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第一章 秀長の子
閑話 丸い名
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天正9年(1581年)3月 近江・長浜城
昼下がり、長浜城の裏門が静かに開いた。
父がいる但馬の居城・竹田城から遣わされた使者が、母に取り次ぎを願い出たと聞かされ、私は母の居間に呼ばれた。
屋敷には見慣れぬ若い家臣が一人、畳に額をつけて伏している。
「但馬より戻りました。秀長様より、御台様と若君へ」
そう言って差し出されたのは、封をした一通の書状と、小さな木箱だった。
箱の中から、もぞりと動くものがあった。
茶色い。
いや、正確には薄茶と白が混じった、まだ毛並みの定まらぬ色だ。
「……犬?」
思わず声が出た。
箱の縁に前足をかけ、よろよろと顔を出したそれは、子犬だった。
丸い目。
丸い鼻。
丸い額。
全体が、ころんとした塊のようで、見ているだけで胸の奥がほどける。
母がそっと近寄り、膝をついた。
「まあ……」
子犬は母の衣の裾をくんくんと嗅ぎ、くしゃみを一つして、その場に座り込んだ。
家臣が説明する。
「但馬の国人より献じられた山陰地方の犬の子でございます」
「山陰の犬?」
「はい。山陰筋に古くからおります犬にて、狩りにも番にも使われますが、気立てが穏やかで、人によく懐く種でございます」
なるほど、と母は微笑んだ。
子犬は説明など意に介さず、畳の上をよたよた歩き、私の足の甲に鼻先を押しつけてきた。
温かい。
小さく、柔らかく、生きている温もりだ。
私はしゃがみ込み、そっと指先で頭を撫でた。
ふわふわだ。
毛はまだ幼く、少し頼りないほど柔らかい。
子犬は一瞬身をすくめ、それから私の指に顔を押しつけるようにして、尻尾を小さく振った。
胸の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じた。
……山陰。
その言葉を聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ、別の景色が浮かんだ。
縁側。
夕暮れ。
静かに座る女性と犬の影。
すぐに消えた。
思い出そうとすれば、霧のようにほどけてしまう。
それでも、胸の奥に残った感覚だけは、確かだった。
前世の母が山陰の出だった。
この犬のことも微かに覚えている。
古くから山陰地方にいる柴犬の一種。
小さく引き締まった体で、性格は温和で従順。
母が私を見て言った。
「竹若、殿は何と書いていますか?」
私は書状を開いた。
短い文だった。
『学問も政も大事だが、心を休めるものも要る。
この犬を、お前の友とせよ』
私は黙って子犬を見た。
子犬は、私の袖を小さく噛み、引っ張ろうとしている。
歯はまだ乳歯で、くすぐったいだけだ。
「名前を……つけてあげませんと」
母が言った。
「はい」
私は子犬を抱き上げた。
軽い。
胸にすっぽり収まるほど小さい。
丸い背中。
丸い腹。
丸い頭。
生き物というより、柔らかな団子のようだ。
「……マル」
自然に、その名が口から出た。
母が首をかしげる。
「丸いから?」
「はい」
私は頷いた。
そして、小さく付け加えた。
「丸い方が……壊れにくいです」
母は目を細め、それから何も言わず、優しく笑った。
子犬――マルは、私の腕の中で小さく鳴いた。
きゅ、と。
情けなくて、弱々しくて、それでも懸命な声だった。
私は、その小さな体を胸に引き寄せた。
戦の世だ。
国も人の心も荒れやすい。
だからせめて、
丸く。
穏やかに。
失わずに。
「よろしくな、マル」
マルは意味も分からぬまま、私の指をぺろりと舐めた。その舌は、少しだけ湿っていて、驚くほど温かかった。
それからしばらく、私はほとんどマルのそばを離れなかった。
