真実だけを残して。
最後に愛を囁いて。
ノヴァは今度こそ本当に。
セレナを置いていってしまったのだ。
手の届かない遠いところへ。
「セレナ…!」
自分の名前を呼ぶ声に、セレナは顔を上げれなかった。
足音と気配は他にも近づいてくる。だけど心はまるで動かない。
目線の先、地面に落ちた白い欠片。そこに縫い付けられたかのようにセレナの視線は動かなかった。
地面についた自分の両手がじわりとぼやける。
自分のすべての感覚がこれ以上の情報を拒絶するのだけを感じた。
もう、だめだ、と。
それだけが胸の内に沸く。
もうどう頑張っても足掻いても。
セレナにはどうすることもできないのだ。
「…っ、う、……ぅぇ」
戸惑い躊躇いながらそっと自分に触れた相手が誰なのかも分らない。
耳に届いているはずの声ももう聞こえない。
自分で自分の視界を覆って遮断する。
もう無理。
もう限界。
もう嫌だ。
それしかもう考えられなかった。
胸のずっとずっと奥で赤い実が弾けるように、静かに白い花が散ったのだ。
痛みより先に押し寄せるその哀しさに、セレナはすべて委ねることにした。
それからセレナは声を上げて泣いた。
まるで幼い子どものように、なりふり構わずただ心のままに、大声で。
ひとりではないと分っていても、取り繕う気もなくすべて曝け出す姿はきっと傍から見れば滑稽だろう。
だけどセレナの知ったことではない。もう自分でも止められないのだ。留めてなどおけるはずもない。
声を張り上げて泣き喚いて、息苦しさにむせて溢れてそれでも止まない。
嗚咽の合間に言えなかった文句をひたすら吐き出した。
それからようやくしゃくり上げるだけになった自分に、再び誰かの手が触れた。
だけどやはり顔は上げられない。相手もそれは望まず、ただ自分をそっとその胸に抱き寄せた。
すっぽりとその腕に収まる自分の体。相手の顔は見えない。服の装飾品がいくつも自分の身に食い込んで少し痛い。だけど文句は出てこなかった。
すんと鼻をすすると覚えのある匂いがして、ようやくセレナを現実へと引き戻す。
ノヴァではない。
ノヴァはもうここには居ない。
自分の傍にはもう二度と。
「…大丈夫です。大丈夫ですよ、セレナ」
泣き疲れた子どもをあやすように甘い響きを孕んだ声と、自分を傷つける意思のない大きな手の平が背中の一番柔らかいところをゆっくりとさする。何度も、何度でも。
覚えのあるその手の温もり。それからようやくその声が、セレナに届く。
「おれはあなたの、傍に居ます」
――本当に?
信じられない。
だってきっと、みんな。
“夜伽聖女”を必要としているだけ。
欲しいのはセレナ自身じゃない。
終われば、不必要になればまた。
置いていかれるだけだ。
自分はどこにも行けやしない。
はじめから解っていたはずなのに。
どうして心を許してしまったのか。
だけど傷つく覚悟もあったのだ。
心を許すとはそういうことなのだ。
自分にその覚悟に見合うほどの強さがなかっただけ。
そうしてそれを今。
傍に居て欲しかったひとを引き留めることも叶わない自分の無力さを今、思い知っただけなのだ。
「代わりでも良い。代わりになれなくても。だけどおれの思いだけは、疑わないでください、セレナ」
その声音は、傷ついたセレナの心に痛みと哀しみ以外をはじめて残して。
何も応えることのできないまま、セレナは意識を手離した。
------------------------------
泣かないで、と。
遠くで誰かの声がした。
かと思えば泣いているのは自分ではなかった。
その声は自分の内側からしたものだった。
泣かないで。
傍に居る。
疑わないで。
きっと、迎えにいくから。
泣いていたのは誰だったのか。
真っ白だった視界が黒く染まる。
――行かなくちゃ。
彼がわたしを待っている。
あの、昏く深い森の奥で。
唯一わたしを“聖女”と呼ぶあの人が。
わたしに愛をくれたあの人が。
だから、わたしは、何度でも。
