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不眠は様子を見たがよくなる気配はなく、痛み止めを処方してくれるクリニックで睡眠薬を出してもらうことになった。
非通知の着信は相変わらず続いていた。
睡眠薬と頭痛薬のせいで少しだけ頭は重たいけれど、水津との関係を終わらせた時よりも心は楽になった気がする。夜に眠れないよりもずっとマシだった。
水津との関係は変わらずで、何かされることもなかった。今後どうなるかわからないけれど。考えれば考えるほど不安に苛まれそうになる。
彼は何か様子を見ているかのように静かでそれが怖かった。
知らないうちに水津に食い殺されてしまうんじゃないかと時々思ってしまう。もしかしたら、その牙は首筋にすでに当てられているのかもしれない。
きっと、澤田のかわりに復讐する機会を虎視眈々と狙っているのだろう。最近では怖くてなるべく彼のことを見ないようにしている。
非通知の着信は変わらず続いていた。
進藤が嘲笑い。責め立てているように思えて、私は未だに出られずにいた。
柴多とは別れの時に笑顔でお互いを応援し合う事ができた。
芋虫のように水津の脅威に耐えながら、気が付いたら柏木との約束の日になっていた。
「大丈夫かな。派手ではないと思うけど」
私は駅のトイレの姿見で自分の服装を確認した。
ライブのエチケットとして動きやすい格好で、人に迷惑をかけないものとあったので参考にしたけれど少し不安だ。
カーキ色の綿パン、焦げ茶色のポロシャツに黒のスニーカーにした。
カメラ類は一切持ってないし、鞄もコンパクトにしてタオルもティッシュも用意してある。
はじめての事なのでマナー違反ではないか不安だ。
待ち合わせの場所はネクタイピンを一緒に選んだ時と同じ、駅の銀時計の前にした。
今日は10分前に来たので彼が先に待っていることはないだろう。
しかし、銀時計の前にすでに彼は居た。
私は慌てて柏木のところに向かった。
「ごめんね。待った?」
私はほんの数十歩走った程度で息を切らしていると。
柏木は驚いた表情をして私の全身をしげしげと見ている。そして、フワッと笑った。
「大丈夫です。凛子さんもそういう格好するんですね。一瞬誰かわからなかった」
「あ、そう?」
いつもと確かに違う格好だが、そんなに印象が変わるものなのだろうか。柏木も私と同じような格好だった。
ベージュのチノパンに黒のVネックのTシャツを着ていた。ある程度、指定があるとやはり似たような格好になってしまうのだろう。
水津の前では……、と、考えかけて私はすぐにやめた。忘れる為に会社を辞めるのに思い出したりするなんて馬鹿だ。
それに、折角私の為に予定を空けてくれた柏木にも失礼だ。心ここに有らずで、他の人間の事を考えたりするのはやめよう。
私は今日一日はそうしようと決めた。
ライブは野外で会場は空港臨時駐車場のだった。
チケットでそれを知ったときは、そんな場所でもライブが出来るのかと驚いた。
チケットの案内にも公共交通機関で来てください。と書かれてあったので、私達は駅から空港に直通の電車に乗った。
電車には見るからに、私たちと同じ目的などだと分かる軽装をした人が何人も乗っていた。座席はまだ埋まってなかった。
「終点だし奥に詰めますかね。少しずつ人が入ってくると思うので」
私は柏木に言われるまま、出入り口から離れたとこ座った。
「この電車、結構眺めがいいんですよ」
柏木は、どうやらこの路線に詳しいようだ。
「そうなの。楽しみ」
私が目を伏せて微笑むと、柏木はほんの一瞬だけ固まった。
電車が走り出して、何駅か停車すると次第に街から外れて木々がよく見えるようになった。よくライブには行くのか、とか、そういった話をしていると景色が一気に変わった。
「海ですよ」
柏木は窓を指差して話を呟いた。窓の向こうは木々と建物ばかりで、海は遠くにうっすらとしか見えない。だけど、太陽の光を反射してとても綺麗だ。
「本当ね」
遠目だとどんなものかよくわからないけれど、なぜか波は穏やかな気がしていた。
「空港が近いから海沿いなんですよね」
あぁ、そういうことか。
あそこの空港は海を埋め立てたところに出来ているので、海が見えるのに納得した。
「海とか見飽きたでしょう?」
何度もライブに行っているらしいので、私が揶揄うようにそういうと柏木は「そんな事ない」と言い出した。
「飽きたとかはないですね。一緒に見る相手によって違いますよ」
「そう」
