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第八章
ひみつの協定②
しおりを挟むゼノスの決意は誰の為のものか。
ディアナスには分らない。だけどその意思を汲んだのはアレスだった。
「もうあいつに会わない気なのか」
「…会えば、おれは自分の気持ちを押し付けることしかできません。思えばこれまでも…一方的に求めて、彼女は応じてくれただけ。そこに彼女の義務感と優しさはあっても、個人の想いは何もありませんでした」
僅かに視線を落としたゼノスを、わらったのはアレスだった。
ゼノスを貶すものではなく、どこか自嘲にも似た小さな笑み。
いつも自信に溢れ自分を疑わないアレスには珍しいその表情に、ディアナスが一瞬眉を顰める。随分らしくない表情だった。
「物分りが良くて羨ましいくらいだ。俺は俺の望みすら、ままならない」
「…アレス兄さんは…どうしてセレナに、関わろうとするのですか…? 兄上の命に逆らってまで、どうして…」
血を分けた兄弟といえど、やはり継承順位にならう上下関係というのはどうしても拭えない。逆らえないものだ。
父である国王陛下はそれぞれの母君たちに正妃といった形をとらず、兄弟たちは皆立場でいえば対等だ。ただ生まれてきた順に純粋に、継承権は与えられた。たまたま、同じ年に生まれた兄弟がいなかっただけなのだ。
その第一位であるイリオスはいわば最も国王陛下に近くその命令権も強い。弟たちは必然的に彼に従うかたちとなる。
しかし生まれた順だとか継承権位以前に、イリオスにはそれだけの実績と力があるのも事実だった。第一王子としての責務を全うし、民の信頼を得、国の未来の為にその身を砕く。
弟たちはそれぞれの位置でその様子を見てきた。おそらく彼が紛れもなく一番確実に、国王の座に近づいていくのを。
だからイリオスの命令に逆らうことへの懲罰は当然の報いでもあるのだ。
イリオスの言動はすべては国の為に在る。それに逆らうことは王子としての責務に反するのと同じことだ。
「…さぁな。少しくらいは、イリオスの命に反抗してみたかった気持ちもあったかもしれない。俺にも俺なりの野心がある。あいつにだけすべてを決められるのは気に食わない思いがあるのも事実だ。…だけど、あの時は…殆ど自分でも理解できない内に、あいつを…セレナを追いかけていた」
また小さく、アレスは笑って。いつも燃えるように赤いその瞳が、僅かに細められる。その瞳の奥によみがえるひとりの少女に想いを馳せて。
「謝りたい気持ちや、許しを請う気持ちも僅かにはあった。だけどいつの間にかそんなものは途中でなくなった。所詮それはセレナにとっては何の価値も持たず無意味なものだと分かったからだ。セレナが自分にはもう必要のない相手だと解っていたし、それはあいつにとっても同じだった」
そこで小さく息を吐き、ほんの少しだけ口元を緩める。
目の前にある事実だけを並べると、自分と彼女の関係のなんと希薄なことかよく分かる。
彼女を傷つけたあの時点で、自分は彼女と並ぶ価値などなかったのだ。
それでも。
「…だから俺を、必要だと言わせてみたかった」
思わずゼノスとディアナスが目を瞠るほど、その表情からはアレスの心が滲み出ていた。
おそらく本人は気付いていない。目線をテーブルに落としたまま、アレスは続ける。
「その瞳にちゃんと俺を、映してみたかった。傷つけずに済むのなら…出来ることなら出会う前に戻ってやり直したいと思わなくもない。だけど俺はおそらく何度出会ってもその道を間違えてあいつをまた傷つける気がする。あいつが“夜伽聖女”である限り。でも」
自分の犯した過ちに、自分の愚かさと歪な正義の色を知った。
自分の望みはいつだって自分ひとりでは叶えられないのだと初めて気付いた。
そうしたら、もう。
心から望むことはひとつだった。
「そうでなければ出会えなかったというのなら…何度でも傷つける罪悪を抱えて、それでも俺はあいつを選ぶ。償いとはその為にあるものだからだ。そしてそれは俺ひとりでは成せない」