この血に生まれ変わる。
そうしてすべての欠片をかき集めて
きっとあなたに逢いにいく。
------------------------------
――無事祭事を終えたセントヴェロニカ主導院で、奇跡が囁かれるようになったのはその数日後からだった。
一度は延期になった祭事だが、第五王子の生誕祭を兼ねた仕切り直しの祭事はいろいろな意味でおおいに民衆の心に残る一日となった。
久しぶりに顔を揃えた絢爛たる王族の顔ぶれに、女神の申し子である聖女の来訪。
王家に見放されもはやその庇護も失ったのではないかと噂されていたセントヴェロニカ修道院に、国王自らが足を運びそして“王位”に関する発言まで飛び出したのだ。
しかも長く隠されてきた第三王子の公表と共に、正式に継承権が宣言された。
これでこの国の王位継承権を持つ王子は五人。
様々な憶測と確証のない噂話とで一時王都はもちきりとなった。
それに聖女の加護も施された修道院自体に、これ以上ない箔が付いた。
もとより王都において一番の歴史と敷地を誇り王家とは長く古い関係性をもつ修道院ではあったが、最近は司祭であるアルベルトの独断による孤児たちの受け入れに意義を唱える者も少なくなかった。
昔から居た使徒たちの多くはアルベルトと対立し院を去った。「西の孤児院」などと揶揄されていたことも殆どの者が知っている。穢れを宿した子どもたちが白い目で見られ距離を置かれていたことも。
穢れが人に移ることはないと、誰もが知っている。それでも。
ひとは差別を止められないのだ。我が身と家族が大切だからこそ。
しかし祭事の後より事態は一変した。
はじまりは、ひとりの少女の穢れが完全に消えたこと。
その少女は子ども達の中でもとりわけ多くの穢れに侵され一時は命の危険も危惧されたという。
だけど祭事のその日を境に、その身から綺麗に穢れの痕は消え、完全に消失したのだ。
聖女が穢れを払ったのだと、民衆は信じて疑わなかった。
式典において聖女の加護を受けたその少女こそが、一番はじめに聖女に清められた少女だからだ。
そして、またひとりずつ。
修道院で暮らす子どもたちの体から、少しずつ穢れが消えていき始めた。
もとより女神の加護を受けたとされる聖域ではあった。だけどそのような事態が起こったのは明らかに初めてだった。
穢れによる不調を留めることは可能だった。だけど穢れが消えるなどと…払われるなどと。
誰もが夢に見て、だけど誰もが叶わなかったことだ。
だけどそれは現実に、セントヴェロニカ修道院においてのみもたらされる、まさに“奇跡”だった。
そして、修道院から。
子どもたちがひとりずつ、去っていった。
殆どが家や家族を失った者たちばかりだが、帰る場所のある者たちは自分たちの居場所へ。
それ以外の者たちは修道院と王家の後ろ盾のもと、新しい家族のもとへと引き取られた。
もとより穢れの影響で保護されていた子どもたちだ。穢れを除かれた後は修道院に残る理由はない。
穢れが消えたその身は、女神の祝福と聖女の加護を受けた“清らかな子どもたち”として、引き取りたいという後継人は多かったという。
そうしてその殆どが修道院から居なくなり、残ったのは僅かばかりの先の使徒と、引き取りを拒み自ら修道院に残った子どもだけになった。
そうして歳月が流れても尚、時折穢れを宿した子どもが国に保護されセントヴェロニカ修道院にやってくる。修道院はただ静かに子どもたちを受け容れ、佇んでいた。
白いセントポーリアの花弁が揺蕩う泉に浮かびすべての者を歓迎する。
女神はそこにやってくると、いつからか信じられていた。
「――また、泣いているの?」
まだ幼さを残したその声が、泉の傍に座り込むひとりの少年の、小さな背中にかけられる。
びくりと体を揺らした少年は、声をかけられても振り返らない。
月が大きくて綺麗な夜だった。
寝間着のまま部屋を抜け出した少年は静かに月の光を浴び、泉に浮かべられた白い花をじっと見つめていた。
