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第一章 秀長の子
第1話 長浜の産声
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意識というものは、案外あっけなく途切れる。
大学の研究室。深夜。
机の上には、戦国期の検地帳と、江戸初期の朱印船貿易に関する資料が山のように積まれていた。
蛍光灯の白い光が、紙の縁を鋭く照らし出している。
「……少し、休むか」
自分でも驚くほど弱々しい声だった。
時計を見ると午前二時を回っている。三日連続の徹夜。
学会提出用の論文の締切は明日。いや、もう今日だ。
豊臣政権の官僚制度と、日本が鎖国へ向かう構造的必然性。
それが、私の研究テーマだった。
――もし、豊臣政権が制度国家として完成していたなら。
――もし、徳川の幕府が成立していなかったなら。
――日本は、もっと早く外へ開けていたのではないか。
そんな仮定を、史料と数字で積み上げていく作業。
歴史学者としては、ただの思考実験だ。
現実を変えられるわけではない。
……はずだった。
胸に、鋭い痛みが走った。
「……っ」
息が、吸えない。
視界が歪み、蛍光灯の光が滲む。
机に手をつこうとしたが、指先に力が入らない。
床が近づいてくる。
思った。
――ああ、過労死か。
四十歳。独身。
両親はすでに亡い。
研究室の床で倒れても、気づかれるのは翌朝だろう。
誰にも迷惑はかからない。
……そう考えたところで、意識は暗転した。
次に感じたのは、冷たさだった。
いや、違う。濡れている。
全身が何かに包まれている感覚。
そして、耳をつんざくほどの――
「おぎゃああああああ――!」
声……声?
自分の喉が、勝手に動いている。
出した覚えのない音が、空気を震わせる。
視界は、ぼやけていた。
白と黒の境目も曖昧で、輪郭が溶けている。
だが、周囲の気配は異様なほど生々しかった。
人の声。
布の擦れる音。
木がきしむ音。
そして、鼻を突くような――血と薬草と煙の混じった匂い。
「男子でございます!」
「おお……!」
「お方様、よくぞ……!」
女の声、男の声、押し殺した泣き声。
理解するよりも早く、私は悟ってしまった。
――産まれた。
――私は、いま、産まれた。
論理的に考えればあり得ない。
だが、否定する材料が一つもない。
身体が小さい。
視界が低い。
指が、異様に短い。
声を出そうとしても、「あー」としかならない。
……赤子だ。
完全に。
混乱するより先に、知識が働いた。
畳。
障子。
行灯。
電気はない。
ここは現在ではない....
「お方様、よくぞ……!」
「お疲れでございました……」
お方様。
病院では使わない言葉だ。
天井を見上げる。
低い。梁が太い。
天井板が粗い。
城――あるいは、武家屋敷。まるで戦国か江戸時代のような。
そして、さらに追い打ちのように声がした。
「秀長様、お世継ぎにございます」
……秀長?
一瞬、理解が止まる。
秀長。
よくある名ではある。
だが、「秀長」といえば。
私の脳裏に、一人の人物像が浮かぶ。
羽柴秀長。
豊臣秀吉の実弟。
内政の天才。
豊臣政権の実質的宰相。
史実では――
過労と病で五十過ぎに死ぬ男。
本当に、あの秀長か?
偶然の同名という可能性もある。
だが次の瞬間、その疑念は消えた。
抱き上げられ、視界の中に男の顔が入る。
若い。三十代前半か。
だが、目が異様に冷静だ。
感情よりも先に、状況を計算する目。
武人の目ではない。
商人の目でもない。
政治家の目だ。
背後で別の声が重なる。
「羽柴様も、さぞお喜びでしょう」
羽柴。
心臓が一度、大きく跳ねた。
羽柴秀吉の……弟、秀長。
私は――
豊臣秀長の息子として、戦国時代に生まれたのか?
「……まさか」
声にならない声で、呟く。
秀長。
その息子?
……私が?
私の知る歴史には秀長には男子はいなかったはず。
その歴史が変化しているのか.....
