Fragment-memory of lilac-

黒乃

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第三話

第五十一節 愛らしさ

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 大雨の街の中、ヤクはレイを背負って歩いていた。レイが履いていた靴は既に壊れかけていて、雨で濡れた道を歩かせるのは酷だと判断したのだ。それにヤクが来るまで動かずに蹲っていたということは、疲れが溜まっている可能性も考えられた。背負っているレイがなるべく雨に濡れないようにと、傘を後方に動かす。その分自分が濡れてしまうが、構わなかった。
 自分に背負われているレイからは、警戒心は感じられない。背負われていることに、完全に心を許しているようだった。自分が落ちないようにとヤクの服をしっかりと掴んでいる感覚を、確かに覚える。

「どこ、行くの?」
「孤児院だ」
「こじいん?」
「そうだ。お前と同じような子供のいるとても温かい場所だ」

 ヤクの言葉は理解できているらしい。小さな笑い声が聞こえた後、背中に顔を擦り付けられる。怖がっていないところを見ると、なんて肝が据わっている子供だと驚かされる。孤児院に到着するまで、彼についてもう少し詳細を知りたいところだ。

「……レイ、少し質問してもいいか?」
「うん!」
「今年で何歳になった?」
「八さい!」
「もう一度聞くが、親のことは覚えていないのか?」

 その質問に対して、レイは少々唸ってから弱弱しく、わからないと告げた。親がどういう存在であるかはわかるが、自分にいたのかどうかは覚えていない、とのこと。加えて彼は今まで自分がどこにいたのか、何故あの路地裏にいたのか、それら一切の理由が分からないのだと答えた。
 ちら、とレイのずぶ濡れになった足を見る。ところどころに擦過傷はあるものの、大きな怪我はしていないようだ。最初に顔を見たときも、傷を負っている様子もなかったことから、実験動物にされていた可能性は極めて低いと考えられる。
 さらに人懐っこいところを見るに、今まで誰かに危害を加えられていたわけでもなさそうだ。路地裏にいたという点を除いては、この子は随分と救われているのかもしれない。そのことに一人、安堵のため息を吐く。

 時折会話を交わしながら歩き、ようやく孤児院に到着した。ルーヴァと別れた時刻が午後の三の時くらいだったはずだから、今の時刻は夕方くらい、だろうか。玄関の扉を開けてレイを下ろしたり荷物を整理したりしていたところに、ここの孤児院の院長であるリゲルが、出迎えてくれた。彼とも、半年ぶりの再会だ。

「ああ、ヤク。おかえり」
「院長先生……」
「色々話したいこともあるだろうが、その子は?」

 リゲルがレイを見る。積もる話もあるだろうが、確かにまずは彼についての保護の話が先だ。ヤクは軽く頭を振ってから、まずはこの子供が路地裏にいたことを説明する。迷子とも考えたが、その割には親を探そうという気概が彼から見られなかったことも含めたヤクの説明に、リゲルも状況を理解したのだろう、彼はレイに向かって微笑み、優しく声をかけた。

「はじめまして、レイ。私の名前はリゲルだ、よろしく」
「よろしくお願いします!……クシッ!」

 リゲルに対して明るく返事を返したレイだが、雨に濡れて身体も冷えていたのだろう。一つくしゃみをして、腕をさすった。まずは体を温めないといけない、ということで共に風呂に入ることを勧められる。
 リゲルに指摘されて気付いたが、ヤクの身体もかなり雨に打たれていたらしい。どうりで先程から、前髪から水滴が滴り落ちていたわけだ。玄関前で話していた一向だったが、孤児院の奥からまた別の人物が出迎えに来る。スグリだった。

「あ……」

 スグリは自分たちを一瞥して、状況を理解したのだろう。ヤクが持ってきた荷物を代わりに持ち、一言告げられる。

「着替え、あとで脱衣所に持っていくから。その子と先に風呂に入れ」
「ぁ……すまない。ありがとう……」

 礼を述べるが、今スグリとは目を合わせられなかった。ヤクの言葉を聞いたスグリは、ん、と短く返事を返してから膝を折る。レイと向き合い、笑顔で彼に話しかけた。

「はじめまして、俺はスグリ・ベンダバルだ。お前、名前は?」
「はじめまして!おれはレイ・アルマ!」
「お、いい返事だな。レイ、随分と濡れて身体も冷えているだろうから、風呂入ってあったまってこい」
「お風呂?」
「ああ。暖かくて気持ちよくて、綺麗になれるぞ」
「……!行きたい!」
「なら、そこの兄ちゃんに案内してもらえ」
「うん!」

 彼らのやりとりを見て、思い出す。昔からスグリは年下の子供の面倒見がいいし、扱いに慣れている。初対面のレイとも、あっという間に打ち解けていた。レイはと言えば、ヤクの服を掴み期待の眼差しで自分を見つめてくる。そんな笑顔で見つめられてしまえば、断ることもできない。わかった、と告げて彼を抱えると、脱衣所まで向かった。

 脱衣所で濡れた服を脱いで、お湯で一度身体を流してから湯船に浸かる。体内を巡るマナの量が多くなった影響で、ヤクは一般の人間よりも体温の低い身体になった。最初こそ驚きはしたが、訓練を積み重ねるうちにもはや慣れてしまった。
 雨に濡れてさらに冷えた身体に湯船の温度は熱く感じたが、我慢できる範囲だ。ヤクの横に並ぶようにして湯船に浸かるレイを見れば、気持ちよさそうに目を細めている。苦労なんて何にも知らなさそうなその横顔に毒気を抜かれるが、不意に自分の身体を見て感想を述べた。

