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惰眠5.はた迷惑な惰眠
6.琥珀色の飴・後編
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「まだ指は痛むか? 桜莉」
闇夜、小さな灯だけが照らす房に、紅雪の声が響いた。
「いいえ、痺れているような感覚はありますけれど、問題ありませんわ」
いまだ降嫁する気配のない皇妹・桜莉は、後宮の一角にその房を有していた。その中でも、主たる桜莉の寝室には布団が2組敷かれていた。
1つは桜莉のもの。もう1つは1週間ほど前からこの房の客となっている紅雪のものだ。
「槌を振るうのは、もっと簡単なものだと思っていたのですけれど、存外、難しいものでしたのね」
日中、大工仕事に精を出す桜莉は、自分の指を思い切り槌で打ちつけてしまったのだ。ぷっくりと腫れてしまった指は、今は紅雪が調合した特製の湿布が巻かれている。
「やはり、完治させてしまった方が良かったのではないか?」
「いいえ、これも修行の一環ですもの。あたくし、社建立を通して、色々と知ることができましたわ。槌を振るう難しさも、この痛みも。―――あたくしは、中央官庁で働くには、色々なことを知らな過ぎるのです。それを本当に実感するためにも、あっという間にこの傷を治してしまってはいけないのですわ、きっと」
眩しいものを見るかのように目を細めた紅雪だったが、隣の寝具に寝転がる桜莉からはとても暗くて見えなかった。
「それに、あたくし、本当におのれの無知を実感いたしましたの」
「ほぅ?」
「仙女様のお仕事が、国を守るだけでなく、皇帝の是非を問うこともあるなんて、あたくし、伝説だと思っていましたわ」
星瑛から湘太子や蔡妃に関わる一件を、仙女の役目を含めて説かれた桜莉は、それをまだ未消化のまま胸にしまっている。
「―――長子だから、血筋による強力な後ろ盾もあったから、お兄様が皇帝の位にお座りになったのも当然と思っていましたの。……でも、お兄様も、仙女様の試練を乗り越えたのでしょう?」
「試練というと、何だかこそばゆいのぅ。わしはただ、見極めるまでよ。今回のように暴力に訴える阿呆どもを利用することもあれば、別の形で性質を確かめることもある。じゃが、資質を問うまでもないこともあるからのぅ」
「それは、良い意味で、ですの? それとも」
「どちらもじゃ。まぁ、これまでも臨機応変に対処はしてきた」
どこか冷淡に言い放つ紅雪に、桜莉は何かを言いかけ、口を閉じた。
「どうした?」
「……難しいものですわね。あたくしは、湘とも蔡妃とも親しくお付き合いさせていただいてますけれど、神祇伯の立場では、一歩、退かなくてはならないのでしょう? あたくしは湘が幼い頃から知っていますし、少なからず情があります。でも、それと皇帝の資質は別に判じなければならない」
紅雪は次代の神祇伯を選んだ自分の目が、確かだったと笑みを深めた。
「それを誰に言われることなく悟れるからこそ、次代の神祇伯たりえるのじゃ」
その言葉に、桜莉の頬が熱を帯びた。迂遠な言い回しながら、それが誉め言葉と分かっていた。
(でも―――)
脳裏に浮かぶのは、赤ん坊の頃から知っている、彼女の甥っ子の顔だった。子どもらしさを残しながら、最近は随分と大人びた意見を口にするようになった。
桜莉の耳に届いているのは、その立場もあって隠密に動けない湘が、何やら母親の周囲を調べまわっているということ。
「……湘は、頑張っているようですわね。空回りしていないといいのですけど」
「あぁ、あのぐらいの子どもは、やる気の空回りなど当たり前じゃ。わしが見るのはそのようなことではないよ。結果ではなく、どう考え、どう動くのか、それを見たいのじゃ」
「それを聞いて安心しましたわ。……ふふっ、あたくしも湘に負けないように、早く社を完成させないと。負けてはいられませんわ」
「次は屋根じゃったか?」
「えぇ、しばらくは晴天が続くみたいですもの、次の雨が来る前に完成させてみせますわ」
