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第二章 動きだす歯車
第26話 妻の薬
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天正9年(1581年)6月 近江・長浜城
春の柔らかな日差しから夏の暑さへと変わってきた。
山裾からは鳥の声が幾重にも重なって聞こえ、城下の道には行き交う人の足音は賑やかさを増している。
6月に入り、播磨、但馬の羽柴軍は山陰・鳥取城攻めに動きだした。総勢2万の大軍である。
父・秀長も当然、軍を率いて出陣している。
その報を耳にして以来、母のお初は晴れぬ顔をしている。
庭に目を向けても、なんとなく憂鬱そうに、ため息をついてしまう。
今朝も、そのような様子だ。
朝の食事を囲みながら、母が侍女に問いかけた。
「殿は、どのような食を?前にお伝えした薬膳はお召し上がりになっているのでしょうか…..」
侍女は一瞬ためらい、それから低く答えた。
「陣中では、干飯と塩魚ばかりと聞き及びます。膳など、とても口にできませぬ」
母は頷いた。
驚いた様子はない。分かっていたのだろう。
分かっていて、確かめたかったのだ。
母は几帳の脇に置いてあった小箱を引き寄せ、蓋を開けた。
包み紙の隙間から、乾いた薬草の香が立った。
人参。黄耆(おおぎ)。当帰。地黄。棗(なつめ)。
以前、薬師に命じて調えさせた滋養の材料。
城や屋敷にいる間は、刻み、煮て、膳に仕立てることができる。
だが、陣中ではそれができない。
「薬膳は……城の中だけのものですね」
母は、誰に言うともなく呟いた。
口に出してしまえば、それで諦めがつくと思ったのかもしれない。
「竹若殿。秀長様は、働きすぎです」
「はい」
「でも、休めと言われて、休む方ではありません....」
それは責めでも愚痴でもなく、妻の諦観だった。
「せめて身体を壊さぬよう、滋養のよいものをお口にしていただければ、だが陣中では……」
母は言葉を切った。
侍女が言った「干飯と塩魚」の一言が、母の不安をより強めってしまったのだろう。
私は、胸の奥で古い記憶がざわめくのを感じていた。
机に向かい続け、睡眠を削り、胃を壊し、体の芯が痩せていく感覚。
倒れるほどではない、だが確実に弱っていく。
誰にも分からない減り方。
その頃、調べ、取るようにしていたものがあった。
即効薬ではない。体の底を立て直す漢方薬。
(補中益気湯)(ホチュウエッキトウ)
中を補い、気を益す。
疲れが抜けぬ者、食が細る者、気が落ちる者――そういう者に用いる、と。
そして、もうひとつ。
煎じる必要がないように丸薬にしてまえばよい。
粉にして、蜜で練り、小さく丸め、乾燥させれば持ち運べる。保存が利く。陣中でも口にできる。
私は母の箱を見た。
人参。黄耆。当帰。地黄。棗。
確か同じような漢方を使っているはず。
胸の中で、霧が晴れるように筋が通った。
「母上」
私は膝を正し、静かに言った。
「膳ではなく……丸薬にできるかもしれません」
母がこちらを見た。
「丸薬?」
「はい。薬膳の材料を粉にして、蜂蜜で練って、小さく丸めるのです」
母は一瞬、驚いた顔をした。
だがすぐに、その驚きは「それなら」という光に変わった。
「……そのようなことが」
「薬師なら、できます」
母は侍女に目を向けた。
「小堀殿をこちらに呼んでください」
小堀は前回、父に薬膳を勧めた3人衆(母、私、小堀)の一人だ。
今の話を小堀にすると、すぐに内容を理解し、薬師の手配に向かった。
その日の午後、薬師が奥の間へ通された。
越前の出で、京で本草学を学んだという男だ。
