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第一章
三十四話 旅立ちの日、遅れた男
港は、朝の喧騒で満ちていた。
潮の匂い。荷車の軋む音。船員の怒鳴り声。
そのすべてを押しのけるように、ひときわ乱暴な足音が、石畳を叩く。
ディートリッヒ・ヴァルデンベルク。
黒い外套の裾を翻し、人波を割って走る。
額には汗が滲み、呼吸は荒い。
(どこだ。いるはずだ。いるに決まっている)
胸の奥が、嫌な予感でじわじわと湿っていく。
それを振り払うように、ディートリッヒは視線を港中へ走らせた。
(俺の許可なく、離れることは許さない)
そのとき。
港の端、船着場に近い場所に止められた馬車が目に入る。
男爵家の紋章。
喉が鳴る。
駆け寄る。
そして──見つけた。
潮風に外套を揺らし、静かに立つ男。
シュタール男爵。
こちらを真っすぐ見ている。
逃げも隠れもしない、その視線が、逆に腹立たしい。
ディートリッヒは息を整える間もなく、吐き捨てた。
「イリスはどこだ」
男爵は、人好きのする穏やかな声で答えた。
「これはヴァルデンベルク卿」
いつもの声色に、口調。
それが、余計に苛立ちを煽る。
「ここで会うとは奇遇ですな」
ディートリッヒは歯を噛み、声を低くした。
「イリスはどこへ行った!」
男爵は、わずかに眉を動かす。
「……答える義理はない」
周囲の視線が、じわじわと集まってくる。
警戒と、嫌悪に近いものだ。
「俺は婚約者だ。会わせろ」
男爵の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「元、だろう」
一拍。
胸の中に、冷たい刃が滑り込んだ。
「……何を言っている」
「聞こえなかったか」
男爵は、あくまで穏やかに言う。
「元婚約者殿」
ディートリッヒの顔が、わずかに歪んだ。
「それはイリスが勝手に──」
「すでに正式な手続きを終えている」
その淡々とした声が、異様に重い。
ディートリッヒの拳が、ぎゅっと握られる。
指先が白くなる。
「……イリスに会わせろ」
男爵は、短く息を吐いた。
それがディートリッヒの怒りを増幅し、男爵に掴みかかろうと手に力が入った、その瞬間。
「ディートリッヒ!」
甘ったるい声が、港の喧噪を切り裂いた。
振り向くと、派手な色のドレスを纏ったエレノアが、息を切らして駆け寄ってくる。
そう。さっきまでディートリッヒの馬車を追っていたのは、エレノアだったのだ。
エレノアは、泣きそうな顔を作って胸元に手を当てた。
「やっと追い付けた。ねえ、イリスはどこ?あの子、私とディートリッヒのことを誤解して実家に帰ったのでしょ?だから誤解を解きに来たの」
彼は苛立ちを噛み殺しながら言った。
「どうしてここに?王都へ帰ったはず」
「二人が心配で……」
エレノアはディートリッヒの腕に縋りつく。
「誤解は二人で解けば──」
「離れろ」
低い声。
それでもエレノアは、離れない。
周囲のざわめきが大きくなる。
「これはこれは、ブランシェット嬢」
男爵は先程と同じように、穏やかな声で話しかけた。
「男爵領へようこそ」
エレノアは少し顎を上げて微笑む。
「あら男爵。ごきげんよう。お久しぶりですわ」
男爵は軽く頷いた。
「ところで」
何気ない調子で続ける。
「ブランシェット嬢は、本日はどのようなご用件で?」
エレノアは、ちらりとディートリッヒを見る。
そして、わざとらしく困った顔を作った。
「イリスが、私とディートリッヒの関係を誤解してしまって……」
その言葉に。
男爵の眉が、ぴくりと動いた。
「ほう、誤解」
「二人が喧嘩したのは私のせいだもの。このまま二人が別れたと思うと、私、胸が痛くて……」
わざとらしい嘘泣きを披露する。
「そうでしたか。心優しいのですね」
「いえ、そんな……」
褒められたと思ったのか、エレノアは少し口元を緩めた。
「ですが、残念です」
一拍。
男爵は、ゆっくりと息を吐いた。
「娘は婚約を解消しました」
穏やかな声のまま、はっきりと言う。
周囲の音が、すっと遠のいた。
「……え?」
エレノアの声が、裏返る。
ディートリッヒの顔から、血の気が引いた。
「正式な書類も受理されております」
男爵は淡々と続ける。
「もはや、ヴァルデンベルク卿と娘の間に、婚約関係は存在しません」
エレノアはゆっくりと、腫れ物を見るような視線で、ディートリッヒを見た。
けれど、その奥に──小さな喜びが潜んでいるのが、ありありと分かった。
ディートリッヒは、ぎりっ、と奥歯を噛み締めた。
拳が、震えている。
白くなるほど、強く。
怒りと、屈辱が混ざった目で男爵を見る。
男爵は、それを真正面から受け止めたまま、朗らかに笑った。
「次こそは、『相思相愛』の方とご結婚下さい。──娘は、その枠にはもう戻りませんので」
祝福の形をした刃が、静かに突き刺さる。
ディートリッヒの喉が鳴った。
声が、低く落ちる。
「……俺のものだ」
呟きは、潮風に紛れていく。
男爵は、穏やかに──けれど逃げ場のない温度で告げた。
「……娘は、君の元には戻らんよ」
その瞬間。