母の居間の隅に、小さな敷物が用意され、そこがマルの居場所になった。
もっとも、本人――いや本犬は、居場所など気にしていない。
敷物に寝かされたかと思えば、ころころと転がり出て、私の足元にぶつかり、驚いたように後ずさる。
また歩き出しては、今度は柱に額をぶつける。
「……鈍いな」
思わず口に出すと、マルはきゅん、と鳴いてこちらを見上げた。
責めたつもりはなかったのだが、なんだか悪いことをした気分になる。
私は慌てて膝をついた。
「違う。悪くない」
言い聞かせるように言って、頭を撫でる。
マルはすぐに機嫌を直し、私の指を前足で押さえ込み、甘噛みを始めた。
小さな歯が、こりこりと当たる。
痛くはない。
むしろ、くすぐったい。
「こら」
そう言って指を引くと、今度は袖に噛みついた。
布を引っ張りながら、必死に唸っている。
全く迫力がない。
私は笑ってしまった。
声を立てて笑うのは、いつ以来だろう。
母が少し離れたところから、その様子を見ていた。
「よほど気に入られたのね」
「……みたいです」
マルは、私の膝の上によじ登ろうとして、途中でずり落ち、また挑戦して、やっと胸元まで辿り着いた。
そして満足したのか、そのまま丸くなった。
小さな体が、規則正しく上下している。
寝息だ。
こんなに無防備でいいのかと思うほど、深く眠っている。
私は動けなくなった。起こしたくない。
腕が少し痺れてきたが、それでも構わなかった。
ただ、ここにある小さな命の重さだけを感じていた。
――守りたい。
父を。
母を。
この家を。
そして、この小さな友を。
胸の奥で、静かにそう誓った。
マルは、夢の中でも何かを追いかけているのか、前足をぴくりと動かした。
私は小さく笑い、もう一度、その背中を撫でた。
それにしても、丸い。
本当に、見事なほどに。
【山陰芝犬】
絶滅寸前まで数を減らした貴重な日本の伝統的な犬種。
戦後の保存活動により数が増えてきています。
三笠宮彬子さまの愛犬「左馬助(さまのすけ)」がいっとき話題になりました。
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昼下がり、長浜城の裏門が静かに開いた。
父がいる但馬の居城・竹田城から遣わされた使者が、母に取り次ぎを願い出たと聞かされ、私は母の居間に呼ばれた。
屋敷には見慣れぬ若い家臣が一人、畳に額をつけて伏している。
「但馬より戻りました。秀長様より、御台様と若君へ」
そう言って差し出されたのは、封をした一通の書状と、小さな木箱だった。
箱の中から、もぞりと動くものがあった。
茶色い。
いや、正確には薄茶と白が混じった、まだ毛並みの定まらぬ色だ。
「……犬?」
思わず声が出た。
箱の縁に前足をかけ、よろよろと顔を出したそれは、子犬だった。
丸い目。
丸い鼻。
丸い額。
全体が、ころんとした塊のようで、見ているだけで胸の奥がほどける。
母がそっと近寄り、膝をついた。
「まあ……」
子犬は母の衣の裾をくんくんと嗅ぎ、くしゃみを一つして、その場に座り込んだ。
家臣が説明する。
「但馬の国人より献じられた山陰地方の犬の子でございます」
「山陰の犬?」
「はい。山陰筋に古くからおります犬にて、狩りにも番にも使われますが、気立てが穏やかで、人によく懐く種でございます」
なるほど、と母は微笑んだ。
子犬は説明など意に介さず、畳の上をよたよた歩き、私の足の甲に鼻先を押しつけてきた。
温かい。
小さく、柔らかく、生きている温もりだ。
私はしゃがみ込み、そっと指先で頭を撫でた。
ふわふわだ。
毛はまだ幼く、少し頼りないほど柔らかい。
子犬は一瞬身をすくめ、それから私の指に顔を押しつけるようにして、尻尾を小さく振った。
胸の奥で、何かが静かにほどけていくのを感じた。
……山陰。