口数は多くないが、薬草の名を挙げる時だけは妙に確かな声になる。
母が一枚の紙を示す。
「先日、あなたからいただいた薬膳の材料です」
「しかし、殿が陣中にいる間、煎じることも、膳にすることも叶いません」
私は言った。
「薬師殿。本草学に……補中益気湯というものがあると聞きました」
薬師の目が、はっきりと見開かれた。
「……若様、どこでその名を」
「聞いただけです」
薬師は一度息を吐き、慎重に言葉を選んだ。
「はい、確かにございます」
「脾胃を補い、気を養う処方。疲れが積もり、食が細り、身体が痩せていく者のための薬にございます」
母の表情が、わずかにほどけた。
薬師が続ける。
「今ここにある薬草は、その骨子にございます。足すもの引くものはありますが……道筋は同じ」
私は頷いた。
「ならば、煎じずに済む形は?」
薬師は少し考え、答えた。
「……丸薬に」
母が身を乗り出す。
「できるのですか?」
「できると思います」
母の声は静かだったが、強かった。
「あの人が、倒れぬための薬がほしい」
薬師は深く頭を下げた。
「承りました」
数日後、屋敷の一室が薬房になった。
薬師が必要な薬草をかき集め、丸薬へ形成するために必要な材料を持ってきたのだ。
薬草はさらに乾かされ、水気を抜かれる。
石臼に移され、ゆっくりと挽かれる。
ごり、ごり、と乾いた音が、部屋の静けさを削る。
粉は篩(ふるい)にかけられ、細かい塵を落とす。
篩の上に残った粉は、指で触れると煙のように舞った。
温めた蜂蜜が加えられると、香りが変わった。
草の匂いに甘みが混じり、苦さが丸くなる。
薬師の手が、木べらで練り上げていく。
黒褐色の薬餡が、ゆっくりとまとまっていく。
母は黙って見ていた。
私も黙って見ていた。
制度も軍も政も、結局は人の体が動かなければ意味を持たない。
薬餡は小豆ほどの大きさに丸められ、白布の上に並べられた。等間隔に、整然と。
それが陰干しに回されると、部屋の空気が少し軽くなった気がした。
母の肩の力も少し抜けた感じがする。
数日後、丸薬は桐箱に納められた。
母は筆を取り、手紙を書いた。
文字は端正で、迷いがない。
『薬と思わず、菓子と思って、毎日欠かさず口にしてください』
私は別紙を添えた。
『一日2度、食後。効き目を急がぬこと。続けること』
母は私の文を見ると、ほんの少しだけ笑った。
「あなたは、父上に似てきましたね」
「……どこがですか」
「急がぬこと、などと。あの人の言い草にそっくりです」
それは褒め言葉でも皮肉でもなく、家族団欒の会話だった。母の心のモヤが少しは晴れたようで、それが私には嬉しかった。
使者が呼ばれた。桐箱を抱え、深く頭を下げる。
「陣中へ、確かに」
母は頷き、最後に一言だけ添えた。
「どうか、手渡して。必ず」
使者が出立すると、門の外で初夏の風が鳴った。
母は庭先に立ち、緑の若枝を見上げている。
小さな丸薬が、戦の趨勢を変えることはない。
だが、ひとりの男が倒れずに済むなら――
その一歩が、国を固めるまでの時間を稼ぐ。
私は静かに息を吐いた。
ここでできることは、戦に勝つ策だけではない。
生きて帰る策もまた、国の策なのだ。
【作者註】
補中益気湯(ほちゅうえっきとう)は、13世紀前半の中国・金の時代。北方に興った元に攻められ包囲された城の中で、飢えや疫病が流行する過酷な状況下で消耗を強いられた兵士たちのために作られた漢方。
消化器官の働きを助け、身体に正常な感覚を呼び戻し、疲労を知覚して深い眠りを導くことで、体力を回復させるとされています。
それが室町時代に留学僧などを通じて日本にも伝わったと考えてられています。
※漢方の薬効にはいろいろな考え方があるようで、ここでは秀長の状況に応じた説を採っています。