もしくは存在はしたが、記録に残らないうちに早逝したか。
のどちらか。
視界に、男の顔が映った。
まだ若い。30代中頃か。
精悍。
だが、目の奥が異様に冷静だ。
怒りでも野心でもない。
責任の重さを知っている目。
本当にこれが豊臣秀長.....か
もし秀長であれば、この男は、史実では「影の宰相」と呼ばれる。
兄・秀吉の戦を支え、国を整え、税を集め、城を作り、人を配置し、法を定める。
だが誰にも称えられず、誰にも感謝されず、身体を壊して死ぬ。
その結果、豊臣政権は制度を持たないまま膨張し、秀吉の死後、一気に崩壊する。
そして徳川家康。
関ヶ原。
江戸幕府。
鎖国。
停滞。
……私は、それを知っている。
抱き上げられたまま、天井を見つめる。
粗い木目。
低い梁。
城の天井だ。
奇妙な感覚だった。
絶望よりも先に、計算が始まっていた。
――秀長は、50歳すぎで亡くなる
あと15年ほどか。
――その後、秀吉は狂う。
――最後に徳川が笑う。
――そして、この国は、閉じる。
知識がある。
時間もある。
立場も、悪くない。
豊臣政権の中枢。
宰相の息子。
この位置なら、歴史を変えられる。
民が富めば国は栄え、国が栄えれば戦は不要となる。
剣ではなく、制度で。
戦ではなく、経済で。
日本はもっと豊かになれたはずだ。
豊臣の後に天下を担った徳川は、農業を神聖視した。
百姓を国の柱と持ち上げながら、逃げ道は塞ぐ。
商人は卑しいと縛り、技術者が力を持てば、武士の立場が揺らぐから潰す。
要するにだ。
徳川が拠った農本主義は国を守る思想じゃない。
支配を楽にするための思想だ。
確かに、乱れは減る。一揆も減る。
表向きは、平和だ。
だが代わりに――
金は巡らず、商いは育たず、国は「静かに古くなる」。
成長を止めた国は、いずれ外の世界に殴られて終わる。
それが俺の知ってる江戸時代だ。
豊臣政権を完成させる。
そして、徳川の時代は、来させない。
赤子の身体で、私は静かに泣いた。
それは産声であり、
この国の未来への、宣戦布告だった。
【羽柴秀長について】
史実では、羽柴秀長は「羽柴長秀」を名乗っていた時期がありますが、本作では読者の混乱を避けるため、作中では一貫して「羽柴秀長」に統一しています。
人物・史実上の扱いに差異はありません。
(ブックマーク・感想いただけると励みになります)
大学の研究室。深夜。
机の上には、戦国期の検地帳と、江戸初期の朱印船貿易に関する資料が山のように積まれていた。
蛍光灯の白い光が、紙の縁を鋭く照らし出している。
「……少し、休むか」
自分でも驚くほど弱々しい声だった。
時計を見ると午前二時を回っている。三日連続の徹夜。
学会提出用の論文の締切は明日。いや、もう今日だ。
豊臣政権の官僚制度と、日本が鎖国へ向かう構造的必然性。
それが、私の研究テーマだった。
――もし、豊臣政権が制度国家として完成していたなら。
――もし、徳川の幕府が成立していなかったなら。
――日本は、もっと早く外へ開けていたのではないか。
そんな仮定を、史料と数字で積み上げていく作業。
歴史学者としては、ただの思考実験だ。
現実を変えられるわけではない。
……はずだった。
胸に、鋭い痛みが走った。
「……っ」
息が、吸えない。
視界が歪み、蛍光灯の光が滲む。
机に手をつこうとしたが、指先に力が入らない。
床が近づいてくる。
思った。
――ああ、過労死か。
四十歳。独身。
両親はすでに亡い。
研究室の床で倒れても、気づかれるのは翌朝だろう。
誰にも迷惑はかからない。
……そう考えたところで、意識は暗転した。
次に感じたのは、冷たさだった。
いや、違う。濡れている。
全身が何かに包まれている感覚。
そして、耳をつんざくほどの――
「おぎゃああああああ――!」
声……声?
自分の喉が、勝手に動いている。
出した覚えのない音が、空気を震わせる。
視界は、ぼやけていた。
白と黒の境目も曖昧で、輪郭が溶けている。
だが、周囲の気配は異様なほど生々しかった。
人の声。
布の擦れる音。
木がきしむ音。
そして、鼻を突くような――血と薬草と煙の混じった匂い。
「男子でございます!」
「おお……!」
「お方様、よくぞ……!」
女の声、男の声、押し殺した泣き声。
理解するよりも早く、私は悟ってしまった。
――産まれた。
――私は、いま、産まれた。
論理的に考えればあり得ない。
だが、否定する材料が一つもない。
身体が小さい。
視界が低い。
指が、異様に短い。
声を出そうとしても、「あー」としかならない。
……赤子だ。
完全に。
混乱するより先に、知識が働いた。
畳。
障子。
行灯。
電気はない。
ここは現在ではない....