その言葉を聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ、別の景色が浮かんだ。
縁側。
夕暮れ。
静かに座る女性と犬の影。
すぐに消えた。
思い出そうとすれば、霧のようにほどけてしまう。
それでも、胸の奥に残った感覚だけは、確かだった。
前世の母が山陰の出だった。
この犬のことも微かに覚えている。
古くから山陰地方にいる柴犬の一種。
小さく引き締まった体で、性格は温和で従順。
母が私を見て言った。
「竹若、殿は何と書いていますか?」
私は書状を開いた。
短い文だった。
『学問も政も大事だが、心を休めるものも要る。
この犬を、お前の友とせよ』
私は黙って子犬を見た。
子犬は、私の袖を小さく噛み、引っ張ろうとしている。
歯はまだ乳歯で、くすぐったいだけだ。
「名前を……つけてあげませんと」
母が言った。
「はい」
私は子犬を抱き上げた。
軽い。
胸にすっぽり収まるほど小さい。
丸い背中。
丸い腹。
丸い頭。
生き物というより、柔らかな団子のようだ。
「……マル」
自然に、その名が口から出た。
母が首をかしげる。
「丸いから?」
「はい」
私は頷いた。
そして、小さく付け加えた。
「丸い方が……壊れにくいです」
母は目を細め、それから何も言わず、優しく笑った。
子犬――マルは、私の腕の中で小さく鳴いた。
きゅ、と。
情けなくて、弱々しくて、それでも懸命な声だった。
私は、その小さな体を胸に引き寄せた。
戦の世だ。
国も人の心も荒れやすい。
だからせめて、
丸く。
穏やかに。
失わずに。
「よろしくな、マル」
マルは意味も分からぬまま、私の指をぺろりと舐めた。その舌は、少しだけ湿っていて、驚くほど温かかった。
それからしばらく、私はほとんどマルのそばを離れなかった。
母の居間の隅に、小さな敷物が用意され、そこがマルの居場所になった。
もっとも、本人――いや本犬は、居場所など気にしていない。
敷物に寝かされたかと思えば、ころころと転がり出て、私の足元にぶつかり、驚いたように後ずさる。
また歩き出しては、今度は柱に額をぶつける。
「……鈍いな」
思わず口に出すと、マルはきゅん、と鳴いてこちらを見上げた。
責めたつもりはなかったのだが、なんだか悪いことをした気分になる。
私は慌てて膝をついた。
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言い聞かせるように言って、頭を撫でる。
マルはすぐに機嫌を直し、私の指を前足で押さえ込み、甘噛みを始めた。
小さな歯が、こりこりと当たる。
痛くはない。
むしろ、くすぐったい。
「こら」
そう言って指を引くと、今度は袖に噛みついた。
布を引っ張りながら、必死に唸っている。
全く迫力がない。
私は笑ってしまった。
声を立てて笑うのは、いつ以来だろう。
母が少し離れたところから、その様子を見ていた。
「よほど気に入られたのね」
「……みたいです」
マルは、私の膝の上によじ登ろうとして、途中でずり落ち、また挑戦して、やっと胸元まで辿り着いた。
そして満足したのか、そのまま丸くなった。
小さな体が、規則正しく上下している。
寝息だ。
こんなに無防備でいいのかと思うほど、深く眠っている。
私は動けなくなった。起こしたくない。
腕が少し痺れてきたが、それでも構わなかった。
ただ、ここにある小さな命の重さだけを感じていた。
――守りたい。
父を。
母を。
この家を。
そして、この小さな友を。
胸の奥で、静かにそう誓った。
マルは、夢の中でも何かを追いかけているのか、前足をぴくりと動かした。
私は小さく笑い、もう一度、その背中を撫でた。
それにしても、丸い。
本当に、見事なほどに。
【山陰芝犬】
絶滅寸前まで数を減らした貴重な日本の伝統的な犬種。
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