ご了承ください。
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春の柔らかな日差しから夏の暑さへと変わってきた。
山裾からは鳥の声が幾重にも重なって聞こえ、城下の道には行き交う人の足音は賑やかさを増している。
6月に入り、播磨、但馬の羽柴軍は山陰・鳥取城攻めに動きだした。総勢2万の大軍である。
父・秀長も当然、軍を率いて出陣している。
その報を耳にして以来、母のお初は晴れぬ顔をしている。
庭に目を向けても、なんとなく憂鬱そうに、ため息をついてしまう。
今朝も、そのような様子だ。
朝の食事を囲みながら、母が侍女に問いかけた。
「殿は、どのような食を?前にお伝えした薬膳はお召し上がりになっているのでしょうか…..」
侍女は一瞬ためらい、それから低く答えた。
「陣中では、干飯と塩魚ばかりと聞き及びます。膳など、とても口にできませぬ」
母は頷いた。
驚いた様子はない。分かっていたのだろう。
分かっていて、確かめたかったのだ。
母は几帳の脇に置いてあった小箱を引き寄せ、蓋を開けた。
包み紙の隙間から、乾いた薬草の香が立った。
人参。黄耆(おおぎ)。当帰。地黄。棗(なつめ)。
以前、薬師に命じて調えさせた滋養の材料。
城や屋敷にいる間は、刻み、煮て、膳に仕立てることができる。
だが、陣中ではそれができない。
「薬膳は……城の中だけのものですね」
母は、誰に言うともなく呟いた。
口に出してしまえば、それで諦めがつくと思ったのかもしれない。
「竹若殿。秀長様は、働きすぎです」
「はい」
「でも、休めと言われて、休む方ではありません....」
それは責めでも愚痴でもなく、妻の諦観だった。
「せめて身体を壊さぬよう、滋養のよいものをお口にしていただければ、だが陣中では……」
母は言葉を切った。
侍女が言った「干飯と塩魚」の一言が、母の不安をより強めってしまったのだろう。
私は、胸の奥で古い記憶がざわめくのを感じていた。
机に向かい続け、睡眠を削り、胃を壊し、体の芯が痩せていく感覚。
倒れるほどではない、だが確実に弱っていく。
誰にも分からない減り方。
その頃、調べ、取るようにしていたものがあった。
即効薬ではない。体の底を立て直す漢方薬。
(補中益気湯)(ホチュウエッキトウ)
中を補い、気を益す。
疲れが抜けぬ者、食が細る者、気が落ちる者――そういう者に用いる、と。
そして、もうひとつ。
煎じる必要がないように丸薬にしてまえばよい。
粉にして、蜜で練り、小さく丸め、乾燥させれば持ち運べる。保存が利く。陣中でも口にできる。
私は母の箱を見た。
人参。黄耆。当帰。地黄。棗。
確か同じような漢方を使っているはず。
胸の中で、霧が晴れるように筋が通った。
「母上」
私は膝を正し、静かに言った。
「膳ではなく……丸薬にできるかもしれません」
母がこちらを見た。
「丸薬?」
「はい。薬膳の材料を粉にして、蜂蜜で練って、小さく丸めるのです」
母は一瞬、驚いた顔をした。
だがすぐに、その驚きは「それなら」という光に変わった。
「……そのようなことが」
「薬師なら、できます」
母は侍女に目を向けた。
「小堀殿をこちらに呼んでください」
小堀は前回、父に薬膳を勧めた3人衆(母、私、小堀)の一人だ。
今の話を小堀にすると、すぐに内容を理解し、薬師の手配に向かった。
その日の午後、薬師が奥の間へ通された。
越前の出で、京で本草学を学んだという男だ。
口数は多くないが、薬草の名を挙げる時だけは妙に確かな声になる。
母が一枚の紙を示す。
「先日、あなたからいただいた薬膳の材料です」
「しかし、殿が陣中にいる間、煎じることも、膳にすることも叶いません」