確かに一緒に見に行く相手で景色は全然違うふうに見える。
ベタつく潮風も、顔に飛び散る海水もないけれど確かに柏木とこの瞬間を共有していた。
「不思議ね」
忘れられない水津との時間を思い出して、私の中には激情が渦巻いていた。
水津と見に行った海はきっと私は忘れる事なんて出来ないだろう……。
だけど、柏木と見たこの海も忘れられないと思う。
水津への思いは薄れても思い出は残る。そうして折り合いをつけていくのだ。
また、今のことを思い出して、未来に苦笑いして「楽しかった」と、思うのかもしれない。
物は形に残るけど、記憶は少しずつ朧気になっていく。
何故だろうか、ツンと鼻の奥が痛くなってきた。じわじわと波のようにやってくる、失恋の苦しみみたいなものなのだろうか。
だけど、私はそんなのおくびにも出さないで平然とした顔を今もしている。柏木の前で泣くことなんてできないけれど。
本当は、忘れようと思うことの方が辛い。しかし、無理に忘れる必要もない気がした。
苦しくない方を選べばいいんだ。自分をわざと苦しませる必要なんてないんだから。
そう思うと気が楽になったと気がした。
「何でもないの、今日はついてきてくれてありがとう。本当に私で良かったの?」
私は改めて柏木にお礼を言うと、彼は気を使われる事に対してどこか困ったように微笑んだ。
「僕は凛子さんと行きたかったです。誘ってくれてありがとう」
柏木の返事はとても優しくて心地いいものだった。私はそれに素直に応じていいのか悩んでしまう。
これは、彼の友達の励まし方なのかもしれない。最近はずっと塞ぎこんでいたし。
本当に彼と離れるのが名残惜しい。私は近いうちに仕事を辞めるのだから。
「こちらこそ、私の為に予定を空けてくれてありがとう」
私の為に予定を空けてくれた事が嬉しくて再びお礼を言った。
「僕は意外と暇人なんですよ。友達少ないし、だから気にしないで」
やはり、柏木は気遣いのプロなのかもしれない。そんなはずないと私は思った。
「私の上を行く暇人なんて居ないわ」
だけど、私は軽口で応じた。
「……。あの、聞いてもいいですか?」
柏木は少しだけ言いにくそうに私に聞いてきた。
「なぁに?」
「誰とライブに行く予定だったんですか?」
やはり、気になっていたのだろう。それを聞かれることは予想していた。
非通知の着信は相変わらず続いていた。
睡眠薬と頭痛薬のせいで少しだけ頭は重たいけれど、水津との関係を終わらせた時よりも心は楽になった気がする。夜に眠れないよりもずっとマシだった。
水津との関係は変わらずで、何かされることもなかった。今後どうなるかわからないけれど。考えれば考えるほど不安に苛まれそうになる。
彼は何か様子を見ているかのように静かでそれが怖かった。
知らないうちに水津に食い殺されてしまうんじゃないかと時々思ってしまう。もしかしたら、その牙は首筋にすでに当てられているのかもしれない。
きっと、澤田のかわりに復讐する機会を虎視眈々と狙っているのだろう。最近では怖くてなるべく彼のことを見ないようにしている。
非通知の着信は変わらず続いていた。
進藤が嘲笑い。責め立てているように思えて、私は未だに出られずにいた。
柴多とは別れの時に笑顔でお互いを応援し合う事ができた。
芋虫のように水津の脅威に耐えながら、気が付いたら柏木との約束の日になっていた。
「大丈夫かな。派手ではないと思うけど」
私は駅のトイレの姿見で自分の服装を確認した。
ライブのエチケットとして動きやすい格好で、人に迷惑をかけないものとあったので参考にしたけれど少し不安だ。
カーキ色の綿パン、焦げ茶色のポロシャツに黒のスニーカーにした。
カメラ類は一切持ってないし、鞄もコンパクトにしてタオルもティッシュも用意してある。
はじめての事なのでマナー違反ではないか不安だ。
待ち合わせの場所はネクタイピンを一緒に選んだ時と同じ、駅の銀時計の前にした。
今日は10分前に来たので彼が先に待っていることはないだろう。
しかし、銀時計の前にすでに彼は居た。
私は慌てて柏木のところに向かった。
「ごめんね。待った?」
私はほんの数十歩走った程度で息を切らしていると。
柏木は驚いた表情をして私の全身をしげしげと見ている。そして、フワッと笑った。
「大丈夫です。凛子さんもそういう格好するんですね。一瞬誰かわからなかった」
「あ、そう?」
いつもと確かに違う格好だが、そんなに印象が変わるものなのだろうか。柏木も私と同じような格好だった。