「ふむ、それは楽しみじゃのぅ」
可愛らしい決意表明に、この先の天気も「未来視」しておくか、と紅雪は目を閉じた。
闇夜、小さな灯だけが照らす房に、紅雪の声が響いた。
「いいえ、痺れているような感覚はありますけれど、問題ありませんわ」
いまだ降嫁する気配のない皇妹・桜莉は、後宮の一角にその房を有していた。その中でも、主たる桜莉の寝室には布団が2組敷かれていた。
1つは桜莉のもの。もう1つは1週間ほど前からこの房の客となっている紅雪のものだ。
「槌を振るうのは、もっと簡単なものだと思っていたのですけれど、存外、難しいものでしたのね」
日中、大工仕事に精を出す桜莉は、自分の指を思い切り槌で打ちつけてしまったのだ。ぷっくりと腫れてしまった指は、今は紅雪が調合した特製の湿布が巻かれている。
「やはり、完治させてしまった方が良かったのではないか?」
「いいえ、これも修行の一環ですもの。あたくし、社建立を通して、色々と知ることができましたわ。槌を振るう難しさも、この痛みも。―――あたくしは、中央官庁で働くには、色々なことを知らな過ぎるのです。それを本当に実感するためにも、あっという間にこの傷を治してしまってはいけないのですわ、きっと」
眩しいものを見るかのように目を細めた紅雪だったが、隣の寝具に寝転がる桜莉からはとても暗くて見えなかった。
「それに、あたくし、本当におのれの無知を実感いたしましたの」
「ほぅ?」
「仙女様のお仕事が、国を守るだけでなく、皇帝の是非を問うこともあるなんて、あたくし、伝説だと思っていましたわ」
星瑛から湘太子や蔡妃に関わる一件を、仙女の役目を含めて説かれた桜莉は、それをまだ未消化のまま胸にしまっている。
「―――長子だから、血筋による強力な後ろ盾もあったから、お兄様が皇帝の位にお座りになったのも当然と思っていましたの。……でも、お兄様も、仙女様の試練を乗り越えたのでしょう?」
「試練というと、何だかこそばゆいのぅ。わしはただ、見極めるまでよ。今回のように暴力に訴える阿呆どもを利用することもあれば、別の形で性質を確かめることもある。じゃが、資質を問うまでもないこともあるからのぅ」
「それは、良い意味で、ですの? それとも」
「どちらもじゃ。まぁ、これまでも臨機応変に対処はしてきた」
どこか冷淡に言い放つ紅雪に、桜莉は何かを言いかけ、口を閉じた。
「どうした?」
「……難しいものですわね。あたくしは、湘とも蔡妃とも親しくお付き合いさせていただいてますけれど、神祇伯の立場では、一歩、退かなくてはならないのでしょう? あたくしは湘が幼い頃から知っていますし、少なからず情があります。でも、それと皇帝の資質は別に判じなければならない」
紅雪は次代の神祇伯を選んだ自分の目が、確かだったと笑みを深めた。
「それを誰に言われることなく悟れるからこそ、次代の神祇伯たりえるのじゃ」
その言葉に、桜莉の頬が熱を帯びた。迂遠な言い回しながら、それが誉め言葉と分かっていた。
(でも―――)
脳裏に浮かぶのは、赤ん坊の頃から知っている、彼女の甥っ子の顔だった。子どもらしさを残しながら、最近は随分と大人びた意見を口にするようになった。
桜莉の耳に届いているのは、その立場もあって隠密に動けない湘が、何やら母親の周囲を調べまわっているということ。
「……湘は、頑張っているようですわね。空回りしていないといいのですけど」
「あぁ、あのぐらいの子どもは、やる気の空回りなど当たり前じゃ。わしが見るのはそのようなことではないよ。結果ではなく、どう考え、どう動くのか、それを見たいのじゃ」
「それを聞いて安心しましたわ。……ふふっ、あたくしも湘に負けないように、早く社を完成させないと。負けてはいられませんわ」
「次は屋根じゃったか?」
「えぇ、しばらくは晴天が続くみたいですもの、次の雨が来る前に完成させてみせますわ」
「ふむ、それは楽しみじゃのぅ」
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