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その2
しおりを挟む翌日の朝ナオコは睡眠不足の目をこすりながらぼんやりと仕事をしていた。仕事の方は結局夜中の一時頃まで掛かり、それからシャワーを浴びて就寝したのが二時過ぎとなってしまったので十分な睡眠が取れなかったのだ。うつらうつらしながらワープロを打っていると先輩の女性社員が、「ナオコさん、電話よ。杉田さんから。」と言ったのでナオコはあわてて受話器を取った。
「ああもしもし、杉田ですけど。」
「ああ杉田さん、この前はどうも。今日はどうなされました?」
「ちょっと訊きたい事があってな。」
「はい、どんな事ですか?」
「あんた色々カジノ行ってるやろうけど、日本人でヨーコっていう名前のディーラー、どっかで見かけた事はないか?」
「ああそれなら知ってます。昨日会って結構長く話をしたんで。」
「島崎洋子っていう名前の人か?」
「ええ、そうです。あのシルバーフレイムの島崎洋子さんなんですよ。ほんと昨日は驚きました。まさかベガスにいたなんて。杉田さんもシルバーフレイムは御存じですよね?」
「もちろん知ってる。」
「私洋子さんの大ファンだったんで昨日は感激して泣きそうでした。昨日の事は一生忘れないだろうと思います。」
「どこにいるんや?」
「えっ?」
「どこのカジノで働いてるんや?」
「ああそれはストリップのMカジノですけど・・・。」
「・・・Mカジノか。わかった。どうもありがとう。」と言って杉田は電話を切った。
「もしもし杉田さん・・・」とナオコはツーツー音を聞きながら言ったが、杉田は時間にして一分にも満たない会話で唐突に電話を切った。一体どうして杉田は島崎洋子の事を訊いたのか。なんか島崎洋子がラスベガスのどこかのカジノにいるという事を知っていて、そのうえでどこにいるんだと尋ねた様な感じだったが、なんでまた知ってたんだろう?バンドを辞めてからどこで何をしてるのか全く消息不明だったのになぜ杉田は知っていたのだろうか?
杉田から電話があった日の翌日の晩の十時頃、ナオコがソファに座ってテレビを見ていると電話が鳴ったので受話器を取るとそれはヨーコ・ハミルトンからの電話だった。
「ああ洋子さん。おとといはどうも有難う御座いました。こんなに早く電話をもらえるなんて思いもしませんでしたが、どうかされました?」
「・・・・ナオコさん次の休みはいつ?」
「ああそれは来週の火曜と水曜ですけど・・・・」
「私の家に来ない?」
「えっ、お家の方にですか?私はいいですけど・・。」
「来週は私水曜が休みの日なんで、出来たら水曜にしてくれたら有り難いんだけど。」
「わかりました。火曜の晩にまた電話してお伺いするようにしますんで。」
「ありがとう。色々話したいことがあるんで、悪いけどお願いするわ。」
翌週の火曜の晩にナオコは電話を入れて洋子の住所を確認し、水曜の午後二時に訪問するという事になった。ナオコは当日車でヨーコ・ハミルトンの家(賃貸マンション)に向かった。到着してマンションの呼び鈴を押すと、洋子と二歳の女の子の手をひいた六十歳ぐらいの女性が出迎えた。優和な顔立ちをしたその女性は洋子の母で、洋子を助けるために今一緒に住んでいるとの事だった。女性の左隣りにいる小さな女の子は茶色の髪の毛の、色白で正にハーフという感じのする美しい顔立ちを持った女の子で、洋子にそっくりな顔をしていた。
「ほんとに可愛いお子さんですね。お名前は確かナオミちゃんでしたよね。洋子さんにそっくりなお顔をされてますね。」
「ええほんとによく似てるわね。今の私にとって一番大切な存在よ。」
「今日はよくいらっしゃいました。狭い家だけどゆっくりしていってね。」洋子の母はそう言うと近くの公園で遊ばせるという事で、子供を連れて出て行った。
ナオコと洋子はリビングルームにあるテーブルを挟んで向かい合って腰を下ろした。
「今日はほんと忙しいところわざわざ来てくれてありがとう。実はね、あれから色々あったのよ。」ヨーコ・ハミルトンはコーヒーを一口飲んで言った。「あの電話をした日の昼間に昔の友達がMカジノに来たの。」
「友達って、どういう友達で?」
「大学に行ってた時の友達で、大学って言っても短大なんだけど、私大阪の枚方にある大学の短期大学部の英語学科に通っていたんだけど、私軽音楽部に入っていて、その時に同じ学年の同期の部員で杉田ノブユキという人がいたの。」
「杉田さんってもしかして髭ぼうぼうのギャンブラーさんの事ですか?」
「そうね、似合わないのに何であんな髭生やしてんのかわかんないけど、とにかく十二年ぶりに突然私の前に姿を現したの。」
「洋子さん短大の時は関西にいらしたんですか?」
「そう、短大は大阪の枚方にあるK短大に行ってたの。高校卒業までは東京の浅草にいたんだけど。」
「あの杉田さんと知り合いだとは思いもしませんでしたけど、もしかして過去に何かあったんですか?」
「・・・・・確かに彼とは色々あったわね・・・実際の所まだ心の整理がついてないんだけど、自分の心の整理を付けるためにもあなたに話を聞いて欲しかったの・・・・。」
ヨーコ・ハミルトンは杉田ノブユキと自分との間にあった事に関して話を始めた。要点をまとめると以下のようになる──────
─────── 事の始まりは一九七九年の四月初旬、大阪の枚方市にあるK大学およびK大の短期大学部の入学式が終わった後、島崎洋子は体育館の二階の隅にある軽音学部の練習場に行ってみた。洋子は高校卒業までは東京の浅草に居住していたのだが、関西、特に京都に魅力を感じていた洋子は関西にある短大に行こうと色々調べた結果京都に近い枚方市にあるK短期大学の英語学部を受験する事を決めて試験を受け、合格したので四月始めに学校から徒歩十分位の所にある学生用アパートに越してきたのだった。中学の時からロックが好きだった洋子は高校に入学後独学でギターや歌を練習し、高二の時に同じ学校の生徒達とバンドを組んだりして卒業間近まで音楽活動をやっていた。ギターの方はそんなにも上達しなかったが、歌の方は一年の時クラスにコーラス部に入っている女の子がいて、その子と仲のいい友達になりお互いの家をしょっちゅう行き来するようになったので、腹式呼吸のやり方や発声練習をその友達から学ぶことが出来、あとは色んな歌手やバンドの歌をたくさん聴いてその唱法や歌いまわしをひたすらコピーして練習した。元々持っていた声そのものが凄く個性的でロックを歌うのに向いていたので、彼女はめきめきと上達していき、卒業間近の時点で本格的なロックボーカリストの風格を持つようになっていた。そんな彼女なので、大学に入ったら軽音学部に入部しようとかなり早くから決めていて、入学式が終わるとすぐに軽音の練習場にやって来たのだった。体育館の二階の隅にあるその練習場はまあまあの広さを持った部屋なのだが、その部屋のそばに行くと何人かの軽音部員が座ってたむろしていたので、洋子は挨拶して入部したいと申し出ると、部長らしき男がパートは何だと尋ねたのでボーカルですと答えると、早速で悪いがちょっとセッションしないかとの事だったので洋子はいいですよと答え、練習場の中へ入った。中に入るとすぐに強烈なタバコの匂いが鼻を貫いた。洋子はタバコの匂いがあまり好きではないので、ちょっとしかめっ面の表情を浮かべた。その表情を目にした部長は「ああちょっとこれはひどい匂いかな。うちはタバコ吸うやつが多いんでこうなってしもたんやけどな。」と関西アクセントで言った。「とりあえず何曲かやってみよか。」部屋の中にはギターアンプやベースアンプ、ボーカルのマイクが数本置かれていて、キーボードやドラムも配置されている。部屋の中には洋子と部長と軽音部員が二人、合計四人で、部長がギター、軽音部員はそれぞれベースとキーボードだった。「あと三十分ぐらいしたら十人ほど来るんやけど、それまではドラムなしでやることにするわ。」と言ってチューニングをしながら何の曲をやろうかと話をしていると突然練習場の部屋のドアを開けて一人の学生が入ってきた。「ああすいません、ここ軽音楽部の部屋ですよね?入部させて欲しいんですけど。」とこの学生も関西アクセントで言った。それに対して部長が「おまえパートは何や?」と訊くとその学生は「ドラムです。」と答えたので部長は「いいとこに来たわ。そこに座って叩いてくれ。」と言った。
