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第三章 荒れる聖域。しかしその聖なるは誰がためのものか

第十六話 もっと力を!(2)

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「おとうさんとおかあさん、おそいね」

 弟は暇を持て余しながらそう言った。
 それは兄も同じだったが、弟の遊び相手をするつもりは兄には無かった。
 だから弟は一人あそびをしていた。
 何とかして暇を潰そうと動き回るその両手は年相応に小さい。
 十を過ぎたばかりの兄は、五歳になったばかりのその可愛らしい一人遊びを退屈そうに眺めていた。
 母親は洗濯のために家を出てから戻ってきていない。
 父親はそんな母親の様子を見に行ったままだ。
 最近は不穏な話をよく耳にする。
 隣町で暴動が起きたとか、突然人間が狂い始めたとか、そんなうわさ話。
 しかし兄弟は二人ともあまり心配していなかった。
 自分達には関係の無いこと、自分達には何も起きない、両親はちょっと遅くなっているだけだと、二人ともそう思い込んでいた。
 だが、その思い込みは時間と共に不安に変わり始めていた。
 だから兄は遊ぶ気分になれなかった。
 楽な姿勢で余裕を見せているが、その心中は暗く重くなり始めていた。
 その暗さを晴らすために何かしなくてはいけないのではないか、そう思い始めていた。
 そしてその思いが固まるまで、時間はかからなかった。

(やっぱりボクも――)

 探しにいこう、そう決断した兄が立ち上がろうとした瞬間、

「「!」」

 突如耳に飛び込んできた足音に、兄弟は硬直した。
 それは普通の足音では無かった。
 大きな人が全力で走っている、そう思えた。
 足音はあっという間に家の前まで近づき、その勢いのままぶつかってきた。

「「っ!」」

 破るような勢いで開けられたドアの音に、兄弟が肩を震わせる。
 入ってきたのは父親であった。
 が、その体はあちこち汚れていた。
 汚れの色は赤。
 しかし父親は待っていた二人に説明することなく、近くにある家具を手当たりしだいにドアの前に積んでいった。
 その作業が一段落したところでようやく父は兄弟に顔を向け、口を開いた。

「二人とも荷物をまとめろ!」

 されどその口から出た言葉は事の説明では無かった。

「何があったの? お母さんは?」

 思わず兄が尋ねる。
 馬鹿では無い。何があったのかは察しがついている。噂話は本当のことで、それが自分達のところまでやってきてしまったことに気付いている。母とはもう会えないであろうこともだ。だがそれでも、兄は父の言葉を聞きたかった。
 が、

「ここにいたら危険だ。だから街を出る」

 その口から具体的な説明はされず、母に関することも伏せられた。
 どこに逃げるのか、アテはあるのか、それについても兄は聞こうとしたが、

「「「!」」」

 直後にドアの向こうから響いた物音に、三人は同時に振り返った。
 数人が走ってくる音。
 その音は父の時と同じように勢いのままドアに迫り、

「「「っ!」」」

 そして直後に生じた衝突音に、三人は肩を震わせた。
 音は止まらず、ドアが枠組みごと揺れはじめる。
 破られる、そう思った父親が駆け寄ってドアを押さえる。
 しかしそれも時間の問題に思えた。
 だから父親は叫んだ。

「逃げろ! 走れ!」

 数瞬の迷いのあと、兄弟は走り出した。
 弟が前を走り、真後ろに兄がついて裏口を目指す。
 しかし兄は直後に足を止めた。
 気付いたのだ。何者かが裏口に回りこもうとしている音に。
 その足音が自分達よりも速いことに。
 だから兄は、

「ダメだ!」

 止めようとしたが、弟は言うことを聞かなかった。
 助けられない、助けようとしたら自分まで巻き添えを食らう、それがわかったゆえに兄は背を向け、階段を目指し始めた。
 その直後に裏口が蹴破られる音が響き、

「わああああっ!」

 弟の叫び声が響いた。
 恐怖から始まり、途中から痛みによる悲鳴に転じた叫び声。
 だから父はすぐさま弟の救助に向かった。
 途中で兄とすれ違い、兄はそのまま階段へ。
 そして兄は階段を上る途中でさらなる絶望の音を耳にした。
 玄関のドアが破られた音だ。
 数人が駆け込む音が響き、それは間も無く父の抵抗の叫び声の中に消えた。
 その叫び声と共に兄は二階に到着。
 隠れるべき? 兄は考えた。
 しかし兄はすぐにその選択肢が愚かであることに気付いた。
 やつらは全てを壊してでも自分を探し出す、そう思った。
 絶対的信頼感がある場所以外に隠れてはならない、そう思った。
 そんな場所はひとつしか思いつかなかった。
 森だ。
 少し深く立ち入るだけでも、迷い込まない程度の侵入でも大きな安全が得られるだろう。
 しかしここは街中。それも住宅街。森までは距離がある。
 そして「やつら」はこの家に来た連中がすべてでは無いようだ。
 あちこちから悲鳴や争いの音が聞こえる。
 父はこれから逃げてきたのだろう。
 ならば選択肢は一つしかない。
 だから兄は震える手で窓を開け、飛び降りた。
 足の痛みを無視して走り出す。
 兄は振り返らなかったが、既に見つかってしまった確信があった。
 後方から追いかけてくる足音が聞こえるからだ。
 しかも相手のほうが速い。
 どんどん音が近づいてくる。
 怖くて振り返れない。
 そしてその音が真後ろにまで迫り、恐怖が絶頂に達した瞬間、兄は本能的に動きを変えた。
 狭い民家の隙間にすべりこむ。
 猫がかろうじて通れるほどの隙間。
 体格が良くない兄にとってもその隙間は狭苦しかったが、やはりその隙間は兄が思った通りに功を奏した。
 足音が隙間の入り口で止まったのだ。
 だが、恐怖と焦りは消えなかった。
 伸ばされた手と思われるものが自分の背中をかすめたからだ。
 だから兄は擦り傷ができるのも気にせず、全力で隙間を通り抜けた。
 全身が自由になる直前に顔だけを出して周囲の安全を確認する。

「!」

 そして兄は見つけた。
 顔がはっきりと見える位置では無かったが、見間違いは無かった。
 間違い無い、そう思った兄は隙間から飛び出し、駆け寄りながら叫んだ。

「おかあさん!」

 振り返った顔はやはり母のものだった。
 兄の心に希望の感覚が沸きあがりはじめていた。
 しかし哀れであった。
 兄は感知能力者では無かったからだ。
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