芋虫(完結)

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「……」

 目覚めは最悪だ。
 目の前に広がるのは、私の人生を模したような灰色の天井。
 身体が怠くて重たいのは変に力が入ったから、全身がベタベタするのは流した汗のせいだろうか。九月とはいえ、全裸で寝るのは風邪をひきそうだ。


『はぁ』

 ああ、幸せが逃げる。盛大なため息を吐いて私は反射的にそう思った。そして、すぐに心の中で苦笑いを浮かべる。
 失うものなんてない私に、幸せが逃げるわけがない。
 それに、幸せなんて望んでない。私が望むのは幸せな日々ではなくて、心を乱されない淡々とした日々だ。
 最近ではそれすら脅かされているが。

 もたつきながら身体を起こすと腰がグキリと鳴った。

「これじゃ、ババアね。もう、30だし、劣化どころか老化かも」

 40過ぎたらギシギシするって女お笑い芸人が言ってたのをテレビで観た。きっとそうなるのだろう。
 芋虫のように床を這いながら私はとりあえずキッチンに向かう。

「お水が欲しいわ」

 昨日の記憶を巡ると、確か月一のお楽しみのバーで一杯だけ飲んで帰るつもりでいたのに。
 たまたま、4歳下の苦手な『部下』とかちかち合い。潰れるまで飲んだ気がする。
 お酒が弱いから。と、何度も断ったがしつこい勧めに、仕方なく飲んだらこんな事になってしまった。

「それにしても、よくアパートまで辿り着けたわねぇ」

 きっと、私を潰した事に負い目を感じた『部下』が送ってくれたんだろうけれど。

「顔を見るの、気が重いわ」

 悪いことをしてしまった。お会計は私が出してるはずだが、もしも、彼にお金を出させてしまったら申し訳ない。
 粗相をしていなければいいが、会ったら謝らないといけない。支払いしてなかったら、お金も渡さないといけない。
 その時、彼はどんな反応をするのだろう。
 考えるだけで……。

「気が重い」

 私は水と一緒にため息を飲み込んだ。やっぱり幸せが逃げるのは嫌だった。
 これ以上『部下』に嫌われて今後の楽しみもない人生を、ハードモードにはするのは嫌だった。何もない人生でも幸せなものだから。

「どうしよう」

 私は、苦手そのものの部下のことを思い出す。
 『部下』は見た目だけで言えばかなりのイケメンに分類されると思う。
 初めて会った時に私は芸能人かモデルかと思ったくらいだった。
 顔立ちは整っていて、タレ目で中性的なのにどこか野性的なのは、とても身長が高いからだろう。それなりに鍛えているらしく、スーツ越しでも身体はガッシリとしているのがわかる。

 彼と出会ったのは半年前。

「水津隼人です。3年間ですが、よろしくお願いします」

 水津は人の良さそうな笑顔を貼り付けて会釈した。
 しかし、その時、私は見逃さなかった。彼が明らかに私の顔を見て眉を寄せたのを、敵意だろうなとこの時に思った。
 嫌な予感は初対面ですぐにあった。
 実は、彼は本社の幹部候補で社長の親族だ。
 出向という形で支社でしばらくこちらで働く事になっていた。その間の彼の上司を私にと白羽の矢が刺さった。
 そう、グサリと。立ったんじゃない、刺さったんだ。あれは。
 彼は、私にだけ辛辣だった。事あるごとにグサグサと察しの悪い私でもわかるくらいの嫌味。
 最初は女上司の私が嫌なのかと思ったがそうではない。『私が嫌い』なんだ。
 私が手から落とした資料を人が見えないところで蹴飛ばしたり、踏んだり、言葉の端に分かりにくいような嫌味を入れたり。
 誰かに訴えようと思ったが、彼の人柄の良さは共通認識になっていた。
 理由があって嫌われている。私の言うことなんて誰も信じはしない。言えるわけがなかった。
 ジワジワと心が削られる日々を過ごしていた。
 お陰様で婚約破棄の時になった偏頭痛が再発してしまい。
 彼の出向が終わる日を指折り数える日々を過ごしていた。
 何が辛いかというと、水津に嫌われていると周囲に知られることだ。
 何もしていなくても必然的に私が悪くなるに決まっている。それくらい私の信用は薄いのだ。
 澤田と別れた時も、私には落ち度がないのにみんなは信じてはくれなかった。最後は誤解だとわかってもらえたが、一度失った信頼は中々取り戻せない。
 それに、未だに私を良く思わない人はいる。当たり障りなく接してくれているが、腹の中では何を考えてるかなんてわからない。考えたくもない。

 今回の件は、明らかに自分の落ち度だ。

 水津に迷惑をかけてしまった。私はなんと周囲から言われるのだろう。考えるだけ怖かった。

 悶々としながら、私は土日を過ごした。
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