このようにして始まったセッションだったが、初めて音を合わせたのにもかかわらず拍子抜けするぐらいスムーズに音が合った。これはやはりそれぞれのプレイヤーの力量が優れていたからである。三十分位経って軽音部員達が十人程部屋の中に入って来たが、部屋の中で繰り広げられているスーパーセッションにみんな度肝を抜かれていた。特に際立っていたのはやはり洋子のボーカルだった。カルメンマキとジャニス・ジョプリンを併せて二で割ったようなその凄まじい声はその場にいた者を全員凍らせるぐらいの凄まじさだった。ものすごい熱気を持ったセッションを部員たちはその凄さに圧倒されて茫然とした表情で見ていた。一番凄まじい熱気を放っていたのは洋子のボーカルだったが、その次にもの凄いエネルギーを放出していたのは入部希望という事で部屋に入って来たドラマーであった。彼はとにかく凄まじいパワーを持ったドラミングを披露していた。パワーも凄かったが同時にかなりのテクニックを持ったドラミングでもあった。汗まみれになりながらもの凄い形相で重戦車のごとくドラムをヒットしていた。この二人以外のプレイヤーはとにかく安定したテクニカルなプレイを披露していた。恐らくこの軽音学部の中でベストのテクニックを持ったプレイヤー達なのだろう。洋子とドラマーが鬼の形相でやっているのとは対照的に全く無表情に黙々と演奏していた。このスーパーセッションで演奏された曲目は、ビートルズの”Get Back "、 ディープパープルの”Burn ”と”You Fool No One ”、レッドツェッペリンの”アキレス最後の戦い”、 ジャニス・ジョプリンの”Move Over ”、最後にカルメンマキ&OZ の”私は風”の計六曲で、”アキレス最後の戦い”を演奏している最中に部員が十人程入って来て、あまりにも熱くて凄い演奏に彼らは度肝を抜かれた。
────── ”私は風”の凄まじい演奏が壮大なエンディングを以って終了した時、部員たちは我に返って盛大な拍手をした。部員たちの拍手が終わる頃部長が「今日はほんとに凄い奴が二人入部してくれる事になったんでみんなに紹介したいと思う。凄まじい声を持ったボーカリストの島崎洋子さん、それと戦争が始まったんかと思うような凄いドラムを叩いてくれた、えーと自分(関西弁で”君”の意味)名前何やったかな?」と言うとそのドラムの男は「杉田ノブユキと言います。」と答えた。部長は「ってことォォォーや。みんなよろしく!」と言って締めくくった。
洋子と杉田が入部した日から一週間が過ぎた。この一週間の間に七人の新入生が軽音学部に入部して来て、合計九名の新入部員となり、九名の内男性が四人、女性が五人だった。男性四人は全員四年制の学生で、女性の方はミンちゃんというニックネームのドラマーとスージーというニックネームのギタリスト以外は皆短大生であった。九名の内男性二人と女性二人は初心者だった。この軽音楽部のモットーはとにかくテクニックなんか関係なしに楽しく音楽をやっていこうという事で、部長が洋子と杉田をセッションに誘った時は実際の所全く期待してなくて、半分ジョークみたいな感じで演奏がこけたら床に倒れようと思って誘ったのだが、予想に反して二人のパフォーマンスが無茶苦茶凄まじかったので部長は(軽音部員二名もだが)ほんとに驚愕した。それでも表情にはその驚愕を全く表すことなしに黙々と演奏したのだが、演奏しながら今年はこんな凄い新入部員が入部してほんとに面白くなりそうだと内心思った。この時の演奏がほんとに相性が良く素晴らしいものだったので、部長はこの五人のメンバーで暫くバンドをやっていく事を提案し、全員が同意したので軽音学部の中に泣く子も黙る必殺のスーパーバンドが誕生することになった。
洋子と杉田はこの様にして出会ったのだが、杉田は高校の時もいくつかバンド活動をしていたが、洋子ほどの凄いシンガーに出会った事がなかったのでこのバンドをやっていくという事に凄くワクワクしていた。高校の時にやっていたバンドはどのバンドもとにかくシンガーが弱かった。レコードではカルメンマキやジャニス・ジョプリンの様な凄い声が聞けるが、現実の世界では(自分の周囲では)凄い声を持ったシンガーがいなかったので洋子の様なもの凄い声を持ったシンガーと一緒にバンドがやれるという事にとにかくワクワクしたし、興奮もした。洋子の方はというと、今まで杉田の様なもの凄いパワーを持ったドラマーにレコード以外では出会った事がなかったので、一緒にバンドがやれるというのは凄くエキサイティングな事だと思ったし、それと同時に”You Fool No One ”の様な難易度の高い曲を軽々と叩いているのを見て、テクニック的にも凄くレベルの高いプレイが出来るドラマーでもあるので尊敬の念を持った。この軽音楽部内のスーパーバンドは”ツバサバンド”と(部長によって)命名され、週に三回位はリハーサルをし、夏休み前に学内コンサートを行った。学内コンサートはツバサバンドだけではなく軽音のバンド全てが出演したのだが、ツバサバンドがトリを飾り、他のバンドは正直ぱっとしなかったがこのツバサバンドだけはレベルが全然違ってそこに居合わせた聴衆の学生達は演奏が終わると割れるような拍手をした。演奏があまりにも素晴らしかったので聴衆はアンコールを求めた。大学の軽音学部のコンサートでアンコールが求められるという事自体極めて稀なのだが、この時聴衆は十回以上アンコールの大合唱をした。バンドはそれに応えて結局十二回アンコールの演奏をした。午後四時半に始まったコンサートはほんとなら七時過ぎに終わるはずだったのだが、結局八時半まで続き、凄い熱気の中終了した。メンバー全員汗まみれになって持てる力を全て出し切ったほんとに渾身のライブパフォーマンスであった。
学内コンサートが終わって大学は夏休みに入り、一九七九年の八月初旬軽音楽部は夏の特別合宿を長野で行った。四泊五日の合宿だが、ほとんどの部員がこの合宿に参加した。