ベージュのチノパンに黒のVネックのTシャツを着ていた。ある程度、指定があるとやはり似たような格好になってしまうのだろう。
水津の前では……、と、考えかけて私はすぐにやめた。忘れる為に会社を辞めるのに思い出したりするなんて馬鹿だ。
それに、折角私の為に予定を空けてくれた柏木にも失礼だ。心ここに有らずで、他の人間の事を考えたりするのはやめよう。
私は今日一日はそうしようと決めた。
ライブは野外で会場は空港臨時駐車場のだった。
チケットでそれを知ったときは、そんな場所でもライブが出来るのかと驚いた。
チケットの案内にも公共交通機関で来てください。と書かれてあったので、私達は駅から空港に直通の電車に乗った。
電車には見るからに、私たちと同じ目的などだと分かる軽装をした人が何人も乗っていた。座席はまだ埋まってなかった。
「終点だし奥に詰めますかね。少しずつ人が入ってくると思うので」
私は柏木に言われるまま、出入り口から離れたとこ座った。
「この電車、結構眺めがいいんですよ」
柏木は、どうやらこの路線に詳しいようだ。
「そうなの。楽しみ」
私が目を伏せて微笑むと、柏木はほんの一瞬だけ固まった。
電車が走り出して、何駅か停車すると次第に街から外れて木々がよく見えるようになった。よくライブには行くのか、とか、そういった話をしていると景色が一気に変わった。
「海ですよ」
柏木は窓を指差して話を呟いた。窓の向こうは木々と建物ばかりで、海は遠くにうっすらとしか見えない。だけど、太陽の光を反射してとても綺麗だ。
「本当ね」
遠目だとどんなものかよくわからないけれど、なぜか波は穏やかな気がしていた。
「空港が近いから海沿いなんですよね」
あぁ、そういうことか。
あそこの空港は海を埋め立てたところに出来ているので、海が見えるのに納得した。
「海とか見飽きたでしょう?」
何度もライブに行っているらしいので、私が揶揄うようにそういうと柏木は「そんな事ない」と言い出した。
「飽きたとかはないですね。一緒に見る相手によって違いますよ」
「そう」
確かに一緒に見に行く相手で景色は全然違うふうに見える。
ベタつく潮風も、顔に飛び散る海水もないけれど確かに柏木とこの瞬間を共有していた。
「不思議ね」
忘れられない水津との時間を思い出して、私の中には激情が渦巻いていた。
水津と見に行った海はきっと私は忘れる事なんて出来ないだろう……。
だけど、柏木と見たこの海も忘れられないと思う。
水津への思いは薄れても思い出は残る。そうして折り合いをつけていくのだ。
また、今のことを思い出して、未来に苦笑いして「楽しかった」と、思うのかもしれない。
物は形に残るけど、記憶は少しずつ朧気になっていく。
何故だろうか、ツンと鼻の奥が痛くなってきた。じわじわと波のようにやってくる、失恋の苦しみみたいなものなのだろうか。
だけど、私はそんなのおくびにも出さないで平然とした顔を今もしている。柏木の前で泣くことなんてできないけれど。
本当は、忘れようと思うことの方が辛い。しかし、無理に忘れる必要もない気がした。
苦しくない方を選べばいいんだ。自分をわざと苦しませる必要なんてないんだから。
そう思うと気が楽になったと気がした。
「何でもないの、今日はついてきてくれてありがとう。本当に私で良かったの?」
私は改めて柏木にお礼を言うと、彼は気を使われる事に対してどこか困ったように微笑んだ。
「僕は凛子さんと行きたかったです。誘ってくれてありがとう」
柏木の返事はとても優しくて心地いいものだった。私はそれに素直に応じていいのか悩んでしまう。
これは、彼の友達の励まし方なのかもしれない。最近はずっと塞ぎこんでいたし。
本当に彼と離れるのが名残惜しい。私は近いうちに仕事を辞めるのだから。
「こちらこそ、私の為に予定を空けてくれてありがとう」
私の為に予定を空けてくれた事が嬉しくて再びお礼を言った。
「僕は意外と暇人なんですよ。友達少ないし、だから気にしないで」
やはり、柏木は気遣いのプロなのかもしれない。そんなはずないと私は思った。
「私の上を行く暇人なんて居ないわ」
だけど、私は軽口で応じた。
「……。あの、聞いてもいいですか?」
柏木は少しだけ言いにくそうに私に聞いてきた。
「なぁに?」
「誰とライブに行く予定だったんですか?」
やはり、気になっていたのだろう。それを聞かれることは予想していた。
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