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4月
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しおりを挟む「ふー…あ、」
素面の松井が家の駐車場へ車を入れると、玄関前で先に着いた奈々が待ち構えていた。
「おかえり、ね、明日私も休みなの……呑まない?どっちかの部屋で」
「なら…僕の部屋で」
「うん、」
奈々は買い物袋に缶チューハイを数本買ってきていて、鍵を開けた松井は袋ごと受け取って彼女を先に上がらせる。
グラスに氷、腹はいっぱいだがアテが無ければ悪酔いしてしまう。松井は冷蔵庫からハムとチーズの切れ端ストックを出して座卓へ並べた。
「美味しー……ねェ松井くん、下の名前…あの字、なんて読むの?」
「『あきら』ですよ、読めませんよね」
「旭くんね、うん…ごめんね、名刺には振り仮名書いてないから…ずっと気にはなってたの。…今日からはそう呼ぶわ、旭くん」
どういった風の吹き回しか、友人にも滅多に呼ばれることがないその名前の響きがくすぐったくて心地よい。
「家族くらいにしか呼ばれないから…新鮮ですね」
「ふふ…ねェ、私のことも名前で呼んでいいわよ、『ナナ』って」
「んー…ナナさん、かな」
日頃から後輩たちの名前は散々呼び捨てしてきたのに、上司は同じようにはいかなかった。
立場上が半分、照れ臭いのが半分である。なんせ謹慎前のあの騒動の時、松井は「ナナに余興をさせたくない」とはっきり伝えているし、明らかに個人的に彼女を守りたい旨をバラしてしまっているのだ。
有給消化中は自宅でも接触が無かったから彼女の反応は今日まで何も聞いていない。保険張りの松井が好意をダダ漏れにしてしまったことについて奈々はどう思っているのか…本人には怖くて尋ねられるはずもなかった。
「うん、親しみが湧いていいわね…敬語もやめない?」
「それは難しいですね…刷り込みというか…敬っちゃってるんで…」
「じゃあ徐々に抜いていってね」
既に2本目、春限定のさくらんぼ味のカクテルをグラスに半分ずつ開けるとその淡いピンク色に感嘆し、奈々は赤い唇をそっと付ける。
「はい…?」
「旭くんはさ、私のこと…上司だって思ってるからお姉さんみたいな逆らえない存在って思っちゃってるんでしょ?」
「まぁ…実際年上ですし」
実績・性格・年齢・雰囲気、何を取ってもこの人より上位に立てる気がしない。松井にとって好意を寄せた後でも奈々はそのような存在であった。
「おばさん扱いしないで、1~2歳なんて変わらないじゃない。年下が好きなのかもしれないけど…」
「そんなことないですよ…うん…」
「私、もう上司じゃないわ」
コタツとして使っていた大きめの座卓に腕を組み、その上にずしりと大きな胸を置き…奈々は小首を傾げて誘い文句とも取れる甘い言葉を告げる。
「…は、い、」
「わかる?対等よ、」
「はぁ、」
酔いの回った瞳、アルコールに濡れる唇。
第2ボタンまで外したけしからん胸元、目の前で起こっている事態は夢か現か…魔法使いの松井には判断がつかない。
「漢見せてね、旭くん」
「待って、ナナさん、」
「待つわよ、なぁなぁな付き合いって嫌なの。ちゃんとケジメはつけてくれなきゃ嫌」
「あの、」
要旨は分かるのだが詳細が分からない。まず何をすべきなのか、「漢を見せる」がどこまでを指しているのか。告白か、セックスまで含まれているのか。手を出さねば失礼か、奈々は自分を好いてくれているのか。
これまでにそのような片鱗は見られたか?勘違いか?初めてのことに松井の思考回路が煙を上げ始める。
「ハッキリ言っておくわ。私、そろそろ彼氏を作ろうかと思ってる。募集中よ、」
「ナナさん、」
「一緒にご飯作ったり、美味しいって食べさせ合ったり、虐げることもこっちが謙ることもなく対等な…そんな男性と付き合いたいわ」
試すように、窺うように、目線を逸らせば座卓へ乗り出し…奈々は片頬杖をついて松井の泳ぐ視線を捕まえた。
「それは」
「武闘派もいいけど理知的で戦略家で…人を手玉に取って操るくらいの狡猾さもあってもいいわね、それを私にされたら嫌だけど♡」
「なん…?」
「ビビりでヘタレで、でもすごく頼もしいところもあって…人を助けたり後輩に頼りにされたり…下手な謙遜はしない、自分に自信がある人、」
挙手制ですか、話の腰を折ってもいいんでしょうか…自己評価と他者評価、自分が思う自己像と開きのある奈々の松井像にくらくらする。
「あの」
「でも女性には自信がないの、そこが可愛い…どこかに…そんな人、いないかしら?」
「な、ナナさん、あの…」
松井はついにずいずい近づいてくる奈々の顔の前に両手を張り、座るように促せば彼女は素直に尻をクッションへ降ろした。
「なーに?旭くん」
「あ…」
ここまで言っておいて断るとかない?成功率は100%?確証は?これは自分のことを言っている?酒の力もあって松井は顔を真っ赤にして黙り込み、数回深呼吸をしてから奈々へ向き直った。
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