「ヤクにーちゃん、身体が傷だらけなのに痛くないの?」
「っ……」

 レイの言う通り、ヤクの身体には過去に実験動物として扱われていた時の名残が、傷痕という形で残っている。手術痕はもちろんのこと、火傷の痕や裂傷の痕もくっきりと身体に刻まれている。身体の成長に合わせて、傷痕も少しずつ小さくなってきてはいるが、それでもまだ大部分が残っている状態だ。
 ヤクは自身のこの身体の傷痕を疎んでいる。色の違うそれぞれの肌の色が継ぎ接ぎだらけに見えて、過去は忘れさせないと言われているかのように思えて仕方ないのだ。あくまで傷痕という形で残っているため、それほど痛むというわけではない。天候が悪い日、特に大雨の日になると、全身の肌が引っ張られるような痛みを感じる時もあるという、厄介な弊害はあるが。
 そういった事実は、この子に伝える必要はないと考える。小さく笑って──本当に笑えているかどうかは定かではないが──から、レイに教えた。

「ああ、大丈夫だ。痛くはない」
「本当?」
「本当だ。ほら、髪を洗おう」
「はーい!」

 それから風呂で髪と身体を洗い終え、夕食を共にした。夕食の時にヤクはスグリとリゲルに、レイについて自身が聞いた詳細を伝える。路地裏にいたことから始まり、彼の両親のことや彼自身のことを説明して、最後に一言付け加える。もしかしたらこの子は、自分たちと同じ孤児なのかもしれない、と。
 ヤクの説明を聞いたリゲルは、役所に事の次第を説明することを告げた。万が一本当に迷子だった場合、両親が探している可能性も否めない、とのことだ。レイには確かに己の両親に関しての記憶はないが、それと両親がいないことは同意義ではない、と説明を受ける。その説明に納得して、レイに分かるように事情を話す。ヤクの話を聞いたレイは、不安そうな眼差しで質問を投げた。

「おれの親が見つかったら、にーちゃんたちとは離れなきゃいけないの?」
「まぁ……そうなる。本当の親がお前を心配して、今も探している可能性もなくはないからな」
「やだ!にーちゃんたちと一緒の方がいい!」

 そういうなり、レイは隣に座っていたヤクにタックルするように縋りつく。いやいやと頭を擦り付け服を力強く掴まれてしまい、ヤクは狼狽する。助けを求めるようにスグリとリゲルを見れば、彼らも思うところがあったのだろう。まずリゲルが優しく礼に声をかけた。

「レイ、大丈夫だ。今の話はもしもの話であって、何も今すぐというわけではない。しばらくは、ヤクとスグリもお前のそばにいるよ」
「ほんとう……?」

 ちら、と顔を上げるレイの瞳には涙が溜まっている。今にも零れ落ちそうになっていたが、スグリがレイの隣まで来て彼の頭を撫でた。

「俺たちはお前に嘘を吐くことなんかしない、約束する。だから泣くな、いい男が台無しになるぞ」
「スグリにーちゃん……」
「安心しろ、な?」

 スグリの言葉に、レイは自身の目をこすって涙を拭いてからうん、と一つ頷いた。それに対して偉いぞとスグリに褒められれば、安心したのかふにゃりと笑う。その後の具体的な動きはリゲルがするからと伝えられ、この話は一度終わりにした。
 夕食後はレイも疲れたのか、うっつらうっつらと船を漕いでいた。その様子を見てもう寝た方がいいと意見が一致し、以前ここに住んでいた時に使っていた自分とスグリの部屋に向かう。レイを寝付かせてからさらに詳しくリゲルと話そうと思っていたが、どこにそんな力があるのかと疑いたくなるほどの力で、レイに服を掴まれた。
 どうしたらいいかわからずスグリに助けを求める視線を飛ばすが、スグリはそれを意に介さずヤクに告げた。

「随分と懐かれているようだから、今日はこのまま一緒にいてやれ。お前の隣が安心できるって思っているんだろう」
「しかし……」
「リゲルとの話は、俺がしておく。……お前も、今日は休め」
「……わかった」

 レイをベッドに寝かせてから自分もベッドに入る。部屋の電気を消して部屋を出ようとしたスグリに、ヤクは最後に待ったをかけた。

「スグリ!」
「なんだ?」
「その……ありがとう。それと、本当にすまない……」

 この謝罪に込められた意味は、スグリに正しく伝わるかどうかは分からない。一人で悩みを抱え込むなと、何かあったら相談すると約束していたのに、自分はそれを反故にした。そのことに対する謝罪も、急に態度を変えた理由について何も話さないことに対する謝罪も、自分なりに込めたつもりではあるのだが……。
 自己満足であることは、重々心得ている。それでも、言わなければならないと思ったのだ。スグリはヤクの言葉を聞いた後、一呼吸おいてから告げた。

「……おやすみ」

 パタン、と静かに閉められたドア。彼がどう思っているのか、結局分からず仕舞いだった。しかしこれはスグリに何も話さない自分の自業自得なのだと言い聞かせ、ヤクはレイと一緒に眠りにつくのであった。
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