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第八章
ひみつの協定①
しおりを挟むカツカツカツと、靴を鳴らす音が暗い廊下に鋭く響いた。
人目も人気もないこの廊下は、特別な術が施された王子たち専用の通路だ。誰にも見られず目的の部屋へと続いている。行儀悪く大股で早足に歩く自分を窘められる心配もない。
焦る気持ちが無意識に歩調と鼓動を上がらせる。
ディアナスが今向かっているのはアレスの私室だ。
――あれから五日。自身も慌ただしさに追われあっという間に過ぎてしまった。
あの兄弟会議の場で長兄であるイリオスから言い渡された“禊”の命。
禊は王子にとって大事な儀式だ。本来であれば日を選ぶ。神官によって占わせた吉日と、王家が選ぶ相手。往々にして立会人である王族、殆どは当該王子の母親がその一切を取り仕切るのが通例だ。
だけどディアナスの母親は今、この王城には居ない。
故郷である隣国とフィラネテス王国の国境付近にある城へと移った。ディアナスには何の別れも告げずに。
なのでディアナスから連絡をとることはできないし、おそらく返事も返ってこないであろうことも分っている。
母は自分を捨てたのだ。おそらくもう“王子”である自分とは一切関わりを持つ気はないのだろう。
本来なら王子付の従者が諸々の調整役として間に入ることも可能だが、ディアナスには今まだ専任の従者は居ない。城が抱える従者たちが身の回りの世話はしてくれているが、ディアナスは必要ないとも思っている。今はひとりで居たほうが気が楽だった。
ここ数日は本当に忙しかった。身の回りの整理と城内の把握、公務の調整とそして昼は学院にも通っている。
成人を迎え正式に王子として学院に復帰したディアナスは、それまでの選択科目どころか必須科目まで本人に断りなく転科されていた。
これまでは王家の、正確にはディアナスの母親の意を汲んでいた学院だが、学院側としても正式に国の第五王子を受け容れたということなのだろう。
当然のようにこれまで周囲を囲んでいた学友の色も変わる。以前までの交友関係は切られてしまった。ディアナスの学院での景色は一瞬で変わってしまった。自分の与り知らないところで。
これまでの気楽な学院生活はとうとう終わってしまったのだとディアナスは理解した。もう安易に城下に下りることも難しいだろう。
ひとつずつ確実に“シンシア”の痕跡が消されていくようで、ディアナスは覚悟していた以上のやるせなさに襲われる。だけどどうすることもできなかった。
加えて兄はさっさと禊を済ませろという。期限こそは決められなかったが、日取りも相手もディアナスに一任された。そうすることでディアナスにはいよいよ逃げ場がなくなった。
任されたのではなく、追い込まれたのだ。
ディアナスが選ぶ相手などひとりしか居ないと分かっていて、選んだ以上は成し遂げるほかないと分かっていて。
突然の環境変化や追い立てられる状況に、ディアナスは心身共に日々疲弊を募らせていた。
そんな中、白い蝶を通じてアレスから連絡があったのはつい昨日のことだ。
時間がある時に部屋に来いというそれだけ。
すぐにディアナスは返事を返し、そしてアレスはすぐに時間をとってくれた。
そうして悲痛な感情を滲ませたままディアナスが叩いたアレスの私室の扉を、ゆっくりと開けた部屋の主はひどく複雑そうな表情で弟を出迎えた。
その予想外のアレスの様子にディアナスは顔を顰め、思わず泣きそうになる気持ちを堪える。
自分がここに来ることは知っていたはずだし約束も取り付けている。不用意な来訪ではないはずだ。
なのにその顔はなんなのだ。縋る思いでここまで来たのに。
出鼻を挫かれる気持ちで促されるままに入室したディアナスは、その光景にやや遅れてアレスの反応に納得した。部屋の中央の来客用のソファには、先客が居たのだ。
「……ゼノス兄様?」
「…こんばんは、ディア。すいません、きみとの約束があるとは知らず、先ほどここに押しかけたのはおれの方なんです」
「…珍しいですね、ゼノス兄様が」
自ら自室を出るなんて。
言いかけて思わずディアナスは口を噤む。
悪気も悪意もないが、そう受け取られかねない発言は控えるべきだ。半分まで出てしまった言葉は、もう遅いのだけれど。
そんなディアナスにゼノスは気にする素振りもなく緩く笑って、空いているソファへとディアナスを促した。
部屋の主であるアレスは無言でどかりとゼノスの向かいのソファに腰を下ろす。先ほどまでそれが彼の位置だったのだろう。
ディアナスも促されるまま、まるで新品のようなベルベット生地のソファに身を落ち着けた。