自分の弱さに泣く彼女に、ひとりになろうとするなと言ったのは他ならぬ自分だ。
だから、その時に。彼女がまた誰かを、救いを求めて涙するその時に。
傍に居る必要がある。彼女の助けになると約束した。
それは、呪いから解放されもはや無関係ともいえる自分だからこそ、できることだと思ったのだ。
違うかたちで異なる関係を始めたいと。
何故か、このタイミングで。以前交わしたエレナとの会話が思い起こされた。
『――“聖女”は王子殿下たちと、決して結ばれはしない運命なのですね』
そんなもの。
くそくらえだ。
自分は自分の心のままに在る。
「だから俺はあいつを、決してひとりにはしない」
それからまだセレナには確認しなければいけないことがあることを思い出す。
どちらにせよまた必ず会わなければならない。
「……意外、ですね。アレス兄様がそんな、ロマンチックなことを言うなんて」
「なんでだ。どこかだ」
「だって、それじゃあまるで」
運命の相手みたいじゃないか、と。
言いかけてディアナスは口を噤む。
本人すら無自覚のそれを、他人の自分が言葉にするのは憚られた。
それだけの執着と愛を宣言してなお、この兄はその事実だけは何故か認められないらしい。
だけどあえて言葉にするゼノスとあえて言葉にしないアレスは対照的でいて、その思いはまるで同じだ。
それぞれの兄たちの心には、既に確固たる思いがある。自分ではなく相手の為に差し出す心がそこに。
「…それだけの、想いがあるなら…普通はセレナが他の男に抱かれることなんて、嫌なんじゃないんですか…?」
ふと口をついて出たディアナスの疑問に、アレスとディアナスはそれぞれ視界の端で目を合わせあう。
やはり言葉にはせずに、ふたりはその思いをただしく共有して。
答えたのはゼノスだった。温和な笑みを浮かべて毒を吐くように。
「嫌ですよ、でも。それを主張する権利をおれ達は端から持ちません。それこそセレナが夜伽聖女である限り。夜伽聖女は、おれ達の為に異世界より喚び寄せられた、おれ達全員の為の聖女ですから」
呪われた王子としてその恩恵を既に受けた者は、独占欲を翳す権利も持たないという。
生まれながらにその身に宿した呪いに対する思いは、その重さこそそれぞれ違えど互いに同情して然るべきだからだ。それぞれが皆、背負ってきた十字架がある。
それに、と。ゼノスは続ける。アレスは口を挟まない。
「彼女が嫌だと拒むことができない今、そしておれ達も夜伽を責務と捕らえる以上、…おれ達の関係に先はないのかもしれません」
先、とは。呪いが解かれたその先のことなのか。だけど既にその身であるアレスが望むその先とはなんなのか。
ディアナスの想像はまだそこまで及ばない。目の前のことでも手一杯なのだ。
「セレナの望みは、自由を得ること。今回セレナが無断であの部屋から外出していた件に関しては、おれも詳しくは知らされていません。だけどもしかしたら…その約束も反故になった可能性があります」
「……! そんな…!」
「だからこそ、セレナの現状が気にかかります。蝶の返事は返ってこないし…」
「あの蝶って、イリオス兄様の術でもあるんですよね? ボクもただしく届くか一度試すよう言われて一度だけ使ってみましたけど…やはり返事は特になくて」
「イリオスは術の制御と魔力の補填だけだろう? すべてを把握しているわけではないはずだ。おれも何度か送っているが、イリオスが関与し察知しているなら既に咎められている。まだ謹慎中の身だからな」
胸を張って言うことではないと思うのだが、ゼノスは苦笑いだけ返してそっと瞳を伏せる。
おそらくやはりセレナは現状隔絶されている状況なのだろう。
事はルミナスにも知られていたから、ルミナスが部屋の結界を強化したか、四六時中見張っていることも考えられる。セレナも謹慎のような状況なのかもしれない。
それでも夜伽に関することならば、ルミナスにも状況は知らされているはずだ。イリオスの命でディアナスがセレナの夜伽を請う可能性があり、そしてそこにアレスが同席する可能性もあるのだと。
アレスはともかく、ディアナスにくらいは返事があっても良いのだけれど…