一回生九名の内洋子と杉田は先輩部員とツバサバンドを組んでいたし、初心者の四名はこの四名だけでバンドを組み、先輩部員がヘルプでちょっと手伝ったりアドバイスをしたりしていた。あとの三名はまあまあ楽器が出来るので二回生の先輩二名と一緒にバンドを組んでいた。合宿は始めの三日間はとにかくいろんな練習(バンドとしての練習と個人としての練習)をしたり、先輩部員は後輩の演奏を見ていろんなアドバイスをしたり、楽器のスキルが高い部員は初心者の部員にちょっとしたレッスンの様な事をしたりとか、とにかく各人が音楽的に上達出来るように色々やっていたが、最終日の夜に大きな部屋にみんなが集まって各バンドの演奏発表会が行われる事になっていた。
合宿初日の晩の就寝前に一回生九名が男子部員の就寝部屋に集まり、ビールやソフトドリンクを飲みながら一回生だけのミーティングを行った。始めの二十分ほどは演奏や音楽に関しての話をしていたのだが、話題はいつしか各メンバーの彼氏や彼女の話に移った。九名の内五人は彼氏や彼女がいなかったのだが、杉田ノブユキの彼女の話になった時ある部員がどういう風に知り合ったのかと質問したので杉田は小学校五年と六年の時同じクラスだった同級生で、中学以降学校が別れてずっと会っていなかったのだが、大学が同じになったので久しぶりの再会という事になり、何やかんやあって付き合い始めたと言った。洋子は杉田の彼女と面識があった。杉田の彼女の名前は倉田ミエコと言い、洋子と同じクラスの短大生で、性格的に気が合ったので仲のいい友達になった。彼女は漫画家志望の女の子で、おしゃべりで陽気な性格の浪速っ子だった。何でも小学校三年の時から漫画を描いていて、杉田とは五・六年の時同じクラスになって、杉田も漫画を描くのが好きだったのでお互いにマンガを描いて競っていたとのことである。中学以降は学校が別れてずっと会っていなかったのだが、大学が同じ所になって再会し、五月の末頃意気投合して付き合い始めたとの事だった。
洋子は倉田ミエコとよく話をしていたので、ミエコの方から付き合って欲しいと持ちかけた事を知っていた。話を聞く限りどちらかと言えばミエコの方が熱をあげている様だ。杉田ノブユキはまつ毛の長い、綺麗な目をした美少年と言ってもいいタイプの男で、実際の所かなり女の子の注目を引いている。倉田ミエコは小柄で幼さが残ったぱっと見中学生かなと思うような美少女タイプの女の子だった。洋子は杉田に関しては確かに男前で素敵だとは思うものの、何よりもそのドラマーとしての腕前に敬意を持っていた。洋子は異性と付き合った事はなかったが今までその事で寂しいと思った事は特にない。ずっとロックンロールに恋してきたと言ってもいいのかもしれない。中学の時にラジオでスリーディグリーズの様なソウルミュージックやミッシェル・ポルナレフやアラン・シャンフォーの様なフレンチ・ポップスを聴いたのがそもそもの始まりなのだが、その後ビートルズに出会ってもの凄く夢中になり、それから発展してイギリスやアメリカの色んなロックグループの曲や日本のロックを聴く様になってロックンロールの世界に入った。聴くだけでなく自分で歌ったりギターを弾いたりするようになり、夢中になって音楽に打ち込んできた。だが最近になって杉田の事が事あるごとに頭に浮かぶようになってきた。ツバサバンドの練習が週三回あって、練習が終わるとしばしば洋子は体育館の外にあるベンチに杉田と一緒に坐って缶コーヒーを飲みながらいろんな話をした。始めは演奏の事とか音楽の事が中心だったが、次第にお互いの個人的な事を話すようになっていった。杉田と話をしていてほんとに楽しく感じたし、凄く気が合うなと洋子は感じていた。杉田とはいい友達になれるなと始めの内はそんな風に思っていたがその感情はやがて異性に対するときめきに変わっていった。その事をはっきりと悟ったのは七月の下旬、翌日から夏休みに入るという事でツバサバンドが休み前の最後のリハーサルを行ったのだが、リハーサルが終わって外に出た洋子は杉田にちょっと暑いから喫茶店に入って話でもしない?と誘った。二人は学校のすぐそばにある喫茶店に入ってまず演奏や曲目の事に関してひとしきり話をした後洋子は唐突に「ねえ杉田、ミエコの事どう思ってるの?」と尋ねた。
「えっ、何や突然。倉田の事どう思ってるかって?・・・まあいい友達やと思ってるけどな。かわいいし面白いやつやからまあ好きと言えば好きやけど・・。」
「ミエコの方は杉田の事本気で好きみたいよ。」
「・・・・・まあ人間的には凄く好きやな。あいつの描く漫画も素晴らしいと思うし。」
「女性としてどう思ってるの?」
「・・・・・・・・・・・・・」
杉田は腕組みをしながら暫く沈黙した。暫くの沈黙の後こう言った。「・・・・あいつの事はやっぱりもう結論を出さなあかんのかもな・・。」言った後で杉田は先に帰らせてもらうわと言ってお金を置いて出て行った。
──────あれから約二週間が過ぎて今長野の合宿所にいるのだが、杉田と喫茶店で話をした翌日に洋子は帰京し、約二週間浅草で過ごした後下宿に戻ってこの合宿に参加したのだった。あの日杉田にミエコの事をどう思っているのか尋ねた時洋子は自分が杉田に恋愛感情を抱いているという事を悟った。杉田が帰った後洋子はすごくきまりが悪くなり、こんな事を訊くべきではなかったと後悔した。集合場所の大阪駅で杉田に会った時もきまり悪くて挨拶する事さえ出来なかった。杉田の方も無表情で洋子と視線を合わせようとせず何も言わなかった。結局お互い一言も言葉を交わさずに一日目が終わる様な感じで、夕食前にツバサバンドのリハーサルをやったのだがお互いになんかきまり悪い感じで練習していた。多分部長や他のメンバーもその空気を感じ取っていたのではないかと思われるが何も言わず黙々とそれぞれのパートの演奏に専念していた。
─────杉田の彼女の話が終わるとドラムのミンちゃんの彼氏の先輩部員(ドラマー)の話、それが終わるとベース初心者のノリちゃんの彼氏の先輩部員(ベーシスト)の話に移り、最後にギタリストの村野の彼女の話になった。眼光鋭い顔をしたかなりのイケメンでもある村野は今まで三人の女の子と付き合った事があって、今のガールフレンドは高三の時に知り合ったのだが最近うまく行ってなくて多分近い内に別れる事になるんじゃないかと言った。
洋子はみんなの話を聞いて異性と付き合うというのは結構大変な事が多いんだなあと感じた。ほんとに好きな人と付き合えたらそれはそれで胸がときめくんだろうが、告白されてまあ付き合ってみようかという感じだったら結構面倒な事もあるのかもという感じだった。杉田に対して自分が恋愛感情を抱いていると今は明確に自覚しているが、杉田に対してどう向き合って行くべきか正直わからず、困惑の状況から抜け出せずにいた。
ミーティングが終わって就寝時間となり部員たちのほとんどが床についた。洋子はちょっと外を散歩してから寝ると言って一回生の女子部員の就寝部屋から出て合宿所の外の草原をぶらぶらと歩いて行った。
外は満月の光といくつか点在する電信柱に付いてる電灯の明かり、それとぽつぽつとある民家の明かりだけで、正直かなり暗いと言えば暗い。時刻は夜の十一時をちょっと過ぎた頃だったが、百メートル位歩くと小さな公園があったので洋子が入って行くとベンチに誰かが坐っていた。薄明りに照らされたベンチに坐っていたのは杉田ノブユキだった。
「おお島崎、何やこんな夜中にこんなとこに来て。」
「あんたこそ何で来てるの?」
「いやまあ何か今日は眠れんような感じがしてなあ。」