普段アレスは私室に居ないことが殆どだ。このソファもこれまで殆ど出番がなかったのだろう。
「でも、ある意味調度良かった。きみとも話がしたかったから」
ゼノスの言葉にアレスの反論はない。
ということは、あえてアレスもゼノスの訪問を断らず、ここに残したことになる。そこに意義があると判断したのだろう。ただしディアナスにとっては何の断りもなく事後報告となる。
「悪いな、ディアナス。俺からおまえを呼び付けておいて」
「…いえ、それは構いません。声をかけて頂いたことには、感謝しています」
「その喋り方もここでは良い。どうせ今は三人だけだし、ここは俺の部屋だ」
そう許可を得て内心ディアナスはほっと胸を撫で下ろす。
ちらりとゼノスに視線を向けると、ゼノスも微笑んで同意を返してくれた。
つい最近教養の授業で言葉遣いをただされたばかりだが、王族としての自覚がまだ浅いディアナスに畏まった喋り方は気を張るばかりで、嫌気が差していたところだったのだ。
「では、お言葉に甘えて。ゼノス兄様はどうしてここに? 身体は、大丈夫なの?」
ディアナスが知る限りのゼノスは、兄弟のなかで一番重たい呪いに昼夜問わず苦しめられ、それを軽減させる為の結界が施された自室から殆ど出られずこれまで過ごしてきたという認識だ。
人との関わりを断ち部屋に引きこもってきたゼノスだが、ディアナスにとっては兄弟の中では一番慕っていた兄だ。
幼少期の頃の一時期を共に過ごしたゼノスは、ディアナスに優しくしてくれた唯一の兄だった。
それでも時を経て交流は殆ど途絶え、顔を合わせるのはあの兄弟会議の場でのみ。
ディアナスは呪いにも夜伽にも関心がまるでなかった。なのでディアナスは、ゼノスの現状を殆ど知らなかったのだ。
「…今は夜なら、こうして出歩けるほどに苦痛は軽減しました。昼も今は少しずつ、研究の合間にですけど兄上に公務を頂いています。まだ、呪いはこの身にあるけれど…その殆どは、セレナが浄化してくれたんです」
なんの前触れもなくゼノスが落としたその名前に、ぴくりと反応したのはゼノス以外のふたりだった。ゼノスはあえて、その名前を口にしたのだろう。様子を伺うような視線をふたりに向ける。
先に応えたのはディアナスだった。
「…今さら、なんだけど…ゼノス兄様も、アレス兄様も…セレナの夜伽を、受けたんだよね…?」
それを改めて確認して、どうしたいのかは自分にも分からない。
冷静に考えれば過去の記憶にその答えはあるのに、今は生憎冷静に考える頭を持ち合わせていなかった。
もうずっとあの日から。冷静でなどいられるはずもなかったのだ。
暗にセレナを抱けと、イリオスに言われてから。
ずっと、ずっと。
「……ええ。おそらくおれ達のなかで夜伽を受けていないのは、ディアと兄上だけでしょう」
「…待て、イリオスもか? 確かに夜伽を受けたとの報告はないが、本来ならイリオスは一番に受けるべきだろう」
口を挟んだのは怪訝そうな顔をしたアレスだった。
これまで兄弟会議の場の主な議題は呪いと夜伽に関してが殆どだ。
互いにその進捗を報告し合い、ひいては国王陛下にも状況は報告される。それが自分たちの、国の為に果たすべき責務だからだ。
「アレス兄さんの言う通りです。だけど兄上はきっと…おれ達全員の呪いが解けるまで、おそらくセレナを抱くことはないでしょう」
「……何故」
「それはおれの口からは言えません」
ゼノスの言葉にアレスは苛立ちと憤りを滲ませ、それでも息を吐いて持ち上げていた背をソファに沈める。それ以上の追及は無駄だと理解したようだ。
ディアナスはひとり会話についていけず、ただぼんやりと、自分の心の置き場を考えていた。
今この場に居るふたりの兄は、セレナの夜伽を受けた。セレナを抱いたのだ。男と女の仲として。
セレナを“夜伽聖女”として。
ならば自分はどうなのだろう。
正体を知るまでのセレナを、知ってからのセレナを。
自分はどう受け止めているのか。
「…ふたりは、セレナを…どう思っているんですか?」
なにより、このふたりの兄たちは。
セレナに向けるその思いが、呪われた王子とそれを解く夜伽聖女という関係性だけの、義務的なものとは明らかに違うことをディアナスも感じていた。
アレスはセレナの正体を知っていて、一度彼女を傷つけておいて、それでも接触を持ち続けた。彼女の正体を隠しながら、彼女に会いにきた。
ゼノスが修道院で見せたセレナへの執着にも似た熱い思いを、ディアナスは肌で感じて全身が震えたのを今でも覚えている。その全身全霊で、彼女へと阻むものを文字通りなぎ払ったのを。
その心は、はたしてどこにあるのか。
