尽くしてきた婚約者に裏切られたので、婚約を解消しました〜彼が愛に気づいたのは、すべてを失ったあとでした〜

ともどーも

文字の大きさ
35 / 82
第一章

三十四話 旅立ちの日、遅れた男

 港は、朝の喧騒で満ちていた。
 潮の匂い。荷車の軋む音。船員の怒鳴り声。
 そのすべてを押しのけるように、ひときわ乱暴な足音が、石畳を叩く。
 
 ディートリッヒ・ヴァルデンベルク。
 
 黒い外套の裾を翻し、人波を割って走る。
 額には汗が滲み、呼吸は荒い。

 (どこだ。いるはずだ。いるに決まっている)
 
 胸の奥が、嫌な予感でじわじわと湿っていく。
 それを振り払うように、ディートリッヒは視線を港中へ走らせた。
 
 (俺の許可なく、離れることは許さない)
 
 そのとき。
 
 港の端、船着場に近い場所に止められた馬車が目に入る。
 男爵家の紋章。 
 
 喉が鳴る。
 駆け寄る。
 
 そして──見つけた。
 
 潮風に外套を揺らし、静かに立つ男。
 シュタール男爵。
 
 こちらを真っすぐ見ている。
 逃げも隠れもしない、その視線が、逆に腹立たしい。
 ディートリッヒは息を整える間もなく、吐き捨てた。
 
「イリスはどこだ」
 
 男爵は、人好きのする穏やかな声で答えた。
「これはヴァルデンベルク卿」
 いつもの声色に、口調。
 それが、余計に苛立ちを煽る。
 
「ここで会うとは奇遇ですな」
 ディートリッヒは歯を噛み、声を低くした。
「イリスはどこへ行った!」
 男爵は、わずかに眉を動かす。
 
「……答える義理はない」
 
 周囲の視線が、じわじわと集まってくる。
 警戒と、嫌悪に近いものだ。
 
「俺は婚約者だ。会わせろ」
 男爵の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「元、だろう」
 一拍。
 胸の中に、冷たい刃が滑り込んだ。
 
「……何を言っている」
「聞こえなかったか」
 男爵は、あくまで穏やかに言う。
「元婚約者殿」
 
 ディートリッヒの顔が、わずかに歪んだ。 
「それはイリスが勝手に──」
「すでに正式な手続きを終えている」
 その淡々とした声が、異様に重い。
 ディートリッヒの拳が、ぎゅっと握られる。
 指先が白くなる。
 
「……イリスに会わせろ」
 男爵は、短く息を吐いた。
 それがディートリッヒの怒りを増幅し、男爵に掴みかかろうと手に力が入った、その瞬間。
 
「ディートリッヒ!」
 
 甘ったるい声が、港の喧噪を切り裂いた。
 振り向くと、派手な色のドレスを纏ったエレノアが、息を切らして駆け寄ってくる。
 
 そう。さっきまでディートリッヒの馬車を追っていたのは、エレノアだったのだ。
 
 エレノアは、泣きそうな顔を作って胸元に手を当てた。
「やっと追い付けた。ねえ、イリスはどこ?あの子、私とディートリッヒのことを誤解して実家に帰ったのでしょ?だから誤解を解きに来たの」

 彼は苛立ちを噛み殺しながら言った。
「どうしてここに?王都へ帰ったはず」
「二人が心配で……」
 エレノアはディートリッヒの腕に縋りつく。
「誤解は二人で解けば──」
「離れろ」
 低い声。
 それでもエレノアは、離れない。 
 周囲のざわめきが大きくなる。

「これはこれは、ブランシェット嬢」
 男爵は先程と同じように、穏やかな声で話しかけた。
「男爵領へようこそ」
 
 エレノアは少し顎を上げて微笑む。
「あら男爵。ごきげんよう。お久しぶりですわ」
 男爵は軽く頷いた。
 
「ところで」
 何気ない調子で続ける。
「ブランシェット嬢は、本日はどのようなご用件で?」
 エレノアは、ちらりとディートリッヒを見る。
 そして、わざとらしく困った顔を作った。
 