「そうなの。実は私もそうなの。」洋子は杉田の隣に腰を下ろし、二人は薄明りの中で話を始めた。
「・・・・この前の話の続きやけどな、あれから俺もいろいろ考えたんやけどやっぱり倉田とは付き合いをやめようと思ってる。」
「別れるの?」
「そうや、別れようと思う。」
「・・・・ミエコにはあれから会ったの?」
「いや会ってない。あいつから一回電話があってちょっと話しただけや。今どっかの新人賞に応募するっていう事で一生懸命漫画を描いてるって言うとった。」
「ミエコにはまだ何も言ってないのね。」
「そうやまだ何も言うてないけど合宿が終わったら言おうと思ってる。」
洋子は内心複雑な気持ちだった。仲のいい友達であるミエコが熱を上げている杉田に振られて悲しんだとしたら友人としては凄く胸が痛むことであるが、杉田に恋心を抱いている者としては自分にもチャンスが訪れるかもしれないという事になり、そのギャップに対してどう心の折り合いを付けたらいいのかわからなかった。
「・・・・でもやっぱりもう少しよく考えたほうがいいんじゃないかしら。」洋子は自分の本心ではないかもしれないと自覚しながらもやはり友達という立場にウェイトを置いてこう言ったのだが、内心そのギャップに対し葛藤があった。強い葛藤を感じながらもやはり親しい友人には悲しんで欲しくなかった。
「・・・・あんな可愛い子はなかなかいないと思うし・・。」
「・・・・あいつの事を意識しだしたのはな。」杉田は言った。「あれは小学校五年の時やけど、五年の夏休みの時にな、一九七一年の七月下旬やったと思うけど、東映まんが祭りっていう映画が家の近くにあった東大阪の河内東映っていう映画館で上映されてて、確か仮面ライダーとスペクトルマンとアニメを組み合わせた5本立てやったと思うけど、アニメとか変身ものとか好きやったから一人で見に行ったんやけど、休憩時間に売店の近くで倉田におうてな(会ってな)。」
「東映まんが祭りだったら私もとうさんと一緒に見に行った事あるけど、懐かしいわね・・。小学校から中学にかけて私漫画が大好きでリボンとかマーガレットなんかよく買ったわ。一条ゆかりや弓月ヒカルの漫画とか、土田よしこのつる姫じゃーなんかが大好きだったんだけど。」
「妹がリボンとかマーガレット買って読んどったから、有名な少女漫画やったら結構俺も知ってるけどな。ベルサイユのバラとか一条ゆかりのデザイナーとか、土田よしこのきみどりみどろあおみどろとかつる姫とかな。」
それから暫く二人は漫画に関して色々話をした。二人とも色んなマンガを幅広く読んでいたので話はかなり盛り上がった。話の最後の方で洋子が一九七一年に放送された「さすらいの太陽」というアニメに言及すると杉田は「ああそのアニメって確かタイガーマスクの裏番組でやってたやつやろ。」と言った。「いつやったか妹が横からチャンネル回して今日はこのマンガ見ようって言うたから一回だけ見たことがあったけど、とにかく主人公の女の子の歌がうまかったという印象があるなあ。」
「そうよ。主人公の峰のぞみの声を担当していた藤山ジュンコさんって人、ほんとに歌がうまくて、アニメの中で実際に歌うシーンが結構あったんだけどほんとに素晴らしい歌声で子供心に胸がときめいて毎週見るのがほんとに楽しみだったわ。」
「妹がさすらいの太陽の単行本を買って読んどったんで、俺も読んだけど確かになかなか面白かったな。」
「単行本なら私も買って読んだけど、テレビの方は原作と比べてストーリーとかキャラクターの設定がかなり違ってて、原作のコミックの方はちょっと悲しすぎる終わり方だったわね・・。」
「そうか、まあもし再放送とかあったら見てみたいけど、このさすらいの太陽って今までに再放送された事があったんかなあ?」
「さあどうかしらね。私は見た事がないけど。」
洋子は杉田に、話を戻すけど、その河内東映の売店前でミエコに会ってからどうなったのかその続きを聞かせてと言うと、杉田は言った。「それはな、映画が終わったらちょっと私の家に来てって言われてん。」
「それでミエコの家に行ったわけ?」
「そう、映画が全部終わったんは午後の二時ぐらいで、二人とも自転車で来てたんやけど、自転車に乗って倉田の家まで行ってな、家の中に案内されて彼女の部屋に入ったら一冊のノートを見せられたんや。」
「そのノートに何か書いてあったの?」
「そのノートにはびっしりと鉛筆でマンガが描かれてあって、倉田が言うには持って帰って読んで明日感想を聞かせて欲しいって言うんや。」
「どんなマンガが描いてあったの?」
「それがな、タイトルは「恋犬ラムータの冒険」っていうタイトルで、まあギャグマンガなんやけどこれがひどいマンガで、犬の姿にデフォルメされた俺がいろんな女の子の犬に振られて蹴とばされて肥溜めに落ちて、それでもってな、このラムータっていうのがウンコを常食としていて肥溜めに落ちてから肥溜めの中でチューチューとウンコを吸って食べるというほんま無茶苦茶なマンガやったんや。」
「えっ何それ。無茶苦茶面白いじゃない。」アハハと洋子は思わず笑った。
「ほんでまあ、そのウンコを常食としているラムータっていう犬がお嫁さんを求めて世界をさまよって振られ続けてひどい目にあい、メッタクソにやられてボロボロになるという悲惨なマンガやった。」
「いやあほんと面白そうね。今度ミエコに会ったら見せてもらおうかしら。」
「ほんでな、それをきっかけにして俺と倉田とでお互いマンガを描いて競い合うようになったんやけど、絵に関しての技術的なレベルは倉田の方が遥かに優れていて俺はほんとに敬意を持ってたんや。」 そういう事があって二人は六年になってもお互いにマンガを描いて競い合い、クラスのみんなも面白がって二人のマンガを回し読みしたりしていたのだが、子供の落書きレベルの杉田のマンガと本格的な画風を持った倉田のマンガとでは全く勝負にならなかったと杉田は言った。倉田はギャグマンガだけではなく本格的な少女マンガも描いていたのでクラスメート達はみんな凄いと言って賞賛していた。時が巡って卒業となった時二人はお互い何も言わず自然消滅といった感じで別れ別れになった。小学校と中学校で学区の分け方が違っていた為中学以降別れる事になったのだ。二人ともほんとは別れの挨拶がしたかったのだが何となく照れくさいというような感じでお互い何も言わずにお別れという事になった。ガールフレンドとかそういう関係ではなく純粋にマンガを描くのが好きな同志という関係だったし、子供だったから何となくそういう風になってしまった。
中学に入ってから杉田は全くマンガを描かなくなった。結局の所杉田にとってマンガはただ面白いから描いていただけであり、完全に遊びのレベルだったので飽きが来てしまい描くのをやめてしまったのだ。ミエコの方は中学に入ってからもさらに勢いがついてマンガを描き続けていた。杉田もミエコも時々お互いの事を思い出し、どうしてるのかなあと思った。ガロの歌にある様に何も言わずに別れたのでお互いノスタルジーにかられ、機会があればまた会えたらいいのになあと思っていた。