「…ボクは、まだ…わかりません。ただ、彼女は以前のボクにとって、大切な友人だった。唯一心を預けても良いと思えるほどの。抱けと言われれば、抱けるかもしれない。だけどそれが正しいのか、わからない」
大切だというその思いの意味が、ひとつであったならとディアナスは思う。
迷いも躊躇いなどもなくただ、守る側であれたなら。
そうして守れたなら、どれだけ良かっただろう。
その思いだけでセレナに接することができたなら、どれだけ。
だけど、自分は。
彼女を抱き締めた時のあの細い肩を。柔らかな肌と脈打つ鼓動を。
知ってしまった。覚えてしまった。忘れることもできなかった。
もうただの友人には戻れないことも、自分がそれを望んでいないことにも気付いてしまったのだ。
「……ディアは…例えば学院で面識のある、以前のきみにとって友人である女性を…陛下の命令で抱くことは、できますか…?」
ゼノスの問いに間を空けて、ディアナスは小さく頷いた。
「…それが、命令で…自分の責務でもあるのなら」
きっとそうして兄たちも、これまで見ず知らずの女を抱いてきたはずだ。
そこには何の情もなく、交わすものは何もなく、残るものなど何もなくても。
「だけど」
言いながらディアナスは、先ほど自分が言っていた事との矛盾を突き付けられる。
命令なら仕方なく。抱けるはずだ。どんな相手でも。
そうあるべきはずなのに。
だけど、違う。
セレナは違う。
「命令で、義務で…セレナは抱けない…抱きたくない」
それが自分の本心で、それが答えでもあったのだ。
あの、はじまりを。出会いを。
呪われた王子の自分ではなく、夜伽聖女でもないセレナとのあの夜の出会いを。
汚したくなかった。誰にも汚されたくなかった。いっそずっと自分の内だけに、閉じ込めておきたかった。
「その心を忘れないでください。そうすればセレナにとって、きみとの交わりは“夜伽”ではなくなるかもしれません」
「…? どういう、ことですか」
「…セレナは、おそらくここでおれ達がどんなに考えても、彼女は彼女の意思でおれ達の呪いを解きにきます。彼女自身の目的の為に。おれ達にできるのは、大人しくその身を差し出すことくらいかもしれません」
少しだけおかしそうに、過去の記憶を思い出すように苦笑いを漏らしたゼノスを、アレスとディアナスは黙って見つめた。
何かを決意したように語る彼の、その時だけ揺れる心が垣間見ながら。
「残念ながらおれ達の思いも言葉も、彼女の心に深くは響かない。夜伽という名目で繋がる限り、彼女は誰も選ばないと思っていました。だけど…その心はきっと、彼女自身にも止められなかったんでしょう」
「……ヘルメス・ノヴァのこと?」
「……」
ディアナスの問いに、ゼノスはあえて口にはせずに頷くだけで答えた。
「だけどセレナは彼を失った。彼の本意は分かりません。だけどセレナはもうこれ以上、失ってはいけないんです」
ぐ、っと。その拳が膝の上で握られる。
今までのゼノスへの認識が振り払われるかのように、ゼノスはそれまでとは違った表情を兄弟に晒した。
「呪いが、ある限り。おれの心はセレナには決して届かない。だからはやく、呪いを解きたかった。彼女に触れる口実でも良いとさえ思っていました。だけど…おれはもう彼女に、夜伽は請いません」
――自分のものにならないのなら。
いっそ誰のものにもならないで欲しい。
そうとさえ、思っていたのに。
「ディア、きみが彼女に教えてあげてください。夜伽以外にも、その行為に意味はあると。呪いは、体を交えなくても解かれるはず。おれの呪いも一部はそうして浄化されました。きみの呪いの量なら、可能かもしれません」
「……!」
――夜伽とは。
体を繋げることがすべてだと、そう思っていた。
少なくともアレスもディアナスも。
「そうして、その関係性をすべて捨て…それでも互いが、望むのなら。彼女にその役目以外を与えてあげてください」
「…待って、ゼノス兄様…ボクは、まだ」
「つぎ、会えば。きっと分かりますよ、嫌でも。だっておれ達は半分の血を分けた兄弟ですから。もしかしたらどうしたって惹かれてしまうその心は、兄弟の証かもしれません」
苦笑い混じりのゼノスの言葉に、不服そうな顔を向けたのは目の前のアレスだった。
だけど否定はしない。ただゼノスの言葉に耳を、心を傾ける。
「おれはもう言えません。おれの言葉はおそらく彼女に届かないから。だからおれの代わりに、言ってあげてください。伝えてください……あなたを、想っていると」
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