芋虫(完結)

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 柏木の奇行にしばらく固まってしまったけれど、なんとか私は家に帰る事ができた。
 休み明けに彼と顔を合わせる事が気まずい。なぜキスをしたのか私にはわからないし、退職すると聞かされて衝動的にしたと思うことにした。
 柏木と握手するように握りあった手をぼんやりと見つめて、私は柴多にもやめる事を言わないといけないな。と、考えていた。
 充実感と気怠さを感じながら、アパートに帰ると真っ先に目に入ったのは、水津と一緒に買ったガラスの花瓶だ。

「片付けるのを忘れていたわ」

 花瓶はそれだけ存在を忘れていたかのように埃をかぶっていた。
 私はそれを取ろうと手を伸ばす。その瞬間、グラリと視界が揺らいだ。
 手が花瓶に当たりグラグラと揺らぎそのまま落下した。

「あっ!」

 私は咄嗟にそれを手に取って割れるのを何とか阻止した。そんな必要なんてなかったのに。

「別に壊れてもよかったのに」

 思わず苦笑いが出てきた。やっている事があまりにも矛盾していたから。

「物には罪がないもの」

 そう自分に言い聞かせて、丁寧に花瓶の埃を落とした。
 いつでも捨てられるとわかっているのに、捨てられないのは水津への未練なのだろうか。
 水津は私に色々な事を教えてくれた。孤独の紛らわせ方は教えてくれたのに、その忘れ方は教えてはくれなかった。
 許せないという気持ちはあるのに、嫌いにはなれない。折り合いをつけるにはまだ時間がしばらく必要そうだ。

「どうしたら忘れられるんだろう」

 あれから少しだけ痩せたような気がする。そういえば食欲もなくなっていた。
 食事を摂るときは、偏頭痛の薬を飲むためだけにだった。胃に入れば何でも良かった。
 澤田との楽しい事は思い出さないのに、水津との事は一人になると思い出してしまう。
 私の鼓膜を震わす濡れた声も頬に感じる熱い息も、一人きりの部屋で目を閉じると蘇るのだ。まるで、針で何度も何ヵ所も刺されるような責め苦だ。

 もう、苦しみたくない。ただ、忘れたい。私は反射的に睡眠薬を飲んでいた。

 眠りにつけば何も考えられずにいられるから、それののに、微睡の中で見えたのは水津と見た冬の海だ。 隣には水津がいて私と手を繋いで微笑んでいる。顔にかかる波の飛沫が温かい……。

「……」

 朝になり、目が醒めるとその空虚さに心が押し潰されそうになる。

「もう、嫌だ……」

 痩せた身体を抱きしめて、止まらない涙を拭くこともできずに私は呟く。
 それでも、私は睡眠薬を飲まずにはいられなかった。
 休日はどうやって寂しさを紛らわせたのか覚えていない。
 ただ、仕事を辞めると柴多に話したらとても心配された。
 『冬に帰るから少し話をしよう。ツテで再就職先も紹介する事もできるから』と言われて、電話越しで声を出さずに泣いてしまった。
 こんなに優しい友人がいたのに、今まで疑っていた自分がとても恥ずかしかった。
 休み明け会社に行くと私よりも先に柏木が待っていた。

「あ、おはよう」

「おはようございます」

 柏木は休日のことなど何もなかった様子でいつも通りだ。気まずい空気で引き継ぎをするのは避けたかったので助かった。

「しばらくしたら引き継ぎとか始めるけど大丈夫?」

「『無理。嫌だ』って言ったら止めてくれるんですか?」

 私が不安げに聞くと柏木はムスッとしながら、まさかの文句を言い出した。その急激な変化に面食らう。

「やめないわよ?」

「ですよね」

 柏木はムスッとした顔でそっぽを向いた。もはや別人だを

「柏木くん人が変わったみたいよ」

「凛子さんに猫被っても無駄ですもん」

 私が剥がれた化けの皮を指摘しても、それすらもどうでもいいらしく不機嫌な顔は続行中だ。

「あ、そう」

 私が手のひらを返した彼に呆れて適当な返事をすると、慌てたように表情を元に戻した。

「こんな僕ですけど。これからも仲良くしてください」
「ええ、もちろん。」

 調子がいいと思いつつ、なぜか前よりも今の柏木の方が親しみを持てた気がした。

「あと、仕事辞めても人間関係の愚痴くらい聞いてくださいよ」

「私がわかる範囲でなら」

 退職後は仕事関連の話をしたくはなかったが、柏木が困ったように懇願するので私は仕方なく受けた。

「ありがとう、やっぱり居なくなるの寂しいです。でも、辛いなら仕方ないですね」
「ごめんね」
「謝らないで、僕。頑張って仕事覚えます」

 私が居なくなっても柏木なら何の問題もなくこの持ち場を回してくれるだろう。有能なので。

「ありがとう」

 悲しみながらも怒らずに認めてくれて、柏木には感謝だ。

「凛子さん、新しい場所では無理しないで」

 自分だって大変なのに、私の事を心配してくれるなんて本当に優しい。

「うん」

 それから上に退職の旨を報告して、私達は引き継ぎを少しずつかけてやっていった。
 私達の関係も少しずつ深まっていったような気がした。
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