「・・・・それで大学が一緒になって再会して、お互いにおお懐かしいのう、元気やったか?っていう感じで話が弾んで結局付き合うって事になったわけやけど、今となってはちょっと考え直さなあかんと思ってるんや・・。」そう言うと杉田は暫く沈黙して何かを考えていた。暫しの沈黙の後洋子の方に顔を向け、洋子の目を見つめながら「いや、もう自分の気持ちに嘘はつけんのや。」と杉田は言った。「────島崎のことが好きやから。」──────── 洋子はえっと言って立ち上がった。洋子が立ち上がると同時に杉田も立ち上がり二人はお互いの顔を見つめ合った。洋子は突然好きだと言われて戸惑い言葉を失った。だが同時に、好きだと言われてもの凄く胸がときめき、もの凄く嬉しい感情が洋子の心を満たした。嬉しいと同時にミエコに対してもの凄く申し訳ないとも思った。嬉しいという感情と申し訳ないという感情が同時に、最大限に巻き起こったので洋子は非常に混乱していた。「ごめん、先に帰る。」と言って洋子は小走りにその場を離れ合宿所に戻って行った。小走りに去っていく洋子の姿を杉田はぼうっと見つめていた─── 。
翌日杉田と洋子は顔を合わせてもお互い何も言わずちょっと気まずい感じで二人ともお互い視線を合わせないようにしていた。午後の一時から五時半までのツバサバンドの練習の時も視線を合わさず、一言も言葉を交わさなかったので、さすがに気づかないふりをするわけにもいかんなと思った部長の山田は練習が終わると洋子に声をかけて一緒に外に出た。「なあ洋子ちゃん。」部長が言った。「杉田の事が好きなんか?」
「どうしてそれを────?」
「いやあそれはわかるで。こう見えてもおれは恋愛の専門家やし。」どういう意味で恋愛の専門家と言ったのかはわからないが、ラグビーの選手みたいにがっちりとした体格をした温和な表情の部長は言った。「それで杉田の方は洋子ちゃんの事どう思ってるの?」
洋子は杉田から好きだと告白を受けた事やミエコとの複雑な関係とかの詳しい事情を部長に話して自分は一体どうしたらいいのかわからないと正直な気持ちを打ち明けた。すると部長は「両思いやったらもう結論は出てるで。」と言った。「ちょっと待っててな、杉田を呼んで来るから。」部長は合宿所の中に入って行き三分位してから杉田と一緒に出て来た。部長は洋子と杉田を向かい合わせにして言った。「ええか、両思いやったら答えは一つ。杉田は今の彼女に正直な気持ちを言って、傷つける事になるかもしれんけど別れなあかんと思う。両思いやったら片思いの男や女は身を引かなあかん。それがルールやとおれは思う。ほんとに好きやったら相手の事を考えて身を引くべきや。」
─────という事で、部長の山田が間に入って二人にアドバイスした事がきっかけとなり杉田と洋子は付き合いを始める決心をしたのだが、洋子は部長の言う事は正論ではあるけど果たしてトラブル無しに事が運ぶのだろうかと不安に思った。杉田は合宿が終わったらミエコに会ってはっきりと自分の気持ちを伝えると部長と洋子に言ったが、ミエコの心を傷つける事になるのは避けられないので洋子はほんとに心が苦しかった──── 。
そうこうしてる内に合宿の最終日になって、最終日の夕方に軽音の全てのバンドによる演奏発表会が行われ、軽音部員たちはビールやソフトドリンクを飲みながら大いに盛り上がった。盛大な拍手と歓声を以って発表会は幕を閉じ、軽音学部の合宿は熱い余韻の中終わろうとしていた─── 。
最終日の夜の十一時頃、洋子と杉田は外に出てこの前話をした小さな公園まで出向いてベンチに座り話をした。
「・・・・ミエコにはほんとすまないと思うけど、これは避けては通れない事だわ。」
「そやな、俺もあいつの事は人間的に大好きやからほんとに心苦しいけど言わんわけにはいかん。」
「人のものを奪ったら何年かして今度は自分が奪われる立場になるってよく聞くから正直私不安なんだけど、最後まで私を愛してくれるって約束できる?」
「もちろん約束する。それなりの覚悟はある。」
二人は長い間無言で見つめ合った。洋子にとっては初めての本格的な恋。洋子は初めて経験するこの燃えるような恋の激情に身を委ねたいと思った。
二人はそれから色んな話をし、満月の麗しき光の下で深い陶酔の時間を過ごした。ゆっくりと流れる至福の時間の中、どちらとはなしに二人は口づけを交わし、永遠の夜の夢が二人を包みこんだ──── 。
合宿が終わって杉田はミエコを呼び出し、自分の正直な気持ちをミエコに話した。その日は朝から雨が降っていた。待ち合わせ場所の喫茶店でミエコは黙って話を聞いていたが、最後には涙を浮かべてすすり泣いた。杉田はすまない、ごめんと何度も繰り返した。十分位すすり泣いた後ミエコは立ち上がって杉田に背を向けさよならと言って喫茶店を出て行った。杉田は茫然と空を見つめていたが、十五分位してから立ち上がって会計を済ませ外に出た。外は相変わらずしとしとと雨が降っていた。杉田はこんな雨の日にこんな事を聞いて傷ついたミエコの心情を思いはばかり、ほんとにすまない事をしたと心が痛んだ。だけどこうするしかなかった、ほんとにごめん、すまないと降りしきる雨を見つめながら杉田は心の中で何度も繰り返して言った─── 。
九月の中旬になって夏休みが終わり大学の新学期が始まった。だが倉田ミエコは学校の方に姿を現さなかった。杉田と洋子はどうしたのかなあと心苦しく思っていたのだが新学期が始まってから三日目に杉田の家にミエコからの手紙が郵送されて来た。中を開封してみると次のような一枚だけの短い手紙が入っていた:
親愛なるわたしのラムータへ
あれから暫くは傷心の日々が続いたけど今は落ち着いてまた新しいマンガを毎日描いてるところです。八月の中旬に投稿したマンガに関して九月の始めに編集部の人から電話があって、新人賞の審査はまだかなり先の事なのだが倉田さんのマンガがほんとに素晴らしく、ずば抜けた出来なので十月初めに発行予定の月刊誌に掲載させてもらいたいとの事で、私にとってはもの凄くうれしい知らせが来て私は今もの凄くウキウキした気持ちでマンガ創作に励む毎日です。編集部の人達は私が将来化ける可能性がある有望な新人だと思ってくれていて、積極的に支援したいと有難い申し出をしてくれたので私来月始めに東京へ行く事に決めました。プロのマンガ家になる事が子供の頃からの夢だったからチャンスをつかんだ今私は行かなければならないと思う。私は私の夢を追い、ラムータはラムータの夢であるロックンロールの夢を追ってほしい。いつかまた何年か先、もしかしたら何十年か先にお互い笑いあって再会できる日が来ると信じています。あなたの事は忘れません。
一九七九年九月十七日
倉田ミエコ
杉田はこの手紙を読んで涙を流した。どうして涙が流れるのかそのはっきりした理由が杉田自身にもわからなかった。洋子の心には杉田しかいなかったが、杉田の心には洋子とミエコの二人がいた。どちらかと言えばもちろん洋子の占める割合が圧倒的に多いと言えば多いのだが、この手紙を読んで泣いている今は圧倒的にミエコの姿が大きく心の中のスクリーンに映し出されている。人間の心というのは時に複雑な感情を持つことがあり、今杉田は今の自分にとって洋子とミエコの内一体どちらが大事なのだと泣いている自分に問いかけていた。果たして洋子を選んだという自分の選択がほんとに正しい事だったのかと杉田は悩んだ。洋子を選んだという行為の結果ミエコは去って行った。だが今自分はミエコが去って行ったという事に打ちひしがれている。これは一体どういう事なのだろう?自分はほんとに正しい選択をしたのだろうか?