「イリスが、私とディートリッヒの関係を誤解してしまって……」
 その言葉に。
 男爵の眉が、ぴくりと動いた。

「ほう、誤解」
「二人が喧嘩したのは私のせいだもの。このまま二人が別れたと思うと、私、胸が痛くて……」
 わざとらしい嘘泣きを披露する。

「そうでしたか。心優しいのですね」
「いえ、そんな……」
 褒められたと思ったのか、エレノアは少し口元を緩めた。
 
「ですが、残念です」

 一拍。
 男爵は、ゆっくりと息を吐いた。
 
「娘は婚約を解消しました」
 穏やかな声のまま、はっきりと言う。
 周囲の音が、すっと遠のいた。
 
「……え?」
 エレノアの声が、裏返る。
 ディートリッヒの顔から、血の気が引いた。
 
「正式な書類も受理されております」
 
 男爵は淡々と続ける。
「もはや、ヴァルデンベルク卿と娘の間に、婚約関係は存在しません」
 エレノアはゆっくりと、腫れ物を見るような視線で、ディートリッヒを見た。
 けれど、その奥に──小さな喜びが潜んでいるのが、ありありと分かった。
 
 ディートリッヒは、ぎりっ、と奥歯を噛み締めた。
 拳が、震えている。
 白くなるほど、強く。 
 怒りと、屈辱が混ざった目で男爵を見る。
 
 男爵は、それを真正面から受け止めたまま、朗らかに笑った。
 
「次こそは、『相思相愛』の方とご結婚下さい。──娘は、その枠にはもう戻りませんので」
 
 祝福の形をした刃が、静かに突き刺さる。
 ディートリッヒの喉が鳴った。
 声が、低く落ちる。
「……俺のものだ」
 呟きは、潮風に紛れていく。

 男爵は、穏やかに──けれど逃げ場のない温度で告げた。 
「……娘は、君の元には戻らんよ」
 その瞬間。
 海の彼方で、船の汽笛がひとつ、静かに鳴った。
感想 289

あなたにおすすめの小説

文句を言わない婚約者は、俺の愛する幼馴染みを許していなかった【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
幼馴染を優先しても、婚約者アウローラは何も言わない。だから、これからも幼馴染みとイチャイチャできる── 侯爵令息トリスタンは、そんな甘い幻想を信じていた。 だが婿入りした瞬間、彼の“軽んじた態度”はすべて清算される。 アウローラは冷徹に、トリスタンの傲慢と欲望を1つずつ暴き、労働と屈辱を与える。 そして最後に残ったのは、誰にも必要とされない現実だけ。 「どうして……俺は、こんなにも愚かだったんだ」 これは愛を勘違いし、身分を過信し、自分の価値を見誤った男の終焉を描くダークドラマ。 ⚠️ 本作は AI の生成した文章を一部に使っています。過激ざまぁタグあります。 4/1「エステルに対する殺意」の内容を一部変更しました。

私を裏切った不倫夫に「どなたですか?」と微笑むまで 〜没落令嬢の復讐劇〜

恋せよ恋
恋愛
「早くあんな女と別れて、可愛い子と一緒になりたいよ」 不倫中の夫が笑う声を聞き、絶望の中で事故に遭うジェシカ。 結婚五年目に授かったお腹の子を失った彼女は、 「記憶を失ったフリ」で夫と地獄の婚家を捨てることを決意。 元男爵令嬢の薄幸ヒロインは、修道院で静かに時を過ごす。 独り身領主の三歳の男の子に懐かれ、なぜか領主まで登場! 無実の罪をなすりつけ、私を使い潰した報いを受けなさい。 記憶喪失を装った没落令嬢による、「ざまぁ」が幕を開ける! ※本作品には、馬車事故による流産の描写が含まれます。  苦手な方はご注意ください。主人公が絶対に幸せになる  物語ですので、安心してお読みいただければ幸いです。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

夫は私を愛していないそうなので、遠慮なく離婚します。今さら引き止められても遅いです

藤原遊
恋愛
王妃付き護衛騎士である夫に、「お前を愛したことはない」と告げられた。 理由は単純。 愛などなくても、仕事に支障はないからだという。 ──そうですか。 それなら、こちらも遠慮する必要はありませんね。 王妃の機嫌、侍女たちとの関係、贈り物の選定。 夫が「当然のように」こなしていたそれらは、すべて私が整えていたもの。 離婚後、少しずつ歯車は狂い始める。 気づいたときにはもう遅い。 積み上げてきた信用は、静かに崩れていく。 一方で私は、王妃のもとへ。 今さら引き止められても、遅いのです。