私は言った。
「薬師殿。本草学に……補中益気湯というものがあると聞きました」
薬師の目が、はっきりと見開かれた。
「……若様、どこでその名を」
「聞いただけです」
薬師は一度息を吐き、慎重に言葉を選んだ。
「はい、確かにございます」
「脾胃を補い、気を養う処方。疲れが積もり、食が細り、身体が痩せていく者のための薬にございます」
母の表情が、わずかにほどけた。
薬師が続ける。
「今ここにある薬草は、その骨子にございます。足すもの引くものはありますが……道筋は同じ」
私は頷いた。
「ならば、煎じずに済む形は?」
薬師は少し考え、答えた。
「……丸薬に」
母が身を乗り出す。
「できるのですか?」
「できると思います」
母の声は静かだったが、強かった。
「あの人が、倒れぬための薬がほしい」
薬師は深く頭を下げた。
「承りました」
数日後、屋敷の一室が薬房になった。
薬師が必要な薬草をかき集め、丸薬へ形成するために必要な材料を持ってきたのだ。
薬草はさらに乾かされ、水気を抜かれる。
石臼に移され、ゆっくりと挽かれる。
ごり、ごり、と乾いた音が、部屋の静けさを削る。
粉は篩(ふるい)にかけられ、細かい塵を落とす。
篩の上に残った粉は、指で触れると煙のように舞った。
温めた蜂蜜が加えられると、香りが変わった。
草の匂いに甘みが混じり、苦さが丸くなる。
薬師の手が、木べらで練り上げていく。
黒褐色の薬餡が、ゆっくりとまとまっていく。
母は黙って見ていた。
私も黙って見ていた。
制度も軍も政も、結局は人の体が動かなければ意味を持たない。
薬餡は小豆ほどの大きさに丸められ、白布の上に並べられた。等間隔に、整然と。
それが陰干しに回されると、部屋の空気が少し軽くなった気がした。
母の肩の力も少し抜けた感じがする。
数日後、丸薬は桐箱に納められた。
母は筆を取り、手紙を書いた。
文字は端正で、迷いがない。
『薬と思わず、菓子と思って、毎日欠かさず口にしてください』
私は別紙を添えた。
『一日2度、食後。効き目を急がぬこと。続けること』
母は私の文を見ると、ほんの少しだけ笑った。
「あなたは、父上に似てきましたね」
「……どこがですか」
「急がぬこと、などと。あの人の言い草にそっくりです」
それは褒め言葉でも皮肉でもなく、家族団欒の会話だった。母の心のモヤが少しは晴れたようで、それが私には嬉しかった。
使者が呼ばれた。桐箱を抱え、深く頭を下げる。
「陣中へ、確かに」
母は頷き、最後に一言だけ添えた。
「どうか、手渡して。必ず」
使者が出立すると、門の外で初夏の風が鳴った。
母は庭先に立ち、緑の若枝を見上げている。
小さな丸薬が、戦の趨勢を変えることはない。
だが、ひとりの男が倒れずに済むなら――
その一歩が、国を固めるまでの時間を稼ぐ。
私は静かに息を吐いた。
ここでできることは、戦に勝つ策だけではない。
生きて帰る策もまた、国の策なのだ。
【作者註】
補中益気湯(ほちゅうえっきとう)は、13世紀前半の中国・金の時代。北方に興った元に攻められ包囲された城の中で、飢えや疫病が流行する過酷な状況下で消耗を強いられた兵士たちのために作られた漢方。
消化器官の働きを助け、身体に正常な感覚を呼び戻し、疲労を知覚して深い眠りを導くことで、体力を回復させるとされています。
それが室町時代に留学僧などを通じて日本にも伝わったと考えてられています。
※漢方の薬効にはいろいろな考え方があるようで、ここでは秀長の状況に応じた説を採っています。
ご了承ください。
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