手紙を受け取った翌日杉田は洋子に、ミエコが漫画家として生きていく為東京に行くという手紙を送って来たと告げた。すると洋子はさっき大学の事務室の近くでミエコに会ったと言った。なんでも大学に退学届けを出しに来たとの事で、ミエコは洋子に今回の事は気にしないでほしい、人間の気持ちというものはどうする事も出来ないしただ受け入れるしかない、自分はこれから自分がほんとうにやりたかった夢の道を歩むのだからこれで良かったのだと思っている、二人が幸せでいてくれる事を祈ってるからと言って去って行ったとの事だった─── 。
それから八ヶ月程過ぎた一九八〇年の五月中旬のある日の午後五時頃、洋子と杉田は先輩部員たちと共に軽音の練習場でツバサバンドのリハーサルをしていた。この大学では三回生が部長を務めるという事になっており(四回生になると就職その他の活動で多忙になる為)、山田は部長の座を降りて新たに三回生のベーシストの中村が部長になっていた。新部長の中村はツバサバンドのベーシストでもある。口数が少ない、もの静かな性格のやせ型で背が高い体形を持った温和な人柄の部長だった。去年の夏合宿が終わってからツバサバンドは山田を中心にしてオリジナルを創り始め、大体ひと月に一曲ぐらいの割合で完成させていき、今では七曲程完成させている。オリジナルナンバーは全て杉田と洋子が二人とも歌っており、洋子がリードボーカルだが曲によっては杉田のパートが多い、杉田のボーカルに比重が置かれている曲もあり、なかなかの出来に仕上がっていた。杉田はドラムだけでなく、ボーカルもなかなかのものだった。彼が歌うようになった経緯は、あるリハーサルの時に洋子が1時間ぐらい遅れて来て、その時時間つぶしに色んなスタンダードナンバーをやるという事で杉田が歌ってみたのだが、これがほんとに決まっていて渋いボーカルを披露してくれたので、それ以来オリジナルは2人とも歌う方針になったのだ。今八曲目の曲に取り組んでおり、この曲が完成したら本格的なデモテープを作ってライブハウスに持ち込んで本格的な活動をする予定でいた。山田は四回生になったが、就職活動は特にしない方針で、卒業したらアルバイトしながら音楽活動を続けるつもりだった。洋子も短大卒業後バンド活動を続けるつもりで、就職活動はしない心積もりだった。洋子と杉田のツインボーカルはほんとに強力で、山田は本格的にライブ活動を広げて行ってこのバンドでプロデビューをしたいと思っていた。この二人のボーカルがある限り無敵だと思った。
その日のリハーサルは午後七時頃終わった。私の下宿でご飯を食べていったらと洋子は杉田に言ったが杉田は今日は用事があると言って足早に帰って行った。
その翌日の午後四時頃練習場に向かうべく体育館のほうに歩いていた洋子の前に同じ学年の部員である村野が近づいて来て関西アクセントで言った。「なあ島崎ちょっと今話いいか?」
村野の話によると最近杉田が他の女の子とデートしているみたいだから気をつけた方がいい、よく考えた方がいいんじゃないかとの事だった。この一ヶ月の間に三回ほど喫茶店で女の子と話をしてるのを見かけた、毎回違う女の子だったと言った。
洋子は杉田から、結構女の子の方から告白されたり手紙をもらったりとかいったアプローチを受けるといった話は聞いていた。杉田はそういう事がある度に自分には付き合っている人がいるから受け入れられないと言ってやんわりと断っているとの事だったが、実際杉田はかなりの美男子で女の子の注目を引くのでそういう事が多い様だった。
洋子は次の日の夕方、ツバサバンドの練習が終わった後杉田にストレートに訊いてみた。すると杉田は「確かに喫茶店に行って話はしたよ。」と言った。「いやな、とにかく初めに無理やって断ってるんやで。だけど断ってもアプローチを続ける子が何人かおってな、その子らは彼女がいようがいまいが関係ない、とにかく一回話をさせてくださいって言うからまあ仕方なしに喫茶店行って話をしたんや。」
洋子は正直本当かなあと思ったが、今のところは信用するしかないと思って冷静を装い、ああそうなのと言った。正直なところ心の中は杉田にべた惚れと言ってもいい位熱烈に杉田の事を想ってるのだが、外見的には冷静を装った。しかし内心は決して穏やかとは言えなかった。
そうこうしてる内にツバサバンドは関西の色んなライブハウスに出演するようになり、最初は一九八〇年七月に京阪電車の枚方駅の近くにあるビーアップというライブハウスに出演し、八十年の十一月になる頃には大阪・京都・神戸にある結構大きな広さを持つライブハウスでライブをするようになった。十二月には週一の割合でライブをやり、大みそかの日には大阪の有名なライブスポットであるBハウスで色んなバンドと一緒にオールナイトライブをやって大いに盛り上がった。
洋子はオールナイトライブが終わった朝、一九八一年の元旦の朝に枚方に帰って荷物をまとめ、新大阪に向かい新幹線に乗って東京に里帰りして浅草で約一週間過ごした後一月八日に枚方に戻った。戻った翌日の一月九日の午後にツバサバンドのリハーサルに行こうと洋子が大学の体育館の方に向かって歩いていると部員の村野が近づいて来て言った。
「島崎、練習が終わったらちょっと電話してくれるか?杉田の事で言うといた方がいい話があるから。」
「話があるなら今ここで言ってよ。一体何?」
「いやここで言うのはちょっと無理や。結構込み入った話やし。」
「込み入った話って一体・・・」
「とにかく後でここに電話してくれ。杉田には言うなよ。」と言って村野は電話番号が書かれた小さな紙片を洋子に手渡した。
洋子はリハーサルをしながら杉田に言おうか言うまいか考えていたが結局杉田には村野が言った件に関し何も言わずにその日は別れた。夜の九時半頃洋子は下宿から村野に電話した。電話に出た村野は「明日の朝枚方のラブキャッスルというホテルの前で入り口を見張ってたら面白いものが見れるで。」と言った。
「一体何が見れるというのよ?」と洋子は少しむっとした感じで言った。ラブキャッスルというのはいわゆるラブホテルである。
「杉田のやつ最近目にあまる事やっとるから教えとこうと思ってな。」と村野は言った。「入り口のとこで見張ってたら杉田が女と一緒に出て来よるやろうから現場を押さえたらどうかと思ってな。」
「えっ!?」と洋子は絶句した。
「三十分ぐらい前に女と一緒に入って行くのを見たんや。ほんとかうそか明日の朝確かめたらええ。朝十一時チェックアウトやそうやから十一時前に行ったらええわ。」そう言うと村野は電話を切った。
洋子は受話器を置くと茫然とした表情で立ちつくした。暫くして気を取り直すと杉田の家に電話した。杉田の母が電話に出て、まだ家に帰っていないと告げた。どこに行ってるか御存じですかと訊くと、あの子は風来坊で何も言わずに帰って来ない事もよくあるんで全くわからないと洋子に言った。洋子は帰ってきたらすぐ電話してくれるようにお伝え下さい、かなり遅くなっても構わないんで、と告げて電話を切ったが、心の中は穏やかではなくかなり混乱していた。洋子は杉田を信じたかったし、いくら何でもそんな事をするはずがないと自分に言い聞かせるかの様につぶやいた。