〖完結〗では、婚約解消いたしましょう。

藍川みいな
恋愛
三年婚約しているオリバー殿下は、最近別の女性とばかり一緒にいる。 学園で行われる年に一度のダンスパーティーにも、私ではなくセシリー様を誘っていた。まるで二人が婚約者同士のように思える。 そのダンスパーティーで、オリバー殿下は私を責め、婚約を考え直すと言い出した。 それなら、婚約を解消いたしましょう。 そしてすぐに、婚約者に立候補したいという人が現れて……!? 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話しです。

あなたの言うことが、すべて正しかったです

Mag_Mel
恋愛
「私に愛されるなどと勘違いしないでもらいたい。なにせ君は……そうだな。在庫処分間近の見切り品、というやつなのだから」  名ばかりの政略結婚の初夜、リディアは夫ナーシェン・トラヴィスにそう言い放たれた。しかも彼が愛しているのは、まだ十一歳の少女。彼女が成人する五年後には離縁するつもりだと、当然のように言い放たれる。  絶望と屈辱の中、病に倒れたことをきっかけにリディアは目を覚ます。放漫経営で傾いたトラヴィス商会の惨状を知り、持ち前の商才で立て直しに挑んだのだ。執事長ベネディクトの力を借りた彼女はやがて商会を支える柱となる。  そして、運命の五年後。  リディアに離縁を突きつけられたナーシェンは――かつて自らが吐いた「見切り品」という言葉に相応しい、哀れな姿となっていた。 *小説家になろうでも投稿中です

婚約者の態度が悪いので婚約破棄を申し出たら、えらいことになりました

神村 月子
恋愛
 貴族令嬢アリスの婚約者は、毒舌家のラウル。  彼と会うたびに、冷たい言葉を投げつけられるし、自分よりも妹のソフィといるほうが楽しそうな様子を見て、アリスはとうとう心が折れてしまう。  「それならば、自分と妹が婚約者を変わればいいのよ」と思い付いたところから、えらいことになってしまうお話です。  登場人物たちの不可解な言動の裏に何があるのか、謎解き感覚でお付き合いください。   ※当作品は、「小説家になろう」、「カクヨム」にも掲載しています

「義妹に譲れ」と言われたので、公爵家で幸せになります

恋せよ恋
恋愛
「しっかり者の姉なら、婚約者を妹に譲ってあげなさい」 「そうだよ、バネッサ。君なら、わかるだろう」 十五歳の冬。父と婚約者パトリックから放たれた無慈悲な言葉。 再婚相手の連れ子・ナタリアの図々しさに耐えてきたバネッサは、 その瞬間に決意した。 「ええ、喜んで差し上げますわ」 将来性のない男も、私を軽んじる家族も、もういらない。 跡継ぎの重責から解放されたバネッサは、その類まれなる知性を見込まれ、 王国の重鎮・ヴィンセント公爵家へ嫁ぐことに。 「私は、私を一番に愛してくれる場所で幸せになります!」 聡明すぎる令嬢による、自立と逆転のハッピーエンド。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!

【完結】側妃は愛されるのをやめました

なか
恋愛
「君ではなく、彼女を正妃とする」  私は、貴方のためにこの国へと貢献してきた自負がある。  なのに……彼は。 「だが僕は、ラテシアを見捨てはしない。これから君には側妃になってもらうよ」  私のため。  そんな建前で……側妃へと下げる宣言をするのだ。    このような侮辱、恥を受けてなお……正妃を求めて抗議するか?  否。  そのような恥を晒す気は無い。 「承知いたしました。セリム陛下……私は側妃を受け入れます」  側妃を受けいれた私は、呼吸を挟まずに言葉を続ける。  今しがた決めた、たった一つの決意を込めて。 「ですが陛下。私はもう貴方を支える気はありません」  これから私は、『捨てられた妃』という汚名でなく、彼を『捨てた妃』となるために。  華々しく、私の人生を謳歌しよう。  全ては、廃妃となるために。    ◇◇◇  設定はゆるめです。  読んでくださると嬉しいです!