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第三章 荒れる聖域。しかしその聖なるは誰がためのものか
第十九話 黄金の林檎(7)
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「……?」
ふと、奇妙な感覚に身を包まれたヘルハルトは農作業する手を止めた。
なんだ? その感覚をヘルハルトは言葉で表現することができなかった。
誰かに呼ばれた気がする、そんな感覚に近い。
だが、その感覚は時間と共に別の感覚に覆われていった。
それは怖気。本能的な恐怖。
まるで警告されているかのような感覚。
逃げないと、そう思った。
でも何から? 何を恐れている?
それがどうしてもわからない。だから足が動かない。
でも、きっと逃げたほうがいい、そう思ったヘルハルトは村から離れるようにつま先の向きを変えたが、
「ごめんなさい、ちょっと用事を思い出しちゃったから、先に村に戻りますね」
直後、イメルダはそう言って、村のほうに走り出した。
その背を見てようやくヘルハルトは我に返り、思い出した。
今日は娘のハルティナが寝たきりの祖父の面倒をみていることを。
が、
「……」
ヘルハルトの足はなかなか動かなかった。
イメルダの姿が森の奥に消えても動こうとしなかった。
しばらくして、ヘルハルトの足はイメルダが消えた方向に一歩だけ進んだ。
少し様子を見に行くだけ、きっと何も無い、この予感はただの気のせい、そう思い込ませながらヘルハルトは足を前に出し始めた。
されど、その足取りは重く、遅い。
もしもこの予感が正しかったらどうする? 自分が見に行く必要は無い、そんな思いが足かせとなってヘルハルトの足を遅くしていた。
だが、その足は少しずつ速くなり始めた。
少し様子を見に行くだけ、その気持ちが勝ち始めたのだ。
危なそうだったらすぐに逃げる、そんな保険のようなものをかけ続けながら、ヘルハルトは足を前に出し続けた。
◆◆◆
ヘルハルトがたどりつく頃には、村は悲鳴に包まれていた。
だが、それでもヘルハルトは村の中に入った。
逃げろ、逃げろ、繰り返し頭の中で響くその声を無視してヘルハルトは家の様子を見に行った。
人口は千人に届くかどうかという、このあたりの村にしては多いほうであったが、家屋が密集しているため広さはそれほどでも無い。
だからヘルハルトは襲われる前に家を視界にいれることができた。
しかしそこまでだった。それ以上ヘルハルトの足が前に進むことは無かった。
離れたところからでも見えた。ドアは開けっ放しになっていた。そこから中の様子がわかった。
イメルダが包丁を振り回している。
何かを近づかせまいと、がむしゃらに振っている。
ハルティナの姿も見える。イメルダの足にしがみついている。
どうすればいい? 自分に何ができる? そんな声がヘルハルトの脳内に響いた。
直後、
「!」
ヘルハルトは背筋を強張らせた。
二人と目が合ったからだ。
その目は「助けて」と訴えていた。
だから強張った。
二人の期待に応えられないからだ。
しかしヘルハルトの中にある何かは抗っていた。
だが、その何かの声は小さく、もう一つの声のほうがはるかに大きかった。
逃げるべきだ。死にたくない。無理だ。そんな声がうるさいほどにヘルハルトの心に響いていた。
その大きな声がヘルハルトの体を動かすのに、さほど時間はかからなかった。
すまない、許してくれ、そんな心の声を響かせながらヘルハルトは背を向けた。
そして次の瞬間、ヘルハルトは感じ取った。
二人に何かが飛び掛かり、押し倒したのを。
見てないのに、それがわかった。
だから、
(すまない! すまない! すまない!!)
ヘルハルトは大きな心の声を響かせながら、その場から逃げ出した。
◆◆◆
十分ほど走った森の中でヘルハルトは足を止めた。
息が切れたからだ。
全力で走り続けたせいで足は棒のようになっていた。
対照的に心臓はうるさく、激しい。
だが、いくら心臓が動いても足はしばらく前に動きそうには無かった。
それでもヘルハルトは座ろうとはしなかった。
追いかけてきているかもしれない、そんな恐怖が座って休むという選択肢を消していた。
が、
「……っ!」
ヘルハルトはその場に膝をついた。
こんな時に、そんな心を響かせながら。
それは、これまでで最大の頭痛であった。
その頭痛の中で、ヘルハルトは何かを思い出した。
むかし、同じような思いをしたことがあったような――そう思った瞬間、ある記憶と共に声が響いた。
「お前には戦士として一番大事な素質が無い」
その声は頭にでは無く、心に痛く響いた。
そしてその痛みのほうが勝っていた。
気付けば、ヘルハルトは痛む頭を押さえながら立ち上がっていた。
戻らないと、そう思うようになっていた。
なんのために? ヘルハルトの理性が声を上げる。
これに答えたのも理性だった。
これが証明するための最後のチャンス。ここで逃げたら本当の望みは永久にかなわない、ヘルハルトの理性ははっきりとそう答えた。
その自問自答が終わるころには、ヘルハルトの足は村のほうに向きなおっていた。
まだ迷いはある。が、行かなければならないという思いの方が強かった。
そしてヘルハルトその思いのままに走り出した。それは逃げる時よりも力強い足取りに見えた。
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