海の彼方で、船の汽笛がひとつ、静かに鳴った。
潮の匂い。荷車の軋む音。船員の怒鳴り声。
そのすべてを押しのけるように、ひときわ乱暴な足音が、石畳を叩く。
ディートリッヒ・ヴァルデンベルク。
黒い外套の裾を翻し、人波を割って走る。
額には汗が滲み、呼吸は荒い。
(どこだ。いるはずだ。いるに決まっている)
胸の奥が、嫌な予感でじわじわと湿っていく。
それを振り払うように、ディートリッヒは視線を港中へ走らせた。
(俺の許可なく、離れることは許さない)
そのとき。
港の端、船着場に近い場所に止められた馬車が目に入る。
男爵家の紋章。
喉が鳴る。
駆け寄る。
そして──見つけた。
潮風に外套を揺らし、静かに立つ男。
シュタール男爵。
こちらを真っすぐ見ている。
逃げも隠れもしない、その視線が、逆に腹立たしい。
ディートリッヒは息を整える間もなく、吐き捨てた。
「イリスはどこだ」
男爵は、人好きのする穏やかな声で答えた。
「これはヴァルデンベルク卿」
いつもの声色に、口調。
それが、余計に苛立ちを煽る。
「ここで会うとは奇遇ですな」
ディートリッヒは歯を噛み、声を低くした。
「イリスはどこへ行った!」
男爵は、わずかに眉を動かす。
「……答える義理はない」
周囲の視線が、じわじわと集まってくる。
警戒と、嫌悪に近いものだ。
「俺は婚約者だ。会わせろ」
男爵の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「元、だろう」
一拍。
胸の中に、冷たい刃が滑り込んだ。
「……何を言っている」
「聞こえなかったか」
男爵は、あくまで穏やかに言う。
「元婚約者殿」
ディートリッヒの顔が、わずかに歪んだ。
「それはイリスが勝手に──」
「すでに正式な手続きを終えている」
その淡々とした声が、異様に重い。
ディートリッヒの拳が、ぎゅっと握られる。
指先が白くなる。
「……イリスに会わせろ」
男爵は、短く息を吐いた。
それがディートリッヒの怒りを増幅し、男爵に掴みかかろうと手に力が入った、その瞬間。
「ディートリッヒ!」
甘ったるい声が、港の喧噪を切り裂いた。
振り向くと、派手な色のドレスを纏ったエレノアが、息を切らして駆け寄ってくる。
そう。さっきまでディートリッヒの馬車を追っていたのは、エレノアだったのだ。
エレノアは、泣きそうな顔を作って胸元に手を当てた。
「やっと追い付けた。ねえ、イリスはどこ?あの子、私とディートリッヒのことを誤解して実家に帰ったのでしょ?だから誤解を解きに来たの」
彼は苛立ちを噛み殺しながら言った。
「どうしてここに?王都へ帰ったはず」
「二人が心配で……」
エレノアはディートリッヒの腕に縋りつく。
「誤解は二人で解けば──」
「離れろ」
低い声。
それでもエレノアは、離れない。
周囲のざわめきが大きくなる。
「これはこれは、ブランシェット嬢」
男爵は先程と同じように、穏やかな声で話しかけた。
「男爵領へようこそ」
エレノアは少し顎を上げて微笑む。
「あら男爵。ごきげんよう。お久しぶりですわ」
男爵は軽く頷いた。
「ところで」
何気ない調子で続ける。
「ブランシェット嬢は、本日はどのようなご用件で?」
エレノアは、ちらりとディートリッヒを見る。
そして、わざとらしく困った顔を作った。
「イリスが、私とディートリッヒの関係を誤解してしまって……」
その言葉に。
男爵の眉が、ぴくりと動いた。
「ほう、誤解」
「二人が喧嘩したのは私のせいだもの。このまま二人が別れたと思うと、私、胸が痛くて……」
わざとらしい嘘泣きを披露する。
「そうでしたか。心優しいのですね」
「いえ、そんな……」
褒められたと思ったのか、エレノアは少し口元を緩めた。
「ですが、残念です」
一拍。
男爵は、ゆっくりと息を吐いた。
「娘は婚約を解消しました」
穏やかな声のまま、はっきりと言う。
周囲の音が、すっと遠のいた。
「……え?」
エレノアの声が、裏返る。
ディートリッヒの顔から、血の気が引いた。
「正式な書類も受理されております」
男爵は淡々と続ける。
「もはや、ヴァルデンベルク卿と娘の間に、婚約関係は存在しません」
エレノアはゆっくりと、腫れ物を見るような視線で、ディートリッヒを見た。
けれど、その奥に──小さな喜びが潜んでいるのが、ありありと分かった。
ディートリッヒは、ぎりっ、と奥歯を噛み締めた。
拳が、震えている。
白くなるほど、強く。
怒りと、屈辱が混ざった目で男爵を見る。
男爵は、それを真正面から受け止めたまま、朗らかに笑った。
「次こそは、『相思相愛』の方とご結婚下さい。──娘は、その枠にはもう戻りませんので」
祝福の形をした刃が、静かに突き刺さる。
ディートリッヒの喉が鳴った。
声が、低く落ちる。
「……俺のものだ」
呟きは、潮風に紛れていく。
男爵は、穏やかに──けれど逃げ場のない温度で告げた。
「……娘は、君の元には戻らんよ」
その瞬間。
海の彼方で、船の汽笛がひとつ、静かに鳴った。
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