「お方様、よくぞ……!」
「お疲れでございました……」
お方様。
病院では使わない言葉だ。
天井を見上げる。
低い。梁が太い。
天井板が粗い。
城――あるいは、武家屋敷。まるで戦国か江戸時代のような。
そして、さらに追い打ちのように声がした。
「秀長様、お世継ぎにございます」
……秀長?
一瞬、理解が止まる。
秀長。
よくある名ではある。
だが、「秀長」といえば。
私の脳裏に、一人の人物像が浮かぶ。
羽柴秀長。
豊臣秀吉の実弟。
内政の天才。
豊臣政権の実質的宰相。
史実では――
過労と病で五十過ぎに死ぬ男。
本当に、あの秀長か?
偶然の同名という可能性もある。
だが次の瞬間、その疑念は消えた。
抱き上げられ、視界の中に男の顔が入る。
若い。三十代前半か。
だが、目が異様に冷静だ。
感情よりも先に、状況を計算する目。
武人の目ではない。
商人の目でもない。
政治家の目だ。
背後で別の声が重なる。
「羽柴様も、さぞお喜びでしょう」
羽柴。
心臓が一度、大きく跳ねた。
羽柴秀吉の……弟、秀長。
私は――
豊臣秀長の息子として、戦国時代に生まれたのか?
「……まさか」
声にならない声で、呟く。
秀長。
その息子?
……私が?
私の知る歴史には秀長には男子はいなかったはず。
その歴史が変化しているのか.....
もしくは存在はしたが、記録に残らないうちに早逝したか。
のどちらか。
視界に、男の顔が映った。
まだ若い。30代中頃か。
精悍。
だが、目の奥が異様に冷静だ。
怒りでも野心でもない。
責任の重さを知っている目。
本当にこれが豊臣秀長.....か
もし秀長であれば、この男は、史実では「影の宰相」と呼ばれる。
兄・秀吉の戦を支え、国を整え、税を集め、城を作り、人を配置し、法を定める。
だが誰にも称えられず、誰にも感謝されず、身体を壊して死ぬ。
その結果、豊臣政権は制度を持たないまま膨張し、秀吉の死後、一気に崩壊する。
そして徳川家康。
関ヶ原。
江戸幕府。
鎖国。
停滞。
……私は、それを知っている。
抱き上げられたまま、天井を見つめる。
粗い木目。
低い梁。
城の天井だ。
奇妙な感覚だった。
絶望よりも先に、計算が始まっていた。
――秀長は、50歳すぎで亡くなる
あと15年ほどか。
――その後、秀吉は狂う。
――最後に徳川が笑う。
――そして、この国は、閉じる。
知識がある。
時間もある。
立場も、悪くない。
豊臣政権の中枢。
宰相の息子。
この位置なら、歴史を変えられる。
民が富めば国は栄え、国が栄えれば戦は不要となる。
剣ではなく、制度で。
戦ではなく、経済で。
日本はもっと豊かになれたはずだ。
豊臣の後に天下を担った徳川は、農業を神聖視した。
百姓を国の柱と持ち上げながら、逃げ道は塞ぐ。
商人は卑しいと縛り、技術者が力を持てば、武士の立場が揺らぐから潰す。
要するにだ。
徳川が拠った農本主義は国を守る思想じゃない。
支配を楽にするための思想だ。
確かに、乱れは減る。一揆も減る。
表向きは、平和だ。
だが代わりに――
金は巡らず、商いは育たず、国は「静かに古くなる」。
成長を止めた国は、いずれ外の世界に殴られて終わる。
それが俺の知ってる江戸時代だ。
豊臣政権を完成させる。
そして、徳川の時代は、来させない。
赤子の身体で、私は静かに泣いた。
それは産声であり、
この国の未来への、宣戦布告だった。
【羽柴秀長について】
史実では、羽柴秀長は「羽柴長秀」を名乗っていた時期がありますが、本作では読者の混乱を避けるため、作中では一貫して「羽柴秀長」に統一しています。
人物・史実上の扱いに差異はありません。
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