結局杉田からの電話はなく、洋子は午前十一時前にホテルの入り口前に来ていた。十一時をちょっと過ぎた頃杉田が女の子と一緒に入り口から出て来たので洋子は絶句して思わずその場に膝をついてしまった。頭が混乱していて言葉を発する事が出来ない状態だったので物陰から出てその場をとり押さえる事が出来ず、膝をついて震える体を両手で懸命に押さえようとする事で精一杯だった。涙をボロボロと流しながら洋子は全身を震わせて杉田と女の子が通り過ぎていくのを黙って見ていた。一月の冷たい風が洋子を包み込んで洋子は自分がひどく惨めに思えた。これ以上はもう無理だ、と洋子は思った。
翌日の一九八一年一月十一日の日曜日の午後二時頃、洋子と杉田は学校の近くにある喫茶店で話をしていた。洋子が昨日ホテルから杉田と女の子が一緒に出てくるのを見たの、とストレートに切り出すと杉田はえっと言って一瞬慌てふためいた表情を見せたが、「ああそれはなあ・・・」と言って視線をちょっと横にずらして「何でまたホテルまで来たんや。」と続けた。
「何でまたって事はないでしょう。」洋子は非難するような目つきで杉田を見て言った。「もう言い訳は出来ないわよ。もう終わりね。」
「おいおいちょっと待ってくれよ。ほんまにお前凄い誤解してるわ。」杉田はため息をついて言った。「実はなあ洋子には言うてなかったけど俺あそこのホテルでバイトしてるんや。」
「あんなホテルでバイトしてるの?」
「いやまあ時給が結構いいバイトなんで去年の年末からやってたんや。」
「どうして女の子と一緒に出て来たの?」
「それはなあ、あの女の子が朝の十時半ぐらいにホテルに入って来て俺を呼び出して話がしたいって言うから、仕事終わるまで待ってくれって言うて仕事終わってから一緒に出て来たんや。」
「あの女の子は一体何なの?杉田があそこでバイトしてるのを知ってたわけ?」
「どこで聞いたんかは正直わからんけど、あの女の子は断ってもしつこくアプローチして来る女の子の一人でヒトミっていう名前の子や。」
「名前なんかどうでもいいけど、そもそも追い返さないで一緒に出て行って話をするっという事自体が問題じゃないの?」
「そうやろか。」
「そうやろかじゃないわよ。大きな誤解を招くような事は慎むべきだって思わないの?」
「まあでもこんなに熱心になって来る子を無下に追い返すのもかわいそうかなあとも思うし。」
「いやそれは間違った考えよ。ルール違反だわ。」
「そうかな。」
「何がそうかなよ。それはルール違反なの。わからないと言うならもう別れるしかないわ。」
「なあ島崎、もっと冷静になって考えた方がええで。お前のその考え方は相手を縛ってるっていう事がわからへんか?交際してる相手の考えを縛ったり拘束したりする権利はないと思うけどな。」
「杉田の言ってることが私には理解不能だわ。とにかくもうこれ以上付き合いを続けていく事は出来ないと思う。別れるしかないわ。」
杉田は腕組みをし、顔をやや下向き加減にして暫く考えていた。熟考の後口を開いて言った。「女の子とただ話をしただけやのにルール違反やなんて・・・」それから再度沈黙し、暫くしてから言った。「わかった。別れるしかないみたいやな・・。」
「・・・・わかってくれたならそれでいいわ。これからはただの普通の友達よ。私は私の道を行くし、杉田は杉田の道を行って。」
「・・・・・ほんとにそれでいいんか?俺はほんと残念に思う。」
「いいのよ。それじゃそういう事で。」と言って洋子は自分のコーヒー代をテーブルに置いて出て行った。杉田はぼーっとした様子で洋子が出て行った後の店の扉を見つめていた─── 。
下宿に戻ってから洋子は今までの事を色々振り返って本当にこれで良かったんだろうかと考えを巡らせた。杉田は多分嘘はついてはいないだろうとは思ったが、もてすぎる男性と付き合って色々やきもきするのはうんざりだった。だけど熱烈に恋をした素敵な男性を自分から放棄した様な感じになってしまって戸惑いを感じていたのも確かだった。杉田との色々な思い出を回想している内に洋子は涙が浮かんで来て止まらなくなり、嗚咽して泣いた。暫く大泣きした後洋子はバッドカンパニーのファーストアルバムをターンテーブルに乗せヘッドフォンをして聴いた。洋子がボーカルの師と仰ぐポールロジャースのバンド、バッドカンパニーの一枚目のアルバムはほんとに胸にぐっとくる曲が目白押しの名盤で、洋子が今最も気に入ってるアルバムである。すべての曲を聞き終わってから洋子は外に出て本屋に立ち寄った。いくつかの音楽雑誌をぱらぱらと立ち読みしていたのだが、とある音楽雑誌のバンド便りというページに、シルバーフレイムのボーカルが脱退したので新しいボーカリストを募集しているとの記事が出ていて、連絡先の住所と電話番号が載っていた。シルバーフレイムは東京出身のバンドで全国のライブハウスを回ってライブをしてたのだが、デビューアルバムのレコーディングを前に突然ボーカルが脱退してしまったので急遽新しいボーカルを募集という事だった。洋子はその音楽雑誌をレジに持って行き購入して下宿に帰るとすぐその連絡先に電話してみた。電話に出たのはリーダーの鈴木で、洋子がボーカリストのオーディションを受けさせて欲しいと告げると鈴木は女性の方は御遠慮願いたいと言ったので、洋子はお願いだから一回私のボーカルを聴いて欲しいと食い下がり、自分がシルバーフレイムの大ファンで、いかに自分がこのバンドに入りたいと思っているのかという事を情熱的に語って、男性に負けないレベルのパワフルなボーカルを披露出来る自信があるからとにかくオーディションに参加させて欲しいと必死に食い下がった。あまりに情熱的に押しまくられたので鈴木は根負けし、明日の晩の六時に東京の浅草のスタジオに来れるかと尋ねた。洋子は自分の実家が浅草にあり、今現在は関西の短大に通っているが明日上京してオーディションを受けるのは何も問題はありませんと答え、洋子のオーディション参加が決まった。
一九八一年一月十二日の月曜日の朝洋子は東京に向かう為新大阪から新幹線に乗った。お昼の十二時半ごろに東京駅に到着し、洋子はまず浅草の実家に立ち寄って何時間か過ごした後自宅から自転車で十五分位の所にあるオーディションが行われるスタジオに向かった。午後の五時五十分にスタジオに着くと、オーディションを受けに来たと思われる男性が五名ほどいた。六時になって一人ずつオーディションという事になって、洋子は一番最後に受ける事になった。オーディションに参加する男性五名と女性一名(洋子)は全員スタジオに入り一人ずつオーディションが進められて行った。さすがにシルバーフレイムという本格的なロックバンドのオーディションに来るだけあって男性五名のボーカルはそれぞれがなかなかのレベルを持った悪くないボーカルだった。だけど脱退したボーカルのレベルを持ってると思われるボーカリストは初めの二人だけで、あとの三人はちょっと迫力不足かなと洋子は思った。脱退した前の男性ボーカルが凄い声を持ったボーカルだったのでこれは致し方ないと言えばそうなのだが、新ボーカリストになるのにハードルはもの凄く高い様だった。