ふと、そこへ。
まるではかったかのようなタイミングで、噂の白い蝶が部屋へと現れた。
「……!」
全員が思わず息を呑み、そして白い軌跡を目で追う。
セレナからの返事だと誰もが無意識に思った。この場に居る全員がセレナへの蝶を送っている。誰のもとへ、来たのか。
ふわふわと、まるで迷い定めるように虚空を舞っていた白い蝶がやがてとまったのは、おそるおそる差し出したゼノスの指先だった。
「…っ」
思わず息が詰まりそうになるのを、なんとかゼノスは必死に堪える。
ゼノスが蝶を送った時はまだ、ゼノスの心は迷いの中に居た。だから蝶に寄せたのはセレナの身を案じる言葉だけだった。涙で別れたセレナへの、気遣いの思いだけをただ綴った。
でも、今は。セレナの為を思うならもう会わない方が良い。さんざん迷ってそう決めた。会えばどうしても触れたくなる。彼女は望みもしないのに。
その決意の後だったなら、蝶など送ることはしなかった。
だからこそ、今の自分にセレナからの返事が届いたことには戸惑いと嬉しさが入り混じる複雑な思いで胸がいっぱいだった。
それでも、どうしても。嬉しさのほうが勝ってしまう。
おそらく一番に自分への返事をくれたことが。
無言でアレスが立ち上がり、自分の机の引き出しから白い紙を取り出してゼノスの前に差し出した。
ゼノスは躊躇いながらもそっと蝶を紙の上へ移す。
白い蝶の羽の黒い文字が、紙の上へと流れて刻まれた。
『――ゼノス、心配してくれてありがとう。今はまだ、会えなくて。だけど落ちついたら必ず、会いにいきます』
その文字は、今まで代筆で書かれてきた生真面目なルミナスの文字とは明らかに違った。
丸みを帯びたくせのある文字。おそらくセレナが、セレナ本人が書いたもの。
「……会わないって、決めたのに」
ぽつりと思わず零して。
それからそっと、その文字を指先でなぞる。自分の名前が書かれた文字を。
いつも文章のやりとりには通訳でもあるルミナスが必ず介在していた。この世界の文字の読み書きをできないセレナに代わって。
だけど、これは紛れもなくセレナ自身の、何の介在も干渉もない言葉だ。
そこには確かに、セレナの心があった。
「ついでにボクへの返事とかないんですか? 中途半端なかたちで別れてすっごくもやもやしてたのに…!」
「優先順位で負けたんだ、諦めてまた返事を待て」
紙の上の文章を横から盗み見ながらむくれるディアナスに、アレスも僅かに不満そうな顔を見せるも大人の対応を見せる。
それから微動だにしないゼノスにため息交じりに言葉を向けた。
「おまえも、諦めろ。あっちから会いにくるって言ってるんだから、来ると言ったらあいつは絶対来るぞ」
「……アレス兄さん」
「それに、俺自身もあいつには確認したいことがある。聖女からセレナに託されたという、国の未来を左右する女神の宣託と、それから穢れの浄化と共にその体に現れた痣についてだ」
「……どういうことですか?」
ふと空気を変え真剣な眼差しを向ける兄に、事情を全く知らないゼノスと、それから一部は知っているもののこの場で初めて知る単語にディアナスまでも目を丸くする。
女神の宣託。
それが聖女からセレナに託された――?
「宣託の件はイリオスにはまだ言っていない。俺の独断でだ。だからここから先を聞くならおまえ達も共犯となるわけだが…どうする?」
アレスのその表情がすっと真顔に引き締められその瞳にもいつもの赤が燃える。
おそらくアレスのこの場の本題がそれだったのだとようやく悟る。ディアナスを呼びつけゼノスの滞在を許した。この場に居ることの意味を、無意識にふたりも感じていた。
「…セレナに、関わることなら。おれは聞きます」
「…ていうか、ボクは半分、知っちゃってるし。ここまできたら、もう後にはひけないよ」
弟たちの返事を受けて、アレスは浅く短く息を吐く。
ここに、三人居ることの意味。
後のセレナの運命を大きく変える、ひみつの協定が交わされる。
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