少年は一番最近この修道院に保護されてきた子どもだ。数か月前に両親を失い、その穢れた身故に親族中をたらい回しにされ、そうしてここに行き着いたという。
二日前に修道院に迎えられアルベルトが紹介した時の彼の表情は、もう既に絶望を味わい尽くしていた。
声をかけた少女はそんな子どもを何人も見てきた。それでも慣れるものではない。
「…体が痛くて、眠れない…」
「…キース」
穢れによる身を蝕む苦痛は人それぞれだ。キースの身に宿る穢れの痣は、確かに多く濃い。
少女はそっと、栗色の巻き毛を手で抑えながらその隣りに腰を下ろした。
反射的にキースが体を揺らし、距離をとる素振りを見せる。おそらく体に染みついたその癖は、彼自身ではなく周囲にそうさせられてきたのだろう。
その様子に胸が痛む。かつて自分も同じ立場であったからこそ。
「…おまじないを、教えてあげる」
言って、少女は両手を目の前まで持ち上げる。
キースは修道院の先輩でもある少女に目だけで動作を促され、半分面倒くさそうに仕方なく、その素振りを真似てみる。
ぎゅっと、両手を。かたく握って目を瞑る。祈りを捧げるかたちに似ていた。
少女はそっと、月夜に囁く。
「痛いことも、苦しいことも、こわいことも、弱いところも。全部ここに押し込んで、そうして吐き出すの。自分の内から」
それからふぅっと、開いた手の平の上の虚空に息を吹きかけた。
それらはすべて、目には見えないそんなもの。
だけど目にはみえないだけで、そこに本当に何もないという証拠はない。
だからあると思えば、あるのだ。
自分の弱さも苦しさも、あるはずだった何かも。
それでも自分の内から消えない何かも。
「……ぜんぜん、効く気がしない」
キースはむすりと零して再びそっぽ向いた。だけどその瞳はもう濡れていない。
「じゃあ、効くまでやろう。いっしょに」
そう言ってほほ笑む少女に、キースはまだ心を開かない。
だけど立ち上がった彼は埃を払い、部屋に戻ることにしたようだ。少女もつられるように立ち上がる。
それから、もう一度。
胸の前で両手を握った。その瞳は今度は遠い月を仰いでいた。
「…キースの痛みが飛んでいきますように。勇気が湧いてきますように」
それは彼女が、修道院に新しく迎えられた子どもたちに、等しく最初に教えるおまじないだった。
「…サラ、もういいってば」
「本当に利くんだよ、わたしも人に、教えてもらったものなんだけど」
「…ふぅん。サラも、効いたの?」
「…わたし、は…」
並んで歩きながら、サラはふと考える。
自分はどうだったっけ。
確か遠い昔、この身にまだ穢れが宿っていた頃。
教えてもらったそのおまじないを、おそらく自分もやったはずだ。
でなければそれを子ども達に教えようなどと思うはずがない。
そうして自分の心も支えられてきた。
「…たぶん、効いた、と…思う」
「なんだよそれ、誰に教わったの、そのおまじない」
年相応の生意気そうな目でサラを見上げ、キースは僅かばかり強気を見せる。
そんな瞳で問われたサラが、歩みを止めて再び月夜を仰いだ。
「……誰、だったっけ」
零れた言葉をキースは不思議そうな顔で見つめる。
だけどあまりに心細そうなその横顔に、今度は言葉をかけることすら憚られた。
「……誰に教えて、もらったんだっけ」
――誰を、失ったのか。
サラはもう何度かその問いを自分の内に投げかけている。
このおまじないを教える度に自分の心の中にある、空っぽの空洞が疼くのだ。
だけど思い出すことはできなかった。その名前を呼ぶことも。
「いいよ、もう。行こうぜ、司祭さまに見つかると、明日の朝ごはん抜きになる」
「…そうだね。行こっか」
――――約束。
信じて、待っている。
わたしはここで。
月だけがすべてを知っている。
だけど語ることはない。
“誰”も知らない真実を。
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