男性五人のオーディションが終わって最後に洋子の番という事になった。昨日の電話の時に告げられた課題曲はカルメンマキ&OZの「私は風」で、この曲は洋子にとってはオハコと言ってもいい曲で歌い慣れているので洋子には自信があった。シルバーフレイムのメンバーたちがイントロを演奏し、やがて洋子が歌い始めるとスタジオ内の空気が変わった。オーディションを受けに来た五人もそうだったが、歌が進むにつれてメンバーたちの顔色が変わって行った。スタジオ内にいる全ての人間が何か凄いものに遭遇した時に顔に出す驚愕の表情というか、戦慄を感じている表情と言ったらいいのか、そういう表情を浮かべていて、特にシルバーフレイムのメンバー達は最大限そういった表情を浮かべ、その演奏に熱い熱気を帯びて来ていた。スタジオにいる誰もが凄いよ凄いよと心の中で叫んでいる様な表情をしていた。洋子のボーカルは他のオーディション参加者達と比較して次元が違うと言っていいぐらい凄いものだった。誰もがそれを感じていた。メンバー達は熱くなってノリにのった演奏を繰り広げた。特にギターの鈴木は洋子に負けないぐらいの熱気を持って神がかった演奏を展開していた。
シルバーフレイムの楽器隊が曲の最後で壮大なエンディングを以って演奏を終えた時、周りで見ていた五人のオーディション参加者たちは歓声をあげながら大きな拍手をした。
拍手が鳴りやむ頃リーダーの鈴木が「・・・・いやあほんと凄いよ。俺ほんとに感動したよ。音楽をやっててほんとによかったと思う。正直今回いいボーカルに出会わなかったら音楽をやめようかなと思ってたし・・。ずっと一緒にやってきたボーカルが抜けて俺ほんとに落ちこんでたから。」と今にも感動で泣きそうな顔をして言った。「”私は風”を課題曲にしたのは、この曲は歌の難易度が高いから歌いこなせていないという理由で断れるだろうと思ってたからなんだけど、こんなに凄い歌を聞かせてくれるなんてほんと思ってもみなかった・・。」鈴木はちょっと沈黙してから真っ直ぐに洋子の目を見てこう言った。「あんたのボーカルに惚れたよ。お願いだから一緒にやってくれないか?」
シルバーフレイムに加入することを決めた洋子は翌日の一月十三日(火)に枚方の下宿にとんぼ帰りし、その翌日の一月十四日(水)の午後五時頃ツバサバンドのリーダーの山田と話をした。その日は練習の予定は無かったのだが、山田は大概毎日練習所に顔を出しているので多分いるだろうと思って訪ねていったのだ。洋子は杉田と別れた事とシルバーフレイムのオーディションを受け合格し、正式加入した事を告げた。山田は思ってもいなかった事を突然二つも告げられてえっと驚いた様な様子だったが、心が落ち着くと「そうか・・・・。」と言って暫く腕組みをして沈黙した。暫しの沈黙の後山田は言った。「杉田との事は君らがそう決めたのなら俺には何も言われへん。そんな風になるとは思ってもみなかったけど・・。シルバーフレイムに加入が決まった事に関しては良かったな、おめでとうと言わなあかんなとは思うけど、うちのバンドをやめなあかんというのはほんと残念やわ。」
「急な話でほんとにすまないと思ってます・・。だけど私ほんとにシルバーフレイムのやってる音楽が好きだし、本格的にプロとしてやっていきたいんです。」
「わかってる。もう何も言わんでええ。シルバーフレイムはほんとに成熟した大人のバンドやし、ツバサバンドはまだ始まったばかりでシルバーフレイムと比べたらほんまひよっこやから。」
「テクニック的には皆さんかなりのレベルで、シルバーフレイムの方々に劣るとは全然私思ってませんけど、オリジナルナンバーのレベルに関しては正直シルバーフレイムは凄いと思います。」
「それは俺もそう思ってる。あの人らはほんと完成されてるバンドや。洋子ちゃんにとって最も相応しいバンドはシルバーフレイムやと思う。」
山田は最後に洋子の手を取って、今までほんとにありがとう、洋子ちゃんと一緒にバンドがやれてほんとに楽しかったし、幸せやったわと今にも泣き出しそうな表情で言った。
洋子は私こそ皆さんと一緒にやれて幸せでしたと言い、この様にして洋子は軽音を退部し、ツバサバンドからも去ったのだった。
洋子が去った後ツバサバンドは暫く活動を停止して洋子の後釜となる女性ボーカリストを色んなツテで探し、時々オーディションもしたが洋子のレベルに匹敵するシンガーを見つける事が出来ず、結局一九八一年の三月初めに解散を決めた。解散してからメンバーはそれぞれ色んなバンドからの誘いがあったので、それぞれが別のバンドに加入し新たな音楽活動を始めようとしていた。洋子は二週間に一回リハーサルの為に東京に出向いたし、シルバーフレイムのメンバーの方も月に一回枚方の方に来て、ビジネスホテルや知り合いの家に泊まりながら枚方のスタジオでリハーサルをしたりした。本格的なレコーディングは三月下旬に洋子が短大を卒業し東京に戻ってから行う事になっていた。そうこうしている内にK大学とK短期大学の合同卒業式が一九八一年三月下旬のとある日に行われた。洋子は関西で過ごした二年間に思いをはせて、ほんとに充実した素晴らしい日々だったと思った。杉田とは別れる事になってしまったが、音楽活動に関してはほんとに充実していたし、ほんとに楽しかった───── 。関西で過ごした二年の日々を回想している内に堪らない程の名残惜しさの感情といったものが洋子の中で爆発し、洋子は涙を流した。さようなら私の関西、と洋子は心の中で関西に別れを告げた。リハーサルやレコーディングに関する打合せとかがびっしりと予定されているので卒業式の後洋子は下宿に帰り身支度をして、大家さん立ち合いのもと下宿を引き払った。大きな荷物とか本なんかは既に昨日送ったし、細かいものとかちょっとした家具なんかは四年制に通っている知り合いに譲ったりして下宿はがらんどうの状態になっていた。空っぽの部屋を背に大家さんに有難う御座いましたと言って洋子はスーツケース一つと肩にかける形式のバッグ一つを持ってタクシーに乗り、京阪の枚方駅に向かった。
────── 枚方駅に到着し、タクシーから降りて切符を買い電車に乗ろうと改札に向かって歩き出した洋子の前方二十メートル位の所に何と杉田が立っていた。杉田は無表情でまっすぐ洋子の方を見ていた。洋子は立ち止まってじっと杉田を見つめた。そのまま約二十秒位見つめ合った後洋子は向きを変えて改札口の中に入って行った。五分位して電車が来たので洋子は乗車し、空いていた席に腰掛けた。さっき見たのは現実だったのかそれとも幻影だったのか洋子にはわからなかった───── 。
──────「・・・・それが最後で、それ以来ずっと杉田には会っていなかったんだけど、先週の木曜日の午後一時位に杉田がふらーっとカジノに現れたの。久しぶりだなって言って。私ほんとに茫然としちゃって・・・・。杉田は何時に仕事が終わるんだって訊いて、私が五時よと言うと、話がしたいから終わったら入り口の所まで来てくれと言って去っていったの。それで五時過ぎに入り口の所に行ったら杉田が待ってて、近くにあるバーガーショップに入って話をしたの。それでね、色んな話をしたんだけど、杉田が言うにはね────」─────── 杉田が言った事をまとめると次のようになる:
──── それは一九九三年八月二十一日の土曜日の午後四時頃の事であった。凄く暑い日々が続いていたのだが、この日に限ってはいくらかましな暑さになっていた。杉田は用事で大阪市内に出ていて、その帰りにJR大阪環状線に乗っていたのだがふと思いついて玉造(たまつくり)駅で下車した。なぜ玉造駅で下車しようと思ったのかその明確な理由というものは無かったのであるが、ただ何となく何かに引き寄せられる様な感じで杉田は下車した。下車してからこれまた何かに引き寄せられる様な感じで駅前の商店街に入り、商店街の中の本屋で足を止め本を立ち読みし始めた。
(つづく)
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